かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】猫だましい(河合隼雄)

* 人にとって猫とは何者なのか

 
猫が家畜化された起源は紀元前2000年頃にまで遡るといわれています。古代エジプトにおいて猫は神聖な存在とみなされ、文字通りの「猫神」として崇められていました。しかし他方で、中世ヨーロッパにおいて猫は魔女の使い魔であったり、あるいは魔女そのものとして、忌み嫌われたりもしました。
 
かように猫は善くも悪くも超越的存在として人々の間で畏怖されてきました。また、このようなことから猫は古今東西において様々な形で物語られてきました。果たして我々人にとって猫とは一体、何者なのでしょうか?
 

*〈たましい〉が喪失した時代

 
本書は昔話、童話、小説、絵本、さらには少女漫画に至る古今東西の様々な「猫のおはなし」を臨床心理学の知見で読み解く一冊です。本書の著者である河合隼雄氏は心理療法家として多くの悩み相談を受けながら、様々な悩みの背景には共通して「関係性の喪失」という問題があるように感じていたと言います。
 
関係性の喪失。それはすなわち、我々は「目に見えるもの」だけを対象として認識し、その「目に見えるもの」と「目に見えるもの」の〈あいだ〉を忘却してしまっているということです。
 
そしてこうした関係性の喪失とは畢竟〈たましい〉の喪失である、と氏は言います。そこで心理療法家は来談するクライエントが自身の〈たましい〉を回復していく過程を支援する役割を担うことになります。
 
ここで氏のいう〈たましい〉とはもちろん、オカルト的な何かではなくあくまで哲学的なメタファーです。我々は自らの感覚と言語で構成された主観的な世界を生きています。こうした我々の生きるこの世界の〈外部〉=超越論的な場を問うのが哲学という思考です。
 
そして、これまでの哲学の歴史において「イデア」「理性」「存在」「構造」などという様々な言葉で名指されてきたこの世界の〈外部〉=超越論的な場を河合氏は端的にわかりやすく〈たましい〉と呼ぶわけです。
 

*〈たましい〉の顕現としての猫

 
こうした意味での〈たましい〉は様々な形を取って、我々の主観的な世界の中に顕れてきます。そこで心理療法家は、クライエントの〈たましい〉から湧出する豊かなイメージを、時には夢の解釈を通じて、時には箱庭創りを通じて、色々な角度から観ていくことになりますが、その過程で猫がまさに〈たましい〉の顕現と言いたくなるほど重要な存在として登場すると氏は言います。
 
なぜ猫なのでしょうか?この点、同じペットでも犬がどちらかといえば飼い主に忠実な動物というイメージがありますが、これに対して、猫はどちらかというと飼い主から自立した勝手気ままなところがある動物というイメージあります。こうした猫の持つ捉え所のなさが〈たましい〉の捉え所のなさに通じているのでしょう。
 

* 猫マンダラ

 
こうした猫の変幻自在なイメージを図式化したものが以下の「猫マンダラ」です。

 

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(本書20頁より引用)
 
この図はユング派分析家であるバーバラ・ハナが「猫・犬そして馬」というテーマで行ったセミナーで示したもので、それぞれが両義的な性格を持つ四つの位相から成り立っています。
 
ここに例示された猫のうちラー、バスト、セクメト、テフヌトというのはエジプト神話の神々です。太陽神ラーはハヤブサの頭を持つ姿として現れることが多いですが、牡猫の姿で描かれることもあります。そしてそのラーの双子の娘がバストとセクメトです。
 
バストは歓喜と豊穣を示す女神であり、セクメトは怒りと破壊を示す女神です。猫の温和な性格を表すときはバストになり、その獰猛な性格を表す時はセクメトになります。そしてセクメトはしばしバストと同一視され、その時、セクメトは人間に苦しみをもたらす魔女である一方で、苦しみを癒す存在であるという母性原理の両義的な性格を持っています。またバストはテフヌトと同一視されることがあります。猫の自立性、ずる賢さはテヌフトによって示されています。
 

* トリックスター

 
これに対して「長靴をはいた猫」とは周知の通りグリム童話に出てくる猫の主人公です。このお話では、貧しい粉挽きの青年が、父親の遺産として貰い受けた猫の活躍により王女と結婚してハッピーエンドとなります。
 
このような「長靴をはいた猫」の性格はユング派的な観点からはトリックスターと呼ばれます。トリックスターとは神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う存在で、かぎりなく悪に近い側面と、限りなく英雄に近い側面という両義的な性格を持っています。
 
長靴をはいた猫」は青年を「カラバ侯爵」なる架空の存在にでっち上げて王様を騙してしまいますが、隣国の人喰いを退治して、青年を本当に「カラバ侯爵」にしてしまいます。結果、青年と王女は結婚し、二つの国はひとつの新しい国に統合されることになります。このようにトリックスターは二つの領域の境界に出没し、旧来の秩序を破壊して、新しい秩序を創造する役割を担ったりもします。
 
もちろん、こうした主人公をハッピーエンドに導く猫がいる反面で主人公をバッドエンドに導く猫もいます。我が国の古典文学の代表でもある「源氏物語」においては周知の通り、猫の導きによって結ばれた柏木と女三の宮は悲劇的な結末を迎えます。トリックスターとしての猫は紙一重で悪になったり英雄になったりします。こうしたトリックスターの持つ両義性は〈たましい〉の持つ両義性を端的に表しているとも言えます。
 

*〈たましい〉と〈だまし〉

 
このように猫は様々な物語の中で温和、怠け、獰猛、残酷、癒し、魔性、狡賢さ、自立性といった多様なイメージを体現する存在として登場します。こうした意味で猫は、まさに〈たましい〉という捉え所のないものを記述する上では打って付けの存在であると言えるでしょう。
 
ところで本書表題の「猫だましい」は〈たましい〉と〈だまし〉を掛け合わせた詞となっています。いわば我々は〈だまし〉という形で〈たましい〉の働きに接しているという事です。
 
言うまでもなく〈だまし〉というのは結局は人の心理であり〈たましい〉そのものではありません。けれども時に人はこの「心理」の中に安易な「真理」を見出してしまいます。そしてこうした安易な「真理」の絶対化を世間では「カルト」と呼びます。
 
我々も現実の中でまさに〈たましい〉の顕現というべき出来事に遭遇する事があるでしょう。けれどもそれは常に〈だまし〉として現れているといえます。そこには良い〈だまし〉もあれば悪い〈だまし〉もあるでしょう。こうした様々な形で現れる〈だまし〉に安易な「真理」を見出す事なく〈だまし〉と上手く付き合っていく為の知恵を、古今東西の様々な猫達の〈だまし〉の中に見出す事ができるように思えます。