かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】52ヘルツのクジラたち(町田そのこ)

* 世界でもっとも孤独なクジラ

 
ある種のクジラは「歌」によって個体同士のコミュニケーションを取る事で知られています。海洋生物学者のロジャー・ペインが1970年に発表した「ザトウクジラの歌」は世界的に大きな反響を引き起こしました。以来、クジラは「天使の歌声」を持つ動物として知られるようになり、世界的な環境保護運動の原動力ともなりました。
 
そんな中で「誰にも届かない歌」を歌うクジラが発見されました。米ソ冷戦末期の1989年、米海軍の運用する海中探査システムが太平洋において正体不明の音を検知します。その音は周波数にして52ヘルツ。そしてその後、米ウッズ・ホール海洋研究所の分析により、この正体不明の音はクジラの発声音である事が判明しました。
 
通常、クジラの発声における周波数は10〜39ヘルツであり、このクジラが発する52ヘルツの「歌」は他のクジラには聴取不可能と言われています。それゆえに、この「52ヘルツのクジラ」は「世界でもっとも孤独なクジラ」と言われています。
 

*「声なき声」に耳を傾けていくということ

 
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなりえます。
 
このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。こうした社会的テーマを真正面から問う作品が本作「52ヘルツのクジラたち」です。
 
本作の著者、町田そのこ氏が「52ヘルツのクジラ」という存在を知ったのはデビュー作の執筆中に、たまたま海洋生物について調べていた時のことだったそうです。
 
そして町田氏の4作目にして初の長編小説となった本作は2020年4月の刊行以来、読書メーターを中心に幅広い層に反響し、2021年の第18回本屋大賞を射止めることになります。
 

* 海辺の町の物語

 
とある事情から東京から大分の海辺の町へと移住してきた本作の主人公、三島貴瑚は、田舎ならではの無遠慮な視線にさらされて辟易としていた。そんなある日、貴瑚は言葉を全く発することができない一人の少年と出会う。少年の怯えきった態度や身体中についた痣から、貴瑚は親からの虐待を疑う。
 
貴瑚自身もかつては母親からの虐待を長年に渡って受け続けてきた。けれども貴瑚はある人の尽力によって何とか家族から離れることができた。しかしその後、貴瑚はさらなる悲劇に襲われる。
 
こうして、その人生に何もかも絶望した貴瑚が流れ着いたのは、かつて幼少時に祖母と住んでいたこの町であった。
 
果たして少年は母親から「ムシ」と呼ばれて虐待を受け続けていた。少年の置かれた苛烈な境遇と過去の自身を重ね合わせた貴瑚は彼を「52ヘルツのクジラ」に擬えて「52」と呼ぶ。そして貴瑚はかつて聴き逃した「声なき声」に対する「贖罪」として、少年を助け出そうと周囲を巻き込んで奮闘する。
 

*「母なるもの」の呪縛

 
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことなのでしょう。この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは、ある地域に伝承する神話やお伽話と神経症者の夢や精神病者の妄想といった臨床経験の間に共通項を見出して、人の心にはその人だけが持っている「個人的無意識」の層のさらなる内奥に、万人に共通する「普遍的無意識」と呼ぶべき層があると主張し、この「普遍的無意識」を構成する先天的な精神力動作用を「元型」と呼びました。
 
そしてこのような「普遍的無意識」における「元型」の典型例の一つにユングは「母なるもの(グレートマザー)」の元型を挙げています。この「母なるもの」はその根源において「産み育てるもの」という肯定的な側面の他に「呑み込むもの」という否定的な側面を併せ持っています。
 
こうした意味で少女期の貴瑚はまさに文字通り「呑み込むもの」としての「母なるもの」の世界の中に囚われていました。そして、このような「母なるもの」の世界から貴瑚を救い出そうとした人物がアンさんです。けれどもその後、貴瑚が母親から形式的に自立した後も「母なるもの」の亡霊は彼女を執拗に追いかけてきます。
 
この点、ユング派分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏は「母なるもの」に取り憑かれた女性の病理として二つの危険な方向性を指摘しています。一つは、肉の世界への下落、土なる母との一体化の方向であり、そしてもう一つは母となることをおそれ、自らの女性性を拒絶する方向です。そして貴瑚はまさしく前者の道をまっしぐらに突き進んでいきます。
 
こうした観点からすれば、本作におけるアンさんの一見して不可解な行動が明瞭に理解できます。おそらく彼は最初からその最期まで、貴瑚の発していた「52ヘルツの声」を正確に聴き取っていたのではないでしょうか。果たして貴瑚は「母なるもの」の世界から脱出する事ができました。けれどもその代償はあまりにも大きいものでした。
 

*「傷ついた癒し手」と「メサイア・コンプレックス」

 
そして「52」もまた「母なるもの」の世界に囚われた少年でした。この点、河合氏は父親が弱いときには母親がむしろ男性原理の苛烈な執行者となると述べています。「52」の母親の琴美がまさにそうした母親でした。そして52に「自分と同じ匂い」を見出した貴瑚は、喋れない52の発する「52ヘルツの声」に耳を傾けていきます。
 
この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えました。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということです。
 
確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえます。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれません。
 
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもあります。メサイア・コンプレックスとは「自分は救われる価値のない人間だ」という無意識に抑圧されたコンプレックスに対して反動形成が働いた結果、傷ついた他者をとにかく救いたい、いや救わなければならないという強迫観念的な衝動に駆られた状態をいいます。
 
メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されています。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまいます。
 

* もしもあなたが「52ヘルツの声」を聴いたとすれば

 
おそらく我々もこの日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取る事があるでしょう。そしてその声の主である他者に手を差し伸べたいと思う事だってあるでしょう。
 
けれどもその時、我々はもしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまってはいないでしょうか。もちろん両者は截然と区別できるものではないのですが、少なくともこの区別を我々が無自覚なままに混同する時、そこには多かれ少なかれメサイア・コンプレックス的独善に陥る危険が待ち受けています。
 
本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもあります。この点、町田氏は本作を執筆するにあたり、もし自分だったら実際に何ができるかを真剣に考えたそうです。そして「少年が救われてよかった、というファンタジー的な終わり方にするのではなく、もしも本当に虐待児童を引き取って育てることになったとしたら、現実問題としてどのような手続きが必要なのかといった具体的な方法などについても必ず書くべきだと思った」とインタビューで述べています。
 
この言葉の通り、本作の結末では「現実的な解決」が示されます。そこで我々もまた、本作を単なるファンタジーとして消費して終わるのではなく、もし我々がこの日常のどこかで「52ヘルツの声」が聴こえてきた時、どのような「現実的な解決」ができるのかを考えてみるのも良いかもしれません。