かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「希望」という名の想像力--魔法少女まどか☆マギカ

*「政治と文学」の切断と再統合

 
この現代において「政治と文学」の問題はいかに考えられるべきなのでしょうか。かつて社会共通の価値観といえる「大きな物語」が機能していた近代社会においては「政治(=公共観)」と「文学(=成熟観)」はほとんど等価なものとして捉えられていました。ところが日本社会において「大きな物語」が徐々に失墜し始めた1970年代以降から、徐々に「政治と文学」の問題は乖離を見せ始めました。
 
現代文学を代表する作家である村上春樹氏は、こうした時代思潮の変化にいち早く気付き、その初期作品において早くも「デタッチメント」という倫理的作用点を打ち出しました。そしてその前期の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においては「政治(=ハードボイルド・ワンダーランド)」と「文学(=世界の終わり)」が完全に切断された結末が提示されました。
 
そして日本社会において「大きな物語」が決定的に失墜したと言われる1995年に放映されたTVアニメーション新世紀エヴァンゲリオン」において、主人公の碇シンジは終始「政治(=エヴァに乗る)」と「文学(=エヴァに乗らない)」の間を往還し続けて、最後には「政治(=エヴァに乗る)」を完全に放棄して「文学(=人類補完計画)」に引きこもる道を選びます。こうしたTV版エヴァの結末は90年代末からゼロ年代初頭にかけて漫画・ライトノベル・アニメ・ゲームといったポップカルチャーの領域で一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群において様々なクリシェとして奏で続けられることになります。
 
しかしその一方で「大きな物語」の決定的な失墜は、無数の「小さな物語」の乱立と衝突を招来し、時代は再び「政治と文学」の再統合を志向する想像力を要請することになりました。こうした時代の要請をやはり誰よりもいち早く察知した村上氏は、その中期の代表作となる「ねじまき鳥クロニクル」以降、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させ、その文学的運動は畢竟の超大作「1Q84」において「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」という形でひとつの頂点を迎えることになります。
 
そして、ゼロ年代におけるポップカルチャーの領域においても、やはり「セカイ系」以後、無数に立ち上がる「セカイ(=小さな物語)」同士のバトルロワイヤル状況を様々に描き出す中で、この不毛な決断主義的動員ゲームを終わらせるための「政治と文学」の再統合が模索されるようになりました。
 
こうしたゼロ年代における想像力の総決算に位置する作品が2011年に放映されたTVアニメーション魔法少女まどか☆マギカ」であったように思えます。果たして「まどかの物語」はいかなるかたちで「政治と文学」を記述したのでしょうか。放映から10周年を迎えたいま、改めて「まどかの物語」を読み解いてみたいと思います。
 

*「まどかの物語」における「政治」--コミュニタリアニズム

 
まず「政治(=公共観)」において「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもあります。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁しています。
 
ではこうした中で、まどかの立ち位置はどこにあるのでしょうか。この点、あの「まどかの願い」とは、いわば魔法少女という「コミュニティ」の物語を書き換える願いであったといえます。こうした「まどかの願い」は現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場に相当します。
 
コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、我々の「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされます。
 
まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の名誉や美徳としての「共通善」を称揚したといえるでしょう。
 

*「まどかの物語」における「文学」--エディプス的欲望ではない方へ

 
次に「文学(=成熟観)」において「まどかの物語」はある種の精神分析的な寓話として読めます。本作において魔法少女の魂は周知の通りソウルジェムという宝石として結晶化されます。このソウルジェムの形状は精神分析でいうところの「欲望」の象徴的等価物である「ファルス(Φ)」を想起させます。ここから、本作における魔法少女とは「その願い(=欲望)」によって「ソウルジェム(=ファルス)」を仮想する「ファリック・ガール」であるというエディプス的な解釈も成り立つでしょう。
 
ここでいう「エディプス」とはもちろん精神分析創始者ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」の事です。事実、さやかや杏子は極めてわかりやすくエディプス的な欲望に駆動されて魔法少女になっています。これに対して「まどかの願い」はこうしたエディプス的な欲望とは一線を画した別の欲望によって駆動されているように思えます。
 

* 二つの欲望の差異

 
この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンは「性別化の式」において、以下の図のように女性のセクシュアリティ∃xΦx/∀xΦx)を一方では「男性の享楽(=ファルス享楽)」に規定されたファリック・ガール(La→Φ)として位置付けつつも、他方ではファリック・ガールに回収される事のない「女性の享楽(=〈他〉の享楽)」への超越可能性(La→S(Ⱥ))を示唆する反エディプス的な議論を展開しています。
 

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こうしたラカン的構図からいえば「まどかの願い」とはまさに「魔法少女(=ファリック・ガール)」から「円環の理(=女性の享楽)」への超越を果たすものであったといえます。
 
また、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識の中心である「自我」とは別にこころ全体の中心である「自己」という概念を想定し、無意識における「コンプレックス」や様々な「元型」との対決を通じて、相対立する葛藤が相補的かつ共時的に再統合されていく過程を「自己実現」の過程と呼びます。
 
ユングフロイトから早々に離反して自身の心理学を創始した人物として知られていますが、ここでユングの提唱する「自己実現」の過程もまたやはり反エディプス的な議論と言えます。
 
この点、本作はまどかというコンプレックスの強い少女を中心に元型的な布置が見事なほどに描き出されています。ここで魔女は「呑み込む母(=グレートマザーの元型)」を、他の魔法少女はまどかの「生きられなかった半面(=影の元型)」を、キュゥべえは「道化師(=トリックスターの元型)」と「ロゴスの象徴(=アニムスの元型)」を体現しています。
 
このような布置の中でまどかは「正しくあろう」とするのではなく「間違えること」を徐々に学びます。そして、こうした「正しさ/間違い」を相補的かつ共時的に再統合した「自己実現」の先にあの「まどかの願い」は位置しているといえるでしょう。
 
こうしてみると「まどかの願い」とは「ファリック・ガール」というエディプス的欲望ではなく、むしろ「女性の享楽」や「自己実現」として名指される反エディプス的欲望に駆動されていたと言えるでしょう。そしてこのような二つの欲望の差異を本作は「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ」という極めて端的な言葉で見事に言い表しています。
 

*「希望」という名の想像力

 
こうして「まどかの物語」において「政治(=コミュニタリアニズム的正義)」と「文学(=反エディプス的欲望)」は「希望」という言葉によって再統合されることになります。そしてそれは社会が無数のクラスターや格差へズタズタに引き裂かれ、苛烈なシステムの統制の下で人間があたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくこの「絶望」の時代ともいうべき現代を照らし出した文字通りのひとつの「希望」でもあったように思えます。
 
冒頭で述べたように、かつて村上春樹氏は近代的な「大きな物語」の失墜以後の「政治と文学」を再統合する上で「デタッチメント」から「コミットメント」へという倫理的作用点の転換を志向しました。けれども無数の「小さな物語」が乱立し、グローバル化とネットワーク化の加速する現代においては、むしろ人々はお互い否応なく自動的に「コミットメント」に巻き込まれていると言うべきでしょう。
 
それゆえに現代における「政治と文学」の核心点とは、もはや「デタッチメント」か「コミットメント」かなどといった二項対立ではなく、むしろこの「コミットメント」の過剰性から生じるコストの処理をどのように引き受けて記述していくかという問いにあるといえるでしょう。そして「まどかの物語」とは、まさにこうした現代における「政治と文学」の核心点に「希望」という名の言葉を与えた想像力であったように思えます。