かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「つながり」と「つながりの外部」--ゆるキャン△(あfろ)

* 強い絆と弱い絆

 
東浩紀氏は「弱いつながり(2014)」において、人生を充実させるには「強い絆」と「弱い絆」の両方を必要とすると述べています。おそらく多くの人はたった一度きりの人生をかけがえのないものとして生きたいと願っているでしょう。けれどもその一方で、人は所詮は自身を取り巻く環境に規定された存在でしかありません。そして、こうした根源的な矛盾を乗り越える(もしくは乗り越えたふりをする)ための有効な方法はただひとつ、自身の置かれた環境を意図的に変えることにあると氏は述べています。
 
なぜならば、人は自身の置かれた環境を意図的に変えることで、現在の環境を強化する「強い絆」を相対化させ、そこに新たな可能性を切り開く「弱い絆」を手に入れることができるからです。こうしたことから氏は環境を意図的に変えるための手段としての「観光」を勧めます。
 

*「つながり」がもたらしたもの

 
こうした東氏の発想の背後には、おそらくゼロ年代的な「つながり」の思想への懐疑があると思われます。「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効したポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていました。そしてその一つの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。
 
私とあなたは異なる物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。こうした「つながり」の思想の背景には言うまでもなくゼロ年代後半におけるソーシャルメディアの台頭があります。当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を見出していました。
 
けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう情報環境でした。こうした環境下では「つながり」は容易にクラスター化して、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「動員と分断」の時代でもありました。
 
要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に「つながり過剰」に対する絶望へと変わっていった10年であったともいえます。こうしたことから、おそらく東氏は「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」を開くための動線を「観光」に見出していたように思えます。
 

*「日常系」が描き出す「つながり」の変化

 
「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入。こうした問題意識は社会思想のレベルのみならずサブカルチャーのレベルでもはっきりと現れています。その一つの例として「日常系」と呼ばれるジャンルの傾向変化が挙げられます。
 
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合は4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれます。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、異性愛的な要素は極めて周到に排除されているのもその特徴です。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもしました。
 
こう言ってしまうと、なんとも他愛のないジャンルのようにも聞こえてしまいますが、その一方で「日常系」には、まさしくゼロ年代における「つながり」の思想の申し子ともいえる側面があります。
 
日常系という想像力は、ゼロ年代初頭に一斉を風靡した「セカイ系」と呼ばれる想像力を乗り越えるような形で、ゼロ年代中盤以降に急速にその存在感を持ち始めました。この点、セカイ系がいわば母性的承認に満ちた「小さな物語」に退避してしまう想像力であるとすれば、日常系は異なる「小さな物語」を生きる他者同士のごくありふれた日常的な「つながり」の中にある代え難い価値を再発見していく想像力と言えます。
 
こうして「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などに代表されるゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き出してきました。ゼロ年代における日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた功績はもはや疑いないでしょう。
 
ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対至高な尊いものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「放課後ティータイム」とか「ひだまり荘」などという名で「セカイ」が再帰してしまいます。もっとより直截にいえば日常系の描き出す「つながり」とは結局のところ「偽装されたセカイ」と紙一重であるということです。これはまさしく現実世界における「動員と分断」とパラレルの問題でもあります。
 
こうしたことから2010年代における日常系作品の多くでは「つながり」を「セカイ」に閉じることなく、つながりをつながりのままに開き続けるための回路の導入が様々な形で試行錯誤されることになります。それは具体的には「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」「おちこぼれフルーツタルト」における「お仕事」といった形を取って、あるいは「きんいろモザイク」の「留学」や「スロウスタート」の「留年」といった形を取って、または「アニマエール!」「恋する小惑星」「スローループ」における「アウトドア」といった形を取って現れています。そしてこれらの試行錯誤はまさしく「強い絆=つながり」を相対化させる「弱い絆=つながりの外部」の導入の試みであるといえるでしょう。
 

* 2010年代日常系の代表作

 
そして、こうした2010年代における日常系作品が希求し続けた「つながりの外部」を極めて決定的な形で導入した作品が「ゆるキャン△」です。2015年から「まんがタイムきららフォワード」で連載が開始された本作は、2018年のアニメ化をきっかけに人気が高騰。さらにはアニメのみならずテレビドラマ化も果たし、原作の累計発行部数はかつて「社会現象」とまで呼ばれた「けいおん!」を遥かに凌駕する600万部を突破しています。本作は名実とも2010年代の日常系を代表する作品といえるでしょう。
 
本作は山梨県とその周辺地域を舞台にキャンプをゆるく楽しむ女子高生たちの日常が描き出されます。そのあらすじはこうです。主人公、志摩リンは趣味の1人キャンプの最中に、ふとしたことから遭難しかかっていたもう一人の主人公、各務原なでしこを助ける事になる。リンとの出会いをきっかけにキャンプに興味を持ったなでしこは早速、高校のキャンプ同好会「野外活動サークル(通称野クル)」に入り、メンバーの大垣千明や犬山あおいとともにキャンプ三昧の日々を送る。一方、なでしことリンは同じ高校の同級生だったことが判明し、なでしこはリンを野クルに勧誘するも、1人キャンプが好きで、かつ野クルのノリが苦手なリンはなでしこの誘いをにべなく断ってしまう。しかしその後、リンはなでしこと二人でキャンプにいくなど交流を重ね、また千明たち野クルのメンバーともSNSを介して徐々に関わるようになります。
 
本作は掲載雑誌の性質上、日常系作品定番の4コマ漫画形式を取っていません。それゆえに本作では見開きのページによるキャンプ場からの眺望など、通常の日常系作品ではあまり見かけることのないダイナミックで臨場感のあるコマ割りもその特色の一つとなっています。
 

*「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係

 
では「ゆるキャン△」において「つながりの外部」はいかなる形で導入されているのでしょうか。
 
この点、そもそも本作の題材とする「キャンプ」とは文字通り、東氏のいうところの「観光」に相当します。先述したように自身の環境を意図的に変える「観光」は「強い絆(つながり)」を相対化せる「弱い絆(つながりの外部)」をもたらします。そして、なでしこ達もキャンプという非日常の経験を通じて、普段の日常では出会うはずのない人や物や事に出会い、考えないような事を考え、欲望しないような事を欲望します。ここには「日常=つながり」に対する「非日常=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
さらに決定的であるのは、本作では「グルキャン(多人数キャンプ)」と「ソロキャン(1人キャンプ)」をそれぞれ等価的なものとして描き出している点です。
 
リンは野クルと合同のクリスマスキャンプに参加したことで「グルキャン」に「ソロキャン」とは「違うジャンルの楽しさ」を見出しました。けれどその一方で、リンは改めて「ソロキャン」における「寂しさも楽しむ」という価値を再発見します。そしてリンに触発されたなでしこも「ソロキャン」に興味を持ち始め、バイトで資金を貯め、リンのアドバイスで計画を立て、果たして富士川キャンプ場における初めての「ソロキャン」を見事成功させることになります。
 
このように本作は「グルキャン」を決して「ソロキャン」の上位互換に位置付けるのではなく、両者それぞれが異なる価値を持ったものとして捉えています。ここには「グルキャン=つながり」に対する「ソロキャン=つながりの外部」という関係性が成り立っています。
 
日常に対する非日常。グルキャンに対するソロキャン。本作ではこのような形で「つながりの外部」を二重に導入した上で、「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係を描き出して行きます。こうした意味で本作は、2010年代における日常系が様々な形で希求してきた回路を完成させた作品であると同時に、日常系というジャンルがこれまで至上価値としてきた「つながり」の思想へ批評性な介入を試みた作品といえるでしょう。そしてそこには、我々の現実における「つながり過剰」を解毒するためのある種の処方箋を見出すことができるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 

「推し」という名のリトルネロ--推し、燃ゆ(宇佐見りん)

* 間主観的な欲望と別の仕方での欲望

 
フランスの精神分析ジャック・ラカンは「人の欲望は他者の欲望である」という有名なテーゼを提出しています。すなわち精神分析的な欲望=神経症的な欲望とは他者(社会的諸関係)とのネットワークの中で欲望するという「間主観的な欲望」ということです。ところがいわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会共通の神話が失墜した現代社会では従来の「間主観的な欲望」のオルタナティヴとしての「別の仕方での欲望」の開放が加速しました。
 
この「別の仕方での欲望」を哲学的に考察して、1970年代に世界的な支持を得たのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(AO)」です。この点、AOでは「別の仕方での欲望」の開放をいわば「神経症の精神病化」として肯定的に寿ぎました。そしてドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある日本の現代思想シーンでは、この「別の仕方での欲望」が様々な文脈の中で考究されました。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、ゼロ年代における東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代をリードした言説はまさにこうした潮流の中に位置づけることができるでしょう。
 
この点、千葉雅也氏は上記の議論を引き継ぐ形で、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したけれども、その背景には実はマゾヒズム的な倒錯論が潜んでいるとして「別の仕方での欲望」を間主観的なネットワークとは無関係なところで多方向に勝手に欲望するというある種の「メタ倒錯」として位置付けています。ここでいう「メタ倒錯」とはすなわち、ラカンのいうファルス、あるいは千葉氏のいう「性別化のリアル」を排除した〈かのよう〉に振る舞う態度=メタレベルで否認する態度です。
 
このようなメタ倒錯的な観点から千葉氏は東氏の「動物化するポストモダン」における議論を読み直し、同書のいう「動物化」とは、動物的(非-精神分析的)な異性愛(生殖規範性)をインフラとして、その上に認知的習慣化による対象へのアディクション(中毒的こだわり)としての「別の仕方での欲望」が便乗する構造になっているといいます。そして本作は、こうした意味での「別の仕方での欲望」の一つのラディカルな表出を描き出した作品として読むことができるように思えます。
 

* 解釈学的循環へのアディクション

 
本作のあらすじはこうです。主人公のあかりは家庭にも学校にも馴染めず、いつも心身に不調を抱えた日常を送っていたが、ふととしたことがきっかけでアイドルグループ「まざま座」のメンバーの一人、上野真幸を熱狂的に「推し」始めることになる。あかりは「推し」の様々なグッズを買い漁り、ライヴにも熱心に足を運び、その作品と人物像の解釈をブログに記していく。こうした「推し」を続ける中でいつしか、あかりは「推しを推す」ことが自分の「背骨」と感じるようになる。それは様々な「生きづらさ」を抱えたあかりにとっての救いであり、生きる手立てであった。だがそんなある日「推し」がファンを殴って「炎上」する事件が起きる。
 
「推しを推す」という「推し活」のやり方は人それぞれです。本作の説明によれば、対象となる「推し」のすべてを信奉する人もいれば、その行動の良し悪しを批評する人もいる。また「推し」を恋愛対象として好きだけれど作品には興味がない人もいれば、逆に「推し」の作品だけが好きでスキャンダルなどには興味のない人もいる。また「推し」自体というよりむしろ「推し」のファン同士のコミュニティの交流が好きな人もいる。
 
この点、あかりは現実において「推し」との関係性を深める事などもとより求めていません。むしろ自分は「推し」にとっての有象無象のファンでありたいとあかりは言います。あかりにとって「推し活」とは、作品も人物像も含めた「推しの世界」を徹底的に「解釈」していくことです。
 
あかりは「推し」の基本情報は当然丸暗記しており、CD、DVD、写真集はそれぞれ保存用、鑑賞用、貸出用に常に3つ購入し、出演番組はダビングして何度も観返し、出演舞台はその時代背景に遡って調べ上げ、メディアでの発言を書き起こしたファイルは今や20冊を超え、その細かい言い回しのレベルまでほぼ完璧に把握しています。こうした莫大な情報を基にあかりは「推しの世界」をとにかくひたすら「解釈」していきます。その結果、ファンミーティングにおける質問コーナーでの「推し」の返答は大体予想がつき、裸眼だとまるで見えない遙か遠い舞台上でも空気感だけでそれが「推し」だとわかり、一度他のメンバーがふざけて「推し」のアカウントで「推し」に似せてつぶやいた時もすぐさまその違和感に気づくことができるという境域にまで到達しています。
 
おそらく、あかりの「推し活」は対象である「推し」の断片的情報から全体的世界観を解釈して、そこからさらにまた断片的情報を解釈するという解釈学的循環へのアディクションに支えられているようです。ここであかりの「推し」への「愛」は、どこまでも自分の世界の中で円環的に閉じられています。ここにはまさしく「間主観的な欲望」とは無関係なところで欲望するメタ倒錯的な「別の仕方での欲望」の構造を見ることができるでしょう。
 

* 発達障害から考える

 
本作では随所の記述から、あかりはおそらく発達障害であることが想起されます。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では大きく三群に分類されます。
 
まず、自閉症スペクトラム障害ASD)。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」といえば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングが、かつてカナーとほぼ同時期にオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって発見されたアスペルガー症候群を「もう一つの自閉症」として注目したことから、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」において、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
次に、注意欠如・多動性障害(ADHD)。ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別されます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの処方薬としてはストラテラコンサータがよく知られていますが、一般にストラテラは副作用も多く、コンサータは薬効が切れた時の反動が大きいといわれます。
 
そして、限局性学習障害(LD)。知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 

*「生きづらさ」に開かれた物語

 
そして実際のケースでは上記の三群のうちの二つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。あかりの場合はどうでしょうか。
 
まず、あかりは基本的に空気を読むことが苦手です。あかりは推し活の費用を捻出するため居酒屋でバイトをしていましたが、仕事内容を「いくつも分岐する流れ」としていわばチャート的に把握しています。それゆえに「ハイボール濃いめ」などといった曖昧な注文やマルチタスクに対しては臨機応変な対応ができず、すぐに混乱してミスを連発してしまいます。また家庭でも姉や母が時折、推し活に熱中するあかりにキレることがありますが、あかりは姉や母がなんでキレているのかがよくわからず、どこかピントの外れた返答をしています。
 
次に、あかりの行動全般には不注意やだらしなさがかなり目立ちます。学校の教科書や提出物などをよく忘れる、友達から借りた教科書を返し忘れる、体育祭の予行演習のための体操着を朝まで探し回り、その流れで学校をサボる、バイトの欠勤連絡を数日間ずっと忘れてしまう、道に迷う、バスを乗り間違える、もちろん生活能力は皆無で、あかりの部屋はゴミやら数週間前の食べ残しやら色々なモノが堆積して足の踏み場もありません。
 
そして、あかりは勉強もできません。小さい頃は99や漢字やアルファベットをなかなか覚えられず、覚えてもすぐに忘れてしまっています。高校でも勉強について行けず、授業は寝てばかりで保健室の常連で、さらに推しのスキャンダルがきっかけで生活全般が推し活一色に染まって以降はこれまで以上に学校を休みがちになり、高校2年で留年。結局そのまま高校を中退してしまいます。
 
こうしてみると、あかりはASDADHD、LDのすべてに該当していることがわかります。またあかりの推し活限定で発揮される驚異的な能力と熱意もやはりASDの特性である「特定分野への極度なこだわり」として理解できるでしょう。
 
もっとも本作では「発達障害」という診断名は、それとなくは示唆されていますが、作中で明記されることはありません。けれどその一方で、あかりが抱くような諸々の「生きづらさ」はその程度の差はあれ、我々がこの日常の中のどこかで感じている「生きづらさ」へと通じているでしょう。
 
そういう意味で本作は、発達障害を抱えた少女のリアルとか、そういう狭いジャンルに閉じた物語ではなくて、我々がこの日常のどこかで抱く諸々の「生きづらさ」を幅広く言語化し、包摂しようとした物語でもあるといえます。
 

*「推し」という名のリトルネロ

 
現代思想シーンにおける「別の仕方での欲望」とは、もっぱら旧来的な「間主観的な欲望」の外部に突き抜けるオルタナティブとして比較的肯定的に語られる事が多いように思えます。けれど実際問題として我々は間主観的なネットワークから完全に逃れ切る事はできないでしょう。我々が他者と関わりを持つ以上、ある間主観性の外部に出たとしても、そこには別の間主観性が待っています。そんな間主観的なネットワークの接続過剰の中で「別の仕方での欲望」を貫き通す事は、あかり的な「生きづらさ」と紙一重でもあります。
 
この点、冒頭で取り上げたドゥルーズ=ガタリはAOの続編である「千のプラトー」において「リトルネロ」という概念を提出しています。ここでいうリトルネロとは、ある特定の何かを常同反復する事で生成流転するカオスを相対的に減速させ、世界の中に暫定的な秩序を設立するための契機をいいます。
 
そしてそれは、この世界を有限化することで、世界の中に「住み処」を見出すための技法でもあります。こうしてみるとあかりの「推し」という営みからもまた、自身が「背骨」と表現する解釈学的循環のアディクションに自身の「住み処」を見出そうとする「リトルネロ」の響きが途切れ途切れながら聴こえてくるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 

現代文学のリアリズムと思春期における異界体験--化物語(西尾維新)

* 自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム

 
日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開きました。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたといいます。
 
以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たな文学観が台頭し始めます。
 
この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つの文学観を「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させました。
 
こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。
 
このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において「ライトノベル=キャラクター小説」は従来の近代文学の文体と異なった文体によって描かれていると指摘しています。
 
まず「現実」を写生する近代文学において言語は「不透明」なものから「透明」なものとなりましたが「虚構」を写生するライトノベルにおいて言語は再び「透明」ではなくなります。けれどもそれは近代以前の「不透明」への回帰を意味しません。なぜならば「まんが・アニメ的リアリズム」とは既に「自然主義的リアリズム」を経由したところで成立しており、そこには大塚氏が「アトムの命題」と呼ぶ漫画表現における記号的-身体的な両義性が抱え込まれているからです。
 
こうしたことから、東氏はライトノベルの文章が当たり前の風景を描写してもそれはどことなく嘘くさく感じられ、逆に全くの幻想的な世界を描いたとしてもどこか「リアル」なものに感じられてしまうのは、おそらくその記号的-身体的な両義性のためであると述べ、ライトノベルの文体はいわば「不透明」な表現でありながらも現実に対して「透明」であろうとする矛盾を抱えた「半透明」な言葉になるといいます。
 
「半透明」な言葉は自然主義的な「日常」と〈超〉自然主義的=まんが・アニメ的な「非日常」を煩雑な世界観設定や時代考証といった中間項を介在させる事なく直結させることを可能にします。例えばゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」というジャンルはまさにこのような「半透明」な言葉に支えられた想像力といえるでしょう。
 

* ライトノベルの成立条件

 
そして本作はこうしたライトノベルが切り開いた文学観を限界まで突き詰めた作品といえます。周知の通り、本作は西尾維新氏の「〈物語〉シリーズ」における第一作目にあたり、ゼロ年代におけるライトノベルを代表する作品の一つに位置づけられています。
 
本作は当初「メディアミックス不可能な小説」を謳っていましたが、実際にはその後「〈物語〉シリーズ」は、アニメ、ゲーム、映画、漫画、スマートフォンアプリといった様々なメディアミックス展開を経ることで幅広い支持を獲得し、その絶大な人気は今もなお変わることはありません。
 
このような華々しいメディアミックス展開を経由した現在からみると忘れがちですが、本作はそもそも「ライトノベル」としては異端の位置にありました。この点、世間一般でいう「いわゆるライトノベル」とは特定のライトノベル系レーベルから出版され、作中で萌え絵的なイラストレーションを多用する作品を指しています。ところが本作は当時、どちらかといえば一般文芸レーベルと見做されていた講談社BOXから出版されており、何より「いわゆるライトノベル」における最大の特徴であるイラストも扉絵等を除きほとんど使用されていません。
 
こうした点からいえば本作は「いわゆるライトノベル」から外れた作品になるはずです。したがって本作が「ライトノベル」と呼ばれる理由をメディアミックス展開以前に求めるとすれば、それはまさしく本作の持つ「文体」にあるといえそうです。なお実際に作者の西尾氏にとって本作の執筆は「活字だけでライトノベルは実現できるのか」という実験的意味合いもあったそうです。
 
先に述べたようにライトノベルの本質は「キャラクター小説」であり、その制作においては「いかに魅力的な物語を生み出すか」という課題と同じくらいに「いかに魅力的なキャラクターを生み出すか」が重要な課題だとなります。ここでいう「キャラクター」とは「まんが・アニメ的リアリズム」を規定する想像力の環境=仮想的なデータベースを参照して構成される人物類型であり、東氏の定義で言えば「様々な物語や状況の中で外面化する潜在的な行動様式の束」をいいます。
 
この点「いわゆるライトノベル」では登場人物をキャラクター化するにあたってはイラストによる助けを多いに借りる事になるわけですが、本作はイラストをほとんど用いない代わりに莫大な量の「会話劇」を投入する事で登場人物をキャラクター化していきます。
 
ここではライトノベル特有の文体である「半透明」な言葉が極めて濃厚に充溢しています。すなわち本作のキャラクターはイラスト以前に言語によって成立しているといえます。こうした意味で本作はライトノベルの成立条件が極めて純度の高い形で現れている作品といえるでしょう。
 

* ゲーム的リアリズム

 
本作のあらすじは基本的には、主人公の阿良ヶ木暦が5人の少女たちとの交流の中で超自然的存在である「怪異」と関わり、彼女たちの抱えるトラブルを解決していくというものです。
 
このあらすじだけでわかるように、本作ではいわゆる「美少女ゲーム」の構造が導入されています。実際、作中で阿良ヶ木は美少女ゲームを念頭においた台詞を発しています。もちろん実際の美少女ゲームはヒロイン全員が各ルートにおいて攻略可能なマルチエンドシステムとなっていますが、小説である本作は当然ながらひとつの結末しかありません。ここから本作は物語の素朴な読解とは別の水準での読解を可能とします。
 
この点、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なる文学観を見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力に取り憑かれた別のリアリズムを召喚します。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目するリアリズムを氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。
 
ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食する境界線上で発生する、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取る文学観をいいます。 そして時に、こうした複数の物語はメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになります。
 
そして、このような「ある作品が受容される環境」を現実と作品の間に挟み込む読解技法として、東氏は「環境分析的読解」を提唱し、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させます。
 
この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていくことになります。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていくわけです。 
 
そこで本作を「美少女ゲーム」という構造から読解した時、阿良ヶ木=プレイヤーには特定のヒロインとのルート以外のいわば幽霊的なルートが常に取り憑いています。こうした幽霊的なルートについては作中において幾度となく言及が繰り返されています。そして物語の後半において阿良ヶ木はこの切り捨てられた未来に対してどう責任を取るのかという問題を背負わされることになります。
 
すなわち、本作は自然主義的読解のレベルにおいては「ある少女を救った物語」ということになりますが、環境分析的読解のレベルにおいては「ある少女を救わなかった物語」といえます。こうしたことから本作は物語的には極めて美少女ゲーム的な作品でありながらも構造的にはある種の美少女ゲーム批評として読める作品でもあります。そしてその主題の二重性からは誰かを助けるという事は誰かを助けない事であるというゼロ年代中盤以降のポスト・セカイ系的な思潮との共鳴を聴くこともできるでしょう。
 

* 思春期における異界体験

 
その一方で本作は言うまでもなく、普通に読んでも優れた「物語」を持っています。本書に登場する様々な「怪異」は我々がしばしこの現実の中で遭遇する異界体験のメタファーとしても読めるでしょう。人は通常、その成長過程で世界を「見えるもの」だけで囲い込み「見えないもの」を切り捨てていきます。けれどもその一方で「見えないもの」はしばし「異界」との遭遇とも呼びうる体験として回帰してきます。
 
この点、思春期は「異界」に最も接近する時期であるといわれます。本作はこうした思春期における「異界」との遭遇を「怪異」として描くある種の寓話ともいえます。
 
本作に現れる様々な「怪異」を敢えて分析心理学的な用語で分類すれば、おそらく戦場ヶ原ひたぎの蟹はグレート・マザー、八九寺真宵の蝸牛はトリック・スター、神原駿河の猿はコンプレックス、千石撫子の蛇はペルソナとアニマ、羽川翼の猫は影という風に、それぞれ関連付けることができるでしょう。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は心理療法の現場においてしばし顕在化する「見えないもの」の位相を〈たましい〉という名で呼んでいます。ここでいう〈たましい〉とは身体と精神を統合する超越論的な場を指しています。そして氏は〈たましい〉は〈だまし〉として現れるといいます。「異界=怪異」との遭遇はまさに〈だまし=たましい〉との遭遇であるといえるでしょう。
 
人は世界に棲まう上で自らの生の物語を必要とします。そして「異界=怪異」との遭遇は、その生の物語を紡ぎ直す契機ともなります。だからこそ作中の有名な台詞にあるように人は結局最後は、勝手に一人で助かることしかできないんだと思います。本作は心理療法の現場においても言語化が難しいといわれる異界体験を見事なまでに「物語」として描き出した作品であると言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

器としての言葉--きみの言い訳は最高の芸術(最果タヒ)

* 言葉には幽霊が取り憑いてる

 
フランス現代思想史において「ポスト・構造主義」の代表的論客と目される哲学者、ジャック・デリダは「エクリチュール」には「幽霊」が取り憑いているといいます。
 
我々は日常的な会話や読書といったコミュニケーションにおいて、もっぱら特定のコンテクストに依存するパロール(発話)の審級にのみ注目しますが、その一方で特定のコンテクストから断絶したエクリチュール(文字)の審級は常に我々の無意識を侵食してきます。
 
そしてデリダによれば、このようなパロールエクリチュールの往還運動の中には「散種」が宿るといいます。「散種」とはパロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有な意味の多様性をいいます。そしてそこには「過去・現在・未来」という一般的な時間性とは別様の「現前しなかった過去」という様々な〈かもしれない〉という特殊な時間性が生じます。このような特殊な時間性をしばしデリダは「幽霊」というメタファーで名指します。
 
「幽霊」はコミュニケーションにおける「等価交換の外部」を開きます。例えばコミュニケーションにおける「共感」とは一般的に「相手の気持ちを理解する」という等価交換を目指した営みといえるでしょう。けれどもエクリチュールの審級を前提とした時、コミュニケーションにおいて完全な共感=等価交換は原理的に成立しないことになります。こうした共感=等価交換の失敗のなかで、様々な〈かもしれない〉という幽霊たちが産み出される事になります。
 
もちろん通常の社会生活を営む上ではひとまず、我々はひとまず共感=等価交換が成立している「ふり」をしないといけないでしょう。けれどもその一方で共感=等価交換の名において切り捨てられた幽霊たちへのまなざしを完全に忘却してしまった時、きっと我々のコミュニケーションにおける創造性とか世界の解像度といったものはどんどん雑なものになって行くのでしょう。
 

* 幽霊たちへのまなざしを取り戻すということ

 
この点、優れた詩にはしばし我々がともすれば日常において忘却しそうになる幽霊たちへのまなざしを取り戻すためのきっかけを与えてくれる力があるように思えます。
 
本書は気鋭の現代詩人、最果タヒさんが自身のブログに長年書き綴ってきた文章を中心にまとめたエッセイです。最果さんにとってのブログとは「呼吸」のような感覚に近いそうで「わたしが言葉を書くというより、言葉がわたしに書かせていると思うこともよくあった」と言います。
 
それゆえ、そのテクストは「思いもよらないことを書いていたり、あとで読んでもどうしてそんなことを書いたのかわからないものもある。私の中身がそこにあるというよりは、私が通過した痕跡がさざなみにように残るだけ」のものだったそうです。こうした意味で本書を構成するテクストもまた、詩にかなり近い感覚で紡がれているように思えます。
 

* 器としての言葉

 
私は詩人です。小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。私はそういう言葉がかわいくて仕方がなかった。(本書より)
 
おそらく優れた詩とは畢竟、優れたエクリチュールなのかもしれません。そこには剥き出しの等価交換の外部があります。というよりも、むしろそこには等価交換の外部しかないのかもしれません。言い換えれば、詩のテクストとは「何か」を伝える「手段としての言葉」ではなく、むしろ「何か」を受け入れる「器としての言葉」なのではないでしょうか。
 
我々がある詩をていねいに読んだり、あるいはその詩について色々と語るというその営みは、その詩の中に内在する意味をいかに正確に読み解くかというゲームではなく、いかに沢山の幽霊をいかに高い解像度で捕まえる事ができるかというゲームなのかもしれません。
 

* 意味を産み出す無意味

 
そういう意味で優れた詩とはある種の精神分析的な解釈とも言えるかもしれません。フランスの精神分析家、ジャック・ラカンによれば精神分析における解釈とは、症状や無意識についてのわかりやすい説明を患者に与えることではなく、むしろ分析主体にとって意味不明な神託のように機能して、その真理を荒れ狂わせるような類のものであると述べています。
 
それは言い換えれば「要求」の外部に「欲望」の領野を開く営みであるともいえます。そして優れた詩も精神分析的解釈と同じく、読み手のオブジェクトレベルにおける意味への「要求」を挫折させることで、むしろメタレベルにおける意味--意味を産み出す無意味--への「欲望」を弁証法化させるという、いわば脱コード的なテクスト実践のように思えます。
 
そして晩年のラカンが「資本主義のディスクール」という形で警鐘を鳴らしたように、様々な剰余享楽が氾濫する現代は「要求」が中途半端な形で満たされることで、むしろ「欲望」が搾取されている時代でもあります。こうした「欲望の搾取」は実際に様々な病理となって現れます。そして、このような現代において詩とは「要求」の外部にある主体的な「欲望」を生み出す上での希少なメディアなのかもしれません。
 

*「わからなさ」への知

 
詩を書くようになって、もっと曖昧なものを作るようになって、何言ってんのかわかんないって言われることも時々あったけれど、私はたぶんすべての人に対して何言っているかわかんないって思っている。むしろ何言っているのか分かったら気持ち悪いな、吐いちゃうな、ときっとどこかで考えている。分かってもらえないことや、わかってあげられないことが、ちゃんと心地よいままでいたい。わかんない部分があるからあなたと私は他人なんです。そういう態度でいたかった。(本書より)
 
臨床心理学者、河合隼雄氏はベストセラーとなった著書「こころの処方箋」の冒頭で「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」ことが心の専門家の特徴であると述べています。これはまさに心理療法の極意を示すかのような至言のようにも聞こえますが、これだけ見れば実際のところ何をどうすればいいのかよくわからない禅問答のようでもあります。
 
けれど、ここでいう「心」を「エクリチュール」と読み替えてみる時、この謎めいた箴言は、むしろコミュニケーションの本質を鋭く捉えた言葉のようにも読むことができます。
 
エクリチュールのわからなさ。それはコミュニケーションにおけるアポリアの経験であると同時に、新たなる欲望=価値創造の源泉でもあります。
 
こうしてみると「人の心がいかにわからないかということを、確信をもって知っている」という箴言は、エクリチュールにおける等価交換の外部を開くためのひとつの「知」を示した言葉であるとも言えるのではないでしょうか。そして、ここにまさしく最果さんの現代詩が多くの人を魅了してやまない秘密の一端があるように思えます。
 
わたしという人間がどういう人間か問われたら、やっぱり、つまらない人間ですと思う。でも言葉がわたしの思ったくだらないことを拾いあげるとき、もはや誰の気持ちかもわからない言葉、世界のかけらとか、急な海の匂いとか、そういうものが絡まった糸のようについてきて、もう、わたしはわたしでいられなかった。そしてだからわたしは、やっと自分の人生がおもしろいと思えたんだ。(本書より)
 
 
 
 
 
 

【書評】52ヘルツのクジラたち(町田そのこ)

* 世界でもっとも孤独なクジラ

 
ある種のクジラは「歌」によって個体同士のコミュニケーションを取る事で知られています。海洋生物学者のロジャー・ペインが1970年に発表した「ザトウクジラの歌」は世界的に大きな反響を引き起こしました。以来、クジラは「天使の歌声」を持つ動物として知られるようになり、世界的な環境保護運動の原動力ともなりました。
 
そんな中で「誰にも届かない歌」を歌うクジラが発見されました。米ソ冷戦末期の1989年、米海軍の運用する海中探査システムが太平洋において正体不明の音を検知します。その音は周波数にして52ヘルツ。そしてその後、米ウッズ・ホール海洋研究所の分析により、この正体不明の音はクジラの発声音である事が判明しました。
 
通常、クジラの発声における周波数は10〜39ヘルツであり、このクジラが発する52ヘルツの「歌」は他のクジラには聴取不可能と言われています。それゆえに、この「52ヘルツのクジラ」は「世界でもっとも孤独なクジラ」と言われています。
 

*「声なき声」に耳を傾けていくということ

 
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなりえます。
 
このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。こうした社会的テーマを真正面から問う作品が本作「52ヘルツのクジラたち」です。
 
本作の著者、町田そのこ氏が「52ヘルツのクジラ」という存在を知ったのはデビュー作の執筆中に、たまたま海洋生物について調べていた時のことだったそうです。
 
そして町田氏の4作目にして初の長編小説となった本作は2020年4月の刊行以来、読書メーターを中心に幅広い層に反響し、2021年の第18回本屋大賞を射止めることになります。
 

* 海辺の町の物語

 
とある事情から東京から大分の海辺の町へと移住してきた本作の主人公、三島貴瑚は、田舎ならではの無遠慮な視線にさらされて辟易としていた。そんなある日、貴瑚は言葉を全く発することができない一人の少年と出会う。少年の怯えきった態度や身体中についた痣から、貴瑚は親からの虐待を疑う。
 
貴瑚自身もかつては母親からの虐待を長年に渡って受け続けてきた。けれども貴瑚はある人の尽力によって何とか家族から離れることができた。しかしその後、貴瑚はさらなる悲劇に襲われる。
 
こうして、その人生に何もかも絶望した貴瑚が流れ着いたのは、かつて幼少時に祖母と住んでいたこの町であった。
 
果たして少年は母親から「ムシ」と呼ばれて虐待を受け続けていた。少年の置かれた苛烈な境遇と過去の自身を重ね合わせた貴瑚は彼を「52ヘルツのクジラ」に擬えて「52」と呼ぶ。そして貴瑚はかつて聴き逃した「声なき声」に対する「贖罪」として、少年を助け出そうと周囲を巻き込んで奮闘する。
 

*「母なるもの」の呪縛

 
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことなのでしょう。この点、スイスの精神科医カール・グスタフユングは、ある地域に伝承する神話やお伽話と神経症者の夢や精神病者の妄想といった臨床経験の間に共通項を見出して、人の心にはその人だけが持っている「個人的無意識」の層のさらなる内奥に、万人に共通する「普遍的無意識」と呼ぶべき層があると主張し、この「普遍的無意識」を構成する先天的な精神力動作用を「元型」と呼びました。
 
そしてこのような「普遍的無意識」における「元型」の典型例の一つにユングは「母なるもの(グレートマザー)」の元型を挙げています。この「母なるもの」はその根源において「産み育てるもの」という肯定的な側面の他に「呑み込むもの」という否定的な側面を併せ持っています。
 
こうした意味で少女期の貴瑚はまさに文字通り「呑み込むもの」としての「母なるもの」の世界の中に囚われていました。そして、このような「母なるもの」の世界から貴瑚を救い出そうとした人物がアンさんです。けれどもその後、貴瑚が母親から形式的に自立した後も「母なるもの」の亡霊は彼女を執拗に追いかけてきます。
 
この点、ユング派分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏は「母なるもの」に取り憑かれた女性の病理として二つの危険な方向性を指摘しています。一つは、肉の世界への下落、土なる母との一体化の方向であり、そしてもう一つは母となることをおそれ、自らの女性性を拒絶する方向です。そして貴瑚はまさしく前者の道をまっしぐらに突き進んでいきます。
 
こうした観点からすれば、本作におけるアンさんの一見して不可解な行動が明瞭に理解できます。おそらく彼は最初からその最期まで、貴瑚の発していた「52ヘルツの声」を正確に聴き取っていたのではないでしょうか。果たして貴瑚は「母なるもの」の世界から脱出する事ができました。けれどもその代償はあまりにも大きいものでした。
 

*「傷ついた癒し手」と「メサイア・コンプレックス」

 
そして「52」もまた「母なるもの」の世界に囚われた少年でした。この点、河合氏は父親が弱いときには母親がむしろ男性原理の苛烈な執行者となると述べています。「52」の母親の琴美がまさにそうした母親でした。そして52に「自分と同じ匂い」を見出した貴瑚は、喋れない52の発する「52ヘルツの声」に耳を傾けていきます。
 
この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えました。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということです。
 
確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえます。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれません。
 
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもあります。メサイア・コンプレックスとは「自分は救われる価値のない人間だ」という無意識に抑圧されたコンプレックスに対して反動形成が働いた結果、傷ついた他者をとにかく救いたい、いや救わなければならないという強迫観念的な衝動に駆られた状態をいいます。
 
メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されています。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまいます。
 

* もしもあなたが「52ヘルツの声」を聴いたとすれば

 
おそらく我々もこの日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取る事があるでしょう。そしてその声の主である他者に手を差し伸べたいと思う事だってあるでしょう。
 
けれどもその時、我々はもしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまってはいないでしょうか。もちろん両者は截然と区別できるものではないのですが、少なくともこの区別を我々が無自覚なままに混同する時、そこには多かれ少なかれメサイア・コンプレックス的独善に陥る危険が待ち受けています。
 
本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもあります。この点、町田氏は本作を執筆するにあたり、もし自分だったら実際に何ができるかを真剣に考えたそうです。そして「少年が救われてよかった、というファンタジー的な終わり方にするのではなく、もしも本当に虐待児童を引き取って育てることになったとしたら、現実問題としてどのような手続きが必要なのかといった具体的な方法などについても必ず書くべきだと思った」とインタビューで述べています。
 
この言葉の通り、本作の結末では「現実的な解決」が示されます。そこで我々もまた、本作を単なるファンタジーとして消費して終わるのではなく、もし我々がこの日常のどこかで「52ヘルツの声」が聴こえてきた時、どのような「現実的な解決」ができるのかを考えてみるのも良いかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】猫だましい(河合隼雄)

* 人にとって猫とは何者なのか

 
猫が家畜化された起源は紀元前2000年頃にまで遡るといわれています。古代エジプトにおいて猫は神聖な存在とみなされ、文字通りの「猫神」として崇められていました。しかし他方で、中世ヨーロッパにおいて猫は魔女の使い魔であったり、あるいは魔女そのものとして、忌み嫌われたりもしました。
 
かように猫は善くも悪くも超越的存在として人々の間で畏怖されてきました。また、このようなことから猫は古今東西において様々な形で物語られてきました。果たして我々人にとって猫とは一体、何者なのでしょうか?
 

*〈たましい〉が喪失した時代

 
本書は昔話、童話、小説、絵本、さらには少女漫画に至る古今東西の様々な「猫のおはなし」を臨床心理学の知見で読み解く一冊です。本書の著者である河合隼雄氏は心理療法家として多くの悩み相談を受けながら、様々な悩みの背景には共通して「関係性の喪失」という問題があるように感じていたと言います。
 
関係性の喪失。それはすなわち、我々は「目に見えるもの」だけを対象として認識し、その「目に見えるもの」と「目に見えるもの」の〈あいだ〉を忘却してしまっているということです。
 
そしてこうした関係性の喪失とは畢竟〈たましい〉の喪失である、と氏は言います。そこで心理療法家は来談するクライエントが自身の〈たましい〉を回復していく過程を支援する役割を担うことになります。
 
ここで氏のいう〈たましい〉とはもちろん、オカルト的な何かではなくあくまで哲学的なメタファーです。我々は自らの感覚と言語で構成された主観的な世界を生きています。こうした我々の生きるこの世界の〈外部〉=超越論的な場を問うのが哲学という思考です。
 
そして、これまでの哲学の歴史において「イデア」「理性」「存在」「構造」などという様々な言葉で名指されてきたこの世界の〈外部〉=超越論的な場を河合氏は端的にわかりやすく〈たましい〉と呼ぶわけです。
 

*〈たましい〉の顕現としての猫

 
こうした意味での〈たましい〉は様々な形を取って、我々の主観的な世界の中に顕れてきます。そこで心理療法家は、クライエントの〈たましい〉から湧出する豊かなイメージを、時には夢の解釈を通じて、時には箱庭創りを通じて、色々な角度から観ていくことになりますが、その過程で猫がまさに〈たましい〉の顕現と言いたくなるほど重要な存在として登場すると氏は言います。
 
なぜ猫なのでしょうか?この点、同じペットでも犬がどちらかといえば飼い主に忠実な動物というイメージがありますが、これに対して、猫はどちらかというと飼い主から自立した勝手気ままなところがある動物というイメージあります。こうした猫の持つ捉え所のなさが〈たましい〉の捉え所のなさに通じているのでしょう。
 

* 猫マンダラ

 
こうした猫の変幻自在なイメージを図式化したものが以下の「猫マンダラ」です。

 

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(本書20頁より引用)
 
この図はユング派分析家であるバーバラ・ハナが「猫・犬そして馬」というテーマで行ったセミナーで示したもので、それぞれが両義的な性格を持つ四つの位相から成り立っています。
 
ここに例示された猫のうちラー、バスト、セクメト、テフヌトというのはエジプト神話の神々です。太陽神ラーはハヤブサの頭を持つ姿として現れることが多いですが、牡猫の姿で描かれることもあります。そしてそのラーの双子の娘がバストとセクメトです。
 
バストは歓喜と豊穣を示す女神であり、セクメトは怒りと破壊を示す女神です。猫の温和な性格を表すときはバストになり、その獰猛な性格を表す時はセクメトになります。そしてセクメトはしばしバストと同一視され、その時、セクメトは人間に苦しみをもたらす魔女である一方で、苦しみを癒す存在であるという母性原理の両義的な性格を持っています。またバストはテフヌトと同一視されることがあります。猫の自立性、ずる賢さはテヌフトによって示されています。
 

* トリックスター

 
これに対して「長靴をはいた猫」とは周知の通りグリム童話に出てくる猫の主人公です。このお話では、貧しい粉挽きの青年が、父親の遺産として貰い受けた猫の活躍により王女と結婚してハッピーエンドとなります。
 
このような「長靴をはいた猫」の性格はユング派的な観点からはトリックスターと呼ばれます。トリックスターとは神話、伝説などに登場する道化的な役回りを担う存在で、かぎりなく悪に近い側面と、限りなく英雄に近い側面という両義的な性格を持っています。
 
長靴をはいた猫」は青年を「カラバ侯爵」なる架空の存在にでっち上げて王様を騙してしまいますが、隣国の人喰いを退治して、青年を本当に「カラバ侯爵」にしてしまいます。結果、青年と王女は結婚し、二つの国はひとつの新しい国に統合されることになります。このようにトリックスターは二つの領域の境界に出没し、旧来の秩序を破壊して、新しい秩序を創造する役割を担ったりもします。
 
もちろん、こうした主人公をハッピーエンドに導く猫がいる反面で主人公をバッドエンドに導く猫もいます。我が国の古典文学の代表でもある「源氏物語」においては周知の通り、猫の導きによって結ばれた柏木と女三の宮は悲劇的な結末を迎えます。トリックスターとしての猫は紙一重で悪になったり英雄になったりします。こうしたトリックスターの持つ両義性は〈たましい〉の持つ両義性を端的に表しているとも言えます。
 

*〈たましい〉と〈だまし〉

 
このように猫は様々な物語の中で温和、怠け、獰猛、残酷、癒し、魔性、狡賢さ、自立性といった多様なイメージを体現する存在として登場します。こうした意味で猫は、まさに〈たましい〉という捉え所のないものを記述する上では打って付けの存在であると言えるでしょう。
 
ところで本書表題の「猫だましい」は〈たましい〉と〈だまし〉を掛け合わせた詞となっています。いわば我々は〈だまし〉という形で〈たましい〉の働きに接しているという事です。
 
言うまでもなく〈だまし〉というのは結局は人の心理であり〈たましい〉そのものではありません。けれども時に人はこの「心理」の中に安易な「真理」を見出してしまいます。そしてこうした安易な「真理」の絶対化を世間では「カルト」と呼びます。
 
我々も現実の中でまさに〈たましい〉の顕現というべき出来事に遭遇する事があるでしょう。けれどもそれは常に〈だまし〉として現れているといえます。そこには良い〈だまし〉もあれば悪い〈だまし〉もあるでしょう。こうした様々な形で現れる〈だまし〉に安易な「真理」を見出す事なく〈だまし〉と上手く付き合っていく為の知恵を、古今東西の様々な猫達の〈だまし〉の中に見出す事ができるように思えます。
 
 
 
 
 
 

「希望」という名の想像力--魔法少女まどか☆マギカ

*「政治と文学」の切断と再統合

 
この現代において「政治と文学」の問題はいかに考えられるべきなのでしょうか。かつて社会共通の価値観といえる「大きな物語」が機能していた近代社会においては「政治(=公共観)」と「文学(=成熟観)」はほとんど等価なものとして捉えられていました。ところが日本社会において「大きな物語」が徐々に失墜し始めた1970年代以降から、徐々に「政治と文学」の問題は乖離を見せ始めました。
 
現代文学を代表する作家である村上春樹氏は、こうした時代思潮の変化にいち早く気付き、その初期作品において早くも「デタッチメント」という倫理的作用点を打ち出しました。そしてその前期の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においては「政治(=ハードボイルド・ワンダーランド)」と「文学(=世界の終わり)」が完全に切断された結末が提示されました。
 
そして日本社会において「大きな物語」が決定的に失墜したと言われる1995年に放映されたTVアニメーション新世紀エヴァンゲリオン」において、主人公の碇シンジは終始「政治(=エヴァに乗る)」と「文学(=エヴァに乗らない)」の間を往還し続けて、最後には「政治(=エヴァに乗る)」を完全に放棄して「文学(=人類補完計画)」に引きこもる道を選びます。こうしたTV版エヴァの結末は90年代末からゼロ年代初頭にかけて漫画・ライトノベル・アニメ・ゲームといったポップカルチャーの領域で一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群において様々なクリシェとして奏で続けられることになります。
 
しかしその一方で「大きな物語」の決定的な失墜は、無数の「小さな物語」の乱立と衝突を招来し、時代は再び「政治と文学」の再統合を志向する想像力を要請することになりました。こうした時代の要請をやはり誰よりもいち早く察知した村上氏は、その中期の代表作となる「ねじまき鳥クロニクル」以降、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させ、その文学的運動は畢竟の超大作「1Q84」において「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」という形でひとつの頂点を迎えることになります。
 
そして、ゼロ年代におけるポップカルチャーの領域においても、やはり「セカイ系」以後、無数に立ち上がる「セカイ(=小さな物語)」同士のバトルロワイヤル状況を様々に描き出す中で、この不毛な決断主義的動員ゲームを終わらせるための「政治と文学」の再統合が模索されるようになりました。
 
こうしたゼロ年代における想像力の総決算に位置する作品が2011年に放映されたTVアニメーション魔法少女まどか☆マギカ」であったように思えます。果たして「まどかの物語」はいかなるかたちで「政治と文学」を記述したのでしょうか。放映から10周年を迎えたいま、改めて「まどかの物語」を読み解いてみたいと思います。
 

*「まどかの物語」における「政治」--コミュニタリアニズム

 
まず「政治(=公共観)」において「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもあります。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁しています。
 
ではこうした中で、まどかの立ち位置はどこにあるのでしょうか。この点、あの「まどかの願い」とは、いわば魔法少女という「コミュニティ」の物語を書き換える願いであったといえます。こうした「まどかの願い」は現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場に相当します。
 
コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、我々の「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされます。
 
まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の名誉や美徳としての「共通善」を称揚したといえるでしょう。
 

*「まどかの物語」における「文学」--エディプス的欲望ではない方へ

 
次に「文学(=成熟観)」において「まどかの物語」はある種の精神分析的な寓話として読めます。本作において魔法少女の魂は周知の通りソウルジェムという宝石として結晶化されます。このソウルジェムの形状は精神分析でいうところの「欲望」の象徴的等価物である「ファルス(Φ)」を想起させます。ここから、本作における魔法少女とは「その願い(=欲望)」によって「ソウルジェム(=ファルス)」を仮想する「ファリック・ガール」であるというエディプス的な解釈も成り立つでしょう。
 
ここでいう「エディプス」とはもちろん精神分析創始者ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」の事です。事実、さやかや杏子は極めてわかりやすくエディプス的な欲望に駆動されて魔法少女になっています。これに対して「まどかの願い」はこうしたエディプス的な欲望とは一線を画した別の欲望によって駆動されているように思えます。
 

* 二つの欲望の差異

 
この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンは「性別化の式」において、以下の図のように女性のセクシュアリティ∃xΦx/∀xΦx)を一方では「男性の享楽(=ファルス享楽)」に規定されたファリック・ガール(La→Φ)として位置付けつつも、他方ではファリック・ガールに回収される事のない「女性の享楽(=〈他〉の享楽)」への超越可能性(La→S(Ⱥ))を示唆する反エディプス的な議論を展開しています。
 

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こうしたラカン的構図からいえば「まどかの願い」とはまさに「魔法少女(=ファリック・ガール)」から「円環の理(=女性の享楽)」への超越を果たすものであったといえます。
 
また、スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識の中心である「自我」とは別にこころ全体の中心である「自己」という概念を想定し、無意識における「コンプレックス」や様々な「元型」との対決を通じて、相対立する葛藤が相補的かつ共時的に再統合されていく過程を「自己実現」の過程と呼びます。
 
ユングフロイトから早々に離反して自身の心理学を創始した人物として知られていますが、ここでユングの提唱する「自己実現」の過程もまたやはり反エディプス的な議論と言えます。
 
この点、本作はまどかというコンプレックスの強い少女を中心に元型的な布置が見事なほどに描き出されています。ここで魔女は「呑み込む母(=グレートマザーの元型)」を、他の魔法少女はまどかの「生きられなかった半面(=影の元型)」を、キュゥべえは「道化師(=トリックスターの元型)」と「ロゴスの象徴(=アニムスの元型)」を体現しています。
 
このような布置の中でまどかは「正しくあろう」とするのではなく「間違えること」を徐々に学びます。そして、こうした「正しさ/間違い」を相補的かつ共時的に再統合した「自己実現」の先にあの「まどかの願い」は位置しているといえるでしょう。
 
こうしてみると「まどかの願い」とは「ファリック・ガール」というエディプス的欲望ではなく、むしろ「女性の享楽」や「自己実現」として名指される反エディプス的欲望に駆動されていたと言えるでしょう。そしてこのような二つの欲望の差異を本作は「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ」という極めて端的な言葉で見事に言い表しています。
 

*「希望」という名の想像力

 
こうして「まどかの物語」において「政治(=コミュニタリアニズム的正義)」と「文学(=反エディプス的欲望)」は「希望」という言葉によって再統合されることになります。そしてそれは社会が無数のクラスターや格差へズタズタに引き裂かれ、苛烈なシステムの統制の下で人間があたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくこの「絶望」の時代ともいうべき現代を照らし出した文字通りのひとつの「希望」でもあったように思えます。
 
冒頭で述べたように、かつて村上春樹氏は近代的な「大きな物語」の失墜以後の「政治と文学」を再統合する上で「デタッチメント」から「コミットメント」へという倫理的作用点の転換を志向しました。けれども無数の「小さな物語」が乱立し、グローバル化とネットワーク化の加速する現代においては、むしろ人々はお互い否応なく自動的に「コミットメント」に巻き込まれていると言うべきでしょう。
 
それゆえに現代における「政治と文学」の核心点とは、もはや「デタッチメント」か「コミットメント」かなどといった二項対立ではなく、むしろこの「コミットメント」の過剰性から生じるコストの処理をどのように引き受けて記述していくかという問いにあるといえるでしょう。そして「まどかの物語」とは、まさにこうした現代における「政治と文学」の核心点に「希望」という名の言葉を与えた想像力であったように思えます。