かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「性愛」の深化から「友愛」の交歓へ--「カードキャプターさくら・クリアカード編 1巻〜8巻(CLAMP)」

 

 

* 新たなさくらの物語

 
少女漫画の枠組みを超えて現代サブカルチャーにおける魔法少女の概念を再発明したことで知られる創作集団CLAMPの不世出の名作「カードキャプターさくら」。1996年から2000年にかけて少女雑誌「なかよし」で連載された同作は、想定された読者層以外の様々な層を熱狂の渦中に叩き込みました。そして2016年「さくらの物語」は新たに「クリアカード編」として、しかもかつてと同じく「なかよし」で、まさかの復活を遂げることになります。
 
物語は前作の最終回直後から再び始まります。友枝中学校に進学した木之本さくら。長らく離れ離れになっていた相手役の李小狼とも再会し、これからの中学校生活に期待を膨らませる。けれどもその矢先、さくらはフードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中にあった。そして「さくらカード」は透明なカードに変化して、その効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。二人はお互い何かを感じるところがあったのか次第に交友を深めていく。一方、秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡にはある目的があった。
 
 

* さくらと秋穂の日常

 
物語の中盤までは華々しいバトルと煌びやかな日常が繰り広げられる一方で、様々な謎が次々と堆積していきます。こうした二層構造の下、なかなか物語が動かない本作のゆっくりとした展開には若干のもどかしさを覚えたりもしましたが、ここに来て急速に物語の見晴らしが開けて来た感はあります。
 
今思えば本作が中盤まであまり物語を動かさずに、さくらと秋穂の日常における交歓を極めて丁寧に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラクターへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったのかもしれません。
 
すなわち、本作ではさくらと小狼の関係以上に、さくらと秋穂の関係に光が当てられているということです。
 
端的に言えば、さくらの旧編が「性愛の物語」であったのに対して、新編は「友愛の物語」として読み解けるということです。これは巻数を重ねる毎に強く確信するところです。こうして新旧のさくらの物語を読み比べてみると、その時代毎の成熟感がヴィヴィッドに反映されている事に気付かされます。
 
 

* 物語回帰としての「性愛」の物語

 
80年代における成熟のモードが物語批判であったとすれば、90年代のそれは物語回帰という事になります。当時は社会共通の価値観である「大きな物語」の失墜が明らかとなり「成熟」とは畢竟、いかなる「小さな物語」にいかに回帰するか、という問題でした。
 
そして数ある「小さな物語」の中で当時もっとも洗練されたものとみなされたのが、異性間における「性愛」を軸とした物語です。
 
例えば、村上春樹氏がその創作上の倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」に転換した「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」においては、ヒロインの「性愛」を媒介項として、主人公のナルシシズムとヒロイズムが同時に記述されました。
 
また、90年代後半からゼロ年代初頭において一世を風靡した「セカイ系」的な作品群においても「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が己の矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」とみなす構図が反復されていました。
 
そして、同時代におけるさくらの旧編もまた、少女漫画的文脈の中でこうした「性愛」を軸とした少女の成長物語を描き出したわけです。
 
 

* 異なる物語を生きる他者同士の関係性

 
ところがゼロ年代以降の時代情勢の変化はこうした「性愛」を軸とした成熟感を急速に陳腐化させる事になります。
 
グローバル化、ネットワーク化、ポストモダン化の加速により、それまで自明のものとされてきた価値観が目まぐるしく転倒して流転していく時代の潮流の中で、我々は否応なく異なる物語を生きる他者との関係を余儀なくされていく。
 
ここで物語回帰は新たなフェイズに遷移します。いまや問題は、どのような物語にいかに回帰するかの記述ではなく、異なる物語を生きる他者同士の関係性をいかに記述するかに他ならないという事です。村上春樹氏のタームで言えば、もはやデタッチメントかコミットメントかの選択の余地はなく、コミットメントの一択しかあり得ないという事です。
 
 

* 「性愛」の深化から「友愛」の交歓へ

 
この点、性愛的関係性を軸とした物語は、同じ物語を共有する2人だけの「閉じた関係性」への回帰に他ならない。すなわち、ここでは異なる物語を生きる他者同士における「開かれた関係性」を記述し得ないということです。
 
こうした中で、新たなさくらの物語はこうした成熟感の変化に対するひとつの回答と言えるでしょう。今作では、さくらは小狼という性愛的関係性以上に、秋穂という友愛的関係性によって自らのアイデンティティを記述していきます。
 
「性愛」の深化から「友愛」の交歓へ。「閉じた関係性」から「開かれた関係性」へ。新たな「さくらの物語」はこうした現代的視点から少女の成長物語を提示していると言えるでしょう。
 
本作も気がつけば8巻目。物語も佳境に入った感があります。けれどもまだ物語の核心をなす謎については明らかになっていませんし、ここに来て新たな謎も投入されました。そしてここでいよいよ前景化して来た「アリス」というモチーフ。「不思議の国のアリス」と「時計の国のアリス」の交差。ここからどのように物語が深まっていくか。本作の次なる展開を心待ちにしたいと思います。
 
 
 
 

日常から世界を問い直すということ--「遅いインターネット(宇野常寛)」

 

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 

* 走りながら考える本

 
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ない。この点に関してゼロ年代初頭の時点でもっとも洗練された議論を提示したのが東浩紀氏の「動物化するポストモダン(2001)」でした。
 
そしてこの東氏の議論を決定的に更新したのが宇野常寛氏のデビュー作「ゼロ年代の想像力(2008)」です。
 
同書は、地下鉄サリン事件、9.11米国同時多発テロ、小泉構造改革といった90年代中盤からゼロ年代中盤までの社会情勢分析と、映画、テレビドラマ、アニメーションといったサブカルチャー分析を縦横無尽にリンクさせ、ゼロ年代における想像力のパラダイムシフトを明示しました。
 
同書の革新性はポストモダンにおける物語回帰の論点を再設定した点にありました。すなわち、問題の本質はどのような「小さな物語」にいかなる形で回帰するかではなく、様々な「小さな物語」同士がいかに関係していくかという事です。
 
そして「ゼロ想」の中に胚胎していた「日常に内在するロマンの再発見」というべきアイデアは、その後、村上春樹と平成仮面ライダーシリーズを比較考察する「リトル・ピープルの時代(2011)」において「拡張現実」という社会学的概念へと練成されます。
 
さらに、宮崎駿富野由悠季押井守という戦後アニメーションの巨匠を論じた大著「母性のディストピア(2017)」においては「拡張現実」の視点から吉本隆明氏の「共同幻想論」を再構成する試みが展開されます。
 
こうした宇野氏のサブカルチャー批評の成果を社会批評へと展開させたのが本書になります。氏は本書を「走りながら考える本」だと言います。確かにその議論は単純明解ではないですし、その結論も腑に落ちない所があるかもしれません。けれども、ともかくも本書と格闘してみる読書経験それ自体が表題の「遅いインターネット」のなんたるかを理解するための第1歩となるでしょう。
 
 

* 「境界のない世界」と「境界のある世界」

 
本書はグローバル化と情報化の極まった今日の世界において人々は、新しい「境界のない世界」に適応した「Anywhere」な人々と、古い「境界のある世界」を志向する「Somewhere」な人々に分断されていると指摘します。
 
そして本書は両者を本質的に分かつのは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」であるという。
 
「Anywhere」な人々の典型は「カルフォルニアン・イデオロギー」を起源に持つシリコンバレーの起業家をはじめとした情報産業のプレイヤーたちです。これに対して「Somewhere」な人々の典型は「境界のない世界」の拡大によって既得権益を失いつつある(日本を含む)旧西側諸国の労働者階級です。
 
「Anywhere」な人々はグローバルな市場に情報技術を用いたイノベーティブな商品やサービスを投入することで、世界中の社会を、人々の生活を一瞬で変革できる可能性を信じる事が出来る。すなわち、彼らは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を持っているわけです。
 
一方で、「Somewhere」な人々はその多くが「組織の歯車」でしかなく、日常の中でこうした感覚を持つことは難しいでしょう。それどころかグローバル化と情報化の進展の中、これまで積み上げてきたスキルが秒速でゴミになるという不安にも晒されているわけです。
 
こうして「境界のない世界」で疎外された「Somewhere」な人々は「境界のある世界」を希求する事になります。そして、自らに都合の良いフェイクニュースを掻き集め、フィルターバブルの中に閉じ籠り「世界に素手で触れているという感覚」を回復しようとする。
 
それは愚かな現実逃避でしかないと「Anywhere」な人々はきっと言うのでしょう。けれども、こうした彼らの「意識の高い語り口」はますます「Somewhere」な人々のカンに触るだけでしかないわけです。
 
こうした「Somewhere」な人々の受け皿となるのが「民主主義」というシステムです。このようなフェイクニュースとフィルターバブルに汚染された民主主義の機能不全が、2016年に米国で「トランプ/プレグジット」という現象を生み出したと本書は分析します。
 
 

* 平成という「失敗したプロジェクト」

 
では日本はどうかというと、本書はこの国は世界的な「グローバル化→その反作用」というターンそれ自体に乗り遅れているというかなり辛辣な評価を下し、平成という時代を「失敗したプロジェクト」であると断じ去ります。
 
すなわち、平成という「失われた30年」とは、政治的には政権交代可能な二大政党制の実現に失敗した時代であり、経済的には20世紀的工業社会から21世紀的情報社会への転換に失敗した時代であるという事です。
 
そしてこうした失敗の原因を本書はテレビ/インターネット・ポピュリズムによる民主主義の機能不全にあると分析します。ここでいうホピュリズムとは、週替わりで失敗した人間に安全圏から石を投げつけるワイドショー的ポピュリズムと、特定のイデオロギーから世界を単純に友敵に切り分けるカルト的ポピュリズムです。
 
 

* 民主主義の機能不全をいかに是正していくか?

 
こうして本書の立場からは「トランプ/プレグジット」に代表される世界的なグローバル化へのアレルギー反応の噴出も、平成という時代が「失敗したプロジェクト」に終わったのも、ともにその根底には情報社会下における民主主義の機能不全があるということになります。
 
ウィンストン・チャーチルがアイロニカルに述べるように、もとより民主主義は軍国主義や独裁主義など様々な政治体制と比較して、よりマシな制度であることは間違いないでしょう。けれど、今日において民主主義という名の宗教は世界を分断し、自由と平等を圧殺する装置と化している事もまた事実です。
 
本書は「境界のない世界」の拡大は不可避であるという前提に立ちます。そして、その変容過程において、フェクニュースとフィルターバブルの中で「境界のある世界」を夢想する民主主義の機能不全をいかに是正していくか?これが本書の問いということになります。
 
 

* 三つの処方箋

 
情報社会における民主主義の機能不全をいかに乗り越えるか。この点、本書は三つの処方箋を提示します。
 
第一の処方箋は民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾けるということです。具体的には現在の違憲審査制を付随的審査制から抽象的審査制に近づけて、基本的人権をはじめとする立憲主義を擁護する体制を強化するということです。
 
第二の処方箋は情報テクノロジーを用いて新しい政治参加の回路を構築することです。それも個人が「(意識の低すぎる)大衆」でも「(意識の高すぎる)市民」でもない「(ありのままの)人間」として、選挙やデモという「非日常」ではなく生活という「日常」の中で、政治に参加する事が可能となる回路です。その例として本書は台湾の「vTaiwan」や「Join」などインターネットを介して市民が公的ルールの設定に参画するクラウドローというサービス群を挙げています。
 
そして第三の処方箋。これが本書独自の提案である「遅いインターネット」です。
 
 

* インターネットの育て直し

 
「遅いインターネット」とはなんでしょうか?物理的に接続速度の遅いインターネットの開発とかそういう話ではもちろんありません。詳細は本書を読んでいただきたいところですが、端的に言えば、私はこれは「インターネットの育て直し」だと理解しました。
 
インターネット以前の人の知的活動の基本、すなわち「読む」「書く」という根源的なレベルまで立ち戻り、ここからインターネットという言論空間を「量」から「質」へと転換させていく--これは一見、ひどく迂遠ですが、極めて真っ当な取り組みだと思います。
 
当然のことながらその提案の委細に関しては様々な議論の余地もあるでしょう。けれど少なくともこの提案を支える論理は極めて堅牢に出来ているという点はここで指摘しておきたい所です。
 
 

* 日常×自分の物語

 
この点、本書では「文化の四象限」という枠組みで議論を整理しています。
 

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まず、本書は現代を「拡張現実の時代」であると規定します。情報テクノロジーの進化は「虚構と現実」の関係を対立関係から統合関係に変容させました。かつて虚構は「ここではない、どこか」を仮構する回路を担っていましたが、いまや虚構は「いま、ここ」を多重化する回路として機能しているということです。
 
こうした「拡張現実の時代」においては、人の欲望の重心は「他人の物語」への没入から「自分の物語」の発信へと移動します。次なる問題は「自分の物語」をどの領域で発信するかということです。
 
ここで本書は「日常」の領域に注目します。いまアプローチすべき領域は上図における第三象限の「日常×自分の物語」であるといいます。
 
これは端的にいえば、別に仕事でもないのにフェイクニュース拡散に熱心に従事する「Somewhere」な人々の多くは「生活」という「日常」の領域が満たされていないが為に「政治」という「非日常」の領域で仮初めの承認欲求を満たそうしているわけです。
 
要するに問題の本質は語れるだけの「日常」が無いという事です。従っていま必要なのは「非日常」ではなく「日常」の領域において「世界に素手で触れているという感覚」を成立させるという事になります。
 
ここで本書は吉本隆明氏の共同幻想論を参照枠として、今や問題は「(零落した)共同幻想」からの自立ではなく「(肥大化する)自己幻想」のマネジメントであるとして、いま必要なのは「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」ことにあると言います。
 
これはかつて「ゼロ想」で示された「小さな物語同士の関係性」という問いに対する洗練されたアンサーとも言えるでしょう。そして、こうした試行錯誤を環境的に支援する装置が本書の提示する「遅いインターネット」に他ならないということです。
 
 

* 「批評」という快楽

 
本書の直接的なテーマは情報化社会における民主主義の再設計というべきものですが、その一方で現代的な「生きづらさ」に対する処方箋としても読めるでしょう。
 
「日常」の領域において「世界に素手で触れているという感覚」を成立させるという事。これはお前も起業しろとかリア充になれとか、そういうひどくありふれた言説とは勿論、一線を画すものです。
 
この点「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」という営みに本書は「批評」という言葉を当てます。
 
昨今のSNS界隈で主流なのは「共感」を軸とした発信です。もちろん共感というのは私的コミュニケーションにおいてはとても大事な事です。けれども、インターネットという公的空間に投げ放つ言葉が「共感」か「反感」かの二者択一しかないというのは、あまりにも貧困な人生ではないでしょうか。
 
これに対して「批評」とはこうした「共感」の外側に立つ態度です。既存の答えを追認するだけの行為を「共感」というのであれば、新たな問いを創造する行為が「批評」です。すなわち「批評」とは「思考する快楽」「価値転倒の快楽」「世界を再構成する快楽」とも言えるでしょう。
 
こうした意味で本書のいう「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」という営みには、千葉雅也氏が「勉強の哲学」で提唱する「来るべきバカ」という概念に近いものを感じます。氏は「深い勉強」とは「場の空気」などといった「環境のコード」の呪縛から自由になる「来るべきバカ」へと変身するための営みであるといいます。そうであれば「遅いインターネット」とは「深い勉強」をする為の支援装置であるという捉え方もできるでしょう。
 
言葉というのは思いのほか大事です。フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの有名なテーゼに「無意識は言語によって構造化されている」というものがあります。普段使う言葉は無意識という器を経由してその人の心身を知らず知らず規定します。
 
世界を敵か味方かに切り分けるだけの言葉を振りかざすのか。それとも世界を創造的に問い直す言葉を産み出すのか。日々どちらの言葉を積み重ねるかによって、世界の見え方、人生の幸福感はだいぶ違うものになってくるのではないでしょうか。
 
 
 
 
 
 

「思考する快楽」としての勉強--「勉強の哲学(千葉雅也)」

* 「勉強」と「生活」は表裏の関係

 
我々は社会生活を送る上で多かれ少なかれ「勉強」をしています。入学試験や資格試験など、わかりやすい「勉強」の他にも、新しい仕事の手順を覚えたり、新しい料理の作り方を覚えたり、新しいスマホの操作を覚えたり、こんな風に何気なく日々「勉強」してるわけです。
 
いわば「勉強」するというのは「生活」と表裏の関係とさえ言えます。そういう意味で本書が示すのは、狭い意味での「勉強」に止まらない、生活全般に応用可能な実践哲学でもあります。
 
 

* 言語との出会い直し

 
本書は勉強の本質とは「自己破壊」であるといいます。これは畢竟「環境のコード」との癒着を引き剥がすという事です。我々は日々「学校」「会社」「家庭」など、ある一定の他者関係の中で生きているわけです。こうした「環境のコード」への習慣的ないし中毒的な依存を本書では「ノリ」と呼びます。
 
そしていわゆる一般的にいう「勉強」とはある「ノリ」から別の「ノリ」へ引っ越す事という事を意味しています。ところが本書の提唱する「深い勉強=ラディカル・ラーニング」は、この「ノリ」と「ノリ」の「間」に注目します。
 
そこには「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての言語がある。そして本書はこの「ただの音」としての言語は様々な意味を生み出す可能性を秘めている「器官なき言語」であると言う。
 
人は通常「環境のコード」の中で言語を道具的(目的的)に使用しているわけです。しかし言語を環境から一旦切り離す事で言語を玩具的(自己目的的)に使用できるようになる。
 
すなわち「深い勉強=ラディカル・ラーニング」とはまず「言語偏重の人」になることであるということです。これはいわば言語との出会い直しと言えます。特定の環境に依存しない「器官なき言語」を経由する事で自由な発想や可能性が開けるということです。
 
では「勉強」という過程の中で「深い勉強=ラディカル・ラーニング」はどのように実践する事ができるのでしょうか。この点、本書が挙げるのは「アイロニー」と「ユーモア」という技法です。
 
 

* 「環境のコード」にアイロニーを入れる

 
アイロニー」とは、いわゆる「ツッコミ」のことです。日常の場面で生起する様々な「こういうもんだ」という「環境のコード」にツッコミを入れて、それをなるべく大きく抽象的なキーワードとして括り出して行く。そこから勉強すべき「直接分野」と「間接分野」が見えてきます。
 
例えば、あなたがいま勤めている会社の待遇に不満があったとするでしょう。こうした「環境」に「なぜ不満なのか」という「アイロニー」を入れた結果「キャリアデザイン」というキーワードを括り出したとします。
 
そして、この「キャリアデザイン」というキーワードから、例えば「行政書士」とか「社会保険労務士」といった資格試験に行き当たったとします。そうするとこの資格試験の勉強が、差し当たり勉強すべき「直接分野」という事になるでしょう。
 
そしてこれらの試験勉強をやっていくうちに、例えば試験科目を構成する憲法」「行政法」「労働法」「社会保障法」などの法律分野に関心を抱いたとすれば、これが「間接分野」という事になります。
 
 

* アイロニーのやりすぎによる「決断主義

 
けれども、ここで注意すべきなのはアイロニーをやり過ぎないという事です。アイロニーにより人はひとまず今の「環境」の外部へ脱出することができる。けれども「環境」の外部にはただ、「別の環境」があるだけです。「ある環境」から「別の環境」へ。そしてまた「別の環境」へ。こうして原理的にアイロニーは際限なく続きます。
 
先の例で言えば、試験勉強を続けているうち「そもそも、なぜ人はキャリアデザインを強いられるのか」という更なるアイロニーが生じたとする。そこから「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」といったキーワードに行き当たるかもしれません。
 
もちろん、こういうある程度までアイロニーを深める事自体は別段、悪い事ではありません。危ういのはこうした際限なく続くアイロニーの過程で特定の価値観を「絶対の真理」として決断的に囲い込んでしまうことです。こうした「アイロニーの有限化」を「決断主義」と言います。
 
先の例で言えば、今の自分の不遇や生きづらさの原因を「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」に求め、そこから「私は悪くない」「私こそ犠牲者だ」という物語に取り憑かれ、何かしらのイデオロギーに「絶対の真理」を見出してしまうようなケースです。
 
もちろん、これは一つの精神安定の処方箋としてはあり得るかもしれません。けれどこれは何処までも「信仰」であって、決して「勉強」ではありません。
 
そこで本書はこうした弊害に陥らないため、アイロニーを突き詰める事を一旦やめて、ユーモアに転じてみる事を勧めます。
 
 

* アイロニーからユーモアへの折り返し

 
「ユーモア」とは、いわゆる「ボケ」のことです。ある環境のコードの中であえてボケてみることで、コードはその同一性を保ったまま変換され、そこにはまた別の可能性が開かれます。
 
先の例で言えば、アイロニーの結果行き当たった「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」というキーワードが前景化したゼロ年代初頭における漫画、アニメ、ゲームなどのサブカルチャー文化圏に目を転じたとします。
 
当時のオタク層の中で一世を風靡していたのは「新世紀エヴァンゲリオン」の想像力を色濃く受け継いだ「セカイ系」と呼ばれる作品群でした。そして現在、新海誠監督の「君の名は。」「天気の子」の大ヒットで「セカイ系」という言葉が再び注目されています。
 
ここから世の中の構造変化とサブカルチャー文化圏のトレンドの変遷はいかなる関係があるのだろうかという問いを立てる事もできるでしょう。
 
ここから「日々の生活」「資格試験」「サブカルチャー」という複数の環境を比較しつつ往還するような思考が生まれてくるわけです。本書はこうした思考スタイルを「アイロニーからユーモアへの折り返し」といいます。
 
 

* 「享楽的こだわり」による「中断」

 
もちろんユーモアもやりだせばキリがありません。本書のいう「ユーモアの接続過剰」です。そこで複数の環境の往還はどこかで一時的に止めなければならない。
 
こうした「ユーモアによる有限化」を本書は「中断」といいます。「決断」ではなく「中断」ということです。「絶対の真理」とかではなく「ひとまずこれでよい」という極めて非意味的、感覚的なところで自分の足場を「仮固定」する。
 
こうした「ひとまずこれでよい」という非意味的、感覚的なものを本書は「享楽的こだわり」と呼びます。では、なぜ自分はそこで「ひとまずこれでよい」と思ったのでしょうか?こうして今度はこの「享楽的こだわり」に対してアイロニーを差し向けるわけです。本書はそのための自己分析の技法として「欲望年表(享楽年表)」の作成を勧めています。
 
 

* そして「来るべきバカ」へ

 
アイロニーからユーモアへの折り返し。享楽による非意味的切断。そして今度は享楽にアイロニーをかける。こうした「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とした「勉強の三角形」というべきサイクルを経由することで、人は「来るべきバカ」--環境に振り回されるだけの「ただのバカ」ではなく、環境と距離を置きつつも上手くやる柔軟な思考を身につけた存在--へと変身するわけです。
 
「来るべきバカ」とはハイデガーの言う「来るべき新たな土着性」を想起するタームですが、本書が示す「言語」から「享楽」へ旋回する「勉強」の過程は極めて洗練された精神分析実践とも言えます。
 
 

* 「思考する快楽」としての勉強

 
本書の後半は、上述したような前半の基礎理論を踏まえて、具体的に勉強を「有限化」する技術について詳細に述べられています。
 
ここで述べられている諸々は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。それでも一度はこうした「まっとうな勉強」をやってみる事をお勧めしたい。アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは「ニーバーの祈り」として知られる次のような言葉を残しています。
 
「変えることのできるものを変える勇気、変えることのできないものを受け入れる冷静さ、そして両者を識別する知恵を、われらに与えたまえ」
 
本書のいう「勉強」はまさしくこの「知恵」を手に入れるための営みと言えるでしょう。「事務処理」として勉強ではなく「思考する快楽」としての勉強は世界の見え方を確実に変えるはずです。
 
 
 
 

セカイから日常へ--CLANNAD

 

 

 

* 美少女ゲームの新境地

 
1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていました。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が訪れます。ゲームブランドエルフから発売された「同級生(1992)」辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された「雫(1996)」以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じました。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていきます。
 
こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていきます。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された「ONE〜輝く季節へ〜(1998)」です。
 
そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得しました。そして「Kanon」に続いてKeyから発売された「AIR(2000)」は「美少女ゲームの臨界点」と呼ばれ、ゼロ年代サブカルチャー文化圏を代表する普遍的名作の一つに位置付けられています。
 
本作の原作ゲームはこうした「Kanon」「AIR」に続くKeyの3作目として、2004年に全年齢対象版として発売されました。すなわち、本作はかつてアダルトゲームの「売り」であったはずの性的描写を完全に排除した形で世に問われたということです。そして結果として本作は前2作に劣らない高い評価を獲得し「CLANNADは人生」という名言も生み出します。こうして本作は美少女ゲームの新境地を切り開きました。
 
 

* あらすじ

 
主人公の岡崎朋也は、バスケの特待生として高校に入学したが、父親との喧嘩で右肩を負傷して選手生命を絶たれ、部活動を辞めた今は遅刻やサボりを繰り返す不良となっていた。
 
ある日、朋也は学園前の桜並木の坂道で同じ高校に通う女子生徒、古河渚と出会う。幼少時より病弱な渚は病気による長期欠席のため高校3年を再度繰り返し、クラスでは孤立していた。
 
渚は演劇部の復活を目指しており、朋也は成り行きから、友人の春原陽平や、藤林杏一ノ瀬ことみをはじめとしたヒロイン達と共にと演劇部の再建に協力することになる。
 
 

* セカイの残骸

 
夢に挫折し現実から逃げ回っていた主人公がヒロインの母性的な承認のもとで再び人生に向き合っていくという本作の構図は、ゼロ年代初頭に一世を風靡したセカイ系的想像力をある部分では色濃く引き継いでいます。
 
この点、セカイ系作品においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が自らの矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」と見做す構図があります。
 
この「自己反省」という名の「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことによって、セカイ系作品の読み手は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となります。
 
こうしたセカイ系的想像力を現代の目線から「幼稚な想像力」だと嘲笑するのは容易いでしょう。けれど90年代後半からゼロ年代初頭において就職氷河期は苛烈を極め、現在ではロスト・ジェネレーション世代と呼ばれる当時の若年層の多くが、それまでの社会的ロールモデルに則った自己実現の挫折を余儀なくされ、人生の路頭に迷った時期でもありました。
 
いわばあの時代状況は「父」になれない「無力な少年」を多数生みだしたわけです。こうした状況の中で、セカイ系が時代の急性期を乗り切る為の処方箋として機能した功績は決して軽視すべきではないでしょう。
 
 

* 「無力な少年」から「父」へ

 
もっとも、多くのセカイ系作品が「無力な少年」の位置に留まり「自己反省」する事に終始していたのに対して、本作の特徴は「無力な少年」が、その位置を脱して曲がりなりに「父」の位置を引き受ける所までを描き切った点にあると言えます。「CLANNADは人生」と言われる所以はおそらくこの点にあるのでしょう。
 
こうした想像力の源泉はおそらく村上春樹氏に由来すると思われます。Keyのメインシナリオライターを務める麻枝准氏は村上春樹作品の熱心な愛読者としても知られています。それゆえにKey作品には村上作品と共鳴する要素が多く見られます。
 
例えば本作でも物語の重要な鍵となる「幻想世界」は村上氏の代表作の一つである「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の影響を色濃く受けていると言われます。もっとも「世界の終わり」の倫理的作用点が前期村上作品を象徴する「デタッチメント」であったのに対して、CLANNADにおける倫理的作用点はむしろ、後期村上作品で打ち出された「コミットメント」にあると言えます。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
1995年前後に村上春樹氏がその創作における倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させたのはよく知られています。
 
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われます。こうした時代の転換点をその鋭敏な感性でいち早く捉えた作家が村上氏でした。こうして同時期に刊行された「ねじまき鳥クロニクル」は氏の言う「コミットメント」の意思に満ちた物語となりました。
 
この点、同作で村上氏が示した「コミットメント」とは構造的にはヒロインという「他者性なき他者」を媒介項とした主人公の「政治と文学」の擬似的な再接続でした。
 
同様にCLANNADにおいても、当初の朋也は、痛めた肩と堕落した父親を言い訳に傍観者気取りで現実から逃げ回る「デタッチメント」に終始してますが、渚の真摯さ、熱さ、純粋さに徐々に心を動かされ、自らも泥まみれになりながら人生へと向きあう「コミットメント」へと踏み出していくわけです。
 
この成長の過程は今観ても心を打たれます。「CLANNADは人生」という評価は決して大袈裟ではないと思います。
 
 

* 美少女ゲームに内在する限界性

 
けれども同時に、本作に対しては村上氏が提示したコミットメントに対する批判と同様な批判が当てはまってしまう所があります。いわば朋也は渚(あるいはその分身ともいえる汐)という「母」からの承認を踏み台にして「父」になるという自己実現を果たしているわけです。要するにここではコミットメントのコストをヒロインに転嫁する搾取的構造があるという事です。
 
こうした本作の限界性は美少女ゲームというジャンルの限界性でもあります。すなわち物語の主題がヒロインの「攻略」にある以上、性的描写があるにせよないにせよ、主人公が「無力な少年」にとどまるにせよ「父」の位置を引き受けるにせよ、そのコストは結局いずれにしてもヒロインに転嫁されてしまうという構造的な問題があるわけです。
 
 

* セカイから日常へ

 
しかしながら本作にはまた別の想像力が胚胎しています。本作は美少女ゲームである事から複数のヒロインが登場します。彼女たちは本来ならば主人公をめぐる競合関係に立つはずです。けれども本作のもう一つの特徴は主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にあります。
 
こうした想像力の中には、ゼロ年代後半以降に花開いた「日常系」の萌芽を見る事が出来ないでしょうか。
 
らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」など、ゼロ年代における日常系を代表する作品を見れば明らかな通り、日常系ヒロイン達はもはや男性主人公との性愛的関係性を軸に自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係性の中で自らのパーソナリティを記述し、生成変化させていくわけです。
 
セカイから日常へ。性愛から友愛へ。こうしたジャンル的想像力の変遷はある面で、ポストモダンにおける想像力の変遷とリンクしています。そこで問われているのは「大きな物語」が失墜した現代における「小さな物語」相互における関係性に他なりません。
 
こうして見ると本作は時代の大きな転換期において「セカイ系」という「母」から「日常系」という「娘」へと、その想像力のバトンを渡すという役割を、極めて正しく全うしたともいえるでしょう。
 
 
 
 
 

「世界の果て」と「世界の片隅」--「最終兵器彼女1〜7(高橋しん)」

 

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

 
最終兵器彼女(7) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(7) (ビッグコミックス)

 

 

 

* 「セカイ系」の原点にして頂点

 
1995年以降の日本社会においては、いわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われます。すなわち、現代とは宗教やイデオロギーといった「大きな物語」が失墜した時代という事です。この点、1995年以降の時代を批評家の東浩紀氏は「動物の時代」であると規定し、社会学者の大澤真幸氏は「不可能性の時代」であると規定しました。
 
こうした何が「正しい生き方」なのかわからなくなった時代における「他者」との関係性を当時、真正面から問いに付した作品があの「新世紀エヴァンゲリオン」です。そして、ここで提示されたのは「おめでとう(承認を与える他者)」「キモチワルイ(拒絶を貫く他者)」という「他者の両義性」でした。
 
すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないという事です。こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになります。
 
こうした「エヴァの命題」に対する最も分かりやすい回答が、エヴァTV版のような「承認を与える他者」をイノセントに希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき作品群が一世を風靡します。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
この「セカイ系」という言葉は新海誠氏の最新作「天気の子」の大ヒットによって再び注目を集める事になりました。本作「最終兵器彼女」は、こうしたセカイ系」の原点にして頂点に位置する作品として知られています。
 
 

* 最終兵器降臨

 
北海道の高校に通うシュウジとちせは、ほんのちょっとした偶然からカップルになってしまう。いつもおどおどしているちせについ、強い言葉を投げてしまうシュウジ。お互い付き合うといっても何をしていいのかわからず、無理にカップルらしいことをしようとしてぎくしゃくしてしまう。
 
こうして早々に別れ話が持ち上がる中で、シュウジとちせはお互い本音を吐露し、改めて彼氏彼女として「好きになっていこう」と歩み寄る。そんな初々しく、ぎこちない恋愛描写からこの小さな物語は始まります。
 
しかしその矢先、札幌に現れた謎の爆撃機の大編隊が都市部を無差別に空爆。10万人以上の死者、行方不明者が発生する。その最中でシュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やして「敵」と戦うちせと遭遇する。
 
果たしてちせの正体は自衛隊により改造された「最終兵器」であった。
 
 

* 繊細な心理描写と見えない敵 

 
本作の特徴は極めて繊細な心理描写にあり、時にページを埋め尽くすような濃密なモノローグが展開されます。その文体はラブコメというより少女漫画のそれに近いものがあります。そしてそこでは「生きていく」「恋していく」という人の営みの根源が繰り返し問われていきます。
 
しかし、その一方で本作の「戦争」の目的や「敵」の正体などについては一切説明がなく、また、ちせの最終兵器としての技術的メカニズムもほとんど不明なままです。要するに「世界観設定」の構築が完全に放棄されているのも本作の特徴です。
 
このように本作は両極端な作品構造を有しています。しかし、こうした構造こそがまさしく「セカイ系」というジャンルの特徴と言うべきものです。
 
 

* セカイと世界の直結関係

 
セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。
 
そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとし、これらの作品の特徴として「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べています。
 
このようにセカイ系とはもともとは(主に主人公の)自意識に焦点を当てた一人語りの激しい作品を指していました。ところが「セカイ系」という言葉が文芸批評分野へと越境するにつれ、セカイ系の定義は「エヴァっぽい」などというファジーなものから、作品構造を重視する次のような定義に変質していきます。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群」
 
要するにここでは「少年少女の恋愛関係(セカイ)」と「世界の果て(世界)」がイコールで結ばれています。ゆえにセカイ系作品群においては「組織」とか「敵」といった「世界観設定(社会)」が積極的に排除されることになります。
 
 

* セカイ系を超える「過剰さ」

 
激しい自意識語り、セカイと世界の直結、社会の排除。こうした点からだけ言えば、本作はセカイ系という概念に極めて忠実な作品と言えるでしょう。もっとも「セカイ系」という言葉が一般化したのは2002年以降であり、本作が連載されていたのはそれ以前の2000年から2001年の間であることから、本作はセカイ系を代表する作品というより、むしろセカイ系という概念を産み出した作品と呼ぶ方が正確なのかもしれません。
 
けれども同時に、本作は上記のような「洗練」されたセカイ系の概念では決して捉え切れない、ある種の「過剰さ」をも抱え込んでいると思うんです。
 
例えば本作の後半2人は故郷を離れて、海の見える街で暮らし始めます。そこでちせはラーメン屋、シュウジは漁協で大人達に混じって泥まみれになって働き、日々の生計を立てていく姿が仔細に描き出されます。それはセカイ系批判としてよく言われる「オタク的」とか「引きこもり的」といったイメージからは最も遠い姿です。
 
「戦争」という「非日常」が「日常」を侵食していき、徐々にちせが人格崩壊を起こしていく中で、2人は最後の最期のぎりぎりまで「日常」の側に留まり「非日常」に抗おうとしていた。そういった意味で、いわば本作は「戦争」という「非日常」を徹底して「生活」という「日常」の視点から捉えて描き出した作品であるともいえます。
 
少し考えれば解るように、もしも本当にこうした「戦争」が起きたとすれば、我々にとって最も切実な問題は「戦争の目的」とか「敵の正体」などではないはずです。そうだとすれば、本作で世界観設定があいまいなのはある意味では当然とも言えます。本作における「世界観設定」の排除は、よくあるセカイ系批判のように想像力の欠如などではなく、むしろ想像力を推し進めた結果であると言うべきでしょう。
 
 

* 「世界の果て」と「世界の片隅」

 
このように本作は後にセカイ系という概念で括られるような「世界の果て」へ超越するような想像力に依拠しつつも、その一方でいわば「世界の片隅」に留まる想像力をも胚胎させていたと言えます。
 
そして「サヴァイヴ系」や「日常系」といったセカイ系を乗り越える形で現れたゼロ年代的想像力の変遷とは、まさしくこうした「世界の果て」から「世界の片隅」への変遷に他なりません。
 
すなわち、本作はセカイ系という概念を創り出すと同時にこれを内破する契機をも既に胚胎させていたと言えます。連載開始時から20年が経過し「セカイ系」という言葉に再び光が当てられている今こそ、本作を「世界の果ての物語」ではなく「世界の片隅の物語」として読み直してみるのも良いのかもしれません。
 
 
 
 
 

「空気」の外側に立つということ--「原子力時代における哲学(國分功一郎)」

 

原子力時代における哲学

原子力時代における哲学

 

 

* 「Atoms for Peace

 
1950年代とはいうまでもなく「核兵器の恐怖」が世界を支配した時代でした。1949年にはアメリカに続き旧ソ連も原爆を保有したことが公にされ、これに対抗する為、トルーマン大統領は1950年には水素爆弾の開発を指令。米ソは熾烈な核兵器開発競争に突入します。
 
しかし1950年代は同時に「原子力の平和利用」が魅力的に語られた時代でもありました。1951年に旧ソ連がオブニンスク原子力発電所の建造を開始し、これに危機感を抱いたアメリカは従来の核兵器開発競争一辺倒の原子力政策を転換。1953年12月にアイゼンハウアー大統領が「Atoms for Peace」という有名な演説を行い、国連の下に国際的な原子力機関を創設することを提唱。アメリカは原子力によるバラ色の未来を語り、世界中に原子力を売り込んでまわります。こうして1956年にはイギリスで西側諸国最初の商業用原発であるコールダーホール原子力発電所の運転が開始されます。
 
一方、日本国内はどうかというと、サンフランシスコ平和条約発効後、国内では原子力研究を推進するかどうかで大きな議論がありました。そんな中で1954年1月、米国務省から日本政府に「原子力発電の経済性」なる秘密文書が送付され、3月には核燃料「ウラン235」をもじったとされる2億3500万円の原子力関連予算がいつの間にか計上されてしまいます(いわゆる中曽根予算)。
 
そして1955年には正力松太郎氏の働きかけでアメリカから「原子力平和利用使節団」が来日し、同時期の読売新聞では「ついに太陽をとらえた」という連載が開始される。そして全国各地では「原子力平和利用博覧会」が催され大盛況となります。
 
こうした時代的空気の中で「唯一の被爆国である日本こそが原子力の平和利用を推進するべきである」という、今となってはよくわからない論理の言説が支配的となります。
 
こうして1955年に正力氏を代表とする原子力平和利用懇談会が発足。コールダーホール原発が運転開始した1956年には最初の原子力開発利用長期計画が策定される。そして1957年には早くもアメリカ製実験用原子炉JRR1が茨城県東海村で運転を開始する。
 
その後、1960年代に入ると我が国において原子力はいよいよ実用化されていくことになります。1961年に改訂された原子力開発利用長期計画は原子力エネルギーを「わが国経済の躍進を可能とするための鍵」と宣明し、1966年に日本初の商業用原発である東海原子力発電所が運転を開始する。さらに言えば東京電力が米ゼネラル・エレクトロニック社と福島第一原発建設の契約を締結したのもこの年です。
 
 

* いち早く「原子力の平和利用」の欺瞞を見抜いたハイデガー

 
このように1950年代においてラディカルに推進された「原子力の平和利用」に対して世界の大半の知識人は賛成的態度を示しました。そういった中で、ほとんど唯一、いち早く「原子力の平和利用」の欺瞞を見抜いたのが、20世紀最大の哲学者と言われるマルティン・ハイデガーです。
 
本書は1955年に行われたハイデガーの講演「放下」の読解を通じて、原子力時代の哲学を構想する一冊です。この「放下」という講演は本来はコンラーディン・クロイツァーという作曲家の生誕175周年記念式典にて行われたものですが、ハイデガーは記念式典には冒頭でちょっと言及しただけで、後は空気を読まずに延々と原子力の話を始めます。曰く、現代という時代は「原子力時代」であり、その「最も著しい目印」は原子爆弾であると。そういいながらハイデガーは「しかし」と続け「この目印は単に事態の前景に存する目立った目印の一つにすぎない」という。そして次のように言います。
 
決定的な問いは今や次のような問いである。すなわち、我々は、この考えることができないほど大きな原子力を、いったいいかなる仕方で制御し、操縦できるのか、そしてまたいかなる仕方で、この途方も無いエネルギーが--戦争行為によらずとも--突如としてどこかある箇所で檻を破って脱出し、いわば「出奔」し、一切を壊滅に陥れるという危険から人類を守ることができるのか?
 
--講演「放下」より

 

 
ここでハイデガーがいう「戦争行為によらずとも」という言葉は極めて重い意味を持ちます。原子力という技術に強い疑念の眼差しが向けられている現代でこそ、こういう事はごく普通に言えるわけです。けれども猫も杓子もが「原子力の平和利用」に浮かれていた1950年代の空気感の中、こういう事をいい切ったハイデガーは相当に先見性と勇気があったと言わざるを得ないでしょう。
 
 

* 「空気」の外側に立つということ

 
そしてこの講演において、ハイデガーは未知の技術に対して「然り」と「否」を同時にいう「放下」という態度を強調します。そして、この「放下」という態度は「秘密=謎」に対する「開け」を齎らし、その先には「省察・思惟」の基盤となる「来るべき新しい土着性」があるということです。
 
すなわち、ハイデガーは「放下」という態度を持って原子力技術という「秘密=謎」の本質に遡り「省察・思惟」することで「原子力の平和利用」という時代の空気の外側に立つことができたわけです。
 
本書はこうしたハイデガーの思考過程に綿密な検証を加え「放下」という概念にハイデガー哲学の代名詞といえる「存在」と同等の重みを認めます。この委細についてはぜひ本書を手に取って読んでいただきたいところですが、重要なのはハイデガーが述べるように、原子力と同じくらい不気味なものとは「省察・思惟」を放棄した人間であるという事です。
 
少なくとも長期的視野で見れば「脱原発」の理念には正しい核心がある事に異論はあまり無いとは思います。しかしこれをいかなる道筋で達成するかについてはそれこそ百家争鳴の議論があるわけです。
 
ここで危ういのは「こう言っておけばとにかく正義の側に立てる」というような、特定のドグマに縋り付き、それ以降は「省察・思惟」を放棄する態度に他ならない。
 
こうした態度の先に待っているのは、かつて左右のイデオロギー闘争が陥ったように、実現不可能な理想を叫ぶ事にこそ尊い価値があるという「政治と文学」の断絶による虚しい自己完結でしかないでしょう。
 
原発に限らず今日、我々は日々、未知の発見、未知の技術、未知のエネルギーといった様々な「リスク」に直面します。あるリスクを低減させる為の選択が予期せぬ別のリスクを呼び起こす。こうした「リスク社会」を生きる上で必要な知的態度とは何かを本書は問うているんだと思います。
 
 
 

「現実」を見はるかす「虚構」の力--「『シン・ゴジラ』とはなにか(ユリイカ)」

 

 

 

* 「シン・ゴジラ」を読み解く

 
2016年に公開されるや否や、各界において大きな反響を呼び起こした映画シン・ゴジラ」。総監督・脚本には「新世紀エヴァンゲリオン 」で知られる庵野秀明氏。監督・特技監督には庵野氏の盟友にして「平成ガメラシリーズ」の功労者、樋口真嗣氏。宣伝コピーは「現実対虚構」。
 
本作はヒューマンドラマ的要素を徹底して排除し、その主題を「もしも現代日本に巨大不明生物が現れたらどうなるか」という一点に絞り切る大胆な構成を取り、極上のディザスタームービーないし理想的なプロジェクトXとして我々の生きる社会に巨大な問いを突きつけました。
 
「『シン・ゴジラ』とはなにか」--本書はこの「シン・ゴジラ」という作品に様々な角度から光を当てた論考集であり、繰り返し見る度に新しい発見があるこの作品を味わい尽くす上で良きガイドブックとなるでしょう。
 
 

* ゴジラ映画と原子力

 
ビキニ環礁水爆実験が行われた年に公開された「ゴジラ(1954)」はまさしく核兵器時代の恐怖を象徴する映画でした。ところがその後ゴジラ映画はシリーズ化され、5作目の「三大怪獣地球最大の決戦(1964)」辺りから、シリーズを重ねる毎にゴジラ「正義の味方」としての側面が強くなります。その背景には「原子力の平和利用」という今では欺瞞としか言いようのないキャッチコピーの下で「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」として原子力に未来を託す時代的空気が少なからずあったわけです。
 
そしてシリーズ15作目「メカゴジラの逆襲(1975)」以降、長期の中断を経て久々に制作された「ゴジラ1984)」においてゴジラは再び人類の敵として登場しました。同作公開に先立つ1979年にはスリーマイル島原発事故が起こり、当時は原子力が持つ「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」というイメージに対して疑問符が付き始めた時代でした。
 
このように歴代ゴジラ映画と原子力は切っても切り離せない関係にありました。そして「ゴジラFAINAL WARS(2004)」以来、12年ぶりの国産ゴジラ映画として制作された「シン・ゴジラ」の背景には2011年に発生した東日本大震災福島第一原発事故があることは明らかです。
 
中尾麻伊香氏の論考「ゴジラが想像/創造する共同体」では「科学技術立国」という日本人を長らく規定していたアイデンティティを回復する物語として本作を位置付けます。また、斎藤環氏の論考「外傷の器として・・」は日本人が原子力エネルギーに対する両義的な感情の裏には「原子力の享楽」があるといいます。「日本の原発だけは絶対安全」という謎の神話がどういうわけか長らく命脈を保ってきた背景にはこういった日本独特の精神構造が関係しているのではないのでしょうか。
 
 

* 流石の伊福部、凄みの鷺巣

 
本作の影の主役は伊福部昭氏と鷺巣詩郎氏による音楽といえます。この点、小林淳氏の論考「巨神と鎮魂」、円堂都司昭氏の論考「『シン・ゴジラ』の音楽」福田貴成氏の論考「修羅の音を聞く」が本作の音楽を詳細に考察しています。
 
本作はゴジラ音楽の生みの親である伊福部昭氏のオリジナル音源が多数使用されています。鷺巣氏によれば当初、新規収録した演奏を伊福部氏のオリジナル音源に重ねて自然な形でステレオ化した音源を使用する予定だったそうですが、最終的には庵野氏の判断でオリジナル音源が手を加えずそのまま使われることになった経緯があるそうです。
 
結果、現代的な音響設計の間隙を縫うように「ぬっ」と現れる伊福部氏のモノラル音源はゴジラの何とも言いようの無い「異物感」をより一層際立てることになります。
 
もっとも、伊福部音楽は「異物感」を与えると同時にある種の「安心感」を与えます。ゴジラファンであればあるほど、あの伊福部メロディを耳にした瞬間、どこかで「俺たちのゴジラが帰ってきた」と思ったはずです。
 
しかし、こうした「安心感」はゴジラ映画史上、最も凶悪かつ美しい熱線放射シーンによってズタズタに切り裂かれる事になります。自衛隊の総攻撃を退けて東京都駅付近へ到達したゴジラ第四形態は米国のB-2ステルス戦略爆撃機から投下された地中貫通型爆弾MOP-Ⅱの直撃によりついに覚醒を果たす。地面に向けて吐き出された火炎は徐々にビーム状に変化していき、闇夜を切り裂くように米軍機、閣僚を乗せた輸送ヘリ、そして都心ビル群を破壊し尽くしていく。
 
そこに君臨するのは「俺たちのゴジラ」ではないもはや言語化不能な「何か」です。こうした圧倒的な「何か」を前に我々観客はただ茫然とするしかない。ここで奏でられる鷺巣氏の荘厳極まりない声楽曲「Who will know」はまさしく「俺たちのゴジラ」の葬送曲に他ならないでしょう。
 
けれども本作のクライマックスである「ヤシオリ作戦」の幕開けを告げるのは再び伊福部氏の手による「宇宙大戦争マーチ」です。同作が公開された1959年というのは日本が高度経済成長に突入した時期です。ここのシーンには作中の台詞にあるように「この国はまだまだやれる」という希望が少しだけ込められているような気もするんですね。
 
 

* 「現実」を見はるかす「虚構」の力

 
また「シン・ゴジラ」が怪獣映画としては異例のレベルで女性からも高評価を得た要因として、市川実日子氏演じる尾頭ヒロミの存在が挙げられます。
 
石田美紀氏の論考「尾頭ヒロミというヒロイン」はこうした尾頭さんの持つ魅力に迫ります。高速でキーボードを叩きながら自説を独り言のように早口でまくしたてる変人ぶりと、ゴジラの上陸可能性や核分裂可能性をいち早く指摘する優れた分析能力を併せ持った尾頭さんは曲者揃いの「巨災対」の中でもひときわ強烈な印象を残します。
 
ある意味で、尾頭さんはこの作品に内在する想像力をもっとも具象化した存在とも言えます。すなわち徹頭徹尾、ゴジラを「敵」でも「災厄」でもなく「情報の束/データベース」として捉える拡張現実的想像力です。
 
本作の「現実対虚構」というキャッチコピーもそういった文脈に位置づけて読むことが出来るでしょう。本作は経済大国の威風はもはや過去のものとなり今やすっかり自信を失った日本の「現実」に映画という「虚構」の力で介入しようとした。そして我々の生きるこの日常にも、原発、テロ、貧困といった様々な形で「ゴジラ」は現れる。
 
こうした理不尽な「現実」と対峙する上で必要なのは、この世界と時代の光彩を「情報の束/データベース」として見はるかし、そして読み替えていく「虚構」の力なのではないでしょうか。