かぐらかのん

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「世界の果て」と「世界の片隅」--「最終兵器彼女1〜7(高橋しん)」

 

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

 
最終兵器彼女(7) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(7) (ビッグコミックス)

 

 

 

* 「セカイ系」の原点にして頂点

 
1995年以降の日本社会においては、いわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われます。すなわち、現代とは宗教やイデオロギーといった「大きな物語」が失墜した時代という事です。この点、1995年以降の時代を批評家の東浩紀氏は「動物の時代」であると規定し、社会学者の大澤真幸氏は「不可能性の時代」であると規定しました。
 
こうした何が「正しい生き方」なのかわからなくなった時代における「他者」との関係性を当時、真正面から問いに付した作品があの「新世紀エヴァンゲリオン」です。そして、ここで提示されたのは「おめでとう(承認を与える他者)」「キモチワルイ(拒絶を貫く他者)」という「他者の両義性」でした。
 
すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないという事です。こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになります。
 
こうした「エヴァの命題」に対する最も分かりやすい回答が、エヴァTV版のような「承認を与える他者」をイノセントに希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき作品群が一世を風靡します。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
この「セカイ系」という言葉は新海誠氏の最新作「天気の子」の大ヒットによって再び注目を集める事になりました。本作「最終兵器彼女」は、こうしたセカイ系」の原点にして頂点に位置する作品として知られています。
 
 

* 最終兵器降臨

 
北海道の高校に通うシュウジとちせは、ほんのちょっとした偶然からカップルになってしまう。いつもおどおどしているちせについ、強い言葉を投げてしまうシュウジ。お互い付き合うといっても何をしていいのかわからず、無理にカップルらしいことをしようとしてぎくしゃくしてしまう。
 
こうして早々に別れ話が持ち上がる中で、シュウジとちせはお互い本音を吐露し、改めて彼氏彼女として「好きになっていこう」と歩み寄る。そんな初々しく、ぎこちない恋愛描写からこの小さな物語は始まります。
 
しかしその矢先、札幌に現れた謎の爆撃機の大編隊が都市部を無差別に空爆。10万人以上の死者、行方不明者が発生する。その最中でシュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やして「敵」と戦うちせと遭遇する。
 
果たしてちせの正体は自衛隊により改造された「最終兵器」であった。
 
 

* 繊細な心理描写と見えない敵 

 
本作の特徴は極めて繊細な心理描写にあり、時にページを埋め尽くすような濃密なモノローグが展開されます。その文体はラブコメというより少女漫画のそれに近いものがあります。そしてそこでは「生きていく」「恋していく」という人の営みの根源が繰り返し問われていきます。
 
しかし、その一方で本作の「戦争」の目的や「敵」の正体などについては一切説明がなく、また、ちせの最終兵器としての技術的メカニズムもほとんど不明なままです。要するに「世界観設定」の構築が完全に放棄されているのも本作の特徴です。
 
このように本作は両極端な作品構造を有しています。しかし、こうした構造こそがまさしく「セカイ系」というジャンルの特徴と言うべきものです。
 
 

* セカイと世界の直結関係

 
セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。
 
そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとし、これらの作品の特徴として「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べています。
 
このようにセカイ系とはもともとは(主に主人公の)自意識に焦点を当てた一人語りの激しい作品を指していました。ところが「セカイ系」という言葉が文芸批評分野へと越境するにつれ、セカイ系の定義は「エヴァっぽい」などというファジーなものから、作品構造を重視する次のような定義に変質していきます。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群」
 
要するにここでは「少年少女の恋愛関係(セカイ)」と「世界の果て(世界)」がイコールで結ばれています。ゆえにセカイ系作品群においては「組織」とか「敵」といった「世界観設定(社会)」が積極的に排除されることになります。
 
 

* セカイ系を超える「過剰さ」

 
激しい自意識語り、セカイと世界の直結、社会の排除。こうした点からだけ言えば、本作はセカイ系という概念に極めて忠実な作品と言えるでしょう。もっとも「セカイ系」という言葉が一般化したのは2002年以降であり、本作が連載されていたのはそれ以前の2000年から2001年の間であることから、本作はセカイ系を代表する作品というより、むしろセカイ系という概念を産み出した作品と呼ぶ方が正確なのかもしれません。
 
けれども同時に、本作は上記のような「洗練」されたセカイ系の概念では決して捉え切れない、ある種の「過剰さ」をも抱え込んでいると思うんです。
 
例えば本作の後半2人は故郷を離れて、海の見える街で暮らし始めます。そこでちせはラーメン屋、シュウジは漁協で大人達に混じって泥まみれになって働き、日々の生計を立てていく姿が仔細に描き出されます。それはセカイ系批判としてよく言われる「オタク的」とか「引きこもり的」といったイメージからは最も遠い姿です。
 
「戦争」という「非日常」が「日常」を侵食していき、徐々にちせが人格崩壊を起こしていく中で、2人は最後の最期のぎりぎりまで「日常」の側に留まり「非日常」に抗おうとしていた。そういった意味で、いわば本作は「戦争」という「非日常」を徹底して「生活」という「日常」の視点から捉えて描き出した作品であるともいえます。
 
少し考えれば解るように、もしも本当にこうした「戦争」が起きたとすれば、我々にとって最も切実な問題は「戦争の目的」とか「敵の正体」などではないはずです。そうだとすれば、本作で世界観設定があいまいなのはある意味では当然とも言えます。本作における「世界観設定」の排除は、よくあるセカイ系批判のように想像力の欠如などではなく、むしろ想像力を推し進めた結果であると言うべきでしょう。
 
 

* 「世界の果て」と「世界の片隅」

 
このように本作は後にセカイ系という概念で括られるような「世界の果て」へ超越するような想像力に依拠しつつも、その一方でいわば「世界の片隅」に留まる想像力をも胚胎させていたと言えます。
 
そして「サヴァイヴ系」や「日常系」といったセカイ系を乗り越える形で現れたゼロ年代的想像力の変遷とは、まさしくこうした「世界の果て」から「世界の片隅」への変遷に他なりません。
 
すなわち、本作はセカイ系という概念を創り出すと同時にこれを内破する契機をも既に胚胎させていたと言えます。連載開始時から20年が経過し「セカイ系」という言葉に再び光が当てられている今こそ、本作を「世界の果ての物語」ではなく「世界の片隅の物語」として読み直してみるのも良いのかもしれません。