かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「思考する快楽」としての勉強--「勉強の哲学(千葉雅也)」

* 「勉強」と「生活」は表裏の関係

 
我々は社会生活を送る上で多かれ少なかれ「勉強」をしています。入学試験や資格試験など、わかりやすい「勉強」の他にも、新しい仕事の手順を覚えたり、新しい料理の作り方を覚えたり、新しいスマホの操作を覚えたり、こんな風に何気なく日々「勉強」してるわけです。
 
いわば「勉強」するというのは「生活」と表裏の関係とさえ言えます。そういう意味で本書が示すのは、狭い意味での「勉強」に止まらない、生活全般に応用可能な実践哲学でもあります。
 
 

* 言語との出会い直し

 
本書は勉強の本質とは「自己破壊」であるといいます。これは畢竟「環境のコード」との癒着を引き剥がすという事です。我々は日々「学校」「会社」「家庭」など、ある一定の他者関係の中で生きているわけです。こうした「環境のコード」への習慣的ないし中毒的な依存を本書では「ノリ」と呼びます。
 
そしていわゆる一般的にいう「勉強」とはある「ノリ」から別の「ノリ」へ引っ越す事という事を意味しています。ところが本書の提唱する「深い勉強=ラディカル・ラーニング」は、この「ノリ」と「ノリ」の「間」に注目します。
 
そこには「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての言語がある。そして本書はこの「ただの音」としての言語は様々な意味を生み出す可能性を秘めている「器官なき言語」であると言う。
 
人は通常「環境のコード」の中で言語を道具的(目的的)に使用しているわけです。しかし言語を環境から一旦切り離す事で言語を玩具的(自己目的的)に使用できるようになる。
 
すなわち「深い勉強=ラディカル・ラーニング」とはまず「言語偏重の人」になることであるということです。これはいわば言語との出会い直しと言えます。特定の環境に依存しない「器官なき言語」を経由する事で自由な発想や可能性が開けるということです。
 
では「勉強」という過程の中で「深い勉強=ラディカル・ラーニング」はどのように実践する事ができるのでしょうか。この点、本書が挙げるのは「アイロニー」と「ユーモア」という技法です。
 
 

* 「環境のコード」にアイロニーを入れる

 
アイロニー」とは、いわゆる「ツッコミ」のことです。日常の場面で生起する様々な「こういうもんだ」という「環境のコード」にツッコミを入れて、それをなるべく大きく抽象的なキーワードとして括り出して行く。そこから勉強すべき「直接分野」と「間接分野」が見えてきます。
 
例えば、あなたがいま勤めている会社の待遇に不満があったとするでしょう。こうした「環境」に「なぜ不満なのか」という「アイロニー」を入れた結果「キャリアデザイン」というキーワードを括り出したとします。
 
そして、この「キャリアデザイン」というキーワードから、例えば「行政書士」とか「社会保険労務士」といった資格試験に行き当たったとします。そうするとこの資格試験の勉強が、差し当たり勉強すべき「直接分野」という事になるでしょう。
 
そしてこれらの試験勉強をやっていくうちに、例えば試験科目を構成する憲法」「行政法」「労働法」「社会保障法」などの法律分野に関心を抱いたとすれば、これが「間接分野」という事になります。
 
 

* アイロニーのやりすぎによる「決断主義

 
けれども、ここで注意すべきなのはアイロニーをやり過ぎないという事です。アイロニーにより人はひとまず今の「環境」の外部へ脱出することができる。けれども「環境」の外部にはただ、「別の環境」があるだけです。「ある環境」から「別の環境」へ。そしてまた「別の環境」へ。こうして原理的にアイロニーは際限なく続きます。
 
先の例で言えば、試験勉強を続けているうち「そもそも、なぜ人はキャリアデザインを強いられるのか」という更なるアイロニーが生じたとする。そこから「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」といったキーワードに行き当たるかもしれません。
 
もちろん、こういうある程度までアイロニーを深める事自体は別段、悪い事ではありません。危ういのはこうした際限なく続くアイロニーの過程で特定の価値観を「絶対の真理」として決断的に囲い込んでしまうことです。こうした「アイロニーの有限化」を「決断主義」と言います。
 
先の例で言えば、今の自分の不遇や生きづらさの原因を「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」に求め、そこから「私は悪くない」「私こそ犠牲者だ」という物語に取り憑かれ、何かしらのイデオロギーに「絶対の真理」を見出してしまうようなケースです。
 
もちろん、これは一つの精神安定の処方箋としてはあり得るかもしれません。けれどこれは何処までも「信仰」であって、決して「勉強」ではありません。
 
そこで本書はこうした弊害に陥らないため、アイロニーを突き詰める事を一旦やめて、ユーモアに転じてみる事を勧めます。
 
 

* アイロニーからユーモアへの折り返し

 
「ユーモア」とは、いわゆる「ボケ」のことです。ある環境のコードの中であえてボケてみることで、コードはその同一性を保ったまま変換され、そこにはまた別の可能性が開かれます。
 
先の例で言えば、アイロニーの結果行き当たった「格差社会」「グローバル経済」「ポストモダン」というキーワードが前景化したゼロ年代初頭における漫画、アニメ、ゲームなどのサブカルチャー文化圏に目を転じたとします。
 
当時のオタク層の中で一世を風靡していたのは「新世紀エヴァンゲリオン」の想像力を色濃く受け継いだ「セカイ系」と呼ばれる作品群でした。そして現在、新海誠監督の「君の名は。」「天気の子」の大ヒットで「セカイ系」という言葉が再び注目されています。
 
ここから世の中の構造変化とサブカルチャー文化圏のトレンドの変遷はいかなる関係があるのだろうかという問いを立てる事もできるでしょう。
 
ここから「日々の生活」「資格試験」「サブカルチャー」という複数の環境を比較しつつ往還するような思考が生まれてくるわけです。本書はこうした思考スタイルを「アイロニーからユーモアへの折り返し」といいます。
 
 

* 「享楽的こだわり」による「中断」

 
もちろんユーモアもやりだせばキリがありません。本書のいう「ユーモアの接続過剰」です。そこで複数の環境の往還はどこかで一時的に止めなければならない。
 
こうした「ユーモアによる有限化」を本書は「中断」といいます。「決断」ではなく「中断」ということです。「絶対の真理」とかではなく「ひとまずこれでよい」という極めて非意味的、感覚的なところで自分の足場を「仮固定」する。
 
こうした「ひとまずこれでよい」という非意味的、感覚的なものを本書は「享楽的こだわり」と呼びます。では、なぜ自分はそこで「ひとまずこれでよい」と思ったのでしょうか?こうして今度はこの「享楽的こだわり」に対してアイロニーを差し向けるわけです。本書はそのための自己分析の技法として「欲望年表(享楽年表)」の作成を勧めています。
 
 

* そして「来るべきバカ」へ

 
アイロニーからユーモアへの折り返し。享楽による非意味的切断。そして今度は享楽にアイロニーをかける。こうした「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とした「勉強の三角形」というべきサイクルを経由することで、人は「来るべきバカ」--環境に振り回されるだけの「ただのバカ」ではなく、環境と距離を置きつつも上手くやる柔軟な思考を身につけた存在--へと変身するわけです。
 
「来るべきバカ」とはハイデガーの言う「来るべき新たな土着性」を想起するタームですが、本書が示す「言語」から「享楽」へ旋回する「勉強」の過程は極めて洗練された精神分析実践とも言えます。
 
 

* 「思考する快楽」としての勉強

 
本書の後半は、上述したような前半の基礎理論を踏まえて、具体的に勉強を「有限化」する技術について詳細に述べられています。
 
ここで述べられている諸々は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。それでも一度はこうした「まっとうな勉強」をやってみる事をお勧めしたい。アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーは「ニーバーの祈り」として知られる次のような言葉を残しています。
 
「変えることのできるものを変える勇気、変えることのできないものを受け入れる冷静さ、そして両者を識別する知恵を、われらに与えたまえ」
 
本書のいう「勉強」はまさしくこの「知恵」を手に入れるための営みと言えるでしょう。「事務処理」として勉強ではなく「思考する快楽」としての勉強は世界の見え方を確実に変えるはずです。