かぐらかのん

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日常から世界を問い直すということ--「遅いインターネット(宇野常寛)」

 

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 

* 走りながら考える本

 
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ない。この点に関してゼロ年代初頭の時点でもっとも洗練された議論を提示したのが東浩紀氏の「動物化するポストモダン(2001)」でした。
 
そしてこの東氏の議論を決定的に更新したのが宇野常寛氏のデビュー作「ゼロ年代の想像力(2008)」です。
 
同書は、地下鉄サリン事件、9.11米国同時多発テロ、小泉構造改革といった90年代中盤からゼロ年代中盤までの社会情勢分析と、映画、テレビドラマ、アニメーションといったサブカルチャー分析を縦横無尽にリンクさせ、ゼロ年代における想像力のパラダイムシフトを明示しました。
 
同書の革新性はポストモダンにおける物語回帰の論点を再設定した点にありました。すなわち、問題の本質はどのような「小さな物語」にいかなる形で回帰するかではなく、様々な「小さな物語」同士がいかに関係していくかという事です。
 
そして「ゼロ想」の中に胚胎していた「日常に内在するロマンの再発見」というべきアイデアは、その後、村上春樹と平成仮面ライダーシリーズを比較考察する「リトル・ピープルの時代(2011)」において「拡張現実」という社会学的概念へと練成されます。
 
さらに、宮崎駿富野由悠季押井守という戦後アニメーションの巨匠を論じた大著「母性のディストピア(2017)」においては「拡張現実」の視点から吉本隆明氏の「共同幻想論」を再構成する試みが展開されます。
 
こうした宇野氏のサブカルチャー批評の成果を社会批評へと展開させたのが本書になります。氏は本書を「走りながら考える本」だと言います。確かにその議論は単純明解ではないですし、その結論も腑に落ちない所があるかもしれません。けれども、ともかくも本書と格闘してみる読書経験それ自体が表題の「遅いインターネット」のなんたるかを理解するための第1歩となるでしょう。
 
 

* 「境界のない世界」と「境界のある世界」

 
本書はグローバル化と情報化の極まった今日の世界において人々は、新しい「境界のない世界」に適応した「Anywhere」な人々と、古い「境界のある世界」を志向する「Somewhere」な人々に分断されていると指摘します。
 
そして本書は両者を本質的に分かつのは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」であるという。
 
「Anywhere」な人々の典型は「カルフォルニアン・イデオロギー」を起源に持つシリコンバレーの起業家をはじめとした情報産業のプレイヤーたちです。これに対して「Somewhere」な人々の典型は「境界のない世界」の拡大によって既得権益を失いつつある(日本を含む)旧西側諸国の労働者階級です。
 
「Anywhere」な人々はグローバルな市場に情報技術を用いたイノベーティブな商品やサービスを投入することで、世界中の社会を、人々の生活を一瞬で変革できる可能性を信じる事が出来る。すなわち、彼らは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を持っているわけです。
 
一方で、「Somewhere」な人々はその多くが「組織の歯車」でしかなく、日常の中でこうした感覚を持つことは難しいでしょう。それどころかグローバル化と情報化の進展の中、これまで積み上げてきたスキルが秒速でゴミになるという不安にも晒されているわけです。
 
こうして「境界のない世界」で疎外された「Somewhere」な人々は「境界のある世界」を希求する事になります。そして、自らに都合の良いフェイクニュースを掻き集め、フィルターバブルの中に閉じ籠り「世界に素手で触れているという感覚」を回復しようとする。
 
それは愚かな現実逃避でしかないと「Anywhere」な人々はきっと言うのでしょう。けれども、こうした彼らの「意識の高い語り口」はますます「Somewhere」な人々のカンに触るだけでしかないわけです。
 
こうした「Somewhere」な人々の受け皿となるのが「民主主義」というシステムです。このようなフェイクニュースとフィルターバブルに汚染された民主主義の機能不全が、2016年に米国で「トランプ/プレグジット」という現象を生み出したと本書は分析します。
 
 

* 平成という「失敗したプロジェクト」

 
では日本はどうかというと、本書はこの国は世界的な「グローバル化→その反作用」というターンそれ自体に乗り遅れているというかなり辛辣な評価を下し、平成という時代を「失敗したプロジェクト」であると断じ去ります。
 
すなわち、平成という「失われた30年」とは、政治的には政権交代可能な二大政党制の実現に失敗した時代であり、経済的には20世紀的工業社会から21世紀的情報社会への転換に失敗した時代であるという事です。
 
そしてこうした失敗の原因を本書はテレビ/インターネット・ポピュリズムによる民主主義の機能不全にあると分析します。ここでいうホピュリズムとは、週替わりで失敗した人間に安全圏から石を投げつけるワイドショー的ポピュリズムと、特定のイデオロギーから世界を単純に友敵に切り分けるカルト的ポピュリズムです。
 
 

* 民主主義の機能不全をいかに是正していくか?

 
こうして本書の立場からは「トランプ/プレグジット」に代表される世界的なグローバル化へのアレルギー反応の噴出も、平成という時代が「失敗したプロジェクト」に終わったのも、ともにその根底には情報社会下における民主主義の機能不全があるということになります。
 
ウィンストン・チャーチルがアイロニカルに述べるように、もとより民主主義は軍国主義や独裁主義など様々な政治体制と比較して、よりマシな制度であることは間違いないでしょう。けれど、今日において民主主義という名の宗教は世界を分断し、自由と平等を圧殺する装置と化している事もまた事実です。
 
本書は「境界のない世界」の拡大は不可避であるという前提に立ちます。そして、その変容過程において、フェクニュースとフィルターバブルの中で「境界のある世界」を夢想する民主主義の機能不全をいかに是正していくか?これが本書の問いということになります。
 
 

* 三つの処方箋

 
情報社会における民主主義の機能不全をいかに乗り越えるか。この点、本書は三つの処方箋を提示します。
 
第一の処方箋は民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾けるということです。具体的には現在の違憲審査制を付随的審査制から抽象的審査制に近づけて、基本的人権をはじめとする立憲主義を擁護する体制を強化するということです。
 
第二の処方箋は情報テクノロジーを用いて新しい政治参加の回路を構築することです。それも個人が「(意識の低すぎる)大衆」でも「(意識の高すぎる)市民」でもない「(ありのままの)人間」として、選挙やデモという「非日常」ではなく生活という「日常」の中で、政治に参加する事が可能となる回路です。その例として本書は台湾の「vTaiwan」や「Join」などインターネットを介して市民が公的ルールの設定に参画するクラウドローというサービス群を挙げています。
 
そして第三の処方箋。これが本書独自の提案である「遅いインターネット」です。
 
 

* インターネットの育て直し

 
「遅いインターネット」とはなんでしょうか?物理的に接続速度の遅いインターネットの開発とかそういう話ではもちろんありません。詳細は本書を読んでいただきたいところですが、端的に言えば、私はこれは「インターネットの育て直し」だと理解しました。
 
インターネット以前の人の知的活動の基本、すなわち「読む」「書く」という根源的なレベルまで立ち戻り、ここからインターネットという言論空間を「量」から「質」へと転換させていく--これは一見、ひどく迂遠ですが、極めて真っ当な取り組みだと思います。
 
当然のことながらその提案の委細に関しては様々な議論の余地もあるでしょう。けれど少なくともこの提案を支える論理は極めて堅牢に出来ているという点はここで指摘しておきたい所です。
 
 

* 日常×自分の物語

 
この点、本書では「文化の四象限」という枠組みで議論を整理しています。
 

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まず、本書は現代を「拡張現実の時代」であると規定します。情報テクノロジーの進化は「虚構と現実」の関係を対立関係から統合関係に変容させました。かつて虚構は「ここではない、どこか」を仮構する回路を担っていましたが、いまや虚構は「いま、ここ」を多重化する回路として機能しているということです。
 
こうした「拡張現実の時代」においては、人の欲望の重心は「他人の物語」への没入から「自分の物語」の発信へと移動します。次なる問題は「自分の物語」をどの領域で発信するかということです。
 
ここで本書は「日常」の領域に注目します。いまアプローチすべき領域は上図における第三象限の「日常×自分の物語」であるといいます。
 
これは端的にいえば、別に仕事でもないのにフェイクニュース拡散に熱心に従事する「Somewhere」な人々の多くは「生活」という「日常」の領域が満たされていないが為に「政治」という「非日常」の領域で仮初めの承認欲求を満たそうしているわけです。
 
要するに問題の本質は語れるだけの「日常」が無いという事です。従っていま必要なのは「非日常」ではなく「日常」の領域において「世界に素手で触れているという感覚」を成立させるという事になります。
 
ここで本書は吉本隆明氏の共同幻想論を参照枠として、今や問題は「(零落した)共同幻想」からの自立ではなく「(肥大化する)自己幻想」のマネジメントであるとして、いま必要なのは「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」ことにあると言います。
 
これはかつて「ゼロ想」で示された「小さな物語同士の関係性」という問いに対する洗練されたアンサーとも言えるでしょう。そして、こうした試行錯誤を環境的に支援する装置が本書の提示する「遅いインターネット」に他ならないということです。
 
 

* 「批評」という快楽

 
本書の直接的なテーマは情報化社会における民主主義の再設計というべきものですが、その一方で現代的な「生きづらさ」に対する処方箋としても読めるでしょう。
 
「日常」の領域において「世界に素手で触れているという感覚」を成立させるという事。これはお前も起業しろとかリア充になれとか、そういうひどくありふれた言説とは勿論、一線を画すものです。
 
この点「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」という営みに本書は「批評」という言葉を当てます。
 
昨今のSNS界隈で主流なのは「共感」を軸とした発信です。もちろん共感というのは私的コミュニケーションにおいてはとても大事な事です。けれども、インターネットという公的空間に投げ放つ言葉が「共感」か「反感」かの二者択一しかないというのは、あまりにも貧困な人生ではないでしょうか。
 
これに対して「批評」とはこうした「共感」の外側に立つ態度です。既存の答えを追認するだけの行為を「共感」というのであれば、新たな問いを創造する行為が「批評」です。すなわち「批評」とは「思考する快楽」「価値転倒の快楽」「世界を再構成する快楽」とも言えるでしょう。
 
こうした意味で本書のいう「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」という営みには、千葉雅也氏が「勉強の哲学」で提唱する「来るべきバカ」という概念に近いものを感じます。氏は「深い勉強」とは「場の空気」などといった「環境のコード」の呪縛から自由になる「来るべきバカ」へと変身するための営みであるといいます。そうであれば「遅いインターネット」とは「深い勉強」をする為の支援装置であるという捉え方もできるでしょう。
 
言葉というのは思いのほか大事です。フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの有名なテーゼに「無意識は言語によって構造化されている」というものがあります。普段使う言葉は無意識という器を経由してその人の心身を知らず知らず規定します。
 
世界を敵か味方かに切り分けるだけの言葉を振りかざすのか。それとも世界を創造的に問い直す言葉を産み出すのか。日々どちらの言葉を積み重ねるかによって、世界の見え方、人生の幸福感はだいぶ違うものになってくるのではないでしょうか。