かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

セカイから日常へ--CLANNAD

 

 

 

* 美少女ゲームの新境地

 
1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていました。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が訪れます。ゲームブランドエルフから発売された「同級生(1992)」辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された「雫(1996)」以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じました。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていきます。
 
こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていきます。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された「ONE〜輝く季節へ〜(1998)」です。
 
そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得しました。そして「Kanon」に続いてKeyから発売された「AIR(2000)」は「美少女ゲームの臨界点」と呼ばれ、ゼロ年代サブカルチャー文化圏を代表する普遍的名作の一つに位置付けられています。
 
本作の原作ゲームはこうした「Kanon」「AIR」に続くKeyの3作目として、2004年に全年齢対象版として発売されました。すなわち、本作はかつてアダルトゲームの「売り」であったはずの性的描写を完全に排除した形で世に問われたということです。そして結果として本作は前2作に劣らない高い評価を獲得し「CLANNADは人生」という名言も生み出します。こうして本作は美少女ゲームの新境地を切り開きました。
 
 

* あらすじ

 
主人公の岡崎朋也は、バスケの特待生として高校に入学したが、父親との喧嘩で右肩を負傷して選手生命を絶たれ、部活動を辞めた今は遅刻やサボりを繰り返す不良となっていた。
 
ある日、朋也は学園前の桜並木の坂道で同じ高校に通う女子生徒、古河渚と出会う。幼少時より病弱な渚は病気による長期欠席のため高校3年を再度繰り返し、クラスでは孤立していた。
 
渚は演劇部の復活を目指しており、朋也は成り行きから、友人の春原陽平や、藤林杏一ノ瀬ことみをはじめとしたヒロイン達と共にと演劇部の再建に協力することになる。
 
 

* セカイの残骸

 
夢に挫折し現実から逃げ回っていた主人公がヒロインの母性的な承認のもとで再び人生に向き合っていくという本作の構図は、ゼロ年代初頭に一世を風靡したセカイ系的想像力をある部分では色濃く引き継いでいます。
 
この点、セカイ系作品においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が自らの矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」と見做す構図があります。
 
この「自己反省」という名の「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことによって、セカイ系作品の読み手は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となります。
 
こうしたセカイ系的想像力を現代の目線から「幼稚な想像力」だと嘲笑するのは容易いでしょう。けれど90年代後半からゼロ年代初頭において就職氷河期は苛烈を極め、現在ではロスト・ジェネレーション世代と呼ばれる当時の若年層の多くが、それまでの社会的ロールモデルに則った自己実現の挫折を余儀なくされ、人生の路頭に迷った時期でもありました。
 
いわばあの時代状況は「父」になれない「無力な少年」を多数生みだしたわけです。こうした状況の中で、セカイ系が時代の急性期を乗り切る為の処方箋として機能した功績は決して軽視すべきではないでしょう。
 
 

* 「無力な少年」から「父」へ

 
もっとも、多くのセカイ系作品が「無力な少年」の位置に留まり「自己反省」する事に終始していたのに対して、本作の特徴は「無力な少年」が、その位置を脱して曲がりなりに「父」の位置を引き受ける所までを描き切った点にあると言えます。「CLANNADは人生」と言われる所以はおそらくこの点にあるのでしょう。
 
こうした想像力の源泉はおそらく村上春樹氏に由来すると思われます。Keyのメインシナリオライターを務める麻枝准氏は村上春樹作品の熱心な愛読者としても知られています。それゆえにKey作品には村上作品と共鳴する要素が多く見られます。
 
例えば本作でも物語の重要な鍵となる「幻想世界」は村上氏の代表作の一つである「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の影響を色濃く受けていると言われます。もっとも「世界の終わり」の倫理的作用点が前期村上作品を象徴する「デタッチメント」であったのに対して、CLANNADにおける倫理的作用点はむしろ、後期村上作品で打ち出された「コミットメント」にあると言えます。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
1995年前後に村上春樹氏がその創作における倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させたのはよく知られています。
 
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われます。こうした時代の転換点をその鋭敏な感性でいち早く捉えた作家が村上氏でした。こうして同時期に刊行された「ねじまき鳥クロニクル」は氏の言う「コミットメント」の意思に満ちた物語となりました。
 
この点、同作で村上氏が示した「コミットメント」とは構造的にはヒロインという「他者性なき他者」を媒介項とした主人公の「政治と文学」の擬似的な再接続でした。
 
同様にCLANNADにおいても、当初の朋也は、痛めた肩と堕落した父親を言い訳に傍観者気取りで現実から逃げ回る「デタッチメント」に終始してますが、渚の真摯さ、熱さ、純粋さに徐々に心を動かされ、自らも泥まみれになりながら人生へと向きあう「コミットメント」へと踏み出していくわけです。
 
この成長の過程は今観ても心を打たれます。「CLANNADは人生」という評価は決して大袈裟ではないと思います。
 
 

* 美少女ゲームに内在する限界性

 
けれども同時に、本作に対しては村上氏が提示したコミットメントに対する批判と同様な批判が当てはまってしまう所があります。いわば朋也は渚(あるいはその分身ともいえる汐)という「母」からの承認を踏み台にして「父」になるという自己実現を果たしているわけです。要するにここではコミットメントのコストをヒロインに転嫁する搾取的構造があるという事です。
 
こうした本作の限界性は美少女ゲームというジャンルの限界性でもあります。すなわち物語の主題がヒロインの「攻略」にある以上、性的描写があるにせよないにせよ、主人公が「無力な少年」にとどまるにせよ「父」の位置を引き受けるにせよ、そのコストは結局いずれにしてもヒロインに転嫁されてしまうという構造的な問題があるわけです。
 
 

* セカイから日常へ

 
しかしながら本作にはまた別の想像力が胚胎しています。本作は美少女ゲームである事から複数のヒロインが登場します。彼女たちは本来ならば主人公をめぐる競合関係に立つはずです。けれども本作のもう一つの特徴は主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にあります。
 
こうした想像力の中には、ゼロ年代後半以降に花開いた「日常系」の萌芽を見る事が出来ないでしょうか。
 
らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」など、ゼロ年代における日常系を代表する作品を見れば明らかな通り、日常系ヒロイン達はもはや男性主人公との性愛的関係性を軸に自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係性の中で自らのパーソナリティを記述し、生成変化させていくわけです。
 
セカイから日常へ。性愛から友愛へ。こうしたジャンル的想像力の変遷はある面で、ポストモダンにおける想像力の変遷とリンクしています。そこで問われているのは「大きな物語」が失墜した現代における「小さな物語」相互における関係性に他なりません。
 
こうして見ると本作は時代の大きな転換期において「セカイ系」という「母」から「日常系」という「娘」へと、その想像力のバトンを渡すという役割を、極めて正しく全うしたともいえるでしょう。