かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「解放区」「居場所」としての「百合」--「ゆるゆり1〜17(なもり)」

 

ゆるゆり: 1 (百合姫コミックス)

ゆるゆり: 1 (百合姫コミックス)

 

 

* 少女小説からコミック百合姫

 

「百合」の起源は大正期の「少女小説」に遡ります。近代教育システムの確立による「少女期」の出現、明治30年代における少女雑誌の創刊などを背景に誕生した少女小説は従来の家父長的な「家の娘」という呪縛から少女を解放し近代的自意識の発露へと導く役割を果たしました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性として少女同士の友愛や関係性を魅力的に描き出している点が挙げられます。「花物語」は、ミッションスクールを舞台とした女学生同士の「エス」と呼ばれる関係性を描き出した作品であり、ここに百合の原的な世界観が胚胎します。このモチーフは少女小説復権を掲げて80年代にコバルト文庫黄金期を築き上げた氷室冴子作品を経て、現代サブカルチャー文化圏の中に「百合」というジャンルを認知させた今野緒雪氏の「マリア様がみてる」にも引き継がれています。
 
ゼロ年代以降における百合文化を語る上で欠かせないのが「コミック百合姫」の存在です。その前身である「百合姉妹」が2003年、マガジン・マガジンから業界初の百合専門誌として創刊され、翌年には早速休刊の憂き目に遭うも編集長の中村成太郎氏の尽力により2005年には一迅社から実質的な後継誌である「コミック百合姫」が創刊される。当初は季刊誌からスタートし、2010年には隔月刊発行、2016年には月刊発行へと順調に規模を拡大させていきます。そしてこの「百合姫」から初のアニメ化を成し遂げたのが「ゆるゆり」となります。
 
 

* ゆるゆりが変えたもの

 
本作はその名の通り中学生女子の日常の中でのゆるい百合を描いていきます。「ゆるゆり以前ゆるゆり以後」と呼ばれるように、本作はキレ味鋭いギャグと繊細な感情描写を武器に、これまでどこか敷居が高く後ろ暗いイメージが付きまとっていた百合というジャンルを明るく楽しい肯定的なものへと変えて行きました。
 
もちろん、こんなゆるいものなど断じて百合ではないという意見もあるでしょう。確かに、本作が描く人間関係の大半は何だかんだ言っても女の子同士の友愛の延長線上でしかなく、そこに性愛的な感情の自覚は希薄です。
 
ただ本作はちなつや千歳というやや濃いめのキャラの視点を通じて、読み手の百合的な感性や想像力を徐々に「教育」していく仕掛けになっているわけです。つまり本作は読者を本格的な百合の深遠へ誘う為の教育漫画であると捉えるのが妥当なのでしょう。教育である以上は「教育的配慮」もそれなりに必要だという事であるという事です。
 
 

* ゆるゆりがもたらした誤配

 
一方で、本作の成功は百合というジャンルに誤配を招く可能性を拡大させてしまった事も確かです。具体的にはゆるゆりみたいな作品を期待して百合姫に手を出しだ結果、そのガチっぷりに戦慄するというパターンです。
 
こうした誤配から生じるもっとも危惧すべき事態はジャンルの再定義です。すなわち、百合というジャンルに深く根ざしている性や身体の問題が切り離され、単に思春期の女の子同士の甘やかな交歓という上澄みを掬い取ったものだけが「百合」であるとされてしまう可能性です。これは従来からの百合ファンにとっては自分の居場所を奪われるに等しい危機にもなりなねないでしょう。
 
 

* 「解放区」「居場所」としての「百合」

 
ただ、デリダ東浩紀氏を引くまでもなく、誤配は時に良い方向にも作用します。ゆるゆりの成功は、サブカルチャー作品全体における百合描写のハードルを大きく引き下げ、また近年の「おねロリブーム」など「百合」というジャンル自体を活性化させる契機を持ち込んだ事は確かです。百合という概念は一ジャンルコードに留まらず、エディプス的規範に収まり切れなかった「過剰な何か」に「解放区」や「居場所」という物語を差し出してきた。その根底にあるのは「排除」ではなく「包摂」の原理です。これからも様々な百合の花が咲いて行く事を願うばかりです。
 
本作を通じて百合というジャンルに少しでも興味が出たのであれば、とりあえず次のステップとしては同じくなもり先生作の「ゆりゆり」を読んでみればいい。こっちは本作より若干ガチな感じのやつです。そこで「ありだ」と感じたのであれば、百合姫本誌の方に行ってみてはいかがでしょうか。
 

 

ゆりゆり: 2 (百合姫コミックス)

ゆりゆり: 2 (百合姫コミックス)

 

 

 

幸福の彼方と此方--「創造と狂気の歴史(松本卓也)」

 

 

* 「創造と狂気」の関係を問う

 
優れた芸術作品やイノベーションがしばし「クレイジー」と形容されるように「創造と狂気」は密接な関係があります。こうした「創造と狂気」の関係を研究する領域を病跡学といいます。
 
この点、本書は従来の病跡学は「統合失調症中心主義」に陥ってきたと言います。確かに「狂気」といえば普通はまず「統合失調症」を連想するでしょう。従来の病跡学はこの「統合失調症」の病理構造をモデルとして「創造と狂気」の関係を論じてきたわけです。
 
では「統合失調症中心主義」はいかにして成立したのでしょうか?そしてそれはどのような問題があるのでしょうか?
 
 

* 「ダイモーン」から「統合失調症」へ

 
古代ギリシャの哲学者、プラトン(前427〜前347)は「狂気」を個人を超えた超自然的な神々に由来する神的狂気と、こうした神々とは関係のない人間的狂気に二分しました。
 
ここでは前者は創造的、嫡出的な狂気であり、後者は世俗的、非嫡出的な狂気とされます。こうしたプラトン主義的二分法には既に後の「統合失調症中心主義」の原的モチーフを見出せるでしょう。
 
ところで、プラトンの時代に神と人間を仲介する善き存在であった「ダイモーン」は、後にキリスト教の教義の中で修道士を誑かす「悪魔」に堕とされ、さらに近代哲学によって「狂気」として近代理性の外部へ排除されてしまいます。
 
近代哲学を創始したルネ・デカルト(1596〜1650)は自らが狂気に取り憑かれているかもしれないという疑いの中から「コギト」を取り出す「狂気に御札を貼る哲学」を、続いてイマヌエル・カント(1724〜1804)は「統覚」によって理性と非理性を切り分ける「狂気を囲い込む哲学」を、そしてゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770〜1831)は自己意識と狂気を止揚する「弁証法」を経て絶対知に到達可能とする「狂気を乗り越える哲学」を立ち上げました。
 
こうして近代哲学は「ダイモーン」を完全に排除したかに見えました。しかし「ダイモーン」は装いを新たに近代的狂気として回帰してきた。これが「統合失調症」です。
 
本書によれば統合失調症とは近代以降に出現した精神疾患という事になります。かつての「ダイモーン」がいわば天空からの神々の啓示であったとすれば「統合失調症」はいわば近代理性の深層に開いたブラックホールであると言えます。
 
こうした意味において人類最初期の統合失調症患者とされる狂気の詩人、フリードリヒ・ヘルダーリン(1770〜1843)がヘーゲルの盟友であった事は歴史の皮肉としか言いようがないでしょう。
 
 

* 否定神学構造

 
ところがこのブラックホールの中に真理を見出したのが、かのマルティン・ハイデガー(1889〜1976)です。ヘルダーリンの詩に感化され「統合失調症化」したハイデガー哲学を本書は「詩の否定神学」といいます。すなわち、ハイデガーによれば優れた詩人とは「不在の神」の痕跡に名を与えることで、人々を痕跡という否定的な形で神と遭遇させる存在であるということです。
 
こうしたハイデガー哲学を参照して精神分析理論を更新したのがジャック・ラカン(1901〜1981)です。1950年代のラカン理論によれば、精神病(統合失調症)の幻聴とは言語構造の中心的シニフィアンである〈父の名〉の排除に起因するものであるとされ、ここにはハイデガーの「詩の否定神学」の類似の構造を見出すことができます。
 
そしてラカンの弟子にあたるジャン・ラプランシュ(1924〜2012)はヘルダーリンの狂気の詩作をラカンの理論で読み解き、さらにミシェル・フーコー(1926〜1984)はこうした一連の議論を「外の思考」として整理し、これを19世紀から20世紀に至る現代文学の主要な特徴とみなしました。ここに「創造と狂気」における「否定神学構造=統合失調症中心主義」が確立する。そして、ここから導かれるのは真の創造とは理性の解体と引き換えにしか手に出来ないという悲劇主義的なパラダイムに他なりません。
 
 

* 新たな創造の可能性

 
けれども「統合失調症中心主義」は「創造と狂気」の源泉を「語り得ないもの=根源」という単一の特異点に求めているため、ジャック・デリダ(1930〜2004)が批判するように、個々の作家の特異性が完全に無視される範例主義に陥る憾みがあります。
 
では「統合失調症中心主義」のオルタナティブとなる「創造と狂気」のパラダイムはいかに構想しうるのでしょうか。この点、本書は主にジル・ドゥルーズ(1925〜1995)に依拠し「健康としての狂気」からなる創造の可能性の展望を示します。
 
 

* 幸福を創造するということ

 
本書が示す現代的創造のパラダイムは哲学的概念で言えば「観光客=郵便的マルチチュード東浩紀)」であり、社会学的概念で言えば「拡張現実(宇野常寛)」と極めて親和的な発想であると言えます。
 
規範的幸福のロールモデルが失墜した現代において、人は好むと好まざるとそれぞれの幸福のあり方を自ら「創造」していかなければならない。外部から内部へ。彼方から此方へ。本書が示す数々の知見と展望は、現代を生きる知恵と力--世界を多重化し、日常を再発見していくということ--を涵養していく上での大きな助けになると思います。
 
 
 
 

甘やかな虚構から瑞やかな現実へ--「恋する小惑星⑴〜⑵(Quro)」

 

恋する小惑星(アステロイド) 1巻 (まんがタイムKRコミックス)
 
恋する小惑星(アステロイド) 2巻 (まんがタイムKRコミックス)
 

 

 

* 開かれる日常系

 
「日常系」はゼロ年代的想像力の潮流において「セカイ系」や「サヴァイヴ系」などを乗り越える形で前景化したジャンルです。
 
この点、セカイ系が「ぼくときみ」という想像的二者間で反復される母子相姦的自意識のモノローグであったとすれば、日常系は「わたしたち」という象徴的コミュニティで展開される疑似家族的関係性のダイアローグと言えます。
 
ゼロ年代における日常系の代表作「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などから明らかなように、日常系が現代における成熟的コミュニケーションの可能性、新たな想像力の地平を切り開いた事は疑いのない事実です。
 
ただ一方、日常系の魅力はなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流にあり、これは結局のところ「極端な虚構」における「データベース消費」の一形態に他ならない事もまた事実です。こうした意味では、日常系もまたやはり「動物の時代(東浩紀)」「不可能性の時代(大澤真幸)」というポストモダン的想像力に規定されていたとも言えます。
 
ところが2010年代の日常系においては、こうしたジャンル的限界性を内破していく傾向が徐々に顕在化し始めました。例えば「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」などは「お仕事」という回路を通じて、あるいは「アニマエール!」「ゆるキャン△」などは「アウトドア」という回路を通じて、日常系の想像力はコミュニティの「内」のみならず「外」に向かってゆるやかに開かれつつあります。こうした近年における日常系の傾向をさらに洗練した形で提示したのが本作と言えるでしょう。
 
 

* 本作のあらすじ

 
幼少時、町のキャンプに参加していた木ノ幡みらはアオと名乗る同じ年頃の子に出会う。みらとアオはいつか二人で新しい小惑星を発見し、その星に「アオ」という名前をつけるという約束を交わして別れる。
 
その後、時は流れて2017年、みらは星咲高校に入学し天文部を志望するも、その年から天文部は地質研究会と合併して「地学部」となっていた。やむなく地学部の門戸を叩いたみらはそこで思いがけず、同じく高校生になったアオ、真中あおと再会する。
 
みらは、男の子と思っていたアオが女の子であった事に動揺すると同時に、あおがかつての約束を忘れていなかった事に感激する。こうしてみらとあおは天文班の先輩である森野真理、地質班の先輩である桜井美景、猪瀬舞らとともに地学部での活動を開始する。
 
 

* 現実を多重化する想像力

 
天文学や地質学といった地球科学を題材とする本作が全面に打ち出すのは現実を多重化する想像力です。
 
例えば、地図を片手に「飛び地」を探し回る舞は「地図を見ながら歩くと、公園や近所の道がいつもと違って見える」と言い、実際に舞の描いた地図で校内探索するみら達は見慣れた校内の風景を「舞の視点」で再発見する事になります。
 
また3年生引退後、近所の子供達を相手に開かれた天体観望会のエピソードも印象的です。天体観測にあまり興味がなく、観望会にもしぶしぶ参加した女の子が率直に述べる通り、普通に見る限りで天体や星雲というのは「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」以上の何者でもありません。
 
ところが天文学の知識を通してみると、こうした「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」という「対象」が「いま遥か太古の宇宙を見ている」という「体験」にリフレーミングされるわけです。
 
その結果、この女の子は天体観測の魅力に取りつかれる事になります。もしかしてこの子同様、本作をきっかけに地球科学という分野に興味を持った人も多いのではないでしょうか。
 
 

* 現代の「反現実」としての「拡張現実」

 
こうした本作の想像力は、現代における洗練された感性の在り処を示すものと言えます。
 
この点、社会学においては見田宗介氏以来、我々が生きるこの「現実」を規定する時代的回路を「反現実」として概念化してきました。そして、大澤真幸氏の整理によれば1945年の終戦から1970年頃までが「理想の時代」であり、ここから1995年頃までが「虚構の時代」とされています。そして前述した「不可能性の時代」というタームは大澤氏が提出する1995年以降の「反現実」になります。
 
これに対して宇野常寛氏は、見田氏や大澤氏の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まったこの現代における「反現実」とは、理想や虚構、あるいは不可能性といった「ここではない、どこか」を目指していく「仮想現実」ではなく、まさに「いま、ここ」に深く潜っていく「拡張現実」だと言います。
 
こうして見ると本作は地球科学という一見敷居の高いフレームを上手く活用する事で、日常系の枠組みの中に拡張現実の回路を導入した成功例と言えるでしょう。
 
 

* 夢を遠慮しないということ

 
本作の大きな特徴に「夢」の強調があります。みらとあおの「未知の小惑星の発見」、真理の「宇宙飛行士」、舞の「自分だけの地図」。こうした「夢」は一見すると、どれも荒唐無稽だったりファンシーだったりします。
 
けれども「拡張現実」という観点から本作を読み解く時、これらの夢達は単なる萌え要素的なキャラ属性に止まらず、作品のテーマそのものを体現しているとさえ言えます。
 
「夢ばかり見てないで現実を見ろ」という言葉があるように、通常「夢」と「現実」は対立的に捉えられます(なお、先に述べた見田氏は1960年代の「反現実」を「夢の時代」として概念化しています)。
 
これに対してみら達の「夢」は地学部の活動や受験勉強といった「現実」と常に相互補完的にリンクしています。ここで「夢」は「現実」と対立する理想でも虚構でも、ましてや不可能性でもなく、むしろ「現実」を多重化させていく「拡張現実」として作用しているということです。
 
そういった意味で、本作1巻ラストを飾る合宿エピソードで美景が何気に呟いた「夢を遠慮しない」という言葉は極めて重い。美景がメインキャラ中唯一、夢を見つけられずにいるという設定は、もしかしてこの言葉を言わせたかったからではないかという深読みすらできます。そう考えるとあるいはこれが本作最大のメッセージではないかとも思えてくるわけです。
 
 

* 甘やかな虚構から瑞やかな現実へ

 
「いま、ここ」に深く潜っていく事で、何気ない「日常」の中に色とりどりの「非日常」が見えてくる。ありきたりな日々の「現実」の中で遥か彼方の「夢」をみる。こうした現代的な幸福感受性の在り方を描き出す本作は日常系というジャンルが持つ可能性を大きく更新していると言えます。
 
データベース消費的日常から拡張現実的日常へ。甘やかな虚構から瑞やかな現実へ。本作が提示するのはもしかして2020年代における日常系の新たなパラダイムなのかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 

このディストピアを肯定するということ--とある科学の超電磁砲(第1期/第2期)

 

 

 

* 「サヴァイブ系」と「日常系」を架橋する想像力

 
周知の通り本作は「とある魔術の禁書目録」のスピンオフです。ゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流の中でいえば「禁書」がいわば典型的な「サヴァイブ系」の想像力をベースにしているのに対して、本作は禁書の世界観を引き継ぎつつも、そこに「日常系」の想像力を導入していると言えます。
 
本作が本家禁書を凌駕する人気を誇るのは「サヴァイブ系」への批判力としての「日常系」の台頭というゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流を物語レベルで内在化させる事に成功したからなのでしょう。
 
 

* 異質な他者の間における関係性のあり方

 
本作の舞台は総人口230万人の内8割を学生が占める「学園都市」。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。
 
本作の主人公、御坂美琴は、学園都市でも7人しかいないレベル5の1人であり「超電磁砲(レールガン)」の通り名を持つ。御坂は後輩の白井黒子初春飾利佐天涙子達と共に学園都市で起こる様々な事件を解決していく。
 
この点、御坂・白井と初春・佐天の間にはエリート/ノンエリートの断絶があり、また白井・初春と美琴・佐天の間にも風紀委員/一般人の断絶があります。
 
いわば超電磁砲メンバー4人はそれぞれが異なる世界を生きる他者といえます。本作が描き出すのはこうした異質な他者の間における関係性のあり方といえます。
 
 

* 園都市の光と闇

 
本作の舞台となる学園都市はICTやAI、再生エネルギーを駆使する未来都市というユートピア的側面と、厳格な監視社会、苛烈な格差社会というディストピア的側面を併せ持っている。
 
こうした学園都市の光と闇はグローバル資本主義環境管理型権力といったシステムが支配する現代社会の構図とパラレルに捉えることもできるできます。
 
このように捉えた場合、木山春生や布束砥信は己の正義からシステムに叛逆する点でテロリストの立ち位置に近く、テレスティーナ=木原や有冨春樹らスタディは己の欲望からシステムを利用する点でカルフォルニアン・イデオロギーの立ち位置に近い。
 
では、こうした中で御坂の立ち位置はどこにあるのでしょうか。
 
この点、第2期前半「妹編」での御坂は事態を一人で抱えこんでしまい学園都市の闇の中で孤軍奮闘するが、後半「革命未明編」での御坂は前回の反省から皆に事態の真相を打ち明けて助力を乞います。
 
このようなコントラストが表すように、本作が強調するのは他者間における連帯の可能性です。こうしたことから、本作における御坂達は「マルチチュード」の立ち位置に相当するように思えます。
 
 

* 「帝国の体制」と「マルチチュード

 
マルチチュード」とは、今世紀初頭に出版され世界的ベストセラーとなった「〈帝国〉」においてアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが概念化した現代における新しい市民運動のスタイルです。
 
まず、ネグリたちは現代においては「国民国家の体制(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国の体制(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつある指摘する。
 
この「帝国の体制」というフィールド上には、国家、国際機関、非営利組織、企業、個人などが並列的なプレイヤーとして配置されることになります。
 
そして、こうした「帝国の体制」を逆手にとり、帝国内部のインフラ、ネットワークを積極的に活用する新しい市民的連帯の形を、ネグリたちはスピノザの哲学を参照して「マルチチュード」という概念で肯定的に捉えました。
 
本作終盤においてテレスティーナが御坂に対して言い放った「学園都市は実験場、生徒はすべてモルモット」「その実験動物にすらなれない連中の闇がどれだけ深いか」という言葉は「帝国の体制」の端的な比喩と言えます。
 
これに対して御坂は「それでも私はこの学園都市を嫌いになれない」と言う。そして超電磁砲メンバーを始め、ミサカネットワーク、婚后航空、さらには一般学生達といった学園都市内の多様なプレイヤー達と連携し、まさしく「帝国の体制」に「マルチチュード」の力で抗っていくわけです。
 
 

* このディストピアを肯定するということ

 
もちろん、こうした御坂達の奮闘にも関わらず学園都市の闇の深さは1ミリも変わらない。これからも御坂達は学園都市という実験場でモルモットとして生きて行かなければならないわけです。
 
けれども祝祭感に満ちた最終話が象徴するように本作が打ち出すメッセージは世界の限りない肯定です。こうした本作の想像力は現代における幸福感と大きく共鳴しています。社会学者の古市憲寿氏は「絶望の国の幸福な若者たち」において、ゼロ年代以降前景化してきた若年世代の捉えどころのない幸福感の源泉を「コンサマトリー化」と「仲間の存在」にあると分析しています。
 
すなわち、この不安と閉塞に満ちたディストピア的現実を生き延びる最適解は「ここではない、どこか」を夢想することではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねていく幸福感受性の深化にあるということです。こうした現実が良いか悪いかは別として、いずれにせよ本作は「幸福の規制緩和」というべき今の時代に必要な想像力をウェルメイドな物語として示していると言えるでしょう。
 
 
 

「きずな」と「生きづらさ」の間--ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序・破・Q

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]

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* エヴァとは何だったのか

 
戦後50年目にあたる1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。
 
この年においては、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。
 
この1995年以降、日本社会においてポストモダン状況がより加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールによれば「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定されます。
 
ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系を言います。消費化情報化の進展する現代社会においては、こうした「大きな物語」が機能しなくなり、何が正しいかわからない時代が幕を開ける。
 
そして、こうした時代の変わり目においてポストモダンにおける「他者」との関係性を正面から問うたのが新世紀エヴァンゲリオン」という作品だったと言えます。
 
 

* 「おめでとう」と「キモチワルイ」

 
周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。
 
TV版と劇場版。この二つのエヴァの物語において提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」のモデルでした。
 
この点「おめでとう」という他者は承認を与える「他者性なき他者」です。これに対して「キモチワルイ」という他者は拒絶を貫く「異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。
 
すなわち、もはや何が正しいか分からない中、人はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。
 
こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という命題、言うなれば「エヴァの命題」に規定されることになります。
 
 

* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

 
この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。
 
こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には、「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。
 
けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。
 
 

* エヴァとは「覚悟の話」

 
こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動した。庵野氏は所信表明においてエヴァとは「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと述べました。
 
まず第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、シンジやミサトの台詞の言い回しなどに僅かながら変化の兆しが見て取れます。
 
そしてその後「序」に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。
 
 

* 「きずなの物語」としての「破」

 
第2部「破(2009)」においては新たなキャラクター、マリが登場、またネブカドネザルの鍵など新たな謎も投入され、TV版と異なるストーリーが展開していきます。
 
しかし何より驚かされるのが「破」におけるシンジ、アスカ、レイの変化です。
 
かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていました。精神科医斎藤環氏は旧エヴァのシンジを「ひきこもり」、アスカを「境界性人格障害」、レイを「アスペルガー症候群」と評しています。
 
しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。端的にいうと今回の3人は「周りが見えている」という事です。
 
こうした「破」の変化は上に述べたゼロ年代サブカルチャー文化圏におけるセカイ系」から「ポスト・決断主義」に至る想像力の変遷と明らかに共鳴を示しています。
 
すなわち、エヴァは自らがかつて示した「物語において他者をいかに描くか」という命題に対する時代の回答を一旦は率直に受け入れて見せた。それが「破」の物語である。そういう言い方もできるかもしれません。
 
結果「破」は極めて洗練されたウェルメイドな「きずなの物語」に仕上がっている。世界は限りなく眩しく瑞々しい。この日常にこそ尊い価値がある。他者とは分かり合える、手を取り合える。「破」ではこうしたポジティブなメッセージが鮮明なまでに打ち出されています。
 
ここに我々はエヴァの物語を前に進めようとする庵野氏をはじめとする製作サイドの意思を見出すべきなのでしょうか?
 
しかし周知の通り、こうした「明るいエヴァ」のツケは次作できっちり払うことになる。ゆえにむしろ「破」で示された数々のポジティブなメッセージはすべて観客を欺く巨大なルアーであったという可能性も未だ否定できないわけです。
 
 

* 「生きづらさの物語」としての「Q」

 
第3部「Q(2012)」が描くのは前作から14年後の世界です。反NERV組織「ヴィレ」を結成したミサト達。「エヴァの呪縛」で成長しないアスカ。前作までのレイとは別人のアヤナミレイ(仮称)。「ゼーレの少年」と呼ばれる渚カヲル。旧姓が「綾波」に変更されたユイ。ゲンドウやユイの古い友人であることを匂わせるマリ。よくわからない謎が次々と現れ観客を困惑させる。
 
もっとも「Q」の物語自体は割とシンプルです。端的に言えば、本作で描かれるのは三幕形式で展開するシンジの絶望です。
 
序盤のシンジは「ヴィレ」のメンバーから疎外され絶望する。中盤のシンジは「ニアサードインパクト」で世界を破滅させていたばかりか、レイさえも救えていなかった事に絶望する。終盤のシンジは性急に槍を引き抜いた結果、カヲルが惨殺され「フォースインパクト」を発動させて絶望する。
 
こうした「Q」で描かれる徹底した絶望はゼロ年代的想像力へのアンチテーゼのようにも見えます。
 
前述したようにゼロ年代的想像力が開こうとしたのは「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく可能性でした。
 
こうした想像力はある種の社会的紐帯への希望を生み出すかもしれません。しかしその一方で、こうした想像力が様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断された現代日本社会の現実を隠蔽する装置として機能することもまた確かです。
 
すなわち「破」がゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」ゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。
 
この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。
 
ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。
 
 

* 時に、西暦2020年

 
そして前作から7年あまりが過ぎました。いま平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。
 
 

「居場所」を見出すということ--「この世界の片隅に(こうの史代)」

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

* 綿密に描き出される戦時下の日常

 
こうの史代さんという人は元々はかわいい女の子のゆるい日常を描く「萌えショートストーリー」のようなものが描きたくて漫画家なったらしく、本作も形式こそ4コマでは無いものの、そのテンポ感はいわゆるまんがタイムきらら的な「日常系」に極めて近いものを感じます。
 
本作は戦時下の日常を細やかに描きだし、その隙間に脱力した笑いを配置していきます。本作の数々の日常描写は当時の配給事情や食料事情の綿密な調査に基づいており「楠公飯」をはじめとした「戦時レシピ」はこうの氏自身が実際に作ったみたという徹底ぶりです。
 
本作の描く「日常」がどこまで当時の一般的な日常だったのかはわかりません。けれどもこうした描写のひとつひとつが「あの戦争」と今の時代は地続きの日常であるという当たり前の事実を我々に再認識させるわけです。
 

* あらすじ

 
昭和18年12月、18歳の浦野すずは草津の祖母の家で海苔すきの手伝いをしている時、突然縁談の知らせを受ける。
 
急ぎ帰宅したすずが窓際から覗き見た相手は、呉から来た北條周作という青年だった。翌年2月、呉の北條家に嫁いだすずの新しい生活がはじまる。
 
いつもぼんやりしていて危なっかしいすずは、北條家で失敗を繰り広げながらも、次第に周囲の人々に受け入れられていく。
 

* 居場所のなさ

 
原作中盤ですずは遊郭で生きる女性、リンと知り合い交流を深めます。リンはかつて幼き日のすずが祖母の家で遭遇した「ザシキワラシ」です。
 
栄養不足と過労による戦時下無月経症と診断され「ヨメのギム」を果たせるか悩むすずにリンは「誰でも何かが足りんでもこの世界にそうそう居場所は無うなりゃせんよ」と言う。
 
リンのこれまでの艱難辛苦の経験がそう言わせるのでしょう。そして、ここでリンが言う「居場所」という言葉は本作においては極めて重い意味を持ちます。
 
本作が前半で細やかに描き出した日常は、後半で容赦なく破壊されていく。すずは時限爆弾の爆発に巻き込まれ義理の姪である晴美を死なせてしまい、自身も右手を失ってしまいます。
 
異郷の嫁ぎ先ですずを慕ってくれる妹のようでも娘のようでもある晴美はすずに間違いなく「居場所」を差し出していた存在でした。また、すずは右手を失うことで絵が描けなくなり、世界の中に自らの「居場所」を描き出す手段を失ってしまったわけです。
 
よく知られているように、すずが右手を失って以降の本作の背景はほとんどが左手で描かれています。こうした左手で描き出された歪んだ世界の中で、すずが直面しているのはまさしく「居場所のなさ」です。
 
「居場所のなさ」。あの戦争が多くの人から奪ったのはまさしく「居場所」という人の生を規定する物語だったのではないかと。そう本作は問うているように思えるんです。
 
そして、こうした「居場所のなさ」から生じる感情が「生きづらさ」です。これは現代を生きる我々にもある程度、理解可能な感情ではないでしょうか。すなわち、本作は「生きづらさ」という比較的身近な感情を媒介項として「あの戦争」に思いを至らせることができるわけです。
 
 

* 「記憶の器」として在り続けるということ

 
故郷である広島への原爆投下。終戦を告げる玉音放送。破壊された日常、出会い損なった記憶、飛び去った正義。
 
様々な喪失をすずは「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事で乗り越える。忌まわしい記憶から目を背けず思い出を手放さないという選択です。
 
そして広島で偶然出会った原爆孤児を引き取ろうと決めた時、すずの世界は再び色彩を取り戻す。
 
このような本作の結末は戦後の一時期盛んだった原爆孤児国内精神養子運動とも大きく共鳴しています。すずと孤児を繋げたのは互いの境遇に想いを至らせる想像力でした。こうしてすずは新たなめぐりあわせを得ることで再び「居場所」を見出す事ができたわけです。
 

* 自然主義的リアリズムが生み出す共感

 
周知の通り、本作は2016年にクラウドファンディングという当時としては斬新な資金調達により映画化され、累計動員数は210万人、興行収入は27億円を突破。ミニシアター系作品としては異例の大ヒットを記録しました。
 
監督を務めた片渕須直氏は原作を読むや否や「これをアニメーションにしない手はないし、他のひとに委ねたくない、絶対に自分でやらなければいけない」と確信したらしく、映画の製作にあたっては徹底的な調査が行われ、当時の広島や呉の風景が恐るべき精密さでシュミレートされます。
 
このような「風景のリアリティ」を追求する手法は「アルプスの少女ハイジ(1974)」で高畑勲氏が確立した日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」に由来します。
 
自然主義的リアリズム」に基づく空間演出は写実的な背景と記号的なキャラクターの間にインタラクションを生み出すことで、キャラクターに「まさにそこに立っている」という確かな存在感、実在性を与えると言われます。そういった意味で本作映画は戦後の日本アニメーションが築き上げてきた伝統の到達点に位置しています。
 
こうして徹底的に再現された当時の風景は映画と現実の壁を融解させていく。いわば半ば戦時日常ドキュメンタリーというべき本作は、次第に遠ざかりつつある「あの戦争」とこの現代を歴史的記述でもイデオロギーでもない「共感」という名の想像力によって接続していると言えるでしょう。
 
 
 
 

正義に狂うということ--劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語

 

 

 

* 傑作か?問題作か?

 
魔法少女まどか☆マギカ」。周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが生み出した現代アニメーションの総決算。
 
2011年、あの東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな社会的反響を呼び起こし、最終回放映後には特集記事が世に溢れかえり、同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。「まどかの物語」はまさしく記録と記憶の両方に残る作品となりました。
 
本作はその正統な続編となる完全新作劇場版であり、公開前から大きな注目を集めていました。果たして本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破した。
 
映画としてみれば本作は紛れもない圧倒的傑作と言うべきでしょう。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。
 
ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になります。
 
 

* あらすじ

 
鹿目まどか美樹さやか巴マミ佐倉杏子、そして暁美ほむらは5人組の魔法少女ユニット「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」として人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」退治に明け暮れていた。
 
見滝原で繰り広げられる多忙で騒がしくも、ある意味で幸せな日々。しかしほむらはこうした日々に徐々に違和感を覚え始める。
 
「私たちの戦いって、これで良かったんだっけ?」
 
(本作より)

 

 
真相を見極めるべく調査に乗り出すほむら。結果、この見滝原は「魔女の結界」の内部にある偽りの閉鎖空間であり、しかもそれを創り出したのは他でもなく、魔女となったほむら自身であったことが判明。そしてそこには効率的な感情エネルギーの収集方法の確立を目論むキュゥべえインキュベーターの思惑が関与していた。
 
かつて、ほむらとの会話の中で「魔女」と「円環の理」の存在を知ったインキュベーターはその存在を検証するべく、外部の干渉を遮断するフィールド内にほむらのソウルジェムを隔離して、その経過を観測していたのであった。
 
インキュベーターの目的は「円環の理」の制御である。キュゥべえは、ほむらに対して「円環の理」に救済を求めるよう促す。しかしインキュベーターの思惑に激昂したほむらは「円環の理」の救済を拒絶。ただ魔女としての破滅を選ぶ。
 
しかしその時、まどか、さやか、マミ、杏子、なぎさがほむらを救うべく動きだす。かつて魔女であったさやかとなぎさは「円環の理」の記憶と力を秘かに預かっていた。結果、干渉遮断フィールドは破壊され、インキュベーターの企みは失敗に終わる。
 
こうして「円環の理」の記憶と力はまどかに戻る。そして今まさに、ほむらは「円環の理」に導かれる----はずであった。
 
ところが物語はここから反転する。まどかが、ほむらのソウルジェムに手を差し伸べたその瞬間、ほむらは不敵な笑みを浮かべる。
 
「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」
 
(本作より)

 

 
あろうことか、ほむらは「円環の理」からまどかの人間としての記録を切り離してしまう。
 
そして、ほむらのソウルジェムはダークオーブへと変貌する。こうして「悪魔」となったほむらは世界を改変する。状況理解に苦しむキュゥべえに対してほむらは高らかに宣明する。
 
「あなたに理解できるはずもないわね、インキュベーター
 
「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの----愛よ」
 
「たしかに今の私は魔女ですらない。あの神にも等しく聖なるものを貶めて蝕んでしまったんだもの」
 
「そんな真似ができる存在は----もう悪魔とでも呼ぶしかないんじゃないかしら」
 
(本作より)

 

 

* まどか奪還計画

 
本作のキーパーソンであるほむらの行動原理は解り辛いところがあり、一見、支離滅裂ですらあります。
 
ただ、ほむらの「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた」という言葉を文字通り受け取るのであれば、ほむらはかなり以前から「まどか奪還」の計画を周到に準備していたと解釈したいところです(直前までほむらはこの記憶を喪失していたという理解です)。
 
つまり、ほむらは本作以前のどこかの時点で魔女化の際に生じる莫大なエネルギーを使って「円環の理」からまどかの記憶部分を切り離すというアイデアを思いついていた。
 
そこで「円環の理」に回収される前に魔女化を可能とする装置を開発させるべく、キュゥべえにそれとなく「魔女」と「円環の理」の存在を示唆しておいた(これが前作ラストです)。その後、果たしてキュゥべえは干渉遮断フィールドを完成させる。
 
もちろんほむらは魔女化後、干渉遮断フィールドを脱出する必要がある。そこでほむらは自らの結界に魔法少女達を召喚する(ただ、さやか達が円環の理の記憶を密かに預かっていなかった場合はどうするつもりだったのかという疑問はやはりあるわけでして、この辺は一種の賭けだったのかもしれません)。
 
結果、皆の力で干渉遮断フィールドは破壊され、ほむらは現実世界への脱出に成功する(この辺りでほむらの記憶は完全に戻る)。こうして、ほむらは満を持して「円環の理」と接触し、まどかの記憶部分を切り離す。
 
そしてその後は仕上げとして悪魔化のパフォーマンスでキュゥべえにトラウマを植え付け、以後「円環の理」に絶対に手出し出来ないようにした。
 
この解釈を取る場合、本作のほむらの行動原理の支離滅裂さもある程度は説明可能となります。このようにもし本作の筋書きが全ては初めからほむらの目論見通りであったとすれば、恐るべき周到さです。まさしく文字通りの、悪魔の所業としか言いようがないでしょう。
 
 

* ほむらの「愛」をどう読み解くか

 
もちろん上記のようにほむらの意図を解釈したところで、それでも普通に観る限りは本作が後味の悪い結末である事は変わりないでしょう。
 
本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られます。果たして本作は一体、何を示そうとしたのでしょうか?
 
ほむらはまどかが崇高な願いによって作りあげた秩序を自らの狂った欲望で破壊したわけです。そしてこれを事もあろうに、ほむらは「愛」などと嘯く。こんなものが愛であってたまるか。わけがわからないよ。
 
本作をコンスタンティヴ(事実確認的)に読解する限り、おそらくはこういう感想になるのではないでしょうか。
 
しかし本作をコンスタンティヴとは別の水準で、つまりパフォーマティヴ(行為遂行的)に読解した時、そこにはまた別の側面が見えて来るのではないでしょうか。
 
 

* 正義に狂うということ

 
ここで本作を理解する補助線となるのがフランスの哲学者、ジャック・デリダの「脱構築」の理論です。
 
デリダハイデガーの「解体」の概念をモチーフとして、様々な形而上学的二項対立の欺瞞性を暴露する「脱構築」というテクスト読解技法を提唱しました。
 
そしてデリダによれば法は脱構築可能であるが、正義は脱構築不可能であるといいます。
 
すなわち、法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで特定の秩序を構築する。しかし法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり創設した暴力的な営みに他ならない。デリダが言う所の「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」です。
 
つまり法とはいわば「決定不可能なもの」を暴力的に決定した産物に他ならない。そうであるがゆえに法は脱構築可能なものとなります。
 
一方、正義とはデリダによれば「まったき他者」への応答であり、普遍性と特異性の究極的両立の地平にあります。すなわち正義への到達とはもとより不可能な所業です。従って正義は脱構築不可能なアポリアであると言えます。
 
しかしデリダはこのアポリアを引き受ける事こそが正義の条件であるといいます。つまり、脱構築とはアポリアとしての「正義に狂う」という事です。
 
 

* 「ハッピーエンド」という欺瞞

 
まどかの作り出した「円環の理」はまさに「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」によって創設された「法」に他なりません。
 
すなわち「円環の理」とはいわば「希望と絶望の形而上学」であり、ほむらはこれを「愛」の名の下に脱構築したわけです。
 
結果、新たな世界の中で、まどかはもちろん、さやか達も日常へ還り、平凡で幸福な日々が戻ってきた。一方、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使される。
 
これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずです。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずです。
 
しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらの「欲望」はまどかの「秩序」にきっぱりと拒絶される。そして、ほむらはまどかと世界を狂わせた責任を引き受けてひとり「魔なる者」として孤独に生きていく。
 
こうして見ると本作の後味の悪さはむしろ「ハッピーエンドの物語」の形而上学的欺瞞を暴露していると言えるでしょう。
 
 

* 「正しくなさ」という正義

 
もはや社会全体を規定する共通の価値観である「大きな物語」が失墜した現代において人は無根拠を承知でそれぞれが任意の「小さな物語」に寄り縋って生きていくしかない。
 
いまや誰かを救うとは誰かを救わないことであり、誰かの希望は誰かの絶望でしかないことは自明の前提となった。
 
こうして何が「正しさ」なのかがわからなくなった時代における正義とは「正しさ」ではなく、むしろ「正しくなさ」を主体的責任の下で引き受ける決断に他ならない。
 
このような時代性の中で本作をパフォーマティヴに読解した時、我々はほむらの末路にひどく気高い正義の在り処を見る事ができるのではないでしょうか。