かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「解放区」「居場所」としての「百合」--「ゆるゆり1〜17(なもり)」

 

ゆるゆり: 1 (百合姫コミックス)

ゆるゆり: 1 (百合姫コミックス)

 

 

* 少女小説からコミック百合姫

 

「百合」の起源は大正期の「少女小説」に遡ります。近代教育システムの確立による「少女期」の出現、明治30年代における少女雑誌の創刊などを背景に誕生した少女小説は従来の家父長的な「家の娘」という呪縛から少女を解放し近代的自意識の発露へと導く役割を果たしました。
 
初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性として少女同士の友愛や関係性を魅力的に描き出している点が挙げられます。「花物語」は、ミッションスクールを舞台とした女学生同士の「エス」と呼ばれる関係性を描き出した作品であり、ここに百合の原的な世界観が胚胎します。このモチーフは少女小説復権を掲げて80年代にコバルト文庫黄金期を築き上げた氷室冴子作品を経て、現代サブカルチャー文化圏の中に「百合」というジャンルを認知させた今野緒雪氏の「マリア様がみてる」にも引き継がれています。
 
ゼロ年代以降における百合文化を語る上で欠かせないのが「コミック百合姫」の存在です。その前身である「百合姉妹」が2003年、マガジン・マガジンから業界初の百合専門誌として創刊され、翌年には早速休刊の憂き目に遭うも編集長の中村成太郎氏の尽力により2005年には一迅社から実質的な後継誌である「コミック百合姫」が創刊される。当初は季刊誌からスタートし、2010年には隔月刊発行、2016年には月刊発行へと順調に規模を拡大させていきます。そしてこの「百合姫」から初のアニメ化を成し遂げたのが「ゆるゆり」となります。
 
 

* ゆるゆりが変えたもの

 
本作はその名の通り中学生女子の日常の中でのゆるい百合を描いていきます。「ゆるゆり以前ゆるゆり以後」と呼ばれるように、本作はキレ味鋭いギャグと繊細な感情描写を武器に、これまでどこか敷居が高く後ろ暗いイメージが付きまとっていた百合というジャンルを明るく楽しい肯定的なものへと変えて行きました。
 
もちろん、こんなゆるいものなど断じて百合ではないという意見もあるでしょう。確かに、本作が描く人間関係の大半は何だかんだ言っても女の子同士の友愛の延長線上でしかなく、そこに性愛的な感情の自覚は希薄です。
 
ただ本作はちなつや千歳というやや濃いめのキャラの視点を通じて、読み手の百合的な感性や想像力を徐々に「教育」していく仕掛けになっているわけです。つまり本作は読者を本格的な百合の深遠へ誘う為の教育漫画であると捉えるのが妥当なのでしょう。教育である以上は「教育的配慮」もそれなりに必要だという事であるという事です。
 
 

* ゆるゆりがもたらした誤配

 
一方で、本作の成功は百合というジャンルに誤配を招く可能性を拡大させてしまった事も確かです。具体的にはゆるゆりみたいな作品を期待して百合姫に手を出しだ結果、そのガチっぷりに戦慄するというパターンです。
 
こうした誤配から生じるもっとも危惧すべき事態はジャンルの再定義です。すなわち、百合というジャンルに深く根ざしている性や身体の問題が切り離され、単に思春期の女の子同士の甘やかな交歓という上澄みを掬い取ったものだけが「百合」であるとされてしまう可能性です。これは従来からの百合ファンにとっては自分の居場所を奪われるに等しい危機にもなりなねないでしょう。
 
 

* 「解放区」「居場所」としての「百合」

 
ただ、デリダ東浩紀氏を引くまでもなく、誤配は時に良い方向にも作用します。ゆるゆりの成功は、サブカルチャー作品全体における百合描写のハードルを大きく引き下げ、また近年の「おねロリブーム」など「百合」というジャンル自体を活性化させる契機を持ち込んだ事は確かです。百合という概念は一ジャンルコードに留まらず、エディプス的規範に収まり切れなかった「過剰な何か」に「解放区」や「居場所」という物語を差し出してきた。その根底にあるのは「排除」ではなく「包摂」の原理です。これからも様々な百合の花が咲いて行く事を願うばかりです。
 
本作を通じて百合というジャンルに少しでも興味が出たのであれば、とりあえず次のステップとしては同じくなもり先生作の「ゆりゆり」を読んでみればいい。こっちは本作より若干ガチな感じのやつです。そこで「ありだ」と感じたのであれば、百合姫本誌の方に行ってみてはいかがでしょうか。
 

 

ゆりゆり: 2 (百合姫コミックス)

ゆりゆり: 2 (百合姫コミックス)