* 「創造と狂気」の関係を問う
この点、本書は従来の病跡学は「統合失調症中心主義」に陥ってきたと言います。確かに「狂気」といえば普通はまず「統合失調症」を連想するでしょう。従来の病跡学はこの「統合失調症」の病理構造をモデルとして「創造と狂気」の関係を論じてきたわけです。
では「統合失調症中心主義」はいかにして成立したのでしょうか?そしてそれはどのような問題があるのでしょうか?
* 「ダイモーン」から「統合失調症」へ
ところで、プラトンの時代に神と人間を仲介する善き存在であった「ダイモーン」は、後にキリスト教の教義の中で修道士を誑かす「悪魔」に堕とされ、さらに近代哲学によって「狂気」として近代理性の外部へ排除されてしまいます。
近代哲学を創始したルネ・デカルト(1596〜1650)は自らが狂気に取り憑かれているかもしれないという疑いの中から「コギト」を取り出す「狂気に御札を貼る哲学」を、続いてイマヌエル・カント(1724〜1804)は「統覚」によって理性と非理性を切り分ける「狂気を囲い込む哲学」を、そしてゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770〜1831)は自己意識と狂気を止揚する「弁証法」を経て絶対知に到達可能とする「狂気を乗り越える哲学」を立ち上げました。
こうして近代哲学は「ダイモーン」を完全に排除したかに見えました。しかし「ダイモーン」は装いを新たに近代的狂気として回帰してきた。これが「統合失調症」です。
本書によれば統合失調症とは近代以降に出現した精神疾患という事になります。かつての「ダイモーン」がいわば天空からの神々の啓示であったとすれば「統合失調症」はいわば近代理性の深層に開いたブラックホールであると言えます。
* 否定神学構造
ところがこのブラックホールの中に真理を見出したのが、かのマルティン・ハイデガー(1889〜1976)です。ヘルダーリンの詩に感化され「統合失調症化」したハイデガー哲学を本書は「詩の否定神学」といいます。すなわち、ハイデガーによれば優れた詩人とは「不在の神」の痕跡に名を与えることで、人々を痕跡という否定的な形で神と遭遇させる存在であるということです。
こうしたハイデガー哲学を参照して精神分析理論を更新したのがジャック・ラカン(1901〜1981)です。1950年代のラカン理論によれば、精神病(統合失調症)の幻聴とは言語構造の中心的シニフィアンである〈父の名〉の排除に起因するものであるとされ、ここにはハイデガーの「詩の否定神学」の類似の構造を見出すことができます。
そしてラカンの弟子にあたるジャン・ラプランシュ(1924〜2012)はヘルダーリンの狂気の詩作をラカンの理論で読み解き、さらにミシェル・フーコー(1926〜1984)はこうした一連の議論を「外の思考」として整理し、これを19世紀から20世紀に至る現代文学の主要な特徴とみなしました。ここに「創造と狂気」における「否定神学構造=統合失調症中心主義」が確立する。そして、ここから導かれるのは真の創造とは理性の解体と引き換えにしか手に出来ないという悲劇主義的なパラダイムに他なりません。
* 新たな創造の可能性
けれども「統合失調症中心主義」は「創造と狂気」の源泉を「語り得ないもの=根源」という単一の特異点に求めているため、ジャック・デリダ(1930〜2004)が批判するように、個々の作家の特異性が完全に無視される範例主義に陥る憾みがあります。
では「統合失調症中心主義」のオルタナティブとなる「創造と狂気」のパラダイムはいかに構想しうるのでしょうか。この点、本書は主にジル・ドゥルーズ(1925〜1995)に依拠し「健康としての狂気」からなる創造の可能性の展望を示します。
* 幸福を創造するということ
規範的幸福のロールモデルが失墜した現代において、人は好むと好まざるとそれぞれの幸福のあり方を自ら「創造」していかなければならない。外部から内部へ。彼方から此方へ。本書が示す数々の知見と展望は、現代を生きる知恵と力--世界を多重化し、日常を再発見していくということ--を涵養していく上での大きな助けになると思います。