かぐらかのん

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「きずな」と「生きづらさ」の間--ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序・破・Q

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]

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* エヴァとは何だったのか

 
戦後50年目にあたる1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。
 
この年においては、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。
 
この1995年以降、日本社会においてポストモダン状況がより加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールによれば「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定されます。
 
ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系を言います。消費化情報化の進展する現代社会においては、こうした「大きな物語」が機能しなくなり、何が正しいかわからない時代が幕を開ける。
 
そして、こうした時代の変わり目においてポストモダンにおける「他者」との関係性を正面から問うたのが新世紀エヴァンゲリオン」という作品だったと言えます。
 
 

* 「おめでとう」と「キモチワルイ」

 
周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。
 
TV版と劇場版。この二つのエヴァの物語において提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」のモデルでした。
 
この点「おめでとう」という他者は承認を与える「他者性なき他者」です。これに対して「キモチワルイ」という他者は拒絶を貫く「異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。
 
すなわち、もはや何が正しいか分からない中、人はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。
 
こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という命題、言うなれば「エヴァの命題」に規定されることになります。
 
 

* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

 
この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。
 
こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には、「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。
 
けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。
 
 

* エヴァとは「覚悟の話」

 
こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動した。庵野氏は所信表明においてエヴァとは「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと述べました。
 
まず第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、シンジやミサトの台詞の言い回しなどに僅かながら変化の兆しが見て取れます。
 
そしてその後「序」に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。
 
 

* 「きずなの物語」としての「破」

 
第2部「破(2009)」においては新たなキャラクター、マリが登場、またネブカドネザルの鍵など新たな謎も投入され、TV版と異なるストーリーが展開していきます。
 
しかし何より驚かされるのが「破」におけるシンジ、アスカ、レイの変化です。
 
かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていました。精神科医斎藤環氏は旧エヴァのシンジを「ひきこもり」、アスカを「境界性人格障害」、レイを「アスペルガー症候群」と評しています。
 
しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。端的にいうと今回の3人は「周りが見えている」という事です。
 
こうした「破」の変化は上に述べたゼロ年代サブカルチャー文化圏におけるセカイ系」から「ポスト・決断主義」に至る想像力の変遷と明らかに共鳴を示しています。
 
すなわち、エヴァは自らがかつて示した「物語において他者をいかに描くか」という命題に対する時代の回答を一旦は率直に受け入れて見せた。それが「破」の物語である。そういう言い方もできるかもしれません。
 
結果「破」は極めて洗練されたウェルメイドな「きずなの物語」に仕上がっている。世界は限りなく眩しく瑞々しい。この日常にこそ尊い価値がある。他者とは分かり合える、手を取り合える。「破」ではこうしたポジティブなメッセージが鮮明なまでに打ち出されています。
 
ここに我々はエヴァの物語を前に進めようとする庵野氏をはじめとする製作サイドの意思を見出すべきなのでしょうか?
 
しかし周知の通り、こうした「明るいエヴァ」のツケは次作できっちり払うことになる。ゆえにむしろ「破」で示された数々のポジティブなメッセージはすべて観客を欺く巨大なルアーであったという可能性も未だ否定できないわけです。
 
 

* 「生きづらさの物語」としての「Q」

 
第3部「Q(2012)」が描くのは前作から14年後の世界です。反NERV組織「ヴィレ」を結成したミサト達。「エヴァの呪縛」で成長しないアスカ。前作までのレイとは別人のアヤナミレイ(仮称)。「ゼーレの少年」と呼ばれる渚カヲル。旧姓が「綾波」に変更されたユイ。ゲンドウやユイの古い友人であることを匂わせるマリ。よくわからない謎が次々と現れ観客を困惑させる。
 
もっとも「Q」の物語自体は割とシンプルです。端的に言えば、本作で描かれるのは三幕形式で展開するシンジの絶望です。
 
序盤のシンジは「ヴィレ」のメンバーから疎外され絶望する。中盤のシンジは「ニアサードインパクト」で世界を破滅させていたばかりか、レイさえも救えていなかった事に絶望する。終盤のシンジは性急に槍を引き抜いた結果、カヲルが惨殺され「フォースインパクト」を発動させて絶望する。
 
こうした「Q」で描かれる徹底した絶望はゼロ年代的想像力へのアンチテーゼのようにも見えます。
 
前述したようにゼロ年代的想像力が開こうとしたのは「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく可能性でした。
 
こうした想像力はある種の社会的紐帯への希望を生み出すかもしれません。しかしその一方で、こうした想像力が様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断された現代日本社会の現実を隠蔽する装置として機能することもまた確かです。
 
すなわち「破」がゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」ゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。
 
この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。
 
ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。
 
 

* 時に、西暦2020年

 
そして前作から7年あまりが過ぎました。いま平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。