かぐらかのん

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甘やかな虚構から瑞やかな現実へ--「恋する小惑星⑴〜⑵(Quro)」

 

恋する小惑星(アステロイド) 1巻 (まんがタイムKRコミックス)
 
恋する小惑星(アステロイド) 2巻 (まんがタイムKRコミックス)
 

 

 

* 開かれる日常系

 
「日常系」はゼロ年代的想像力の潮流において「セカイ系」や「サヴァイヴ系」などを乗り越える形で前景化したジャンルです。
 
この点、セカイ系が「ぼくときみ」という想像的二者間で反復される母子相姦的自意識のモノローグであったとすれば、日常系は「わたしたち」という象徴的コミュニティで展開される疑似家族的関係性のダイアローグと言えます。
 
ゼロ年代における日常系の代表作「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などから明らかなように、日常系が現代における成熟的コミュニケーションの可能性、新たな想像力の地平を切り開いた事は疑いのない事実です。
 
ただ一方、日常系の魅力はなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流にあり、これは結局のところ「極端な虚構」における「データベース消費」の一形態に他ならない事もまた事実です。こうした意味では、日常系もまたやはり「動物の時代(東浩紀)」「不可能性の時代(大澤真幸)」というポストモダン的想像力に規定されていたとも言えます。
 
ところが2010年代の日常系においては、こうしたジャンル的限界性を内破していく傾向が徐々に顕在化し始めました。例えば「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」などは「お仕事」という回路を通じて、あるいは「アニマエール!」「ゆるキャン△」などは「アウトドア」という回路を通じて、日常系の想像力はコミュニティの「内」のみならず「外」に向かってゆるやかに開かれつつあります。こうした近年における日常系の傾向をさらに洗練した形で提示したのが本作と言えるでしょう。
 
 

* 本作のあらすじ

 
幼少時、町のキャンプに参加していた木ノ幡みらはアオと名乗る同じ年頃の子に出会う。みらとアオはいつか二人で新しい小惑星を発見し、その星に「アオ」という名前をつけるという約束を交わして別れる。
 
その後、時は流れて2017年、みらは星咲高校に入学し天文部を志望するも、その年から天文部は地質研究会と合併して「地学部」となっていた。やむなく地学部の門戸を叩いたみらはそこで思いがけず、同じく高校生になったアオ、真中あおと再会する。
 
みらは、男の子と思っていたアオが女の子であった事に動揺すると同時に、あおがかつての約束を忘れていなかった事に感激する。こうしてみらとあおは天文班の先輩である森野真理、地質班の先輩である桜井美景、猪瀬舞らとともに地学部での活動を開始する。
 
 

* 現実を多重化する想像力

 
天文学や地質学といった地球科学を題材とする本作が全面に打ち出すのは現実を多重化する想像力です。
 
例えば、地図を片手に「飛び地」を探し回る舞は「地図を見ながら歩くと、公園や近所の道がいつもと違って見える」と言い、実際に舞の描いた地図で校内探索するみら達は見慣れた校内の風景を「舞の視点」で再発見する事になります。
 
また3年生引退後、近所の子供達を相手に開かれた天体観望会のエピソードも印象的です。天体観測にあまり興味がなく、観望会にもしぶしぶ参加した女の子が率直に述べる通り、普通に見る限りで天体や星雲というのは「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」以上の何者でもありません。
 
ところが天文学の知識を通してみると、こうした「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」という「対象」が「いま遥か太古の宇宙を見ている」という「体験」にリフレーミングされるわけです。
 
その結果、この女の子は天体観測の魅力に取りつかれる事になります。もしかしてこの子同様、本作をきっかけに地球科学という分野に興味を持った人も多いのではないでしょうか。
 
 

* 現代の「反現実」としての「拡張現実」

 
こうした本作の想像力は、現代における洗練された感性の在り処を示すものと言えます。
 
この点、社会学においては見田宗介氏以来、我々が生きるこの「現実」を規定する時代的回路を「反現実」として概念化してきました。そして、大澤真幸氏の整理によれば1945年の終戦から1970年頃までが「理想の時代」であり、ここから1995年頃までが「虚構の時代」とされています。そして前述した「不可能性の時代」というタームは大澤氏が提出する1995年以降の「反現実」になります。
 
これに対して宇野常寛氏は、見田氏や大澤氏の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まったこの現代における「反現実」とは、理想や虚構、あるいは不可能性といった「ここではない、どこか」を目指していく「仮想現実」ではなく、まさに「いま、ここ」に深く潜っていく「拡張現実」だと言います。
 
こうして見ると本作は地球科学という一見敷居の高いフレームを上手く活用する事で、日常系の枠組みの中に拡張現実の回路を導入した成功例と言えるでしょう。
 
 

* 夢を遠慮しないということ

 
本作の大きな特徴に「夢」の強調があります。みらとあおの「未知の小惑星の発見」、真理の「宇宙飛行士」、舞の「自分だけの地図」。こうした「夢」は一見すると、どれも荒唐無稽だったりファンシーだったりします。
 
けれども「拡張現実」という観点から本作を読み解く時、これらの夢達は単なる萌え要素的なキャラ属性に止まらず、作品のテーマそのものを体現しているとさえ言えます。
 
「夢ばかり見てないで現実を見ろ」という言葉があるように、通常「夢」と「現実」は対立的に捉えられます(なお、先に述べた見田氏は1960年代の「反現実」を「夢の時代」として概念化しています)。
 
これに対してみら達の「夢」は地学部の活動や受験勉強といった「現実」と常に相互補完的にリンクしています。ここで「夢」は「現実」と対立する理想でも虚構でも、ましてや不可能性でもなく、むしろ「現実」を多重化させていく「拡張現実」として作用しているということです。
 
そういった意味で、本作1巻ラストを飾る合宿エピソードで美景が何気に呟いた「夢を遠慮しない」という言葉は極めて重い。美景がメインキャラ中唯一、夢を見つけられずにいるという設定は、もしかしてこの言葉を言わせたかったからではないかという深読みすらできます。そう考えるとあるいはこれが本作最大のメッセージではないかとも思えてくるわけです。
 
 

* 甘やかな虚構から瑞やかな現実へ

 
「いま、ここ」に深く潜っていく事で、何気ない「日常」の中に色とりどりの「非日常」が見えてくる。ありきたりな日々の「現実」の中で遥か彼方の「夢」をみる。こうした現代的な幸福感受性の在り方を描き出す本作は日常系というジャンルが持つ可能性を大きく更新していると言えます。
 
データベース消費的日常から拡張現実的日常へ。甘やかな虚構から瑞やかな現実へ。本作が提示するのはもしかして2020年代における日常系の新たなパラダイムなのかもしれません。