かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

このディストピアを肯定するということ--とある科学の超電磁砲(第1期/第2期)

 

 

 

* 「サヴァイブ系」と「日常系」を架橋する想像力

 
周知の通り本作は「とある魔術の禁書目録」のスピンオフです。ゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流の中でいえば「禁書」がいわば典型的な「サヴァイブ系」の想像力をベースにしているのに対して、本作は禁書の世界観を引き継ぎつつも、そこに「日常系」の想像力を導入していると言えます。
 
本作が本家禁書を凌駕する人気を誇るのは「サヴァイブ系」への批判力としての「日常系」の台頭というゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流を物語レベルで内在化させる事に成功したからなのでしょう。
 
 

* 異質な他者の間における関係性のあり方

 
本作の舞台は総人口230万人の内8割を学生が占める「学園都市」。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。
 
本作の主人公、御坂美琴は、学園都市でも7人しかいないレベル5の1人であり「超電磁砲(レールガン)」の通り名を持つ。御坂は後輩の白井黒子初春飾利佐天涙子達と共に学園都市で起こる様々な事件を解決していく。
 
この点、御坂・白井と初春・佐天の間にはエリート/ノンエリートの断絶があり、また白井・初春と美琴・佐天の間にも風紀委員/一般人の断絶があります。
 
いわば超電磁砲メンバー4人はそれぞれが異なる世界を生きる他者といえます。本作が描き出すのはこうした異質な他者の間における関係性のあり方といえます。
 
 

* 園都市の光と闇

 
本作の舞台となる学園都市はICTやAI、再生エネルギーを駆使する未来都市というユートピア的側面と、厳格な監視社会、苛烈な格差社会というディストピア的側面を併せ持っている。
 
こうした学園都市の光と闇はグローバル資本主義環境管理型権力といったシステムが支配する現代社会の構図とパラレルに捉えることもできるできます。
 
このように捉えた場合、木山春生や布束砥信は己の正義からシステムに叛逆する点でテロリストの立ち位置に近く、テレスティーナ=木原や有冨春樹らスタディは己の欲望からシステムを利用する点でカルフォルニアン・イデオロギーの立ち位置に近い。
 
では、こうした中で御坂の立ち位置はどこにあるのでしょうか。
 
この点、第2期前半「妹編」での御坂は事態を一人で抱えこんでしまい学園都市の闇の中で孤軍奮闘するが、後半「革命未明編」での御坂は前回の反省から皆に事態の真相を打ち明けて助力を乞います。
 
このようなコントラストが表すように、本作が強調するのは他者間における連帯の可能性です。こうしたことから、本作における御坂達は「マルチチュード」の立ち位置に相当するように思えます。
 
 

* 「帝国の体制」と「マルチチュード

 
マルチチュード」とは、今世紀初頭に出版され世界的ベストセラーとなった「〈帝国〉」においてアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが概念化した現代における新しい市民運動のスタイルです。
 
まず、ネグリたちは現代においては「国民国家の体制(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国の体制(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつある指摘する。
 
この「帝国の体制」というフィールド上には、国家、国際機関、非営利組織、企業、個人などが並列的なプレイヤーとして配置されることになります。
 
そして、こうした「帝国の体制」を逆手にとり、帝国内部のインフラ、ネットワークを積極的に活用する新しい市民的連帯の形を、ネグリたちはスピノザの哲学を参照して「マルチチュード」という概念で肯定的に捉えました。
 
本作終盤においてテレスティーナが御坂に対して言い放った「学園都市は実験場、生徒はすべてモルモット」「その実験動物にすらなれない連中の闇がどれだけ深いか」という言葉は「帝国の体制」の端的な比喩と言えます。
 
これに対して御坂は「それでも私はこの学園都市を嫌いになれない」と言う。そして超電磁砲メンバーを始め、ミサカネットワーク、婚后航空、さらには一般学生達といった学園都市内の多様なプレイヤー達と連携し、まさしく「帝国の体制」に「マルチチュード」の力で抗っていくわけです。
 
 

* このディストピアを肯定するということ

 
もちろん、こうした御坂達の奮闘にも関わらず学園都市の闇の深さは1ミリも変わらない。これからも御坂達は学園都市という実験場でモルモットとして生きて行かなければならないわけです。
 
けれども祝祭感に満ちた最終話が象徴するように本作が打ち出すメッセージは世界の限りない肯定です。こうした本作の想像力は現代における幸福感と大きく共鳴しています。社会学者の古市憲寿氏は「絶望の国の幸福な若者たち」において、ゼロ年代以降前景化してきた若年世代の捉えどころのない幸福感の源泉を「コンサマトリー化」と「仲間の存在」にあると分析しています。
 
すなわち、この不安と閉塞に満ちたディストピア的現実を生き延びる最適解は「ここではない、どこか」を夢想することではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねていく幸福感受性の深化にあるということです。こうした現実が良いか悪いかは別として、いずれにせよ本作は「幸福の規制緩和」というべき今の時代に必要な想像力をウェルメイドな物語として示していると言えるでしょう。