かぐらかのん

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コミットメントのコストをいかに処理するか--「1Q84(村上春樹)」

 

 

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

 
1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 
1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 

 

 
 

* はじめに

 
村上春樹作品というのは、少なくとも長編作品に関しては基本的に決して読みやすい小説ではないでしょう。あの圧倒的な飛距離を持つメタファー、随所に仕込まれた複雑怪奇な文学的実験。こういった諸々の要素が渾然一体となった「村上ワールド」を前に、我々読み手は至る所で困惑し狼狽させられ、自らの想像力の限界を思い知らされることになります。
 
ところが本作「1Q84」は従来の村上作品とは決定的に違っています。徹底的に平易で洗練されたリーダビリティ、読み手の快楽原則を重視したストーリーテリングゼロ年代サブカルチャーにおける「萌え」と「燃え」を体現するキャラクター。ここにイラストが付けばもはやライトノベルと言っても過言ではない恐るべき突き抜け方です。
 
このなりふり構わなさは一体なんでしょうか?もちろんこれは単純な市場への迎合ではありません。言うまでもなく村上春樹という作家が何かを書けば、黙っていてもそれなりに勝手に売れる。それはもとより疑いない。
 
けれど本作は「それなりに」ではなく「それ以上に」多くの人たちに届ける必要があった。なぜならば、本作は村上氏が「今、一番恐ろしいと思う」という存在に対抗する為の「ワクチン」だからです。
 
 

* あらすじ

 
舞台は1984年の日本。物語は青豆と天吾という2人の男女を軸に展開する。
 
主人公の一人である青豆はスポーツインストラクターの仕事の傍らでDV加害者の暗殺に従事する。ある日、青豆は空に月が二つ浮かぶパラレルワールドに迷い込んでいることに気づく。彼女はその世界を「1Q84年」と名付ける。
 
そして、もう一人の主人公である天吾は予備校で数学を教える傍らで小説家を目指している。知己の編集者、小松から与えられた新人賞応募作の下読みの最中、天吾は「ふかえり」こと深田絵里子という少女の書いた「空気さなぎ」という小説に強い印象を受ける。
 
小松の企みにより天吾によってリライトされた「空気さなぎ」は新人賞を得て空前の大ヒットとなる。そんな中で天吾は青豆と同じパラレルワールドに迷い込む。果たしてその世界は「空気さなぎ」の世界そっくりであった。
 
こうして2人は迷い込んだ世界の中で、それぞれの立場で「さきがけ」なるカルト教団に関わる事件に巻き込まれていく。
 
 

* ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ

 
村上氏は本作に執筆動機について次のように述べています。
 
僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻(おり)というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる
 
(僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉/毎日新聞2008年5月12日)

 

 
ここでいう「枠組み」というのは端的にいうと、ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」のことを言っているわけです。
 
すなわち、ポストモダン的状況においては、社会共通のイデオロギーや価値観といった「大きな物語」の解体が加速する。こうした状況を本作では「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という比喩によって示します。
 
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オーウェルの風刺小説「1984年」に登場するカリスマ独裁者の事です。いわば「国民国家」の比喩となります。
 
かたや「リトル・ピープル」とは本作中の鍵となるふかえりの小説「空気さなぎ」に登場する超自然的な力を発揮する一種の幽体のことです。いわば「グローバル資本主義」の比喩となります。
 
本作の章題にあるように「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」。つまり現代社会を規定するのは「国民国家」というイデオロギーではなく「グローバル資本主義」というシステムに他ならない。こうした時代認識はミシェル・フーコーでいう「コンテンポラリー」、ジル・ドゥルーズでいう「制御社会」に相当します。
 
 

* 「ワクチン」としての物語

 
そして村上氏によれば、現代において「一番恐ろしいと思う」のは、こうした「リトル・ピープル」から不可避的に生まれる欲望と暴力、すなわち「いろんな檻(おり)というか囲い込み」に他ならない。
 
この点、本作に登場するカルト教団「さきがけ」のモチーフとなっているのは連合赤軍オウム真理教です。どうやら村上氏の中では、物語なきアイデンティティ不安の受け皿として機能していた点で、両者は同じ系譜に連なっているようです。
 
すなわち、リオタールのいう「大きな物語」なき社会において、人々は、それぞれ任意の「小さな物語」に依拠して自らの生を意味付けていくしかない。村上氏が「一番恐ろしいと思う」のは、ここでとんでもないカルト的物語に魅入られてしまうことにあるわけです。
 
そうした意味で本作は表題通りオーウェルの小説「1984」を更新する試みとなります。現代のシステムが生み出す欲望と暴力に抗うための主体的倫理をいかに確立するか。これが本作の主題となります。
 
これはおそらく氏が懇意にしていた臨床心理学者、河合隼雄氏の影響が大きいと思われます。氏曰く、人はそれぞれその人なりの「生の物語=おはなし」を生きている、「おはなし」は人を救う事もあれば殺す事もある、従って現代人に必要なのはカルト的な「おはなし」に自己を乗っ取られない為の「おはなしに対する免疫」である、と。
 
ゆえに本作はまさに「空気さなぎ」のように「ワクチン」の如く広く世間にばら撒かれなければならない。本作が「わかりやすさ」に徹したのはそういう事情に由来しているわけです。
 
 

* デタッチメントとポストモダニズム 

 
では、この「リトル・ピープルの時代」における主体的倫理とは何でしょうか?この点、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から「1973年のピンボール(1980)」「羊をめぐる冒険(1982)」に至るいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理でした。
 
「デタッチメント」というのは、言ってみれば「公と私」「政治と文学」「システムと個人」の関係性の問題を一旦切断した上で、後者の問題に特化する態度です。
 
これは当時流行した「ポストモダニズム」とは一線を画するものです。当時の「ポストモダニズム」が標榜したのは「大きな物語」を解体して別の物語に読み替えてしまう「闘争」ならぬ「逃走」でして、こうしたアイロニズム的な態度を「物語批判」といいます。
 
こうした「洗練」された観点すれば個人の内面にこだわる村上作品は野暮ったいアナクロニズムでしかない。こうして両者は緊張関係に立つ。
 
ところが「大きな物語」の衰退はポストモダニズムが標榜する「物語批判」も道連れに無効化してしまいます。なにせ批判すべき物語それ自体がなくなるわけですから、そのアイロニズムはもはや空転するしかないわけです。
 
そして同時に人々の中で「大きな物語」なき後で生じる根源的なアイデンティティ不安を埋めるべく「大きな物語」に代わる物語への希求が強くなる。いわゆる「物語回帰」という現象です。
 
結果的に言えば村上氏はこのような時代の変化にいち早く対応した事になります。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」でさらに徹底されたデタッチメントの美学は、1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」において「ナルシシズムの記述法」としてさらなる深化を遂げる。こうして国民的作家、村上春樹は誕生したわけです。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
しかし一方、ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへと遷移していく時代の変化は村上氏に新たなる課題を突きつけます。すなわち、新しい時代の変化を作家としていかに記述するのかということです。
 
ビッグ・ブラザーという終わりゆくものには「やれやれ」とデタッチメントしておけば良かったわけですが、リトル・ピープルという新たな変化に対してはそうはいかない。ここで氏は倫理的作用点の転換を迫られます。これがあの有名な「デタッチメントからコミットメントへ」です。
 
こうした問題意識から執筆されたのが「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」です。これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思えます。ところが「ねじまき鳥クロニクル」には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えます。
 
ただ同作においては、肝心のコミットメントすべき対象、すなわちリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」を的確に捉えきれていないきらいがあるでしょう。同作において「悪」として設定されたワタヤ・ノボルはどう見ても80年代的ニューアカ系文化人とか当時台頭しつつあった新保守系の政治家のイメージでしかなく、新しい「悪」のイメージとしては今ひとつ迫力に欠けています。
 
ところが奇しくも同作の刊行中、新しい「悪」は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現する。あのオウム真理教による地下鉄サリン事件です。ここで氏は一旦は時代に追い抜かれていることになります。
 
その後、村上氏は事件関係者への綿密な取材をまとめた「アンダーグラウンド(1997)」「約束された場所で(1998)」を公刊する。そして本作「1Q84」において再びリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙することになります。
 
 

* 戦闘美少女スタイル

 
では本作において、リトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙する「正義」はいかなる形で示されるのか。
 
この点「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害します。
 
つまり、同作で示された「コミットメント」のモデルとは、氏がこれまで洗練させてきた「ナルシシズムの記述法」を「正義の記述法」へ応用したものと言えます。
 
すなわち「他者性なき他者としての女性性」あるいは「母性的存在」を体現するヒロインが現実的なコミットメントを代行し、これにより主人公の「ナルシシズム」と「正義」が同時に記述されるという構造です。
 
これは端的に言えば「戦闘美少女スタイル」です。換言すれば村上氏が同作で示したコミットメントのモデルはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏の中で広く引き継がれているということです。
 
そして「1Q84」もある面でまた、こうしたコミットメントの図式を踏襲していると言えます。物語中盤の雷雨の夜、天吾はふかえりから「ヒツヨウなこと」であると告げられ、彼女との性行為に及ぶ。そして行為の後、ふかえりは「わたしはニンシンしない。わたしにはセイリがないから」という。
 
一方で同夜、青豆はふかえりの実父でもあるカルト教団「さきがけ」のリーダー深田保を暗殺する。そしてその後、彼女は教団から追われる中で、天吾の子供を性行為抜きで妊娠する。
 
要するに、ここでも「ねじまき鳥」の構図が(よりあからさまな形で)反復されているわけです。これに対しては当然、コミットメントから発生するコストをヒロインに押し付けているという批判が生じます。本作については宇野常寛氏が「レイプ・ファンタジー」という言葉で批判するように、確かにここには母性的承認の下で「政治と文学」の問題を接続する父権主義的な構造があることは否めないでしょう。
 
 

* コミットメントのコストを払ったのは誰か

 
ただ、本作はもう一つの側面があると思うんです。牛河の存在です。それまで「さきがけ」のエージェントとして青豆や天吾の周辺を嗅ぎ回っていた牛河という人物が〈BOOK3〉において突如、第3の主人公に昇格する。
 
ここまでの牛河は醜い外見と卓越した知性を持つ不気味な存在でしかなかった。ところが牛河パートにおいては牛河の内面描写に重点がおかれることになる。
 
その外見故に全く愛されずに育った少年時代や短かった家庭生活といった過去。嫉妬、憧れ、哀しみといった複雑な感情。ここで描き出される牛河はもはや不気味なエージェントではなくただの孤独な中年男性です。
 
そして、その存在を青豆サイドに覚知された牛河は最終的には青豆の同僚タマルによって惨殺されることになる。一方、牛河の介入をきっかけに青豆と天吾は再会を果たし、2人はパラレル・ワールドからの脱出に成功。この新しい世界で自分たちの子供を育てていくことを誓い合います。
 
牛河はその能力以外はいわゆる「キモくて金のないおっさん」そのものです。要するに、主人公の「ナルシシズム」と「正義」を実現するためのコミットメントのコストは最終的にはヒロインではなく「キモくて金のないおっさん」が支払っているということになります。牛河の唐突な主人公昇格と惨めな最期の描写はおそらくこの構図をはっきりと示すためのものだったのでしょう。
 
 

* リトル・ピープルの時代における想像力

 
本作が突きつけるのはコミットメントのコストは常に他者に転化され続けられるという端的な現実です。
 
これはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏においても共通する問題意識でしょう。それは例えば、誰かを助けるという事は誰かを助けない事を意味する「正義の在り処(Fate/Zero)」として、あるいは人が希望を願えばその等価の絶望が世界に回帰する「希望と絶望の相転移まどか☆マギカ)」として、描き出されることになります。
 
この点、本作終盤にて牛河の死体からリトル・ピープルたちが出現したのは示唆的といえます。コミットメントのコストを押し付けられた他者から新たなリトル・ピープルの暴力が生じてくることになるわけです。
 
本作においてリトル・ピープルの暴力には連合赤軍オウム真理教のイメージが重ねられていますが、2019年のいま、リトル・ピープルはさらに恐ろしい暴力を生み出しています。
 
それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としてのテロリズム、日本国内レベルで言えば格差社会の反作用としての「無敵の人」による無差別殺人事件という形で噴出する。
 
こうした現代の暴力は「大きな物語」無きところで生じるアイデンティティ不安というより、むしろ「小さな物語」同士の衝突として捉えるべきなのでしょう。
 
もはや「大きな物語」の失墜は自明となり、グローバリズムとネットワークが極まった世界から「外部」は消失し、この閉ざされた世界の中で人は好むと好まざるとそれぞれが信じる「小さな物語」を生きていくしかない。
 
もはや人々は強制的にコミットメントさせられている。ゆえにいまや問題はデタッチメントかコミットメントではなく、リトル・ピープルから不可避的に生じる「コミットメントのコスト」を収束させることなく如何に緩やかに処理できるかという点にある。おそらくそれこそが現代の「政治と文学」に求められる想像力なのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

享楽のピアノとコンステレーションの物語--「蜜蜂と遠雷(恩田陸)」

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

* 読むコンサート

 
第156回直木賞、第14回本屋大賞受賞作。7年以上に渡る連載中は全く話題にならず、おまけに度重なる取材によって制作費が嵩みにかさみ、初版発行時点(部数15000部/定価1800円)での製造原価表の利益欄がマイナス1057万円になったといういわく付きの超大作。
 
本作は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」を舞台に、出場者4人を主役にした群像劇です。かつてステージから逃げ出した天才少女の成れの果て(栄伝亜夜)。将来を嘱望されクラシックの覇道を邁進するスター候補生(マサル・カルロス・レヴィ・アナトール)。世界的巨匠が送り付けた天衣無縫のギフト(風間塵)。「生活者の音楽」を標榜する元音大生のサラリーマン(高島明石)。
 
こうした異なる境遇にある4人のピアニストがその音と生き様を華々しくも苛烈に競い合うことで物語は螺旋状に展開していく。そして彼らを見守る周囲の人々(ナサニエル・シルヴァーバーグ、嵯峨三枝子、菱沼忠明、浜崎奏)もそれぞれ際立つ個性で作品に重厚な奥行きを与えている。
 
本作の特徴は作中の大部分の描写がひたすらピアノコンクールにおける演奏描写に費やされる点です。恐るべき事に3次に渡る予選と本選に至るまで、主要登場人物の演奏は一曲も省かれることなく描かれます。
 
その数にしておよそ50曲。これら全ての演奏が、臨場感たっぷりに多彩な筆致で描き出され、たとえ全く知らない曲でも読み手に豊穣なイメージを惹起させます。まさに「読むコンサート」。なかなか斬新な読書経験でした。
 
 

* あらすじ

 
近年評価が目覚ましい「芳ヶ江国際ピアノコンクール」は3年毎の開催で今年で6回目を数える。その審査員を務める嵯峨三枝子はパリで行われたオーディションで一人の候補者の名前に目が止まる。
 
風間塵、16歳。コンクール歴無し。しかし書類の中に今は亡き世界的巨匠「ユウジ・フォン=ホフマンに5歳より師事」という一文と「推薦状あり」というマークを認め、三枝子は狼狽する。
 
果たして少年のその演奏はあまりにも圧倒的であった。極彩色のモーツァルト、エネルギーに満ちたベートーヴェン、大伽藍の如きバッハ。
 
しかし塵の演奏に得体のしれぬ恐怖、おぞましさを感じた三枝子は「ホフマンに対する冒涜だ」と癇癪を起こし、塵のオーディション不合格を強硬に主張する。しかしそこで目にしたホフマンの推薦状には彼女の反応を見透すかの様な文言が並んでいた。
 
 

* 「享楽」としての塵のピアノ

 
図らずもホフマンの掌の上で踊らされてしまった三枝子は自己嫌悪に陥りつつ、なぜあそこまで自分は我を忘れて怒り狂ったのかを省みて、多幸感と嫌悪感、快感と不快感は紙一重である事に気づくことになります。
 
こうしたアンビバレンスな感情は、想像界象徴界現実界からなる独創的な精神分析理論で名高いフランスの精神科医ジャック・ラカンのいう「享楽」の性質をよく表しています。
 
ラカンは当初、フロイトのいう「エディプス・コンプレックス」の構造化を通じ、無意識を一種の言語システムとして捉える理論を構築しますが、後にこの言語システム(象徴界)では処理不能な要素(現実界)に着目し、フロイトのいう「死の欲動」を理論化した「対象 a 」という概念を導入します。
 
この「対象 a 」というの言語や秩序と言った大文字の他者(Autre)の枠内に収まらない対象(autre)を言います。ラカンによれば人の「欲望」とは言語システムによって駆動する「快楽原則」において規定されるものですが、対象 a がもたらすのはこうした「快楽原則」では処理し切れない過剰な何かです。ラカンはこれを「享楽」と名付けました。
 
「享楽」は快楽を超えた過剰であるがゆえにある人にとっては至福や愉悦の源泉となり、ある人にとっては不安や嫌悪の源泉となる両価性を持っています。
 
三枝子たち審査員を含めた聴衆が目撃した塵のピアノはこの「対象 a 」としての作用を持っていたわけです。物事には常に裏と表がある。計り知れない不安や嫌悪を感じている自分の裏側には、言いようのない至福や愉悦を感じている自分がいるのではないか。そう言った視点を本作は描き出しているということです。
 
 

* コンステレーション

 
こうして風間塵はホフマンの目論見通り「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の台風の目となります。ホフマンの目論見。それは既存の音楽教育システムへの異議申立に止まらず、塵を媒介とすることで多彩な才能を開花させることでした。
 
「僕ね、先生に言われたんだ。一緒に音を外に連れ出してくれる人を探しなさいって」
 
「え?」
 
つかのまぼんやりして、亜夜は少年が呟いたことが聞き取れなかった。
 
今なって言ったんだろう?一緒に何とか、って
 
「おねえさんはそうかもしれない、って思ったよ」
 
(本書下巻より〜Kindle位置:148)

 

事実、塵の自由闊達な演奏と「音を外に連れ出す」というその欲望に亜夜は触発され、徐々にかつての天才少女の輝きを取り戻す。さらにそんな亜夜の姿はマサル、明石、奏たちにも大きな影響をもたらす。
 
この点、作中、奏やナサニエルが「巡り合わせ」という言葉で言及するように、本作は「コンステレーション」の物語としても読めるでしょう。
 
スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは人間の意識体系の枢要である「自我」に対して、無意識をも含めた心全体の中心部に「自己」という元型を仮定し、人が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、こころの中で起きる内的事象に呼応するかの如き外的事象が生じて、そこにひとまとまりの布置が描かれると言います。
 
こうした内的-外的に呼応する布置--すなわち「巡り合わせ」--をユング心理学では星座になぞらえて「コンステレーション」と呼びます。
 
 

* 「巡り合わせ」の中に「意味」を見出すということ

 
コンステレーションを読み抜いた時、そこには新たなその人なりの「物語」が紡ぎ出されてくる。この点、河合隼雄先生はユング心理学の要諦とは端的には「3つのC」にあるといいます。
 
すなわち、自らのうちにあるコンプレックスと対決していく上で重要なのは、日常において生起するコンステレーションの中で、現実とのコミットメントを重ねていく営みの中にあるということです。
 
本作に即して言えば、例えば亜夜は、母の死以来、ピアノに対して複雑な感情(コンプレックス)を抱いてきたけれど、コンクールにおける様々な巡り合わせ(コンステレーション)の中で、再びピアノ、音楽そして人生に向き合っていく(コミットメント)為の自己を取り戻していくわけです。
 
これは別に天才たちに限った話ではないでしょう。我々は日々「なんでこんな時に」という事態に遭遇する。けれどもその「巡り合わせ」に「まさに今だからこそ」という「意味」を見出していく。そこから新たな未来への可能性が開けてくることもあるのでしょう。秋深くなりつつあるこの季節に相応しい実り多き読書でした。
 
 

* 映画について

 
最後に映画について一言。キャストがあまりにも原作のイメージ通りで驚きました。シナリオは栄伝さんのトラウマ克服ドラマとして上手くまとめられており、なんとか2時間枠に収まるようにした苦心の跡が見られました。
 
本選指揮者の小野寺氏がラスボスみたいな扱いになっていたのは笑えましたが、亜夜の精神的パートナーともいえる奏が省かれたのは少々残念だったかもしれません。きちんと原作を読んだ後で観ると、一種のファンムービーとしてそれなりに楽しめると思います。
 
 
 
 

【書評】社会学入門(見田宗介)

 

 

 

* 「あいだ」を照らし出す

 
本書は社会学とは「関係の学」としての人間学であるといいます。社会はいうまでもなく「人間」によって構成されます。しかし、人間という「目に見えるもの」だけが社会の構成要素ではありません。人間と人間の「あいだ」にある「目に見えないもの」で、けれども確実に存在するもの--例えば「愛」とか「闘争」--そういった「関係」も社会の構成要素となります。
 
そもそも人間自体が「関係」の産物と言えます。我々が「こころ」と呼ぶものは--フロイト超自我と名付けた「良心」が「両親」と重ねられるように--〈わたし〉とは異なる〈他者〉との「関係」のシステムです。また、我々が「からだ」と呼ぶものも、様々な細胞の、突き詰めれば素粒子によって構成された「関係」のシステムと言えます。
 
あるいは、宝石店のショウケースで光り輝くあのダイヤモンドも、言ってみれば石炭と同様、炭素の集まりでしかありません。けれども、我々はあの石ころを「〈他者〉の言語」との「関係」において「永遠の愛の象徴」などとして認識するわけです。そしてこうしたダイヤモンドと単なる石炭を峻別するのはひたすらに炭素の「配列」の仕方、「関係」のありようの差異に基づくものです。
 
このような人と人の「関係」、人と物との「関係」といった様々な「あいだ」を照らし出すのが社会学であるという言い方もできるでしょう。
 
 

* 「社会」の4つのかたち

 
個々の人間の関係行為が「社会」を存立させる仕方としては、論理的に異質な4つのかたちに分けられます。この4つのかたちは2つの次元の組み合わせとして把握されます。
 
第一に、社会は個々人の「自由意思」によって主体的に形成されることもあり、また、個々人の「自由意思以前」に客観的に形成されていることもある。
 
前者を社会の「対自的」な機制、後者を社会の「即自的」な機制と呼ぶことができます。
 
第二に、社会は個々人間の「人格的」な関係態として存立することもあり、また、特定の利害関係等々に限定された「非人格的」な関係態として存立することもあります。
 
前者を社会の「共同態(ゲマインシャフト)」としての機制、後者を社会の「社会態(ゲゼルシャフト)」としての機制と呼ぶことができます。
 
こうした二つの軸を組み合わせると、以下の4つの根本的に異なった「社会」のあり方を導き出すことができます。
 
⑴ 共同体(即自的共同態)
 
個々人がその自由意思以前に宿命的な存在として全人格的に結合している社会。例えば、伝統的な家族共同体、氏族共同体、村落共同体。
 
⑵ 集列体(即自的社会態)
 
個々人の自由意志の相互干渉の帰結として、どの当事者に取っても疎遠な「社会法則」が客観的/対象的に発生し、個々人を規定する社会。例えば、個々人の私的利害の追求にもとづく行為の競合により「価格変動」「景気変動」が発生する市場。
 
⑶ 連合体(対自的社会態)
 
個々人の自由意思により、特定の利害や関心の共通性、相補性等々によって結合する社会。例えば、会社、協会、団体。
 
⑷ 交響体(対自的共同態)
 
個々人がその自由意思において人格的に呼応しあう仕方で存立する社会。例えば、様々な形の「コミューン的」な関係性。
 
 

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(本書より〜Kindle位置:275)
 

* 〈自由な社会〉を構想する為の具体的な道標

 
こうした社会存立の4つの機制は排他的なものではなく相補的な関係にたちます。例えば、原始社会は単純な共同体ではな〈諸共同体・の・集列体〉であり、また逆に近現代社会は〈諸連合体・の・集列体〉という構造を骨格としつつも、その中に多様な共同体および交響体を内包していると言えます。
 
また仮に、いつかの未来において交響体的な〈自由な社会〉が地表を覆う時代が来たとしても、それは単一の交響体ではなく、多彩な〈諸交響体・の・連合体〉として重層的にのみ構想される、と本書は言います。
 
こうした〈諸交響体・の・連合体〉からなる〈自由な社会〉を構想する為の具体的な道標を示すのが本書の「補 交響圏とルール圏--〈自由な社会〉の骨格形成」という事になります。
 
 

* 他者の両義性と圏域の相違

 
まず、ここで本書は社会の理想的なあり方を構想するには、原的に異なった二つの発想様式があるという。
 
すなわち、一方は、歓びと感動に満ちたユートピアを多彩に構想し、これを現実のうちに実現することを目指すという発想(関係の積極的な実質の創出)。
 
もう一方は、こうしたユートピアがもたらす不幸と抑圧を最小限に止めるためのシステムを設計する発想(関係の消極的な形式の設定)。
 
この二つの発想様式は他者の両義性に対応しています。すなわち、第一に他者は、人間にとって生きる上でのあらゆる感動と歓びと感動の源泉となります。第二に他者は、人間にとって生きる上でのほとんどの不幸と制約の源泉となります。
 
こうした他者の両義性を踏まえると、二つの社会構想の発想様式は対立するものではなく、むしろ相補的なものとして捉えられることになる。
 
ここで、重要なのは他者の両義性はその圏域を異にしている点です。
 
「歓びと感動の源泉としての他者」は、家族、恋人、親友等々、多くても自分の周囲の数十人に限定されるでしょう。これに対して、「不幸と制約の源泉としての他者」は必ず社会の全域を覆います。
 
つまり、社会構想における二つの発想様式は関係の射程圏域を異にしているということになります。この点を見落としてしまうと、ユートピアはたちまち「全体主義」という名のディストピアに転化してしまいます。
 
こうしてあるべき社会構想の形式は「歓びと感動の源泉としての他者」からなるユートピア(〈交歓する他者〉たちの交響圏)と、その外部に存在する「不幸と制約の源泉としての他者」との関係性をルールによって調整するシステム(〈尊重する他者〉たちのルール圏)からなる複層構造、すなわち〈関係のユートピア・間・関係のルール〉としていったん定式化されるわけです。
 
 

* 〈交響するコミューン・の・自由な連合〉

 
〈尊重する他者〉たちの関係コンセプトはいわばルールという「社会契約」の関係となります。これに対して〈交歓する他者〉たちの関係コンセプトは、本書によれば、いわゆる「コミューン」のエッセンスを確保しながらも、個の自由という原理を明確に優先することを基軸に批判的転回を行うものであるといいます。
 
要するにこの批判的転回というのは、これまでの歴史におけるコミューンの負の側面を踏まえているわけです。コミューンにおいてしばし叫ばれる「連帯」や「結合」や「友愛」という美名は時に同調圧力となり個人の自由を時に抑圧する。
 
ゆえにあるべきコミューンとは、個々人の「自由」が第一義的に優先され、個々人の同質性ではなく異質性を積極的に受容する限りで成り立つ空間であるということです。
 
具体的に言えば、個々人にはコミューンを選択、脱退、移行、創出する自由が確保されていなければならない。こうした自由はコミューン外部のルールによって初めて現実に保証される。
 
本書はこうした異質な諸個人の自由な関係性からなるコミューンを、同質性のもとで〈溶解するコミューン〉からの批判的転回という意味で〈交響するコミューン〉と名付けます。
 
こうして〈関係のユートピア・間・関係のルール〉は〈交響するコミューン〉相互の外部的自由と、〈交響するコミューン〉を構成する内部的自由という「二重の仕方」で徹底された〈自由な社会〉として構想されます。こうした〈自由な社会〉を筆者は〈交響するコミューン・の・自由な連合〉と名付けます。
 
 

* ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト

 
こうした本書の社会構想論は、近代社会学の基本的発想である「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という段階理論に対して異を唱えるものでもあります。
 
すなわち、「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」というのは表面的な見せかけであり、これまでの人間社会を構造として捉えるのであれば、それは常に「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」という複合構造を内包していたということです。
 
例えば近代的な「大きな物語」が失墜し「小さな物語」が島宇宙的に並立する現代におけるポストモダン状況も、まさにこの「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」の複合構造が妥当するでしょう。
 
こうして「ゲマインシャフト・間・ゲゼルシャフト」を人間社会の一般的な複層構造として理解するのであれば、望ましい社会のあり方としては「ゲゼルシャフトの徹底」でも「ゲマインシャフトの回帰」でもなく、この二つの水準の双方における「自由の貫徹」という仕方で構想されるべきことになります。
 
つまり本書のいう〈交響するコミューン・の・自由な連合〉は、〈共同体・の・集列体〉という自由意志以前の社会の複層構造を〈交響体・の・連合体〉という自由意志による社会の複層構造を目指すというものです。
 
 

* 「いまここの現実」を変えて行くために

 
もっとも、現実の「社会」は多くの場合、学校、職場、サークル、ゼミナール、地域コミュニティなど、交響圏ともルール圏とも言えない中間領域と言えるでしょう。
 
けれどもこうした現実を前にしてもなお、本書が示す社会構想はその輝きをまったく失わない。このような中間領域においても、本書は〈交響性〉と〈ルール性〉のドミナンス(相対的優位)という理念的基軸を提示する。
 
すなわち、本書の構想が照らし出す「社会」は我々の目の前にあります。すなわち本書が示すのは「ここではないどこかの理想」を描く絵空事ではなく、まさに「いまここの現実」を変えて行くための実践知であるということです。
 
 

* 問題意識を禁欲しないということ

 
社会学は〈越境する知〉であると本書はいいます。実際にマックス・ウェーバー以来、近代社会学の先人たちは経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学などなど様々な学問領域を縦横無尽に踏破してきました。
 
しかしここで重要なことは〈越境する知〉というのはあくまで「結果」であり「目的」ではないということです。
 
では何の「結果」であるか?それは畢竟、「ほんとうに大切な問題」にどこまでも誠実であるという態度の結果であるということです。
 
本当に自分にとって社会にとって切実でアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする態度から、止むに止まれず越境を突破する。こうした「問題意識を禁欲しない」という開かれた態度の先にこそ真理はあるということでしょう。
 
 

* 死とニヒリズム・愛とエゴイズム

 
この点、見田氏自身の「ほんとうに切実な問題」というのは、幼少期からの「人間はどう生きたらいいか」「ほんとうに楽しく、充実した生涯を送るには、どうしたらいいか」というシンプルな疑問から出発しています。そしてこのシンプルな疑問は二つの現問題として構成されます。
 
第一に人間は必ず死ぬ、人類の全体もまたいつか死滅する、その人類がかつて存在したということを記憶する存在さえ残らない。ゆえに全ては結局は「むなしい」のではないかという「死とニヒリズムの問題系」。
 
第二に、その生きている間、すべての個体はそれぞれの「自分」をもって、世界の中心のように感じて、他の「自分」と争ったりまた愛したりする。この「自分たち」の関係性が、友情や恋愛や家族の問題から経済や政治や国際関係の問題に至る、実に様々な現実的な問題の根底にあり核心にあるのではないかという「愛とエゴイズムの問題系」。
 
こうした二つの「原問題」に対して、見田氏がおぼろげながらようやく解決の見通しをつけたのが、40歳近くになって書き上げた「気流のなる音--交響するコミューン」であり、次に「死とニヒリズムの問題系」に決着をつけ「爽快に解放」されたのが、その4年後に公にした「時間の比較社会学」であり、そして「愛とエゴイズムの問題系」をその根源から掌握する地点にまで至ったのが、そのさらに12年後に世に問うた「自我の起源--愛とエゴイズムの動物社会学」だったわけです。
 
こうして原初の疑問から50年近くの歳月が流れた。それではある意味で本末転倒なのではないのか?そういう起こりうる疑問に対して、見田氏は次のように答えています。
 
ほんとうに自分にとって大切な問題を、まっすぐに追求し続けるということは、それ自体が、どこまでもわくわくとする、充実した年月なのです。ひとりの人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題とつながってきます。「生きた」問題、アクチュアルな問題を追求して行けば、必ずその生きた問題、アクチュアルな問題に共感してくれる先生たち、友人たち、若い学生たちに恵まれて、そこに〈自由な共同体〉の輪が広がります。
 
(本書より〜Kindle位置:213)

 

 

* 「生きた知」としての社会学

 
空前絶後、屹立した孤峰(上野千鶴子)」と称される見田社会学。今もって多くの人々を魅了する煌びやかな数々の議論は、こうした苛烈で真摯な知的格闘の中から産み出されたわけです。そしてその試行錯誤の中にこそ、社会学を学ぶということ、社会学を生きるということの〈至福〉があるということです。
 
グローバリズムとネットワークが極まった現代において、様々な環境や価値観は加速度的に変化して行き、昨日までのスキルが今日は普通にゴミとなる。そういった不安と混迷の中、システムに抗い希望を創り出す為には、流転する状況の中でどんな時にでも、自らの生のリアリズムの在り処、他者との関係性の在り方に対して自分なりの物語を紡ぎ出す「生きた知」が必要となる。本書はそうした「生きた知」としての社会学へと誘う魅惑と刺激に満ちた一冊と言えるでしょう。
 
 
 

構造を内破する希望の在り処--魔法少女まどか☆マギカ

 

 

 

* 魔法少女なる構造

 
日本における魔法少女の黎明期は1960年代に遡ります。当時一世を風靡した「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」といった作品は当時の少女漫画的文法に即しており、そこで描かれるのは「お姫様」や「大人の女性」への素直な憧憬でした。まさに魔法少女という存在が万能の願望器であった時代です。
 
ところが80年代における「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」では「夢は魔法では叶えられない」「大人になるとは魔法を失うことである」という魔法少女の限界性が問題意識として前景化します。
 
そして90年代に入り「魔法少女」というジャンルに一大転換をもたらしたのが、戦隊ヒーロー的文法に則って描かれた一連の「美少女戦士セーラームーン」シリーズです。ここで変身バンクやお助けマスコットという「魔法少女」を構成する「お約束」が確立する。
 
かくして「魔法少女」とは「物語」ではなく「構造」へと変容する。こうして以後「魔法少女なる構造」に依拠したパロディ的作品群が急増することになります。
 
このような「魔法少女なる構造」に自覚的でありながらも、正統派少女マンガ的文法へ回帰を果たした成功例が「カードキャプターさくら」であり、逆に「魔法少女なる構造」にロボットアニメ的文法を接続した成功例が「魔法少女リリカルなのは」という事になります。
 
こうした流れの中で2011年1月、魔法少女なる構造」それ自体を脱構築するかの如き作品が世に問われました。
 
 

* 現代アニメーションの総決算

 
魔法少女まどか☆マギカ」。周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが成し遂げた奇跡の交響曲にして現代アニメーションの総決算。
 
その社会的反響は凄まじく、BD第1巻の初週売上はテレビアニメ史上最高(当時)の5万3000枚。関連グッズは100社近くものメーカー(2012年春時点)によって制作され、グッズの累計売上総額は約400億円(2013年時点)
 
最終回放映後は特集記事が世に溢れかえり、各分野の名だたる著名人が本作に言及し、2011年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。まさしく記録と記憶、両方に残る作品といえます。
 
本作は「魔法少女なる構造」をいわば「ゼロ年代サブカルチャーの文法」で捉え直した試みであるという事も出来るでしょう。では本作を規定する「ゼロ年代サブカルチャーの文法」とはなんでしょうか?
 
 

* あらすじ

 
物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。
 
その後魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやか魔法少女巴マミと出会うマミに救われたまどかとさやかは、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される
 
マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。
 
刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。
 
 

* ループ構造

 
「ループ構造」という形式自体は古い海外SFでもよく見られるもので、本邦のアニメ作品においても1984年に公開された押井守氏の傑作「うる星やつら2-ビューティフル・ドリーマー」が有名でしょう。
 
こうしたループ構造はゼロ年代において急速に漫画、アニメ、ゲームのサブジャンルとして定着する事になります。その背景には周知の通りKey作品などをはじめとした「恋愛アドベンチャー(恋愛ADV)」と呼ばれるPCゲームの隆盛があります。
 
恋愛ADVにおいては通常、選択肢次第で異なった物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されています。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。
 
そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。このように恋愛ADVのシステムはループ構造と極めて親和性を有していたわけです。
 
この点、ループ構造のパターンは大きく分けて「世界全体のループ」「閉鎖空間内のループ」「特定キャラのタイムリープによるループ」の3つがあり、本作は最後の部類に当たります。
 
本作の特徴は、このループ構造が物語終盤に明らかになり、かつループの主体は主人公のまどかではなく、むしろこれまで敵役として描かれてきたほむらであった点にあります。ここで視聴者はこれまでの世界観をひっくり返される事になります。
 
 

* ゲーム的リアリズム環境分析的読解

 
ここで重要なのは、ほむらは物語の「キャラクター」であると同時に、この物語を延々と反復するゲームの「プレイヤー」でもある点です。
 
その意味で本作は東浩紀氏がいうメタ物語的想像力に侵食された物語的想像力、すなわち「ゲーム的リアリズム」の文法で記述されていると言えます。ゆえに本作は物語を素直に読み解いていく「自然主義的読解」とは別に、物語と現実の間に「物語が読まれる環境」を挟み込む読解技法、東氏のいう「環境分析的読解」が機能するケースに該当します。
 
この点「自然主義的読解」からすれば本作は後述の通り、物語の主人公であるまどかが自らのコンプレックスを克服し、究極の願いを成し遂げた「成長の物語」であり「自己実現の物語」となります。
 
しかし「環境分析的読解」からすれば本作は、ゲームの「プレイヤー」であるほむらが、ゲーム内の「ヒロイン」であるまどかに「勝ち逃げ」されて、一人残された状況で幕を閉じる「挫折の物語」となります。
 
そう、ほむらにとってゲームはまだ終わっていない。こうして、ほむらにとっての「トゥルーエンド」は次作「叛逆の物語」に持ち越されることになります(もちろん「叛逆」が、果たしてトゥルーなのかどうかは異論もあるでしょう)。
 
 

* バトルロワイヤル構造

 
「バトルロワイヤル構造」とは厳格なルールの統制と閉鎖的状況の下で、参加者達が互いに殺しあうゲームを強制される状況をいいます。その起源は言うまでもなく、1999年に出版され大きな反響を呼んだ高見広春氏の小説「バトルロワイヤル」です。
 
本作のバトルロワイヤル構造は以下の通りです。
 
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。
 
このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。
 
このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にある。
 
つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせ「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。
 
 

* セカイ系決断主義

 
こうしたバトルロワイヤル構造は、ゼロ年代の社会情勢を背景として徐々に、当時のサブカルチャーを支配する想像力となっていきます。すなわち「セカイ系」から「決断主義」へ至る変遷です。
 
ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」、すなわち、これまで社会を支えてきた共通の価値観が失墜したポストモダン的状況がさらに加速するゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。
 
この点、最も安易な選択肢が、他者を拒絶し「君と僕の優しいセカイ」という「小さな物語」に引きこもることで幼児的万能感を確保する態度です。こうしてゼロ年代初頭においては「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」をはじめとする「セカイ系」と呼ばれるポスト・エヴァンゲリオン的作品群が一世を風靡する。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。米同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。
 
もはや「正義」がないのであれば自らが信じる「小さな物語」を賭金として「正義」をでっち上げるしかない。こうした態度を宇野常寛氏は「決断主義」と呼びます。こうしてゼロ年代中期においては「デスノート」「Fate/stay night」「コードギアス・反逆のルルーシュ」をはじめとする、セカイとセカイが正義を奪い合う「決断主義」的な傾向を持つ作品群が台頭する。
 
もちろん、こうした決断主義が跋扈する救いなき情況こそがベストだとは到底言えないでしょう。宇野氏も述べる通り、我々は他者との間に欲望の簒奪ゲームではない新たな関係性を見出して、決断主義を乗り越えなくてはならない。
 
こうした問題意識から、多くの決断主義的作品においては、いかにしてこの不毛なゲームを終わらせるかという「決断主義への批判力」が内在しています。本作はこうした「ポスト・決断主義」の一つの到達点を示した作品です。そういう意味で本作は「ゼロ年代の想像力」の総決算でもあります。
 
 

* 「外部」なき現代社

 
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。」
 
「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。」
 
「これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!」
 
(本作最終話より)

 

終わりなき魔法少女のバトルロワイヤルに終止符を打った「まどかの願い」。周知の通り本作最終話は、あの東日本大震災の発生により放映が延期され、震災の恐怖と衝撃が未だ冷めない翌月、世の中に向けて問われました。
 
多くの命を代償として詳らかにされたのは、この現代日本における社会システムの硬直性と杜撰さでした。このなんとも言えない閉塞感が日本中を覆い尽くす中、本作において、まどかが高らかに宣明したあの願いは、あの祈りは、あの叫びは、決して大げさな意味ではなく、時代のエントロピーそのものに抗う想像力を体現したものであったと思います。
 
本作において示されるのは、もはや魔法少女が万能の願望器でもなんでもなく、少女達の「願い」がただただシステムを稼働させるための動力源として搾取されていく世界観です。
 
それはまさしく、グローバル化とネットワーク化がますます加速する中、アーキテクチャによる環境管理型権力の統制のもとで人間がモルモットのように飼い慣らされる現代社会の構造それ自体の鏡像ではないでしょうか。
 
こうした構造は、超越的な「外部」を消去し、これまで人々の生のリアリティを支えてきた幻想を破綻させます。正義は勝つとは限らない。努力は報われるとは限らない。未来は素晴らしいとは限らない。世界は所詮、金と偶然に規定されたガチャに過ぎない。
 
こうした構造自体から我々はどうやっても逃れられない。ここで無理矢理にでも構造の「外部」に希望を見出すような生き方に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」という絶望として跳ね返ってくるでしょう。
 
 

* 希望の在り処

 
そもそも希望とは何なのでしょうか?もし仮に希望と絶望が「差し引きゼロ」なのであれば、希望の本質は「歪み」であり、誰かが希望を願えば、それだけの絶望が誰かに回帰する事になる。誰かを救うという事は誰かを救わないという事であり、誰かが幸せになるという事は誰かが幸せになれない事である。
 
希望の本質をこのように捉えた時、その抵抗の戦略はその絶望を一点に収束させずにいかに拡散させていくかという点に見出されるでしょう。この点、本作ラストに登場する「魔獣」はまどかの改変した新たな世界における形を変えた絶望の回帰です。そういった意味ではまどかの世界改変は、希望と絶望の相転移をより緩やかで受け入れ可能なものに変える一種の「設計主義」ともいえるのかもしれません。
 
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」
 
(本作最終話より)

 

 
こうして「まどかの願い」は現代を生きる我々にとっての希望の在り処さえも照らし出します。すなわち「構造」の外部に超越性を見出すのではなく、むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方なんだと思います。
 
いわば「まどかの願い」は世界の構造に対して鋭い「NO」を突きつけると同時に、人々の生に対する力強い「YES」のメッセージでもありました。そういった意味において、本作が幅広い時代の共感を産み出したのは、まさしく共時的なめぐりあいであり、必然的なコンステレーションだったのではないでしょうか。
 
 
 
 

「きずな」を紡いでいく、その力--あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

* 「ゼロ年代の想像力」の到達点としての「あのはな」

 
本作のタイトルは通常「あの花」と略されますが、公式には「『あ』の日見た花『の』名前を僕達『は』まだ知ら『な』い」を略して「あのはな」なんですね。最近気づきました。
 
2011年に放映された本作は、気鋭の脚本家、岡田麿里氏の出世作として知られています。そして本作は同時にいわゆる「ゼロ年代の想像力」の到達点をも示しています。
 
現在(2019年9月)放映中のTVアニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」で岡田脚本のえげつない魅力に取り憑かれた方は、氏の原点である本作を観た上で、来月公開の映画「空の青さを知る人よ」を観に劇場に行ってみてはどうでしょうか。
 
 

* あらすじ

 
宿海仁太(じんたん)本間芽衣子めんま安城鳴子(あなる)松雪集(ゆきあつ)鶴見知利子(つるこ)久川鉄道(ぽっぽ)
 
彼ら彼女ら6人は「超平和バスターズ」の名の下で少年少女時代の、何物にも代え難い「あの時」を共にした間柄だった。
 
しかし芽衣子の死をきっかけに、超平和バスターズは決別。それぞれが「芽衣子の呪縛」を抱えつつ、中学卒業後の現在では互いに疎遠な関係となっていた。
 
しかしある日、高校受験に失敗以来引きこもり気味の生活を送っていた宿海の元に、突然、死んだはずの芽衣子が現れる。
 
芽衣子の姿は宿海以外の人間には見えない。そして宿海は彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。
 
これを契機に、それぞれ別の生活を送っていた超平和バスターズの面々は再び集まり始め、皆は「めんまの願い」を叶え、彼女を「成仏」させるために奔走する(以下、ネタバレあり)。
 
 

* 「欲望とは〈他者〉の欲望」である

 
こうして物語終盤、超平和バスターズの面々は様々な障害をどうにか乗り越え「めんまの願い」とされる「花火の打ち上げ」に見事成功する。
 
けれど、芽衣子は「成仏」しなかった。何故なのでしょうか?ここで皆は初めて「めんまの願い」の意味を真剣に考え始める。
 
フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「欲望とは〈他者〉の欲望」であると言います。人の生のリアリティを支える「欲望」の根源には「Che vuoi?--あなたは何を求めているの?」という問いに対する欲望があるという事です。
 
彼らは「めんまの願い=〈他者〉の欲望」と向き合う事で、己の抱えている自らの欲望に向き合う事になる。そして、芽衣子の「本当の願い」とはまさにこの点に関わってくるわけです。
 
 

* 「セカイ系」と「決断主義

 
果たしてその後、神社の境内に皆で集まり話し合いを続けていくうちに、各人は次々に「めんまの成仏」に奔走する裏にあった自らのドロドロとした打算とエゴイズムを吐露し始めます。
 
本作の凄みはまさにこの点にあります。実はここで詳らかにされる構図は何気にゼロ年代における「セカイ系」から「決断主義」に至る総括になっています。
 
これまで社会を支えてきた共通の価値観である「大きな物語」が失墜し、ポストモダン的状況がさらに加速したゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。
 
この点、ゼロ年代初期に台頭したポスト・エヴァンゲリオン的「セカイ系」は他者の拒絶と母性的承認による全能感確保という極めて安易な「小さな物語」の中に引きこもる態度です。
 
これに対して、ゼロ年代中期に台頭するデスノート的「決断主義」は任意の「小さな物語」を賭金として正義をでっち上げ、異なる物語を生きる他者との間で欲望のバトルロワイヤルに明け暮れる態度をいいます。
 
こうしてみると、一方で、芽衣子を成仏させず独占し続けたい宿海の欲望はセカイ系主人公のメンタリティそのものであり、他方でそれぞれの打算とエゴイズムからめんまの成仏」を企てる他の超平和バスターズ達の欲望は、いわば決断主義者達のそれに他ならない、ということが解るでしょう。
 
 

* ゼロ年代の想像力の「その先」

 
このように芽衣子亡き後をめぐる各人のスタンスの対立という本作の構図はまさしく「大きな物語」亡き後をめぐる「小さな物語」同士の対立というゼロ年代ポストモダン状況とパラレルな関係で捉えることができるわけです。
 
そして本作は同時にゼロ年代の想像力の「その先」をも示しています。皆が自分の胸のうちを洗い晒しにして、お互いの苦しみを分かち合ったその時、そこにはとぎれとぎれで歪ながらも確かな「きずな」があったことに気づく。
 
ここに来てようやく「この6人で超平和バスターズなんだ」という極めて単純な、けれども何物にも代え難い、たったひとつきりの真実に行き当たり、終わりなき決断主義ゲーム、欲望のバトルロワイヤルに終止符が打たれる事になる。
 
そしてあの日以来、凍り付いていた時が再び動き出した。こうして「きずな」の再生を見届けた芽衣子は皆に見送られ、天に還っていった。
 
 

* 「きずな」を紡いでいく力

 
本作品が放映されたのは奇しくもあの東日本大震災の直後、2011年4月です。未曾有の大災害をきっかけに堰を切ったようにして世に溢れ出した一つのキーワード。それは「きずな」という言葉でした。
 
確かに「震災」という文脈で言えば、あの言葉は問題の本質に蓋をするような胡散臭い側面があるのはもちろんです。ただ「ポスト・ゼロ年代」というパースペクティヴの中でこの「きずな」という言葉を捉えた時、それはおそらく、様々なクラスターや格差などによってズタズタに寸断されてしまった今の日本においてオルタナティブな社会的紐帯と自分の居場所を希求する人々の願いでもあったとも思うんです。
 
寸断されたものをつなぎあわせる「きずな」を紡いでいく力。仮にもし、そんな力があるとすれば、人はそれを「愛」と呼ぶのでしょう。先のラカンは「愛とは常に持っていないものを与えるものである」という有名な言葉を残しています。そういう意味で本作はポスト・ゼロ年代における「愛の物語」だと、そう呼べるのではないでしょうか。
 
 

置かれた場所で咲くための「人格論」講義--「ひと」として大切なこと(渡辺和子)

 

「ひと」として大切なこと PHP文庫

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* あの伝説の「人格論」講義を完全収録

 
かの200万部のベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」をお読みになった方であれば、著書の渡辺和子シスターが学長を務めていたノートルダム清心女子大学で毎年行なっていた「人格論」という講義はご存知でしょう。
 
本書はこの「人格論」を完全収録したいわばLIVE実況中継本です。昭和60年頃の講義が当時の語り口などもそのままに収録されています。
 
「人格論」という言葉から何か「正しい生き方」を一方的に押し付ける「お説教」のようなものを想像しがちですが、もちろんそうではなく、講義は主に臨床心理学方面の知見に基づいており、そこで示されるのはむしろ、自由で多様性のある豊かな生を送るための方法論です。
 
本書は「置かれた場所で咲きなさい」で語られた実践を理論的、体系的に補完する隠れた名著といえるでしょう。
 
 

* 「人格」とパーソナリティ

 
講義のはじめの方で「人格(Person)」の定義が2つ挙げられています。
 
まず一つ目は、人格とは「理性的性質の個体的実体」であるという、6世紀にボエチウスというイタリアの哲学者が述べた定義です。
 
そして二つ目は、人格とは「自ら判断し、判断に基づいて決断し、その決断に対してはあくまで責任を取る存在」であるという、20世紀のフランスの哲学者ガブリエル・マルセルの述べる定義です。
 
マルセルの定義はボエチウスの定義を現代的に洗練させたものと言えます。そしてマルセルは「付和雷同するようでは単なる人間であって人格とは言い難い」と付け加えます。ここで「人格」と「人間」が区別されています。
 
このように、人格とは「考える力(理性)」と「選ぶ力(自由意志)」を備え「責任」を引き受ける主体ということになります。
 
もちろん、何かの障害などの事情でこうした能力が十分に備わっていない人を「人格ではない」と蔑んだり、排除して良いという意味ではありません。シスターも厳重に釘を刺しているように、人の尊厳・価値は人格の尊厳とは無関係であることはいうまでもありません。
 
これは別の意味でいうと「人格」として生きることと「人格者かどうか」とは無関係であるということです。
 
この点、人格から生じてくるものを「人格性(Personality)」といいます。心理学者、ゴードン・オルポートの定義によれば人格性とは「個人の内部にあって、その人の特徴的な行動と思考を決定するところの精神、身体的体系の動的組織」をいいます。これはアドラー心理学でいうところの「ライフスタイル」の概念に重なります。
 
「動的」とは「変化する」ということです。我々は生まれてこのかた不断にこの人格性、パーソナリティを形成し続けている。その結果、社会適応的なパーソナリティが形成される事もあるし、不適応なパーソナリティが形成される事もあります。
 
 

* パーソナリティの形成要素

 
こうした、パーソナリティの形成要素は第一に遺伝が関係しており、そして第二に環境が関係すると言われています。
 
この点、心理学者、ウィリアム・シュテルンはパーソナリティ形成において、この遺伝と環境の輻輳説を唱えます。これに対して本書は遺伝や環境を超越するものとして「自己」という第三の要素を強調します。
 
すなわち、人のパーソナリティは必ずしも遺伝や環境の産物に還元されるものではない。人格としてよりよく生きるにはまず「自己」を深く知る「自己理解」が大事になるということです。
 
 

* 二つの「自己」

 
この点、本書がいう「自己」とはおそらく「カウンセリングの神様」と呼ばれる来談者中心療法の創始者、カール・ロジャーズに依拠したものと思われます。
 
ロジャーズによれば「自己」には「理想の自己」と「現実の自己」の二種類があります。
 
まず、我々は「こうありたい自分」「自分から見た自分」という「理想の自己」を持っている。これを「自己概念」と言います。
 
発達論的観点からいうと、こういう「理想の自己」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンのいう「鏡像段階(生後6ヶ月〜18ヶ月)」にて形成されると言われてます(精神分析ではこれを「理想自我」と言います)。
 
そして、こうした「理想の自己」とは別に、我々は「ありのままの自分」「他人からみた自分」という「現実の自己」に直面します。これを「経験的自己」と言います。
 
例えば「自分は知的でクールに振舞っている」という自己概念を持ってる人が他人から「お前は暗くて空気が読めない奴だな」などと言われると深く傷つくでしょう。要するに「理想の自己」と「現実の自己」の間に齟齬があると苦しいわけです。そこで両者を近づけていく営みが重要となります。
 
 

* 「自己一致」と「泥かぶら」

 
つまり「自己理解」の営みにおいては、まずは「理想の自己」を「現実の自己」の方へ引き寄せる努力をする一方で「現実の自己」を「理想の自己」へと引き上げていく努力も重要となるわけです。こうした先にあるものがロジャーズのいう「自己一致」です。
 
ここで引き合いに出されるのが後年もシスターが好んで引用する「泥かぶら」という寓話です。
 
この話は眞山美保さんという劇作家の方が昭和20年代に創作した戯曲で、容姿が醜く「泥かぶら」と呼ばれて村中でつまはじきにされていた女の子が、ある日、通りすがりの旅人から「村一番の美人」になる秘訣を教わり、本当に「村一番の美人」になるという話です。
 
旅人が女の子に教えた秘訣はたった三つです。
 
「いつもにっこり笑うこと」「人の身になって思うこと」「自分の顔を恥じないこと」
 
この三つの教えを真摯に実行することで、彼女は「泥かぶら」と呼ばれる容姿のまま、村中から愛される「美しさ」を手に入れるわけです。
 
もちろん現実はお話のように上手くいかないでしょう。けれどこの寓話は「自己理解」における一つの指針を示しています。
 
すなわち、アメリカの神学者ラインホールド・ニーバーの言葉でいう「変えられるものを変える勇気」「変えられないものを受け止める心の静けさ」「その両者を見極める英知」。この3つの要素が揃って初めて人はより良く自らを知る事ができるわけです。
 
 

* 聖所をもって生きるということ

 
「自己」を深化させる上では「自己理解」とともに「他者理解」も重要になります。
 
この点、本書は他者との間に100パーセントの理解は不可能であると言います。自分は自分でしかない。他人は他人でしかない。シスター自身が言うようにこれはある意味で「淋しい考え」なのかもしれません。
 
けれども人格論の根本はまさにこの「淋しさ」からの超越にあります。こうしたあり方をシスターは「聖所をもって生きる」と表現します。
 
人には相互に理解できない部分、すなわち「聖所」がある。自分は他人をわかり尽くせないし、他人は自分をわかり尽くせない。その互いに理解しあえない「淋しさ」を受け止め、味わい、澱まで飲み干していく。
 
「聖所」というのはある意味で「心の闇」を持つという事です。本書は「あかりをつけたら闇がもったいない」と言います。闇には闇の価値がある。
 
こうした闇と向き合う過程がその人に深みを与えていく。孤独を知った人だけが持つことができる優しさ、微笑み、強さ、そういうものが生まれてくるという事です。
 
 

* 「ごたいせつ」としての愛のまなざし

 
このように人と人は完全にはわかりあえない。その現実を引き受けた上で、他者と成熟した関係性を構築していかなければならない。それがほかならない「愛の実践」です。
 
「愛」という言葉がいたるところに溢れかえる世の中ですが「愛」とは一体なんでしょうか?「愛」と「好き」はどのように違うのでしょうか?本書では3つの愛の定義を挙げています。
 
まず極めて一般的な定義によれば、愛とは「ある人とって価値ありとされた対象によってその人が引きつけられた時に起きる精神的過程」である(世界大百科事典)。
 
ここでいう「価値」を何に見出すかは人それぞれです。そして時にとんでもないものに「価値」を見出してしまった人が凄惨な事件やテロを起こすわけです。このように「愛」という感情は人の欲望を駆動させる取り扱いが厄介なものです。
 
一方、本書は2番目に、我が国のハンセン病治療に尽力されたことで知られる神谷恵美子先生の定義を示します。神谷先生によれば愛とは「互いにかけがえのないものとして、相手を愛おしむ心、相手の生命を、その最も本来的使命に向かって、伸ばそうとする心である」ということになります。
 
なかなか美しい定義です。一般的な定義が精神的過程を記述しているのに対して、神谷先生の定義はどちらかといえば人と人の間の関係性に主眼をおいています。
 
そして本書は愛の3番目の定義として愛とは「ごたいせつ」であるといいます。16世紀にキリスト教布教の為来日した宣教師たちは「神の愛」という概念を日本人に説明するため「デウスのごたいせつ」という言葉を使ったと言われています。
 
つまり「ごたいせつ」としての愛は、たとえどんなにどうしようもない人であっても、一人一人が価値のある代え難い存在として慈しんでいく態度です。
 
以上の3つの愛の定義を重ね合わせる事で「愛」を「好き」とは異なる概念として取り出す事が可能となります。
 
すなわち、感情的、生理的な「好き」と、意志的、人格的な「愛」は截然と区別可能であり、ここで我々は「好きでないけども愛する事はできる」という態度を獲得します。
 
このように「愛」を捉える時、人はありもしない桃源郷に囚われる苦しみから自由になり、むしろなんでもない日常のあたり前を輝かせる力を得ることができる。まさしく、エーリッヒ・フロムが言うように「愛すると言うことは、単なる熱情ではない。それは一つの決意であり、判断であり、約束である」という事です。
 
 

* 置かれた場所で咲くということ

 
「置かれた場所で咲きなさい」の大ヒットは渡辺人格論にようやく時代が追いついた証左ではないでしょうか。
 
ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」が凋落した現代においては、もはや人は好むと好まざると何がしかの「小さな物語」を選択して生きていくしかない。
 
すなわち、もはや社会共通の「正しい価値」が失われれた今、我々はそれぞれが信じる価値を決断と責任を持って主体的に引き受けていく、「人格」としての生き方が求められている。これがまさに「置かれた場所で咲く」という事です。
 
いかなる価値を選ぶかは人それぞれです。けれどもその結果、こんなはずじゃなかったと後悔する確率を少しでも下げる為の幅広い視野と見識は持っておかなければならない。こうした意味で本書が示すのは、比較不能な価値が跋扈する現代を生き伸びる為の教養そのものだと言えるでしょう。
 
 

【感想】「Fate/stay night [Heaven’ s Feel] II. lost butterfly」--幸福と正義の間

 

 

 

* Fate/stay nightの裏街道にして到達点

 
2004年にTYPE-MOONより発売された「Fate/stay night」はゼロ年代を代表するPCゲームの一つとして、これまでも様々なメディアミックスが展開され、その度に幅広い支持層を開拓してきました。
 
映像化に関しても第1のセイバールート(Fate)が早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化されています。
 
こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)でした。桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道にして到達点と言えます。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。
 
こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていましたが、ついに満を持して2017年より劇場3部作として広く世に問われることになります。本作はその3部作中の第2章になります。
 
 
(以下、ネタバレあり)
 
 
 
 

* あらすじ

 
とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。
 
10年前の第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた衛宮切嗣への憧憬からいつか切嗣のような「正義の味方」となり、誰もが幸せな世界を作るという理想を追いかけていた。
 
そんなある日、士郎は偶然にサーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「セイバー」と呼ばれる見目麗しい少女であった。
 
聖杯戦争の説明を受けるため、遠坂凛に連れられて監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。
 
「喜べ少年、君の願いはようやく叶う」
 
「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ」
 
 

* 不人気ヒロインから銀幕の大女優へ

 
以上が原作序盤の展開となります。しかし映画ではなんとこの肝心な部分の大半がばっさり省略されており、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成となっています。
 
おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFateの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないでしょう。そしてこの映画が凄まじいのは、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てを、間桐桜という業の深い少女のヒロイン性を深化させるというそのただ一点に投入してしまっているところです。
 
何というか、桜ちゃんという子は諸般の事情もあり長らく、どちらかといえば不人気ヒロインの不遇を託っていたわけですが、この映画においては桜びいきで知られる須藤友徳監督の狂気的ともいえる愛情により、圧倒的な儚さと昏さと妖艶さを持つ銀幕の大女優に生まれ変わっています。
 
そういうわけで本作第1章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないわけですが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの歪みによって生み出されているわけです。
 
 

* 脱構築される正義

 
こうした第1章の続編である本作は士郎がセイバーを喪ったところから始まります。そしてその序盤、はたして桜はサーヴァント「ライダー」のマスターであり、さらに凛の妹であったと言う事実が判明します。
 
この点、凛は冬木を管理する魔術師としての体面を優先し、暴走する可能性のある桜を処分すると言う。これに対して士郎は「桜だけの正義の味方になる」と言う。しかし士郎はこの時点ではまだ、それはどういうことかを本当の意味で理解してはいない。
 
桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他なりません。セイバールートでひとまず示された「正義」の形は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいて脱構築されます。そしてそれは衛宮士郎が「衛宮切嗣の呪い」を解毒していく過程でもあります。
 
 

* 決断主義

 
Fate/stay nightという作品はゼロ年代初頭におけるポスト・セカイ系の潮流、宇野常寛氏の言うところの「決断主義」の系譜に属しています。
 
社会共通の価値観である「大きな物語」が喪われもはや何が正しいのかわからなくなった時代、最もわかりやすい選択肢としては「君と僕の優しいセカイ」に縋りつく態度です。このような想像力が色濃く現れている「セカイ系」と呼ばれる作品群が2000年前後に一世を風靡しました。
 
ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。ゼロ年代に入り、米同時多発テロ構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくる。もはや何が正しいのかわからないのであれば自分の信じられるものを正義とみなすしかない。こうしてセカイとセカイが正義を奪い合う「決断主義」の時代が幕を開ける。
 
この作品がセカイ系を退けて支持を集めた背景にはこうした時代情勢の変化があることは疑いないでしょう。先程の言峰綺礼の台詞はまさに決断主義の本質を端的に言い表しています。
 
 

* 幸福と正義の間

 
こうしたFate/stay nightの持つ決断主義傾向が最も先鋭に現れるのがまさにこの桜ルートです。本作終盤で黒幕の間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。「万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ」と。
 
桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。
 
ここで第1章冒頭の前日譚がじわじわと効いてきます。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「ゲームの設定」ではなく「感情を伴う体験」として知ってしまっている。
 
ゆえに我々はここでの士郎の決断に「変節」とか「挫折」などとという言葉で軽々しく非難できない重さがある事を痛いほど理解できるし、むしろその決断の尊さに心からの共感を寄せる事さえもできるわけです。
 
こうして「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答える士郎の姿に我々は借り物でも偽善でもない、まさしく決断主義者の正義をはっきりと見て取ることができるでしょう。
 
そして周知の通り、ここから物語はさらに救いようの無い方向へ転がり落ちていき、最後に示されるのは二つの結末です。果たして映画はどのような結末にたどり着くのか。ここで2020年代Fate/stay nightの新たな世界観を示してくれるのでしょうか。来年の春に公開される最終章が待ち遠しいところです。