かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

享楽のピアノとコンステレーションの物語--「蜜蜂と遠雷(恩田陸)」

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

* 読むコンサート

 
第156回直木賞、第14回本屋大賞受賞作。7年以上に渡る連載中は全く話題にならず、おまけに度重なる取材によって制作費が嵩みにかさみ、初版発行時点(部数15000部/定価1800円)での製造原価表の利益欄がマイナス1057万円になったといういわく付きの超大作。
 
本作は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」を舞台に、出場者4人を主役にした群像劇です。かつてステージから逃げ出した天才少女の成れの果て(栄伝亜夜)。将来を嘱望されクラシックの覇道を邁進するスター候補生(マサル・カルロス・レヴィ・アナトール)。世界的巨匠が送り付けた天衣無縫のギフト(風間塵)。「生活者の音楽」を標榜する元音大生のサラリーマン(高島明石)。
 
こうした異なる境遇にある4人のピアニストがその音と生き様を華々しくも苛烈に競い合うことで物語は螺旋状に展開していく。そして彼らを見守る周囲の人々(ナサニエル・シルヴァーバーグ、嵯峨三枝子、菱沼忠明、浜崎奏)もそれぞれ際立つ個性で作品に重厚な奥行きを与えている。
 
本作の特徴は作中の大部分の描写がひたすらピアノコンクールにおける演奏描写に費やされる点です。恐るべき事に3次に渡る予選と本選に至るまで、主要登場人物の演奏は一曲も省かれることなく描かれます。
 
その数にしておよそ50曲。これら全ての演奏が、臨場感たっぷりに多彩な筆致で描き出され、たとえ全く知らない曲でも読み手に豊穣なイメージを惹起させます。まさに「読むコンサート」。なかなか斬新な読書経験でした。
 
 

* あらすじ

 
近年評価が目覚ましい「芳ヶ江国際ピアノコンクール」は3年毎の開催で今年で6回目を数える。その審査員を務める嵯峨三枝子はパリで行われたオーディションで一人の候補者の名前に目が止まる。
 
風間塵、16歳。コンクール歴無し。しかし書類の中に今は亡き世界的巨匠「ユウジ・フォン=ホフマンに5歳より師事」という一文と「推薦状あり」というマークを認め、三枝子は狼狽する。
 
果たして少年のその演奏はあまりにも圧倒的であった。極彩色のモーツァルト、エネルギーに満ちたベートーヴェン、大伽藍の如きバッハ。
 
しかし塵の演奏に得体のしれぬ恐怖、おぞましさを感じた三枝子は「ホフマンに対する冒涜だ」と癇癪を起こし、塵のオーディション不合格を強硬に主張する。しかしそこで目にしたホフマンの推薦状には彼女の反応を見透すかの様な文言が並んでいた。
 
 

* 「享楽」としての塵のピアノ

 
図らずもホフマンの掌の上で踊らされてしまった三枝子は自己嫌悪に陥りつつ、なぜあそこまで自分は我を忘れて怒り狂ったのかを省みて、多幸感と嫌悪感、快感と不快感は紙一重である事に気づくことになります。
 
こうしたアンビバレンスな感情は、想像界象徴界現実界からなる独創的な精神分析理論で名高いフランスの精神科医ジャック・ラカンのいう「享楽」の性質をよく表しています。
 
ラカンは当初、フロイトのいう「エディプス・コンプレックス」の構造化を通じ、無意識を一種の言語システムとして捉える理論を構築しますが、後にこの言語システム(象徴界)では処理不能な要素(現実界)に着目し、フロイトのいう「死の欲動」を理論化した「対象 a 」という概念を導入します。
 
この「対象 a 」というの言語や秩序と言った大文字の他者(Autre)の枠内に収まらない対象(autre)を言います。ラカンによれば人の「欲望」とは言語システムによって駆動する「快楽原則」において規定されるものですが、対象 a がもたらすのはこうした「快楽原則」では処理し切れない過剰な何かです。ラカンはこれを「享楽」と名付けました。
 
「享楽」は快楽を超えた過剰であるがゆえにある人にとっては至福や愉悦の源泉となり、ある人にとっては不安や嫌悪の源泉となる両価性を持っています。
 
三枝子たち審査員を含めた聴衆が目撃した塵のピアノはこの「対象 a 」としての作用を持っていたわけです。物事には常に裏と表がある。計り知れない不安や嫌悪を感じている自分の裏側には、言いようのない至福や愉悦を感じている自分がいるのではないか。そう言った視点を本作は描き出しているということです。
 
 

* コンステレーション

 
こうして風間塵はホフマンの目論見通り「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の台風の目となります。ホフマンの目論見。それは既存の音楽教育システムへの異議申立に止まらず、塵を媒介とすることで多彩な才能を開花させることでした。
 
「僕ね、先生に言われたんだ。一緒に音を外に連れ出してくれる人を探しなさいって」
 
「え?」
 
つかのまぼんやりして、亜夜は少年が呟いたことが聞き取れなかった。
 
今なって言ったんだろう?一緒に何とか、って
 
「おねえさんはそうかもしれない、って思ったよ」
 
(本書下巻より〜Kindle位置:148)

 

事実、塵の自由闊達な演奏と「音を外に連れ出す」というその欲望に亜夜は触発され、徐々にかつての天才少女の輝きを取り戻す。さらにそんな亜夜の姿はマサル、明石、奏たちにも大きな影響をもたらす。
 
この点、作中、奏やナサニエルが「巡り合わせ」という言葉で言及するように、本作は「コンステレーション」の物語としても読めるでしょう。
 
スイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは人間の意識体系の枢要である「自我」に対して、無意識をも含めた心全体の中心部に「自己」という元型を仮定し、人が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、こころの中で起きる内的事象に呼応するかの如き外的事象が生じて、そこにひとまとまりの布置が描かれると言います。
 
こうした内的-外的に呼応する布置--すなわち「巡り合わせ」--をユング心理学では星座になぞらえて「コンステレーション」と呼びます。
 
 

* 「巡り合わせ」の中に「意味」を見出すということ

 
コンステレーションを読み抜いた時、そこには新たなその人なりの「物語」が紡ぎ出されてくる。この点、河合隼雄先生はユング心理学の要諦とは端的には「3つのC」にあるといいます。
 
すなわち、自らのうちにあるコンプレックスと対決していく上で重要なのは、日常において生起するコンステレーションの中で、現実とのコミットメントを重ねていく営みの中にあるということです。
 
本作に即して言えば、例えば亜夜は、母の死以来、ピアノに対して複雑な感情(コンプレックス)を抱いてきたけれど、コンクールにおける様々な巡り合わせ(コンステレーション)の中で、再びピアノ、音楽そして人生に向き合っていく(コミットメント)為の自己を取り戻していくわけです。
 
これは別に天才たちに限った話ではないでしょう。我々は日々「なんでこんな時に」という事態に遭遇する。けれどもその「巡り合わせ」に「まさに今だからこそ」という「意味」を見出していく。そこから新たな未来への可能性が開けてくることもあるのでしょう。秋深くなりつつあるこの季節に相応しい実り多き読書でした。
 
 

* 映画について

 
最後に映画について一言。キャストがあまりにも原作のイメージ通りで驚きました。シナリオは栄伝さんのトラウマ克服ドラマとして上手くまとめられており、なんとか2時間枠に収まるようにした苦心の跡が見られました。
 
本選指揮者の小野寺氏がラスボスみたいな扱いになっていたのは笑えましたが、亜夜の精神的パートナーともいえる奏が省かれたのは少々残念だったかもしれません。きちんと原作を読んだ後で観ると、一種のファンムービーとしてそれなりに楽しめると思います。