かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「綺麗な嘘」を全力で吐くということ--風の帰る場所(宮崎駿)

 

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

 

 

 

 

* ニヒリズムヒューマニズムの再接続

 
「その底知れない悪意とか、どうしようもなさとかっていうのがあるのは十分知ってますが、少なくとも子どもに向けて作品を作りたいっていうふうに思った時から、そういう部分で映画を作るのはやりたくないと思ってます。映画だけじゃないです。他のものでもそうです。それは大人に向けて作るときは、また違うでしょう。大人に向けて作ったら、多分『あなたは生きてる資格がないよ』ってことをね(笑)、力説するような映画を作るかも知れませんけど」
 
(本書より〜Kindle位置:158)

  

本書は宮崎監督が「千と千尋の神隠し」までの作品について語ったインタビュー集です。今年の夏はなんとなくずっと宮崎映画を観返していたりしていたんですがそういう縁から手にとってみました。
 
インタビュアーを務めるのは「rockin'on」や「Cut」の創刊を手掛けた渋谷陽一氏です。渋谷氏はあえて挑発的な質問を投げたりして、ニヒリストとしての宮崎氏の側面を遠慮なく暴き出しています。
 
宮崎駿氏の華々しいフィルモグラフィは氏の中にある「公と私」「政治と文学」の断絶を再接続するための試行錯誤の軌跡としてみることもできるでしょう。
 
すなわち、一方で「もはや世界は何も変わらない」というニヒリズムがあり、他方で「それでも世界を肯定しなければならない」というヒューマニズムがあるということです。
 
 

* 「母性へのロマンティシズム」と「イノセントな少女性」

 
ニヒリズムヒューマニズム。こうした氏の中にある断絶を再接続するための回路として機能しているのが、宮崎映画を根底で駆動させている「母性へのロマンティシズム」「イノセントな少女性」というファンタスムです。
 
まず一方の極である「母性へのロマンティシズム」が前景化された作品としては、スタジオジブリ体制になってからの初作品である「天空の城ラピュタ(1986)」や、宮崎映画の裏の代表作ともいって差し支えない「紅の豚(1992)」などが挙げられます。
 
紅の豚」というのは宮崎氏自身の中では当時の自身の問題意識を整理するために作った作品らしくて、本書でも「豚」についてかなり熱く語っています。こうした「母性へのロマンティシズム」という回路は今の所の最新作である「風立ちぬ(2013)」まで連綿と引き継がれています。
 
そして他方の極をなす「イノセントな少女性」を高度経済成長前の日本の村落共同体と結びつけ「喪われた原風景」として描き出す事に成功したのが「となりのトトロ(1988)」ということになります。
 
いまや不朽の名作としての評価を揺るぎなく確立した本作が当時の興行的には全く振るわなかったという事実は「虚構の時代」と言われる80年代の空気感を裏から照射しておりこれはこれで興味深いものがあります。
 
けれども現代においてサブカルチャーを支配する想像力は、かつてのような現実から虚構への逃走ではなく、むしろ虚構により現実を拡張していきます。こうした「拡張現実」的な想像力から改めて「トトロ」を観返した時、おそらくそこには単なる昭和ノスタルジーを超えた新たな輝きがあると思います。
 
 

* 「ナウシカ」から「もののけ姫」へ

 
本書によれば宮崎氏の中で当初アニメーション作家としてやりたいと思っていた事は「トトロ」まででひとまず大体やり尽くしたそうです。その後は映画制作と並行して氏のもう一つのライフワークともいうべき「風の谷のナウシカ」の漫画版を描き進めていくわけですが、このナウシカ漫画版の最後に辿り着く、全てを引き受けて前に進むといった東アジア的生命観をひとまず映画として形にしたのが「もののけ姫(1997)」です。
 
周知の通り本作は宮崎駿スタジオジブリの名前を不動の国民的スターダムに押し上げた記念碑的作品です。本作のキャッチコピーは同年に公開された劇場版エヴァンゲリオンとわかりやすい対照をなしているわけですが、結局、これが全てを表してると思うんだと思います。
 
ジャパン・アズ・ナンバーワンが失墜し、地下鉄サリン事件などで若者の「生きづらさ」が前景化したあの当時は、大きな物語が失墜するポストモダンが次のフェイズに入った時代であり、生を意味付ける物語無き所で人はいかに生のリアリティを獲得していくかというのは当時の一つの問題意識でもあった。
 
そういう意味からすると、もののけ姫と劇場版エヴァの着地点というのは極めて近い所にあるようにも思われます。
 
 

* 「生まれてきてくれてよかったんだ」

 
こうして「もののけ姫」で形にした新たな価値観は次作「千と千尋の神隠し(2001)」でより純粋化した形で示されます。
 
本作の主人公の少女、荻野千尋はふとしたきっかけで迷い込んだ異界で仲良くなったハクを救うため、それまで自分を邪魔してきたカオナシや坊と一緒に鈍行電車に乗って銭婆の家に向かう。
 
本作では宮崎映画の代名詞である「空を飛ぶ」というモチーフは前景化されません。けれども千尋は幻想と現実の両方を自分のものとして引き受けてきちんと前に進んでいきます。
 
よく知られるように宮崎氏は本作の制作にあたり千尋と同世代の少女に向けて、ナウシカのように空なんか飛べなくても皆そのくらいの力は持っているんだと、その事をきちんと言える映画を作りたかったと言います。
 
あの「電車に乗る」シーンというのはどこまで「空を飛ぶ」ということなく、どれだけ同時代を生きる10歳の子供達にとってリアリティのある転換ができるかという宮崎氏の挑戦でもあり、そこで示されるのはこの閉塞感に満ちた現代において子供達と世界とのつながりを肯定するための「生まれてきてくれてよかったんだ」というメッセージです。
 
 

* 「綺麗な嘘」を全力で吐くということ

 
「子どもたちがどんなに鼻でせせら笑ったり、不信の目で肩をそびやかしても、実は本当はーーーよく言われてた、いまではもうすっかり泥まみれになってしまった、愛とか正義とか友情とか、なんか自分が生きてきたことを肯定してくれるものを本気で喋ってくれないかなあって、みんな待ってるんだと思います。それだけは確かです。」
 
(本書より〜Kindle位置:593)

 

 
やっぱり宮崎さんというのは「綺麗な嘘」を全力で吐く側に賭けている人なんだと思います。押井守氏が自著で宮さんは建前に準じた映画を作り、自分は本質に準じた映画を作っているんだという趣旨の事を書いてますが、この宮崎さんと押井さんの態度の違いはどっちが正しいとかじゃなくて結局は役割分担の違いなんでしょう。
 
最近つくづく人の成熟というのは、まずはまっとうに希望を懐いて次にしっかりと絶望を引き受けて、それでも世界に自分なりのイエスを言う欲望を奪還するっていう、そのプロセスにこそあるんじゃないのか、などと思ったりもするんですが、最近はこの最初の「希望を懐く」という部分がどんどん難しくなっているわけです。
 
そういう世の中だからこそ宮崎さんは多分、世界がくだらない事は百も承知だけど、映画を観に来てくれる子供達にはだから世界はくだらないんだよとは言いたくないんだろうなと、そんな風にも思えるわけです。それはある意味で戦後日本的なアイロニズムなのかも知れませんが、宮崎映画がなんだかんだと言われながら広く愛されるホピュラリティの源泉はまさにこの点にあるのでしょう。
 
 

 

再起動するセカイ--イリヤの空、UFOの夏

 

 

 

* 「セカイ系」なるもの

 
新海誠監督の最新作「天気の子」の公開を機に最近再びそこらかしこで「セカイ系」というワードをよく耳にするようになりました。そこで改めてこの言葉の意味を問い直してみることもそう無益ではないでしょう。言うまでもなく「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。この言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」
 
ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。
 
ゼロ年代サブカルチャー文化圏においては「セカイ系」を巡る華々しい論争が繰り広げられてきたわけですが、この「セカイ系」というのはなかなか不思議な言葉でして、例えば、ある作品が「セカイ系」とも「アンチ・セカイ系」とも評されたり、あるいは「セカイ系」であるがために批判され、また逆に評価されたりするという事態が起こっていたわけです。
 
 

* ポスト・エヴァンゲリオン症候群

 
セカイ系」とは別名「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」などと言われます。周知の通り「新世紀エヴァンゲリオンTVシリーズ最終話では碇シンジが延々と自意識の悩みについての問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に到達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎えます。
 
エヴァTV版が放映された1995年は、現代思想史的には「大きな物語(社会全体が共有する価値観)」が崩壊し、ポストモダン状況がより加速した年として位置づけられます。一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンの神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件が象徴するように若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された。結果、これまで信じられてきた社会的自己実現への信頼低下が起こり、何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けます。
 
この点、エヴァTV版が示したのは「あえて正しいことがあるとすれば、それは何もしないことである」というある種の否定神学であり、これがまた見事に時代の気分とシンクロしてしまう。かくしてエヴァは社会現象となるわけです。
 
こうした状況に対する庵野秀明氏のアンサーが97年に公開された新世紀エヴァンゲリオン劇場版「Air/まごころを、君に」でした。あの有名なシンジがアスカに「キモチワルイ」と拒絶される結末は、庵野氏なりの時代に向けたメッセージなのでしょう。
 
すなわち、確かに不安と閉塞に満ちた世の中かもしれないが、結局のところ人は互いに傷つけ合うことを受け入れて、他者と共存して生きて行くしかないんだということです(付言すれば同年公開された宮崎駿氏の「もののけ姫」も遠回しに同じようなことを言っているように思えます)。
 
このメッセージは確かに疑いなく正しい。けれども疑いなく正しいというのは別言すれば何も言っていないのと同じでしかない。こうしてエヴァ劇場版の示す「厳しい回答」は「エヴァの子供達」から拒絶され、エヴァTV版的想像力を濃厚に引き継ぐ作品群が一世を風靡することになる。
 
これが「セカイ系」と呼ばれる潮流です。いわばセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」ということになります。こうしたセカイ系作品の典型と言われるのが「最終兵器彼女」「ほしのこえ」、そして本作「イリヤの空、UFOの夏」です。
 
 

* 本作のあらすじ

 
本作は第二次世界大戦終了直後に史実から分岐した世界が舞台となっており、冷戦集結後も日米は「北」と呼称される国家との敵対関係が続いている。「北」の脅威に備え、航空自衛軍アメリカ合衆国空軍が常駐する園原空軍基地の近辺ではUFOの目撃談が後を絶たなかった。
 
園原中学校二年生、浅羽直之は非公式のゲリラ新聞部に所属し、部長である水前寺邦博と共に夏休みの間、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。しかし夏休み全てを費やしても何の成果も得られなかった。
 
夏休み最後の夜、学校のプールへと忍び込んだ浅羽は伊里野加奈と名乗る謎めいた少女と遭遇する。そして翌日の始業式の日、伊里野は転校生として浅羽のクラスに編入してくる。こうしてあの夏の終わりが始まった。
 
 

* 「セカイ系批評」としてのイリヤ

 
この点、本作は先に述べたように「最終兵器彼女」や「ほしのこえ」と共に「三大セカイ系作品」として位置付けられてはいます。けれども前二者が結果的にセカイ系と呼ばれたのに対して、本作はセカイ系構造自体に相当に自覚的であり、むしろ「セカイ系批評」という側面すら併せ持っています。
 
本作はクライマックスまでは、まさに見事なまでのセカイ系展開となっています。果たしてイリヤの正体は地球侵略を目論むUFOに唯一対抗できる超音速戦闘機ブラックマンタの最後のパイロットであった。しかし浅羽へ恋心を抱いたイリヤの中には、初めて「死にたくない」という感情が芽生えていた。こうして少年少女と世界の命運は直結し「世界か少女か」の二択が示される。
 
ここで浅羽は世界ではなくイリヤを選ぶ。そしてイリヤはそんな浅羽を守るためブラックマンタでUFOへ特攻をかける。こうして世界は救われイリヤは最期を迎えます。
 
しかし話はここで終わりません。本作は最後の最後の「エピローグ」にて大きなどんでん返しを用意していました。それまで描き出してきた浅羽とイリヤの関係性自体が「子犬作戦」なる組織的陰謀であり、結局「浅羽とイリヤの小さな物語」は大人たちによって仕組まれた出来レースにすぎなかったという事実が明らかになります。
 
 

* セカイ系とデータベース消費

 
本作はセカイ系構造を十分に意識して物語を設計しているため、セカイ系の特徴がきれいに描き出されています。
 
まず、セカイ系作品最大の特徴は、組織や敵の設定が極めて希薄な「世界観の排除」にあります。こうした特徴は「データベース消費」と極めて高い親和性を有しています。
 
哲学者の東浩紀氏は「動物化するポストモダン」においてポストエヴァ世代の作品受容態度の変化を指摘します。すなわち「物語消費からデータベース消費」という変化です。
 
エヴァ以前のいわゆるオタク第2世代においては、例えば「機動戦士ガンダム」といった「個々の作品」を通じて、例えば「宇宙世紀」といった「大きな物語(世界観設定)」を消費する「物語消費(世界観消費)」が主流でした。ところがポストエヴァ以降のオタク第3世代においては、作品の背景にある世界観に代わり、例えば「萌え」「燃え」「泣き」などといった情報を消費する「データベース消費」が主流化します。
 
こうした「データベース消費」の時代においては動物的欲求に最適化された形で出力されたシュミラークルが世に氾濫するという「物語回帰(ドラマ消費)」が起きることになります。つまり、セカイ系とは世界観設定という「夾雑物」を排除しひたすら「萌え」「燃え」「泣き」のドラマに特化する事で、データベース消費に(結果として)いち早く対応したジャンルであるとも言えるわけです。
 
 

* 「社会」の欠如というアイロニズム

 
こうした事からしばし、セカイ系作品には「社会」が欠如しており、故に「社会」と向き合う事から逃げる幼稚な想像力だと批判されます。しかし、こうした批判とセカイ系作品はむしろ共依存関係にあります。
 
セカイ系作品群においては何かしらの形で「社会」の欠如が言及されており、ここから「ああ全く同感だ、極めてバカバカしい。だがしかし、そのバカバカしさの中にこそ価値がある」というアイロニズムが生み出されます。こうなると先のような批判はむしろ作品に倫理的強度を与える作用を引き起こしてしまうことになります。
 
本作がセカイ系に批判的視点を持った小説であるにもかかわらず、むしろ典型的セカイ系として位置付けられる理由がまさにここにあります。すなわち、セカイ系というジャンルは作者の自覚無自覚にかかわらず「社会」が欠如しているという批判をすでに織り込み済みのものとして成立しているわけです。
 
 

* 自己反省の欲望

 
このようなセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。
 
90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていました。
 
すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代だということです。こうした時代の転換によりアイデンティティ不安に曝されることになった人々は、ひとまずの生存戦略として「母」の承認の下で生き延びようとした。セカイ系が受け入れられた背景にはこうした需要があったわけです。
 
この点、評論家の宇野常寛氏はセカイ系の最大の問題点を「レイプファンタジー」であると指摘します。つまり、セカイ系作品においては「無垢な少女(母)」に守られる「無力な少年(父になれなかった人々=読者/視聴者/観客といった受け手)」が自らの矮小さを「自己反省」するという構図があります。
 
この「自己反省」という「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことで、受け手側は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となる。
 
こうしたセカイ系受容の中に内在する「自己反省の欲望」を宇野氏は「レイプファンタジー」なるセンセーショナルな言葉で暴きだしたわけです。
 
 

* 再起動するセカイ

 
宇野氏の批判はひどくもっともだと思います。ただ、前島賢氏が的確に指摘するように、こうした「レイプファンタジー」なる構造というのは別にセカイ系特異なものではないでしょう。
 
例えば、ロボットアニメの視聴者というのは、端的にロボットに乗って戦う破壊の快楽を消費しているわけですが、正面からその快楽は肯定できないわけです。そこで作中に「僕は好きで戦っているわけじゃないんだ」的なメッセージを導入し、予め「自己反省」しておくことで、視聴者は安心して破壊の快楽を娯楽的に消費することができるわけです。
 
こうしてみると宇野氏のセカイ系批判というのは単なるジャンル批判を超えた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」といった一般性と特異性に関するより広範な射程を持った問題提起とも言えます(実際、氏はこうした問題を近著「母性のディストピア」で正面から論じています)。
 
こうした観点からセカイ系を捉えた場合、それは畢竟、1995年を節目とした時代の変化により生じた「政治と文学」「世界と個人」「公と私」の分裂を「無垢な少女」とか「無力な少年」などという回路を用いて再接続しようとした試みであった事がわかります。
 
もちろんそれは方法論としては極めていびつであったことは否めません。故にこれを引きこもりの想像力だと批判するのはたやすいでしょう。けれどもセカイ系は時代の急性期を乗り切るひとまずの処方箋としての機能を果たし「決断主義」や「日常系」といった次代の想像力を育んだ揺籠ともなったこともまた事実です。
 
この点「天気の子」はこうした「ゼロ年代の想像力」の変遷を踏まえてセカイ系というジャンルを更新し、再起動させる試みともいえます。これを機会に本作を始めとする過去のセカイ系作品群を一つのポストモダン文学として読み返してみる価値はあるのではないでしょうか。
 
 

「二層構造の時代」を生きるということ--観光客の哲学(東浩紀)

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

 

 

* 「観光客」とは何か

 
かつての「オタクの批評家・東浩紀」というイメージからはなんとも程遠いタイトルですが、別に本書は観光学の教本でもないし観光客の心理分析の本ではありません。ましていわんや、いろんな観光名所に出かけていってたくさんの知らない人とお友達になりましょうとか、そういう「リア充の勧め」でももちろんない。本書はあくまで哲学書であり、ここで論じられる「観光客」とは人の在り方、世界との向き合い方を示すひとつの概念です。
 
 

* 二層構造の時代

 
まず本書は現代を「二層構造の時代」と位置づけます。現代社会では政治の領域においてはナショナリズム、経済の領域においてはグローバリズムという二つの秩序原理が駆動しています。
 
ナショナリズムは共同体の善を追求するコミュニタリアニズムを思想的基盤とします。これに対してグローバリズムは自由と快楽を追求するリバタリアニズムを思想的基盤とします。つまりこの二つの層は「人間の層」と「動物の層」とも言い換えることができます。
 
現代におけるグローバリズムの進行は従来の国家間の合従連衡とは全く別の秩序を生み出します。アントニオ・ネグリマイケル・ハートゼロ年代初頭、その共著「〈帝国〉」において、従来の「国民国家の体制」とは別にグローバル経済圏をスムーズに機能させるため生み出された新たな秩序を「帝国の体制」と名付けました。ここでいう「国民国家の体制」はナショナリズムの秩序に「帝国の体制」はグローバリズムの秩序に相当します。
 
重要なのは「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なるという事です。ミシェル・フーコーの分類で言えば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となり、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力」が優位となります。
 
こうして世界は二つの異なった原理と秩序を持つ階層に切り分けられる。政治と経済、ナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、人間と動物、国民国家と帝国、規律訓練と生権力。
 
このような「二層構造の時代」において人を人たらしめる為の抵抗の基点は何処にあるのか。これが本書の問題設定となります。
 
 

* ヘーゲル的人間観とマルチチュード

 
この点、ヘーゲル的人間観を基礎とする近代哲学はグローバリズムを基本的に「望ましくないもの」として位置づけます。
 
すなわちヘーゲルによれば、人はまず家族の中に特異的存在(即自)として生まれ、次に市民社会に普遍的存在(対自)として参入し、最後に国民として国家なるものを内面化することで特異性と普遍性を統合した存在(即自かつ対自)になる事ができるとされます。
 
こうした立場からすれば、国家という存在は人を人たらしめる絶対条件であり、当然、グローバリズムなど国家を侵食するものとして排撃すべきであるということになります。こうした論理を徹底したのが、かつてナチスドイツのイデオローグとして機能したカール・シュミットが唱える「友敵理論」です。もちろんこれは本書のとる立場ではありません。
 
他方で、先述した「〈帝国〉」の著者であるネグリ達は「帝国の体制」への反作用として「マルチチュード」なる概念を提唱します。「マルチチュード」とは従来「衆愚」といった消極的ニュアンスで用いられていましたが、ネグリ達はスピノザドゥルーズの哲学を参照しつつ、こうした「マルチチュード」をグローバリズム内部から生まれる市民運動として積極的にとらえ直します。
 
本書は「マルチチュード」を哲学的概念として肯定的に評価しつつも同時にその理論的難点をも指摘しています。つまり、ネグリ的なマルチチュードとは本質的には「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学」であり、その運動論の内実は「愛」「素朴」「無垢」「快活」「歓び」などというよくわからないものを恃む感動的だが無意味な信仰告白でしかないという事です。
 
本書は「否定神学マルチチュード」とは別の可能性を提示します。これが「観光客」という名の「郵便的マルチチュード」です。
 
 

* 「観光客=郵便的マルチチュード」が引き起こす「誤配の再上演」

 
否定神学マルチチュード」がデモに行くとすれば「観光客」は物見湯山に出かける。否定神学マルチチュード」がコミュニケーションなく連帯するとすれば「観光客」は連帯なくコミュニケーションする。
 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。ここで「観光客」は「誤配」を生じさせる「郵便的マルチチュード」の役割を演じることになります。
 
「郵便」とは「誤配(コミュニケーションの失敗)の可能性を多く含む状態」をいい、超越論的なものについて語る際に「否定神学」と対置される概念です。
 
「郵便的マルチチュード」は「連帯は端的に言えば存在しない。しかし連帯の失敗=誤配により、事後的に連帯が存在するかのように見える」という錯覚を引き起こします。
 
これはあくまでも錯覚にすぎません。しかし、そのような錯覚の集積こそが次の連帯の試みを後押しすると本書は言います。
 
この点、本書は現代ネットワーク理論の知見を導入し「観光客=郵便的マルチチュード」の発生機序と戦略を論じます。
 
すなわち、人間社会というネットワークは「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」という特徴を持っています。「スモールワールド」は「国民国家」に「スケールフリー」は「帝国」に相当します。そしてこれらの特徴はネットワークの頂点に接続する辺の「つなぎかえ=誤配」によって生じています。
 
つまり「国民国家」も「帝国」も共にネットワークの「つなぎかえ=誤配」から生じたものである以上、人が人であるための抵抗の起点もまさにこの誤配の空間にあるのではないか。すなわち「国民国家」と「帝国」の間で誤配を演じ直すということ。こうした「誤配の再上演」こそが本書の説く観光客の哲学です。
 
 

* おわりに

 
言うまでもなく世界は不平等です。我々の日常でも理不尽な格差がそこらかしこに満ち溢れている。けれども現代ネットワーク理論の知見が明らかにしたのはこうした格差は構造的搾取ではなく偶然的誤配の結果として生じるというものでした。つまりすべては確率論の問題であり、再誤配を引き起こす可能性はあらゆる人に開かれているということです。
 
本書はそれなりに高度な議論を扱っているにも関わらず文章はとても読みやすく、哲学にあまり縁のない読者にもきちんと噛み砕いて説明しようとする叙述には東さんの誠実さを感じました。
 
また本書で展開される議論は「原作=住民」「二次創作=観光客」「ゲーム的リアリズム=ダークツーリズム」といった風に東さんの過去の議論ともきちんと接続されてます。むしろこれまでなされた議論を集大成したのが本書であると言えるでしょう。
 
 
 

「天気の子」が描き出した想像力

 

天気の子

天気の子

 

 

 
 
 
 

* あなたとともに乗り越える

 
「天気」という題材は、繊細な美術や光の表現において他の追随を許さない新海作品にとってはまさに独壇場といえるでしょう。実際に本作における灰色の雨天を切り裂き、突き抜けるような青空が現れるシーンのコントラストは息をのむほど美しい。このシーンだけでも観に行く価値はあると思います。
 
また本作では歓楽街や廃虚といったこれまでの新海作品ではあまり描かれなかった「猥雑な風景」や「退廃的な風景」がクローズアップされているのも特徴です。これは本作の扱うテーマと深く関係しているものと思われます。
 
本作の副題である「Weathering with you」。これは「天気」という意味と何かを「乗り越える」というダブルミーイングになっています。本作の物語に照らし合わせれば「あなたとともに乗り越える」という訳がふさわしいのでしょう。
 
(以下、ネタバレありの文章です。結論として本作は観た方がいいか観なくてもいいかと言うと、もちろん観た方がいいです。少しでも気になると思われたらぜひ劇場へ。)
 
 
 
 
 
 
 
 

* あらすじ

 
令和3年夏、関東地方は降りしきる雨の日々が続いていた。高校1年生の森嶋帆高は離島を飛び出し上京するも、ネットカフェ暮らしの末、経済的に困窮。上京途中のフェリーで偶然知り合った須賀圭介が営む零細編集プロダクションでオカルト雑誌のライターとして雇われる。そこで耳にしたのは「100%の晴れ女」という都市伝説であった。
 
とあるきっかけで帆高が出会った天野陽菜という少女。果たして彼女こそが短時間、局地的にせよ、確実に晴れ間を呼び寄せる「100%の晴れ女」であった。
  
本作の序盤のあらすじはこういう感じです。昔からシナリオの緩さに関しては定評のある新海映画ですが、本作でも、そもそも主人公が家出してきた理由がよくわからなかったり、義務教育の姉弟二人暮らしを児童相談所が長らく放置していたり、終盤で女装した弟君が瞬間移動してきたりなどと、相変わらず色々と炸裂しています。
 
というか、もともと新海さんという人はシナリオがガバガバなのはあまり気にしない人のような気がします。むしろ最近は確信的な炎上マーケティング狙いでやってる節すらあります。ご自身の作品が別にシナリオの整合性によって評価されてるわけではない事は百も承知なんでしょう。
 
 

* 「世界か少女か」

 
既に多くの人が指摘するように本作は「雲のむこう、約束の場所」への再挑戦とも言えます。本作のクライマックスにおいては、あの古典的なセカイ系二択、すなわち「世界か少女か」という問いが更新されることになります。
 
新海作品初の長編映画として2004年に公開された「雲のむこう、約束の場所」はまさにセカイ系の臨界点に位置する作品です。ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義である。ここに「世界か少女か」というセカイ系的二択が示されます。
 
この点、主人公の藤沢浩紀はあくまで二兎を追うわけです。自作飛行機ヴェラシーラを3年越しで完成させ、南北開戦の間隙を縫って佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で見事破壊する。
 
ここでは一見、浩紀は世界も佐由理もどちらも救ったかのように見えます。けれども、佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。
 
これに対して今作の帆高には二兎を追う選択など微塵もありません。帆高は迷いなく陽菜のセカイを救い、その代償として世界を狂わせることになります。
 
ただ、ここでのポイントは本作が世界を「完全に」壊したのではなく「部分的に」壊した点にあります。
 
つまり本作が問うているのは「世界か少女か」などという青臭い二択ではないということです。端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いがここにはあるということです。
 
 
 

* 狂った世界でセカイを生きる

 
新海作品の真骨頂はゲーム的リアリズムによって紡ぎ出される「風景の発見」にあります。東浩紀氏が提唱した環境分析的読解ではないですが、仮に本作を「18禁PCゲーム/天気の子・劇場版」として観た場合、シナリオの整合性はもちろん、結末に対する印象もだいぶ変わるのではないでしょうか。
 

togetter.com

 
 
また、本作が示す結末はゼロ年代に台頭した決断主義的系想像力を経由した上でのセカイ系的想像力の側からの回答のようにも感じました。
 
宇野常寛氏の「ゼロ年代の想像力」の図式から言えば、社会共通の「大きな物語」が完全に失効したゼロ年代以降、人は誰もが無自覚的に、あるいはあえて特定の価値観を選択し、それぞれの「小さな物語」の中で生きていることになります。
 

 

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 
この点「セカイ系」が、母性的承認という極めて単純な「小さな物語」の中に引きこもるポスト・エヴァンゲリオン的想像力であったとすれば、一方の「決断主義」は、複数の「小さな物語」同士が他者との間で正義の奪い合いに明け暮れるデスノート的想像力です。
 
決断主義」をいかに乗り越えるかというのは2010年代の想像力における一つの論点です。確かに一面において我々は決断主義者として正義なき時代に正義を執行していくことを強いられている。そして、誰かにとっての正義は誰かにとっての悪でしかない。つまり問題は「正しいか正しくないか」という単純な白黒ではなく「正しくなさ」同士の共存の在り方なのです。
 
世界は狂っている。そんなことは今更改めていうまでもない。我々は日々生起する理不尽な現実に直面する。本作の公開直前には本当にとても悲しくて残念で、痛ましい事件がありました。けれどそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。
 
新海さん自身が事前に言っている通り、確かに結論につき賛否はあると思う。けれどもむしろ、こうした賛否を巻き起こすこと自体が本作の狙いということなのでしょう。
 
本作は「貧困」「暴力」「正義」といった重いテーマに切り込んでいるにもかかわらず、作品を満たす空気感はどこか瑞々しく爽やかです。「君の名は。」とはまた別の意味で新海映画の到達点を見せてくれたと思います。
 
 

「断絶とすれ違い」から「断絶とめぐり合い」へ--君の名は。(新海誠)

 

君の名は。

君の名は。

 

 

 

* 現代アニメーションにおける「風景の発見」

 
新海映画を特徴付けるもの。それは言うまでもなくあの緻密なまでに構築された美しい「風景」でしょう。
 
柄谷行人氏が「近代日本文学の起源」で述べるように、明治20年代の言文一致から始まった日本近代文学はごくありふれた無意味な風景を「写生」することで、その中に固有の意味を投射する「内面」を備えた〈わたし〉という鏡像を転倒した形で見い出そうとしました。
 
これがいわゆる「風景の発見」と言われるものです。新海誠氏の作家的特異性はセカイ系という文脈を通じて現代アニメーションの中に新たな形での「風景の発見」をもたらした点にあるのは疑いないでしょう。
 
 

* 「不可能性」と「拡張現実」

 
では、なぜ新海映画の「風景」はこうまで時代を捉えてやまないのでしょうか?その理由の一つは新海映画における「風景」が現代における「反現実」というべき想像力を照応するからなのでしょう。
 
我が国の社会学を長らくリードしてきた見田宗介氏は「現実」は「反現実」に規定されるといい、そうした観点から戦後日本史を「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と3つの「反現実」によって区分した。
 
そしてポストモダン状況が一段階進行したと言われる1995年以降の現代社会における「反現実」について、大澤真幸氏は「現実中の現実というべき虚構」を希求する「不可能性」であるといい、これに対し、宇野常寛氏は「現実の多重化」を希求する「拡張現実」にあるといいます。
 
「不可能性」と「拡張現実」。この2つはおそらく本質的に対立するものではなく、現代という時代を表裏の関係で言い表しているのでしょう。
 
この2つの「反現実」を共に照応しているのが新海映画における「風景」です。写真資料をもとにトレースされたその背景美術は正確な空間性と細密なディテール感からなる莫大な情報量を持ちつつも、現実の風景に含まれる余計なノイズを周到にオミットする事で高度な美的緊張と独特の叙情を生み出している。こうして新海映画における「風景」は「現実中の現実というべき虚構」と「現実の多重化」という現代の反現実を照応するものとして我々観客の前に立ち現われるわけです。
 
 

* 「横切っていくもの」とストーリーテリングの変化

 
そして、新海映画における「風景」の最大の特徴が「横切っていくもの」にあることはこれまた論を待たないでしょう。「雲のむこう、約束の場所」における「塔」然り、「秒速5センチメートル」におけるNASDAのロケット然り。キャラクターと背景美術が複雑にレイヤードされたその画面の上を一つの軌跡が突き抜けていくあのダイナミズム感溢れる構図です。
 
もっとも、初期新海作品おいて「横切っていくもの」は専ら「遥か彼方にある憧憬」を象徴する役割を担っていました。けれども「君の名は。」におけるティアマト彗星は「今、ここにある危機」を象徴するものとして描かれているのが興味深いところです。
 
このような変化は新海作品におけるストーリーテリング作用点が変化した事と決して無関係ではないように思えます。
 
 

* 反復される「少年少女の関係性の断絶」

 
本作のあらすじはこうです。東京に住む男子高校生の立花瀧と飛騨の山村に住む女子高校生の宮水三葉はある日、お互いの体が入れ替わってしまう。以来、突如始まった週何度か訪れる「入れ替わり生活」を戸惑いつつもそれなりに楽しむ2人。しかしこうした生活に突然終止符が訪れる。
 
三葉の身を案じた瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチを頼りに飛騨へ向かう。果たして三葉の住む糸守町は3年前にティアマト彗星の破片が直撃し、三葉を含めた住民500人以上が死亡していた。瀧は時空を超えて生前の三葉と入れ替わっていたのである。
 
「少年少女の関係性の断絶」。初期新海作品で幾度となく反復されたモチーフです。この点、初期の主人公達が取る態度は自己完結的なデタッチメントでした。「ほしのこえ」の昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐え「雲のむこう、約束の場所」の浩紀はヴァイオリンに佐由理の面影を求め「秒速5センチメートル」の貴樹は明里を想いながら宛先のないメールを打ち続けることになる。
 
 

* コミットメントする主人公とヒロイン

 
これに対して本作の瀧と三葉は中期新海作品の流れを汲む「コミットメントする主人公とヒロイン」といえます。
 
糸守の消滅と三葉の死という現実に直面してもなお諦めない瀧はかつて入れ替わり時に「口噛み酒」を奉納した糸守山上にある「あの世」ーーー宮水神社の御神体へ向かい、三葉の遺した「口噛み酒」の力を借り再び三葉と入れ替わりを果たす。そして彗星落下当日の糸守町での奮闘した後に「かたわれどき」において三葉と時空を超えて邂逅する。ここで見せる瀧の執念は「星を追う子ども」において、亡妻リサを蘇らせるため地下世界アガルタの果てを目指す森崎を想起します。
 
そして瀧と再び入れ替わった三葉は町長である父親を説き伏せ全町民の避難に成功。こうして大惨事は紙一重で回避される。ここでの三葉も泥臭いまでにコミットメントするヒロイン振りを演じる。こうした三葉の姿は「星を追う子ども」でアガルタを駆け回る明日菜や「言の葉の庭」で孝雄に追いすがる百香里に通じるものがあります。
 
 

* 「断絶とすれ違い」から「断絶とめぐり合い」へ

 
ここに我々は新海映画における「デタッチメントからコミットメントへ」という変遷を見る事ができるのではないでしょうか。こうして、かつての秒速5センチメートルにおいて描き出された「断絶とすれ違い」の構図は、本作ラストにおいて「断絶とめぐり合い」の構図として更新されるわけです。
 
このように本作は、新海作品の原点であるセカイ系構造を基盤としつつも、ストーリーテリング作用点をデタッチメントからコミットメントへと転回することで、作家性を手放すことなく幅広い共感を紡ぎ出すことに成功した、文字通りの現時点での到達点です。最新作「天気の子」の公開を機にぜひ本作をはじめとした過去の新海映画をおさらいしてみてはどうでしょうか。
 
 

動物・不可能・拡張現実

 

 

 

 

* 「現実」と「反現実」

 
個人が「私は私である」「私はここにいる」という生のリアリティを獲得する上では、その人がその人なりに紡ぎ出した自らの「物語」が重要になります。
 
人はそれぞれの特異性を抱えながら一般性の世界を生きています。いわゆる「個性」というのは一般性の世界で認められた限りでのその人の属性であり、そこに回収しきれない特異性と上手くやる為も、人はその人なりの「物語」を必要とするわけです。
 
そして、こうした物語を紡ぎ出す上で参照される想像力を社会学者の見田宗介氏は「現実」に対する「反現実」と呼びました。人は「反現実」を通して「現実」と関係するということです。
 
以下で見るように「反現実」は時代の気分によって変遷します。では、現代における「反現実」とは一体なんでしょうか?
 
本稿はタイトルの通り「反現実」概念を軸に東浩紀氏、大澤真幸氏、宇野常寛氏の御三方の議論をサマリーするものです。半分は自分用の論点ノートなので、やたらと長いですが最後のまとめみたいな部分はおそらくありきたりな話に着地すると思われます。何卒、ご了解いただければ幸いです
 
 

* 理想・夢・虚構

 
「現実」という言葉は3つの反対語をもっています。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」です。
 
この点、見田氏は戦後日本史を3つの時期に区切ります。1945年から1960年頃までが「プレ高度成長期」。1960年頃から1970年前半までが「高度成長期」。1970年後半以降が「ポスト高度成長期」です。
 
そして、この3つの時期における社会的意識はちょうどこの「理想」「夢」「虚構」という3つの反対語によって特徴付けることができると言われます。
 
 
⑴ 理想の時代(1945年〜1960年頃)
 
理想の時代。それは人々がそれぞれの立場で「理想」を求めて生きた時代と言えます。1945年のあの夏、終戦の灰燼の中から戦後日本は出発した。瓦礫と化した「現実」の中を生きて行くために人々はなにがしかの「理想」を必要とした。
 
この時代の日本の「理想主義」を支配していた大文字の二つの「理想」として「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエトコミュニズム」というものがありました。この両者は対立しながら共にこの時期の「進歩派」として「現実主義」的な保守派権力と対峙しました。
 
この点、進歩派知識人の代表的論客である丸山眞男氏は現実には二つの側面があるといいます。すなわち、人は現実に制約され決定されているという側面と、人は現実を決定し形成して行くという側面です。
 
いわゆる「現実主義者」はこの第一の側面だけをみるが、しかし真に現実を見るものは現実の第二の側面をも見出すのだと丸山氏は言います。つまり「理想」を希求する者こそが「現実」を希求する者であるという事です。
 
一方で「現実主義者」にしてみても「今日よりも明日は、明日よりあさっては、きっともっと豊かになる」という「理想」を追っていたわけです。
 
「理想の結婚」「理想の職業」「理想の住まい」「理想の炊飯器」。そうした色とりどりの「理想」が戦後日本の、しばし奇跡とも称される経済復興の駆動力となったことは疑いないでしょう。
 
つまり「理想主義」とは現実主義であり「現実主義」は理想主義であるという事になります。けれども、いずれせよそこにあるのはリアリティを希求する欲望です。当時、映画館の看板に踊った「総天然色」という文字がこのリアリティへの欲望を裏側から物語っているのでしょう。
 
こうした「理想の時代」は1960年の日米安保条約の改定(継続)に対する闘争で「理想主義者」が「現実主義者」に敗れたことで終焉する事になります。
 
 
⑵ 夢の時代(1960年頃〜1970年代前半)
 
日米安保条約の改定を使命とした岸内閣の後を引き継いだ池田内閣は「所得倍増計画」を掲げ「農業構造改善事業」による農村共同体の解体と「新産業都市建設促進法」による全国土的な産業都市化により産業構造の転換を推進。高度経済成長に必要な①資本②労働力③市場という三位一体の産業構造の変革を目指します。
 
こうした産業構造改革により、農村共同体における家父長的大家族の解体が進み「拡大家族」から「核家族」へというロールモデルの転換は、家族のあり方や個人の人生に関する様々な領域に変化を及ぼします。
 
ともかくも結果としては経済成長は軌道に乗り、60年代前半の世は「昭和元禄」「泰平ムード」に酔いしれる。経済的繁栄は国民生活に物質的幸福を齎した。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という「三種の神器」がほぼ普及し、今度はカラーテレビ、クーラー、自動車が「新・三種の神器」として喧伝されだした。
 
1963年に行われた全国的な社会心理調査の項目に、明治維新以降100年の歴史のそれぞれの時期を色彩で表すとすれば何色がふさわしいかという項目があり、結果、最も多かった回答は明治は紫、対象は黄色、昭和初年は青・緑、戦争中は黒、終戦直後は灰色。これに対し、当代は「ピンク」だったそうです。
 
同じく1963年に大ヒットした「こんにちは赤ちゃん」という歌謡曲がありますが、ここにはまさしく「ピンク色の夢の時代」の気分が純化した形で表出していると言えます。
 
こうして理想の時代における「理想主義者」たちの信じた現実は実現しなかったが「現実主義者」たちの望んだ理想は実現した。
 
このように1960年代前半が「あたたかい夢の時代」であったのであれば、後半は「熱い夢の時代」と言われます。
 
当時、アメリカ、フランス、ドイツを中心として発生した大規模な学生反乱は高度経済成長只中の日本にも波及します。この時代のラディカリストな青年にとっては「アメリカン・デモクラシー」も「ソビエトコミュニズム」も「豊かな暮らし」とやらも、かつての理想たちすべてが抑圧の象徴であり打倒すべき対象でしかなかった。「理想」に叛逆する「熱い夢」が沸騰した時代ということです。
 
 
⑶ 虚構の時代(1970年代前半〜1995年頃)
 
1973年のオイルショックにより長らく続いた高度経済成長は終りを告げます。そしてかの長嶋茂雄が「巨人軍は永久に不滅です」という名句を残して現役引退した1974年、実質経済成長率は戦後初めてマイナス成長を記録。この年の「経済白書」の副題は「経済成長を超えて」。こうして時代はポスト高度成長期へと遷移します。
 
理想も夢もない時代。人々はその反現実を虚構に求めだしました。
 
1973年に出版された「ノストラダムスの大予言」を嚆矢としてオカルトブームが起き「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が起爆剤となりアニメブームを牽引。1983年に開園した東京ディズニーランドは徹底した現実性の排除による自己完結性に基づく虚構の楽園として出現した。
 
また、それまでわい雑な副都心のうちの一つに過ぎなかった渋谷は1970年以降、西武・東急の開発競争による大規模な都市演出を通じて、虚構の時代における「かわいい」「おしゃれ」「キレイ」という「ハイパーリアル」な感性を体現する巨大遊園地へ変貌する。
 
一方でこの時代においては、森田芳光氏が「家族ゲーム」という映画で誇張気味に描くように、家族という基礎的な共同体が演技として「わざわざするもの」である虚構として感覚されるようになる。地方自治体が「1日15分は親子の対話を」などという呼びかけを始めたのもこの時代であった。
 
こうしてみると「理想→夢→虚構」という順で「反現実の反現実的度」は高まっていると言えます。
 
理想の時代とはリアリティの時代でした。理想に向かう欲望とは、理想を現実化するという現実に向かう欲望です。けれども虚構に生きようとする精神はもはやリアリティを愛さない。まさに「リアリティなんかないのがリアリティ」という事になります。
 
 

* 「ポスト・虚構の時代」をいかに捉えるか?

 
そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年という年は、一方で、平成不況の長期化によりジャパン・アズ・ナンバーワンのバブル神話が終焉し、他方で、地下鉄サリン事件により若年世代の「生きづらさ」の問題が前景化された年でもあります。
 
現代思想的な観点からいうと、この1995年以降、日本社会においてポストモダン状況がより加速したと言われています。ここで「虚構の時代」は臨界点を迎えたとひとまずは言えるでしょう。ではその先をどのように捉えるのか?
 
 
⑴ 動物の時代
 
この点、批評家の東浩紀氏は1995年以降の「ポスト・虚構の時代」を「動物の時代」として捉えます。ここでいう「動物」とはロシアの哲学者アレクサンドル・コジューヴに依拠した概念で「人間的欲望」の欠如した「動物的欲求」のみを持つ存在のことです。
 
東氏はオタクの消費行動傾向が従来の個々の作品を通じてその背後にある世界観を消費する「物語消費」から、作品の構成要素であるキャラクターを「萌え要素」などの「データベース」に還元した上で、そこから再構成される「シュミラークル」を消費する「データベース消費」へ移行していることを指摘する。
 
東氏は、ここにポストモダンの一般的傾向を見出し、現代社会の人間像を、個人の生の意味づける「大きな物語」への「欲望」より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」と名付けます。
 
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
 

 

 
⑵ 不可能性の時代
 
そして、社会学者の大澤真幸氏によれば、東氏がいうこの「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。
 
まず、大澤氏は虚構の時代は全く相反する次の二つの傾向の間で分裂し解消されているという。
 
①一方、これまでの反現実的傾向に反するかのような「現実への回帰」という傾向。例えば若年層の自傷行為原理主義者の自爆テロリズムのように、「反現実」の機能を「現実中の現実」そのもので代替してしまう傾向です。
 
②他方、これまでの反現実的傾向がさらに強化される「極端な虚構化」という傾向。例えばフィルタリング規制やゾーニング規制のように、現実から暴力性や危険性を捨象し、相対的な虚構化を推し進める傾向です。
 
大澤氏によればこれらの相互に矛盾するかのごとき二つの傾向は同一の自体の表裏であるといいます。つまり「現実中の現実」こそが「最大の虚構」であり、そうした「現実中の現実という虚構」がどこかにあると想定することで「何か」の隠蔽を試みているという。
 
そしてその「何か」とは他者との直接の関係性、つまり他者性なき〈他者〉を求める「不可能」であるという。すなわち現代はこの「認識や実践に対して立ち現れることのない不可能性」が反現実として機能する時代であるというわけです。

 

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

 

 

 
⑶ 拡張現実の時代
 
これに対して、評論家の宇野常寛氏は現代における「反現実」として「拡張現実」という概念を提唱します。
 
宇野氏は現代を「ビッグ・ブラザー(国民国家)」が壊死した後の「リトル・ピープル(超国家的な資本と情報のネットワーク)」の時代であると位置付けた上で、もはや世界に〈外部〉は存在せず、「ここではない、どこか」という仮想現実を〈外部〉に見出す「虚構」は「反現実」として機能しないとする。
 
要するに、グローバル化とネットワーク化の極まった現代において「いつか革命が起きる」とか「やがて最終戦争が起きる」などとという「ここではない、どこか」はもうベタに信じることはできず、せいぜいメタかネタで演じるしかない。
 
現代における「反現実」とは、まさになんでもなくありふれたこの日常空間の「いま、ここ」に深く潜ることで現実を多重化する「拡張現実」であるということです。
 
拡張現実という発想は、虚構と現実の関係性を「あれかこれか」の対立関係ではなく「あれもこれも」という統合関係として把握します。
 
確かに、今日の朝ごはんとか道端で見かけた花などといった他愛のない生活風景がソーシャルメディアなどで大きく共感を集めたり、あるいは普通の街角や路地裏が「アニメの聖地」になったりするのはこうした拡張現実的な現象として了解できるでしょう。
 
こうして拡張現実を反現実に位置付けることで、ある種の価値観を転換させる事が可能となります。つまり「ここではない、どこか」の理想や夢や虚構を仮想するのではなく、まさにこの「いま、ここ」の現実を拡張することで人は様々な物語をいくらでも紡ぎ出していけるということです。
 
リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)
 

 

 

* 「見はるかす」ということ

 
動物・不可能・拡張現実。「ポスト・虚構の時代」をめぐるこれらの議論は本質的な部分では別に対立してはいないと思います。
 
要するに、時代の実態そのものを直視すれば「動物」であり、その闇の側面を強調すれば「不可能」となり、光の側面を強調すれば「拡張現実」ということになるでしょう。
 
この点、見田氏は、現代の「消費化/情報化社会」における「闇の巨大」と「光の巨大」を「見はるかす」という視座を示します。
 
こうした視座に基づき見田氏は「消費」と「情報」のコンセプトの核心にある原的なものを取り出すことで「消費」と「情報」をラディカルなレベルで再定義します。
 
ここでいう「消費」のコンセプトの核心とは「あらゆる種類の効用と手段主義的な思考の彼方」にある「生の直接的な歓びそのもの」であり、そして「情報」のコンセプトの核心とは「あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方」にある「かけがえのないものの可視化」にあります。
 
そして見田氏は「消費」と「情報」それぞれが互いの核心を彼岸として、それぞれのコンセプトを転回させることで「消費化/情報化社会」はより自由で魅力的な社会へ、かつ他者/環境収奪的ではない社会へ移行する事が可能であるという。
 
ここで示される「インストゥルメンタルな生からコンサマトリーな生へ」という幸福感受性のパラダイムの転換は、社会レベルでの実現可能性はともかく、さしあたり個人の生き方として一つの指針となると思います。
 
我々は日々、様々なデータベースから排出される莫大な「情報」を「消費」しながら生きているという事は疑いようもない事実です。
 
こうした「動物」としてのデータベース消費から幾ばくか免れる方途があるとすれば、重要になるのはここでもやはり物事の闇と光を「見はるかす」という視座でしょう。
 
いかにこの現実の「不可能」を受け入れ、そして、いかにこの現実を「拡張」していくか。
 
こうした問いに日々、自分なりに答えて続けていく。結局のところ、そうした主体的なあり方こそが価値を産み出し、その人なりの「物語」を紡ぎ出していく源泉となるのではないでしょうか。やはり、わりとありきたりな結論になってしまいました。最後まで読んでいただき有難うございます。
 
 
 

自己変革と愛の讃歌--イエスタデイをうたって(冬目景)

 

 

 

* ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇

 
冬目景さんの不朽の名作「イエスタデイをうたって」がこの度アニメ化されるそうです。あの独特の世界をアニメでどこまで再現できるのかよくわかりませんが、それも込みで楽しみである事は確かです。原作を読まれた事のない方もこの機会に是非どうでしょうか。
 
本作は魚住陸生(リクオ)、野中晴(ハル)、森ノ目榀子、早川浪の4人の主要登場人物の人間模様を軸として、ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇であり、そのテーマは1巻のサブタイトルに大体集約されています。
 
すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。そういうわけで今回、ざっと読み返して思い浮かんだ事を書いて見ます。
 
 

* ロストジェネレーション世代における自己変革

 
リクオは大学卒業後も「やりたい事」が見つからず、就職せずにコンビニでフリーター生活を続けている。リクオはなんとなくカメラが趣味ではあるが、なぜか「人物は撮らない」という妙な主義がある。けれどもリクオはそのポリシーがどこから来たのか自分でもわからない。
 
そんなある日、リクオは偶然知り合った映画研究部の高校生達が撮った8ミリのラッシュフィルムを目にする機会を得る。さしたる技術もなくほぼ情熱だけで撮られたその拙い映像の中にリクオは自分はなぜ人物を撮らないのかの答えを見い出すことになる。
 
その答えは「人物を撮らない」のではなく「人物を撮れない」という事でした。リクオは連続の中にある一瞬の輝きをーーーおそらくは「まなざし」をーーーカメラで捉える事が出来ない自分を正当化するための言い訳を無意識的に作り出していた。つまりそこにはそれだけの「人物を撮りたい」という欲望があるわけです。
 
こうして自身の中にある「やりたい事」を発見したリクオはその後、機縁を得て、写真スタジオへ正社員として就職を果たす。
 
リクオはいわば回り道をしたからこそ自分の本当にやりたいことが見つかったと言えます。レールから外れたからこそ見えてくるものがある。長い目でみれば数年間の回り道は無駄ではなかったわけです。
 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化により就職氷河期が深刻化し、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代です。
 
ただ、いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中で、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌でもあったわけです。
 
 

* 愛という呪縛

 
リクオは大学時代の同級生である榀子に恋心を抱いている。けれども榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみついてそこから前に進めないでいる。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕うハルは、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てないでいる。
 
なかなかもどかしい人間模様です。ハルは「宣戦布告」した際「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」ってさらっと言っていますが、これが身もふたもない現実でしょう。
 
我々は感覚的イメージと言語的システムによって作り上げられた「パーソナルな現実」を生きているわけですが、こうした作り上げたパーソナルな現実の中に、しばし身体という「生の現実」から発せられたノイズが混入する。このノイズを時に我々は「これは恋だ」と錯覚するわけです。
 
こう言ってよければ恐怖も憎悪も恋慕も「生の現実」の水準においては同じノイズに過ぎない。問題はそれを言語的システムの中でどう解釈するかです。世にいう吊り橋理論というのはそういう事です。
 
ところがその「錯覚」の果てに何か至高の愛とか真実の愛みたいなものがあるんだと解釈してしまった時、人はそこから一歩も動けなくなってしまう。
 
幼い日の湧の思い出に愛の絶対境を見出してしまった榀子の不幸はまさにここにあるわけです。また、リクオも同様に大学時代の榀子の幻影に魅入られてしまったがゆえに現在の榀子との関係性を進められずにいます。この点では二人はある意味で似た者同士なのかもしれません。
 
 

* この身もふたもない現実を受け入れるということ

 
そういうわけで本作は読んでいて本当にもどかしい気持ちにさせられます。けれど、翻ってみれば我々も世界のどこかに至高の真実があると信じ込みたくて、この現実を先延ばしにして生きているところはないでしょうか?
 
結局、幸せの在り処は「ここではない、どこか」に追い求めるものではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねて行く中にしかないわけです。けれどもこの身もふたもない現実を受け入れるためには、一見無駄だと思える回り道をある程度はぐだぐだと歩き回らなければならないということも確かです。
 
本作を読んでいて感じる「もどかしさ」は自身の心のどの部分から発せられるのか?その辺りを考えてみることで新たな自己変革への気づきや様々な愛の形に対する共感の眼差しを得ることができるのかもしれません。