かぐらかのん

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「イエスタデイをうたって1〜11(冬目景)」〜自己変革と愛の讃歌

 

 

 

* ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇

 
冬目景さんの不朽の名作「イエスタデイをうたって」がこの度アニメ化されるそうです。あの独特の世界をアニメでどこまで再現できるのかよくわかりませんが、それも込みで楽しみである事は確かです。原作を読まれた事のない方もこの機会に是非どうでしょうか。
 
本作は魚住陸生(リクオ)、野中晴(ハル)、森ノ目榀子、早川浪の4人の主要登場人物の人間模様を軸として、ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇であり、そのテーマは1巻のサブタイトルに大体集約されています。
 
すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。そういうわけで今回、ざっと読み返して思い浮かんだ事を書いて見ます。
 
 

* ロストジェネレーション世代における自己変革

 
リクオは大学卒業後も「やりたい事」が見つからず、就職せずにコンビニでフリーター生活を続けている。リクオはなんとなくカメラが趣味ではあるが、なぜか「人物は撮らない」という妙な主義がある。けれどもリクオはそのポリシーがどこから来たのか自分でもわからない。
 
そんなある日、リクオは偶然知り合った映画研究部の高校生達が撮った8ミリのラッシュフィルムを目にする機会を得る。さしたる技術もなくほぼ情熱だけで撮られたその拙い映像の中にリクオは自分はなぜ人物を撮らないのかの答えを見い出すことになる。
 
その答えは「人物を撮らない」のではなく「人物を撮れない」という事でした。リクオは連続の中にある一瞬の輝きをーーーおそらくは「まなざし」をーーーカメラで捉える事が出来ない自分を正当化するための言い訳を無意識的に作り出していた。つまりそこにはそれだけの「人物を撮りたい」という欲望があるわけです。
 
こうして自身の中にある「やりたい事」を発見したリクオはその後、機縁を得て、写真スタジオへ正社員として就職を果たす。
 
リクオはいわば回り道をしたからこそ自分の本当にやりたいことが見つかったと言えます。レールから外れたからこそ見えてくるものがある。長い目でみれば数年間の回り道は無駄ではなかったわけです。
 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化により就職氷河期が深刻化し、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代です。
 
ただ、いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中で、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌でもあったわけです。
 
 

* 愛という呪縛

 
リクオは大学時代の同級生である榀子に恋心を抱いている。けれども榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみついてそこから前に進めないでいる。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕うハルは、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てないでいる。
 
なかなかもどかしい人間模様です。ハルは「宣戦布告」した際「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」ってさらっと言っていますが、これが身もふたもない現実でしょう。
 
我々は感覚的イメージと言語的システムによって作り上げられた「パーソナルな現実」を生きているわけですが、こうした作り上げたパーソナルな現実の中に、しばし身体という「生の現実」から発せられたノイズが混入する。このノイズを時に我々は「これは恋だ」と錯覚するわけです。
 
こう言ってよければ恐怖も憎悪も恋慕も「生の現実」の水準においては同じノイズに過ぎない。問題はそれを言語的システムの中でどう解釈するかです。世にいう吊り橋理論というのはそういう事です。
 
ところがその「錯覚」の果てに何か至高の愛とか真実の愛みたいなものがあるんだと解釈してしまった時、人はそこから一歩も動けなくなってしまう。
 
幼い日の湧の思い出に愛の絶対境を見出してしまった榀子の不幸はまさにここにあるわけです。また、リクオも同様に大学時代の榀子の幻影に魅入られてしまったがゆえに現在の榀子との関係性を進められずにいます。この点では二人はある意味で似た者同士なのかもしれません。
 
 

* この身もふたもない現実を受け入れるということ

 
そういうわけで本作は読んでいて本当にもどかしい気持ちにさせられます。けれど、翻ってみれば我々も世界のどこかに至高の真実があると信じ込みたくて、この現実を先延ばしにして生きているところはないでしょうか?
 
結局、幸せの在り処は「ここではない、どこか」に追い求めるものではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねて行く中にしかないわけです。けれどもこの身もふたもない現実を受け入れるためには、一見無駄だと思える回り道をある程度はぐだぐだと歩き回らなければならないということも確かです。
 
本作を読んでいて感じる「もどかしさ」は自身の心のどの部分から発せられるのか?その辺りを考えてみることで新たな自己変革への気づきや様々な愛の形に対する共感の眼差しを得ることができるのかもしれません。