かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

これから現代思想にざっくり入門するためのおすすめ5冊

 

* 現代思想入門(千葉雅也)

 
⑴ 今なぜ現代思想
 
最近「現代思想」がちょっとしたブームのようです。おそらくそのきっかけとなったのは気鋭の哲学者、千葉雅也氏が昨年3月に公刊した『現代思想入門』という本でしょう。「現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした『入門書』の決定版」とうたった本書は発売されるや瞬く間にベストセラーとなり、発行部数は人文書としては異例の14万部を超え、今年2月には「新書大賞2023」を受賞しています。
 
ここでいう「現代思想」とは1960年代から1990年代を中心に主にフランスで展開された「ポスト構造主義」の哲学を指しています。すなわち、2023年の「現代」からすればもはや「過去」の思想ということになります。それがなぜ、いま再び求められているのでしょうか。
 
この点、本書はそのイントロダクションである「今なぜ現代思想か」において現代思想を学ぶ今日的意義を述べています。それは端的にいうと、現代思想を学ぶことで「単純化できない現実」の難しさを、より「高い解像度」で捉えられるようになるということです。どういうことでしょうか。
 
我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」とか「ちゃんとしなければならない」といった「秩序化」が進む一方で、こうした「秩序化」に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。
 
こうした現代社会における「秩序化=単純化」という大きな傾向に対して、現代思想は「秩序化=単純化」から逸脱するものに注目します。その根底には例えばコンプライアンスとかSDGsとか多様性とか安心安全などといった諸々の、要するに「政治的な正しさ」を表明する「きれいな言葉」によって過剰に「秩序化=単純化」された現代社会に対する警戒心や違和感があります。
 
もちろんこれは全てが無秩序な世界を称揚するものでもありません。要するに、一方で秩序を作る思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる思想も必要だという「ダブルシステム」で考えることこそが重要である、と本書はいいます。すなわち、現代思想を学ぶ今日的意義とは、このような「ダブルシステム」の思考法を涵養する点にあるという事です。
 
⑵ 二項対立と脱構築
 
こうした観点から本書はまず第一章〜第三章で「ポスト構造主義」の代表的思想家であるジャック・デリダジル・ドゥルーズミシェル・フーコーの思想を「脱構築」の視点から読み解いていきます。「脱構築」とはもともとデリダの術語ですが、本書ではドゥルーズフーコーにも脱構築的な考え方があるとして、この三つ巴を抑える事でまずは現代思想の基本的な論理操作ともいえる「脱構築的な思考」を練成します。
 
通常、我々は世の中の様々な物事の価値を「良い/悪い」「正しい/間違い」「本物/偽物」「正常/異常」といった「二項対立」で判断しています。二項対立の思考は世界をシンプルなものにしますが、その一方で世界の複雑さや猥雑さの中に隠れた豊かさを見過ごしてしまうことになります。そして人は時としてのその二項対立の枠組みから他人を非難したり自分を追い詰めたりします。
 
けれどもこうした二項対立もよくよく見ていけば、必ずしも一方が全面的に正しくて他方が全面的に間違っているとは限らず、その境界線はかなり曖昧だったりすることもよくあります。こうした世の中でなんとなくまかり通っている二項対立を根本から揺るがしていく知の技法がデリダの提唱する「脱構築」です。
 
本書では「脱構築」の手続きを次のように説明しています。
 
①まず、二項対立において一方をマイナスとされる暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。しかし、ただ逆転させるだけではありません。
 
②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権を取るのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
 
③そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。
 
(『現代思想入門』より)

 

そして、こうしたデリダ脱構築(概念の脱構築)から「世界」を見晴るかすのであれば、全ての事象は「同一性/差異」という二項対立を超えて縦横無尽に接続され(かつ切断されながら)展開していくというドゥルーズ存在論(存在の脱構築)となります。さらにこのようなドゥルーズ存在論から「社会」に折り返すのであれば、近代社会における権力関係とは「支配者/被支配者」という二項対立ではなく支配者と被支配者相互の多方向の関係性として展開しているというフーコーの権力論(社会の脱構築)となります。そして、そこから人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理が提示されることになります。
 
⑶ 現代思想のつくり方
 
その後、本書は第四章で現代思想の源流まで遡り、続く第五章では現代思想の隣接領域ともいうべき精神分析に光が当てられます。そして特筆すべきはこれまでの総まとめとなる第六章、その名もずばり「現代思想のつくり方」です(なかなか挑発的なタイトルです)。
 
ここでは恐るべきことに、多様多彩な(はずの)現代思想の理論が「⑴他者性」「⑵超越論性」「⑶極端化」「⑷反常識」という四原則からなるある種のパターン(!)に還元されてしまいます。ここからさらに第七章ではある種の応用編としてこの四原則から現代思想の今日的展開である「ポスト・ポスト構造主義」が論じられます。
 
おそらく本書一冊で現代思想の基礎的素養をほぼ手に入れることができるでしょう。また本書は「入門のための入門」という謙虚な位置付けになっていますが、随所ではかなり高度な内容にもさりげなく平易な言葉で踏み込んでおり、現代思想をひととおり抑えた中級者以上にも絶対にお勧めできる本であるといえます。
 

* フランス現代思想史(岡本裕一朗)

⑴ フランス現代思想の「精神」とは何か
 
千葉氏の本で「現代思想」のおおよそのイメージが掴めた後は同書で紹介されている個別の現代思想家の入門書に挑戦してみるのも良いでしょう。ただその一方で、もう少し別の視点から現代思想全体を俯瞰的に理解したいという向きにはこれから紹介する本をおすすめしたいと思います。そのうちの一冊である本書は「現代思想」の本家であるフランス現代思想を時系列的に概説していく入門書です。
 
本書もその「プロローグ」で述べるように、今日においてフランス現代思想について語る時「ソーカル事件」は避けて通ることができません。そのあらましは次のようなものです。1995年、ニューヨーク大学の物理学教授、アラン・ソーカルがフランス現代思想風の文体で書かれたインチキ論文を「ソーシャル・テクスト」というポストモダン系の学術誌に投稿したところ、あろうことか同誌はそのインチキを見抜けず、ソーカルの論文をそのまま掲載してしまい、おまけに高い評価まで与えてしまいます。その後、ソーカルの告発によって「ソーシャル・テクスト」は世の笑いものとなり、同誌編集長は1996年のイグノーベル賞を受賞してしまいます。さらにソーカルは1997年にジャン・ブリクモンとの共著「〈知〉の欺瞞(英題:ファショナブルナンセンス)」を出版し、様々なフランス現代思想系の思想家たちの文章を広範に取り上げ、それらの言説がいかに意味不明であるかを完膚なきまでに暴き出しました。
 
それまでフランス現代思想といえば多彩な数学や物理学の概念を駆使した難解な論理と衒学的な文体で知られ、多くの人はそこに何か深遠な真理があると信じて、テクストを読み解けないのは自分の頭が悪いせいだと思い込んでいました。けれどもソーカルに言わせれば「テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだ」ということになります。
 
けれどもここで誤解してはいけないのはソーカルが揶揄したのはフランス現代思想の言説それ自体ではなく、あくまで数学や物理学の概念を濫用した怪しげなロジックであったということです。そして、こうした怪しげなロジックを差し引いた後に残る純粋な人文知としてのフランス現代思想の「精神」は『現代思想入門』が述べるように今日においてますます重要な意義を帯びています。
 
この点、本書はフランス現代思想の「精神」とは「西洋近代を自己批判的に解明する」という態度にあるといいます。いわばフランス現代思想全体が「(進んだ)西洋近代社会/(遅れた)それ以外の社会」という二項対立の脱構築を志向していたといえます。そしてこのようなフランス現代思想の「精神」が具体的にどう展開されていったのかを本書は代表的思想家の軌跡に即しながら、極めて明快な文体で俯瞰していきます。
 
 
フランス現代思想には「構造主義からポスト構造主義へ」という大きな流れがあります。1960年代、フランスにおける思想界のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は人が独自の「実存」を切り拓いていく自由な主体であることを限りなく肯定しましたが、クロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は自由な主体がもたらした成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
 
こうしてたちまち構造主義は時代のモードへと躍り出ることになります。ジャック・ラカンロラン・バルトルイ・アルチュセールといった構造主義者の名が華々しく世に知れ渡り、当時、多くの知識人や文化人は自らを構造主義者であることを以て任じていました(中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言い出すサッカーの監督もいたようです)。
 
ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りが見え始めます。こうした流れを決定的にした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。「Egalité! Liberté! Sexualité!」というそのスローガンが端的に示すように「68年5月」とは大学や社会が押し付ける旧態依然とした「構造」に対する学生たちの異議申し立てでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。
 
もはや目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の破壊あるいは解体でなければならない。こうして1970年代において台頭してきたのが『現代思想入門』のキーパーソンとなるフーコードゥルーズ(&ガタリ)、デリダらに代表される「ポスト構造主義」ということになります。
 
⑶ レヴィ=ストロースという難所
 
このようにフランス現代思想というのは元々はレヴィ=ストロース構造主義から始まっています。従ってフランス現代思想に入門しようとする初学者の多くはこのレヴィ=ストロース構造主義をまずは理解しなければいけない、などと思い込んだりするわけです。
 
ところがこのレヴィ=ストロースのいう「構造」というのは恐ろしく難解な概念であり、さらにその扱う分野も「親族」とか「神話」における人類学的考察という、これまた大多数の読者にとっては非日常的な領域となります。それゆえにレヴィ=ストロースからフランス現代思想に入門しようとする場合、この「構造」の時点で早速、多くの初学者が躓いてしまう恐れがあります。
 
けれどもその一方で、ラカンやバルトやアルチュセールといった他の構造主義者はレヴィ=ストロースのいう「構造」ではなく、構造言語学の祖とされるフェルディナン・ド・ソシュールのいう「体系(システム)」を「構造」と読み替えて自身の「構造主義」に援用しています。そしてフーコードゥルーズデリダといったポスト構造主義者が問題にする「構造」も、もっぱらこのソシュールに由来する「体系(システム)=構造」です。
 
要するにレヴィ=ストロースの「構造」が理解できなくても「現代思想ポスト構造主義)」は理解できるということです(実際、千葉氏の『現代思想入門』でもレヴィ=ストロースは軽く言及される程度です)。こうしたことから次のようにも言えるのではないでしょうか。とりあえず「現代思想」に入門しようとする段階でレヴィ=ストロースにはあまり深入りしない方が良い、ということです。
 

* 集中講義!日本の現代思想仲正昌樹

⑴ ポストマルクス主義としての日本の現代思想
 
本書は「現代思想」が日本においてどのように受容されていったかを概説する一冊です。本書によれば日本の現代思想とは端的に言えば「マルクス主義」に代わる思想として受容されたということになります。
 
現代思想」が登場するまでの戦後日本思想において圧倒的な影響力を誇っていたのは、いうまでもなく「マルクス主義」です。第二次大戦後、ソ連や中国などの社会主義諸国の台頭に後押しされる形で西欧諸国の多くでマルクス主義の影響が急拡大しました。そして日本でもアメリカを中心とする占領軍の民主化政策の結果として戦前は治安維持法の弾圧対象となっていた共産党をはじめとするマルクス主義諸派が息を吹き返し、当時の左翼的知識人の間ではマルクス主義が目指す「革命」への過剰な期待が広がりました。
 
ところが日本のマルクス主義はすぐに実現する見込みのない「革命」を強引に実践的な目標として掲げ続けたため、かつてのように「ブルジョワジー(資本家階級)/プロレタリアート(労働者階級)」の二項対立で単純に切り分けることのできなくなった戦後日本社会における複雑な現実から遊離したユートピア思想と化していきます。
 
こうして1970年代になるとマルクス主義の影響が政治運動の面でもアカデミズムの面でも大きく後退する中で、いまや資本主義が高度に発達した現代社会を読み解く知としてフランス現代思想が徐々に注目されるようになります。そして1980年代に入ると浅田彰氏の『構造と力(1983)』の大ヒットを起爆剤として「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる空前の現代思想ブームが巻き起こることになります。
 
⑵ 脱近代化・脱ジャンル化・脱アカデミズム化
 
このようにして一世を風靡することになった1980年代日本の「現代思想」は次のような特徴があります。
 
①ここでいう「現代」とは単純に「現時点」とか「同時代」などとといった意味ではなく「ポストモダン(近代の後)」という意味で用いられています。こうしたことから1980年代日本の「現代思想」とは別名「ポストモダニズム」とも呼ばれます(脱近代化)。
 
②ここでいう「思想」とは従来の意味での「思想(広義の哲学)」の枠組みを逸脱して、社会学、人類学、精神分析、文芸批評、メディア批評といった様々な領域とのクロスオーバーによって構成されています(脱ジャンル化)。
 
③こうした「現代思想」の実践は大学や学会といった「アカデミズムの内部」ではなく「ニュー・アカデミズム」の名の通り、もっぱら雑誌やテレビといった「アカデミズムの外部」における多様多彩なパフォーマンスとして展開されることになりました(脱アカデミズム化)。
 
 
このように1980年代において一世を風靡した「現代思想」でしたが、1990年代に入ると世界的な構造主義/ポスト構造主義の退潮や国内のバブル経済崩壊によって往時の勢いを喪うことになります。また同時にソ連崩壊に伴うマルクス主義左派の影響力が一気に低下したことでグローバル資本主義や国内右派の台頭に対抗すべく「ポストモダンの左転回」というべき事象が生じました。しかしその一方でかつてのように「ポストモダン」における大きなパースペクティヴを示すものとしての「現代思想」を追求する営みはあまり流行らなくなりました。
 
こうした状況の出現はある面で「ポストモダン」のより一層の徹底化の帰結といえます。この点、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダン」の条件を「大きな物語の失効」と規定しています。こうした意味での「ポストモダン大きな物語の失効)」が1990年代の日本社会でより一層徹底された結果「ポストモダニズム大きな物語の失効を語る大きな物語)」としての「現代思想」も失効してしまったということです。
 
もっとも、こうした状況は「現代思想」というジャンルそれ自体がお払い箱になったことを意味しません。むしろゼロ年代以降の「現代思想」は「大きな物語の失効」が自明の前提となった社会において乱立する個々の「小さな物語」の在り方と様々な「小さな物語」同士の関係性に光を当てていく思想へアップデートを果たすことになります。千葉氏の『現代思想入門』はそのひとつの到達点といえるでしょう。
 

* 動物化するポストモダン東浩紀

⑴ オタク系文化と現代思想
 
残り2冊は日本の現代思想における古典的名著を取り上げたいと思います。まずその1冊目はゼロ年代を代表する批評家である東浩紀氏の代表作『動物化するポストモダン(2001)』です。本書はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には「シュミラークル(オリジナルとコピーの中間形態)の全面化」と「大きな物語(社会共通の価値体系)の機能不全」という2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。
 
まず本書は近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。ここでいう「物語消費」とは個別作品の背後にある例えば「宇宙世紀」のような「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式であり「データベース消費」とは「シュミラークル」としてのコンテンツを生成する例えば「萌え要素」のような「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
 
そして東氏によれば、こうしたオタク系文化における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといいます。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には社会共通の「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「シュミラークル」としての「小さな物語」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」となります。
 
さらにこのような「シュミラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望に二層化されることになります。そこで本書は当時オタク系文化の中心を担っていた美少女ゲーム(ノベルゲーム)のユーザーを範例として「シュミラークル」の水準での動物的欲求と「データベース」の水準での(形骸化した擬似的な)人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。
 
本書は一般的に現代思想の理論でゼロ年代初頭のオタク系文化を分析した本として捉えられていますが、実際に読めばむしろゼロ年代初頭のオタク系文化を手がかりとして現代思想の理論を更新した本であることがわかると思います。
 
⑵ 動ポモにおけるコミュニケーション軽視?
 
周知の通り動ポモは幅広い反響を巻き起こし、ゼロ年代日本における現代思想シーンを強力に牽引することになりました。しかしその一方で同書に対しては、オタクの消費行動を過度に一般化しているとか、あるいはオタクの消費行動の実態を捉えていないとか、さらにはデータベース理論そのものが妥当ではないなどといった批判が向けられることになりました。
 
こうした中で動ポモに向かって決定的な批判の矢を放ったのが宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力(2008)』です。同書はポストモダンの世界構造として東氏のいうデータベースモデルの妥当性自体は認めつつも、東氏はデータベースから生成される「小さな物語」同士の関係性=コミュニケーションの重要性を見落としているといいます。
 
すなわち、東氏は「動物化」した人間はコミュニケーションによる意味の備給を必要とせず生きていると主張するけれども、果たして本当にそうなのか?現に東氏が一連の議論の例証として持ち出す当のオタクたちがまさしく皮肉な事にもパズルゲームでもアクションゲームでもなく美少女ゲームに耽溺し、二次元美少女たちとの疑似的なコミュニケーションを欲望しているではないか、むしろポストモダンの本質とは東氏が目を逸らした「小さな物語」同士のコミュニケーションの困難性にこそあるのではないか、ということです。
 
⑶ 動物と人間のダブルシステム
 
確かに宇野氏の言うように動ポモの議論は「小さな物語」同士のコミュニケーションを軽視しているところがあります。もっとも『弱いつながり(2014)』や『観光客の哲学(2017)』といった東氏の後年の著作から動ポモの議論を読み直した時、同書のコミュニケーション軽視はコミュニケーションから目を逸らす「弱さ」というよりも、むしろコミュニケーションに依存しない「強さ」を志向しているようにも思えます。
 
そして同書の真の革新性はポストモダン的な主体を、動物でしかない現実と、しかしそれでも人間であろうとする倫理を解離的に共存させるという、まさに千葉氏のいう「ダブルシステム」にあったといえるでしょう。公刊から20年以上経過した現在でもなお同書が未だ過去のものとならず、常に時代に対してアクチュアルな批判力を行使し続ける源泉は、まさにこうした「ダブルシステム」の中に見出すことができるのではないでしょうか。
 

* 構造と力(浅田彰

⑴ シラケつつノリ、ノリつつシラケる
 
日本経済が空前のバブル景気へ向かいつつあった1983年9月、勁草書房という人文系出版社から一冊の本が出版されました。タイトルは『構造と力』。著者は浅田彰。当時、京都大学人文科学研究所助手のポストにあった弱冠26歳の青年が著したこの本はフランス現代思想を題材にした難解な思想書にもかかわらず15万部を超えるベストセラーとなり、世の中に「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる空前の現代思想ブームを巻き起こしました。
 
同書の序文「序に代えて《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み--千の否のあと大学の可能性を問う」では、その冒頭で大学における「文・理学部中心/法・医学部中心」という歴史的変遷から「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インスゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」といった「二項対立」を抽出した上で、重要なのはこの二項対立に「決してまともに答えないこと、できれば問題そのものをズラせてしまうこと」であり、この二項対立のいずれの選択も「極めて貧しい選択」であると述べられた後、あのあまりにも有名な一文が現れます。
 
ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。このことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探求の道」に励んでみたり企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラけることによってそうして既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。
 
その上であえて言うのだが、評論家になるのも良くない。〈道〉を歩むのをやめたからといって〈通〉にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。
 
要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身を晒しつつ、しかも、批判的姿勢は崩さぬことである。対象と深く関わり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。言ってしまえばシラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。
 
先ほどの文脈で言うとどうなるか。醒めた目で知を単なる手段とみなすことはまず退けられる。そもそも、あなたは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは「どうせ何にもならないけれど」と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。
 
(『構造と力』より)

 

そして、ここから本書はそのパースペクティヴを急拡大し、これから本書において問おうとする「構造主義」と「ポスト構造主義」の見取り図をざっくりと素描していく中で「大学の知」を近代社会における「整流器」と位置付けて、冒頭で示した「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」という二項対立がいかに不毛な問題設定であるかを論証し、次のように述べます。
 
教会の説教壇の如き絶対の高みから大鉈を振るうのではなく、寿司屋のカウンターに魚の切身を並べるようにパラダイムの数々を陳列してみせるのでもない。恐るべき粘着力を持つ近代のドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。始原なし目的なしの過程の一契機としての切断。それこそ、近代に絡め取られた知の唯一の可能性であり、大学の生み出しうる最大の事件であり、いま《知への漸進的横滑り》を開始しようとするあなたに先程来提案してきた「方法ならざる方法」なのである。
 
(『構造と力』より)

 

ここで示された「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)」「虚学的/実学的」「象牙の塔/現実主義」「知のための知/手段としての知」という二項対立というのは、もっと俗っぽくいうのであれば「自己啓発セミナー/就職予備校」の二項対立です。要するに、ここで浅田氏は大学における真の知とはこうした不毛な二項対立を「脱構築」したその先で「シラケつつノリ、ノリつつシラケること--方法ならざる方法」によって初めて産み出されるのであると主張しているわけです。
 
⑵ パラノ・ドライブとスキゾ・キッズ
 
こうした観点から本書の第Ⅰ部においては構造主義とポスト・構造主義のパースペクティヴがより詳細に描き出され、第Ⅱ部においては構造主義のリミットとして、ジャック・ラカンが位置づけられ、その後いよいよポスト・構造主義の大本命としてドゥルーズ=ガタリが登場します。
 
この点、本書はドゥルーズ=ガタリの「コード化」「超コード化」「脱コード化」という三段階説に依拠した上で、浅田氏は脱コード化を極限まで推し進め「内部」から「外部」に出よと力説します。もっとも、ドゥルーズ=ガタリが言うところの「オイディプス的三角形」をはじめとする近代資本社会に実装された様々な「整流器(加速器/安全装置)」は「脱コード化」を促す過剰の奔出をなし崩し的に解消して本書が「クラインの壺」と呼ぶ無限循環回路へと還流させていきます。腰を落ち着けたが最後「外部」は新たな「内部」になります。こうした「クラインの壺」の中でなお「外部」へ突き抜けようとするのであれば、重要なのは「常に外へ出続ける」というプロセスに他ならないということです。
 
こうして本書の終盤で示された「パラノイアックな競争/スキゾフレニックな逃走」というコントラストは浅田氏の次著「逃走論(1984)」において「若者の生き方論」へと接続されました。同書において氏は(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する生き方をパラノイア(妄想症)に喩え「パラノ・ドライブ」と呼びます。これに対して多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する生き方をスキゾフレニー(分裂症)に喩え「スキゾ・キッズ」と呼びます。言うなれば「パラノ・ドライブ」とはこれまでの過去の全てを「統合化(積分)」し続ける生き方であり「スキゾ・キッズ」とは、いまここの現在をアドホックに「差異化(微分)」し続ける生き方のことです。
 
⑶ 入門の総仕上げにふさわしい一冊
 
ここで浅田氏の提示した「パラノ/スキゾ」という構図はまさに1980年代における「ポストモダニズム」のセントラルドグマというべき言説です。それゆえに「ポストモダン」がさらに徹底化した現代において「パラノ/スキゾ」という構図はそのままでは妥当しないでしょう。
 
けれどもその一方で「大きな物語」の失効から生じる「小さな物語」の乱立という現代的状況はいわば「複数的なパラノ・ドライブ」であり、ここから「別の仕方で逃走するスキゾ・キッズ」を思弁することもできるでしょう。こうした意味で本書の持つポテンシャルは未だに汲み尽くされていないといえます。
 
本書は入門書と呼ぶにはかなり高度な部類に入りますが、日本の現代思想シーンにおけるこの本の圧倒的な存在感を考えますと現代思想に入門する上でなるべく早い段階から取り組んでおく価値は極めて高い本であるといえます(これは完全に余談なんですがわたしは『構造と力』よりも先に東氏のデリダ論『存在論的、郵便的』を読んだところさっぱりわからなくて、それでも何とか読み進めていたらどうやらこの本の提示する「郵便=誤配」というモデルは『構造と力』における「クラインの壺」というものを前提としているらしいということだけは辛うじて理解できたので、結局『構造と力』を経由した後に『存在論的、郵便的』を再度いちから読み直したという記憶があります。また『現代思想入門』に魅了された多くの方が千葉氏のドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』に少なからぬ興味を持つかと予想されますが、同書もやはり『構造と力』を前提とする議論を展開しています)。
 
かつてイギリスの哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは西洋哲学とはプラトンの注釈であると言ったそうですが、ある意味で日本の現代思想も『構造と力』の注釈であると言ってしまっても決して大げさではないようにも思います。公刊から40年が経った今でも日本の現代思想シーンの中でいまだに重要な位置に君臨し続ける本書はまさに現代思想入門の総仕上げにふさわしい一冊であるといえるでしょう。