かぐらかのん

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つぎはぎだらけの関係性を紡いでいくということ--星の子(今村夏子)

 

星の子 (朝日文庫)

星の子 (朝日文庫)

 

 

* 特異な文体と普遍的な寓話性

 
現代を代表する作家、村上春樹氏は小説とは作家と読者との「信用取引」で成立しているといいます。そして、その「信用維持」において氏がもっとも重視するのが「文体」です。村上氏によれば夏目漱石以来、日本の純文学が軽視してきたものの一つがこの「文体」であるといいます。確かに小説においては「主題」や「構造」も大事ですが、それ以前にまず、その「語り口=文体」に魅力がなければ人は誰も耳を傾けてくれないということも事実でしょう。
 
こうした意味で、今村夏子作品の「文体」は極めて特異的です。一見、サラサラと読めてしまう平明さを持ちながらも何というか、こういう言い方が適当かわかりませんが、そこにはある種の「世界に棲めてなさ感」を感じさせます。
 
例えば端的な日常風景の描写にしても、そのまなざしはどこかに不穏なズレを孕んでいる。こうした不穏なズレの積み重ねが今村作品における独特な世界観を創り上げています。
 
もっとも今村作品の魅力はその「文体」にとどまらない。今村作品が時として「世界文学」とまで評されるのは、まさしく村上作品がそうであるように「現代日本」という時代性や地域性を超越した普遍的な寓話性を内在させているからなのでしょう。
 
 

* 今村作品の入門には最適な一冊

 
今村夏子さんは大学卒業後、清掃関係のアルバイトなどを転々、29歳の時、バイト先から「明日休んでください」といわれたのがきっかけで、どういうわけか「小説を書こう!」と思い至ったそうです
 
そうして書き上げた「あたらしい娘」という作品が2010年、第26回太宰治を受賞。同作は「こちらあみ子」と改題されて単行本化され、2011年に第24回三島由紀夫賞受賞
 
思いがけない鮮烈なデビューを果たしてしまった当時の心境は「どうしよう。もう書くこともないのにほめられて」だったそうです。
 
三島賞受賞決定後の電話インタビューで今村さんは「今後書く予定はない」という趣旨のことを述べます。それから5年近く、2014年の文庫版「こちらあみ子」に併録された短編以外、作品の発表は途絶えていました。
 
ところが2016年、福岡で創刊された「たべるのがおそい」という名の地方文芸誌で唐突に新作が発表されます。この「あひる」という作品は第155回芥川賞候補に挙がり惜しくも受賞を逃すも、同作を収録した短篇集は第5回河合隼雄物語賞を受賞します。
 
そして、2017年に再び第157回芥川賞候補に挙がり、第39回野間文芸新人賞受賞したのが本作「星の子」です。その後2019年、周知のとおり今村さんは「むらさきのスカートの女」でついに第161回芥川賞を射止めることになります。
 
本作は今年、芦田愛菜さんが主演を務める映画となりました。このタイミングで今村作品に入門するには最適な一冊と言えるでしょう。
 
 

*「宗教」というテーマはどこから来たか

 
本作の主人公、林ちひろは虚弱体質児として生まれ、原因不明の湿疹がなかなか治らない。心配に駆られた両親はさまざまな民間療法を試した末、父親が会社の同僚から薦められた「金星のめぐみ」なる水を身体に塗ったところ、ちひろの湿疹はたちまち綺麗に治ってしまう。
 
この出来事をきっかけに、ちひろの両親は「金星のめぐみ」を販売する怪しげな宗教団体にはまり込んでいく。結果、ちひろは学校で浮いた存在になり、両親に反発したちひろの姉は失踪し、家計は困窮の一途をたどり、親戚関係は険悪になってしまう。
 
今村さんによれば本作は、かつてのバイト時代に頭に水を掛け合う高齢男女のペアを目撃したエピソード(!)に着想を得たそうです。実際に作中でも、ちひろの両親が頭にタオルを乗せて「金星のめぐみ」をお互いに掛け合うシーンがあります。本作の「宗教」というテーマは、こうしたモチーフの後から出てきたそうです。
 
 

* ちひろと両親の宗教観

 
あらすじの通り、本作はわりとシリアスな内容のはずなんですが、その描写はどことなくユーモラスです。ちひろは「こちらあみ子」のあみ子ほどネジのぶっ飛んだキャラではないんですが、やっぱり今村作品特有のどこかしら残念な感性の持ち主です。
 
そして、ちひろが「宗教」に向けるまなざしは限りなくフラットです。ちひろは必ずしも両親の宗教を否定しない。行事があればむしろ積極的に参加するし、体調が悪いときは両親のように頭にタオルを乗せたりもする。
 
「金星のめぐみ」がちひろの身体を救ったのかは本当のところわかりません(もしかして偶然「金星のめぐみ」の水質が体質的に合っていた可能性も否定できないでしょう)。けれども少なくとも両親が「金星のめぐみ」に縋ったのは、ちひろを救いたい真摯な一念からだったのは疑いようもない事実ですし、実際問題、いま両親から信仰を取り上げたからといって現状が好転するという保証はどこにもないわけです
 
ちひろはこうした現実に静かに寄り添っている。だからこそちひろは、いくら叔父から執拗に説得されても、いくら憧れの教師から罵倒されても、決して両親を見限ろうとはしない。ここで本作は「健全な常識」と「怪しいカルト」という形而上学的な二項対立を脱構築します。
 
そしておそらく、ちひろにとっての宗教は、両親のように盲目的な信仰の対象ではなく、両親や友人との関係性の触媒なんだと思います。いわば、両親の宗教が「現実から逃避するための虚構」だとすれば、ちひろの宗教は「現実と関係するための虚構」であるということです。
 
 

* つぎはぎだらけの関係性を紡いでいくということ

 
本作のラストは極めて多義的で様々な解釈があります。かなり不穏な雰囲気の中、話が唐突な感じで終わっているんですよね。そこから先にある不吉な末路を連想する解釈も当然成り立つでしょう。今村さん自身は「この家族は壊れてなんかないんだ」ということを書きたかったそうです。これに対して今村さんと対談した小川洋子さんは「でも、悪意のない家族だとしても、平和ではないということが残酷」と述べています。
 
あのラストは物語としてはあの家族にとってのひとまずの救いを描いたものと言っていいのではないでしょうか。もちろんそれは「ひとまず」でしかなく最終的な解決になっていない。先述したとおり両親とちひろの「宗教観」はすれ違っている。もしかしたら一生すれ違ったままかもしれません。
 
けれども我々の日常においても「同じ言葉」で話していても、お互いが「同じ意味」を共有しているとは限らないことは多いでしょう。いくら身を寄せあおうが、人は常にすれ違いからは逃れられない。けれどもコミュニケーションはそうした前提から始めなければならない。すなわち、分かり合えないことを分かり合うということです。そういったコミュニケーションの現実を、人と人とのつぎはぎだらけの関係性を、本作のあのラストは描いているようにも思えます。