かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】わたしの哲学入門(木田元)

 

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

わたしの哲学入門 (講談社学術文庫)

 

 

* 哲学の〈難しさ〉の正体

 
哲学とはなにか?これ自体が一つの哲学的問いであり、哲学とは今ひとつ実体のはっきりしないわけのわからない領域と言えます。にも関わらず哲学はいつの時代もその〈わけのわからなさ〉が不思議な魅力となり多くの人を惹きつけます。
 
本書はこうした哲学に関心があるけれど難しそうでとても近づけないと思っている人々の需要に応えるため、稀代の碩学が「きれいごと」を極力排して「下世話なうまい案内の仕方」で哲学の世界へ誘う入門書として書かれたものです。
 
では哲学はなぜ難しいのか?本書によれば、確かにその専門用語の難解さもあるものの、それ以上に哲学の〈難しさ〉の正体は「なぜそんなことを問題にしているのか」という「発想の動機」の分かりにくさがあるといいます。
 
例えば近代哲学の創始者として知られるルネ・デカルトの「方法序説」というテクストは文章自体は極めて平易なものですが、その内容といえば、いわゆる「方法的懐疑」から出発して、あの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」という真理に至り、そこから「神の存在証明」という方法論的操作を経た上で「物体とはすなわち延長である」という物体観が提示されるというものです。
 
おそらく普通に読んだところで、この人は結局何がしたいのかよくわからないと思います。それはすなわち「問い」の手前にある「発想の動機」がわからないからです。
 
 

* 闇屋から哲学へ

 
そこで本書は哲学者がどういう切っ掛けで哲学的思索を行うようになったのか、その初発的動機を明らかにすることをもって読者を哲学の世界に招き入れようとします。ここで題材となる哲学者はほかでもない、本書の著者である木田元先生その人です。
 
木田先生は高名なハイデガー研究者として知られていますが、その青年期は相当ジェットコースターな人生を送っています。海軍兵学校時代の16歳の時に終戦を迎え、終戦直後のドサクサの中、テキ屋をやったり闇屋をやったりしてどうにか食いつなぎ、統制物資を闇に流して得た金で農林専門学校に入学。そこで青年期特有の実存的不安に駆られて古今東西の小説を貪り読み漁るようになる。そのうちにドストエフスキーに傾倒し、やたらと絶望ばかりする登場人物の心理を理解するためキルケゴールを読み始め、やがてハイデガーの「存在と時間」にたどり着く。そしてこの難解極まりない哲学書を読み解くために大学に入って哲学の勉強をすることを決意するわけです。
 
本書ではこのあたりの経緯がドストエフスキー作品やキルケゴール哲学の解説を交えながら詳細に記されています。果たして「存在と時間」を読むことで木田先生は長らく取り憑かれていた暗澹たる気分から解放されたそうです。けれどそれは「存在と時間」から何事かを学んだからではなく、ようやく自分のやりたいことが見えてきたからだと言います。つまり「存在と時間」の中に木田先生が発見したのは「答え」ではなく「問い」であったということです。
 
様々な哲学的思索を駆動させているのはこうした「問い」に対する「欲望」です。これはハイデガーや木田先生に限らず、ニーチェでもドゥルーズでも東浩紀さんでも、哲学者なら誰にでも言える事だと思います。すなわち、哲学入門の第一歩はこれから読み解こうとする哲学者を突き動している「欲望」の理解にあるということです。
 
 

*「存在と時間」から考える

 
「20世紀最大の哲学者」としても形容されるマルティン・ハイデガーの主著「存在と時間」は当初、上下二巻として構想されるも、1927年に上巻が公刊された直後、行き詰まりを感じたハイデガーは下巻の公刊を断念し、結局この本は未完に終わっています。
 
そして「存在と時間」という本は一般的には〈現存在〉--すなわち我々人間--の本来的あり方を示す「実存哲学の書」として知られています。けれどもハイデガー自身は公刊当時からこうした読まれ方を一貫して拒否しており、同書の究極的な目的は〈存在一般の意味の究明〉--人間に限らず、あらゆる事物が〈ある〉とはどういうことかという問い--であると言い続けていました。
 
もっとも実際に公刊された「存在と時間」において行われているのは〈現存在〉の分析であり、ハイデガーがいうような〈存在一般の意味の究明〉など行われてはいない。そうであれば〈存在一般の意味の究明〉は未完部分の下巻で行われる予定だったのであり、上巻の現存在分析はそのための準備作業だと理解せざるを得ない。
 
この点、本書によれば、幻に終わった下巻で遂行されるはずだったのはアリストテレス以来の伝統的存在概念の解体作業です。もともとハイデガーはそのキャリアをアリストテレス研究からスタートさせており、その研究を進めるうちに、アリストテレスのいう〈ある〉ということ、すなわち〈存在(ウーシア)〉とは「作り上げられて使用可能な状態で現前している」という意味であることに気づきます。つまり、ここでは〈存在=被制作性=現前性〉という定式が成り立つということです。
 
こうした〈存在=被制作性=現前性〉という存在概念は、ハイデガーによればアリストテレスに代表される古代存在論からスコラの中世存在論、さらにはデカルトやカントの近代存在論にまで受け継がれているといいます。
 
ところがハイデガーニーチェの著作に示唆を得て、この存在概念とは別の存在概念を視界に入れます。それはすなわち、ソクラテスのさらに以前、遥か彼方の古代ギリシアにおける存在概念です。当時のギリシア人にとって世界とは〈自然(フュシス)〉であり、万物はおのずから生成し消滅していくものとして捉えられていました。こうした古代ギリシアの自然観は古代日本における、万物を「葦牙の萌え騰がるが如く成る(古事記)」という自然観とも通底します。つまり、ここでは〈存在=自然=生成〉という定式が成り立つということです。
 
こうした広大な視界からハイデガーは西洋の伝統的存在概念を解体しようとしていたわけです。いわば「存在と時間」とは「西洋近代批判の書」として構想されたと言えます。けれどこれが未完になった事で(あるいはハイデガーが妙な思惑を絡めたせいで)同書が西洋近代思想の到達点のように受容されてしまった事はまさしく歴史の皮肉というべきでしょう。
 
 

*〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉

 
本書はこうしたハイデガーの「存在と時間」を切り口として、西洋哲学を連綿として規定してきた〈存在とは何か〉という〈哲学〉の基本問題を詳らかにしていきます。この点、ソクラテス以前における〈自然(フュシス)〉という「始原の単純な存在」はプラトンアリストテレスを経由することで〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉に区別され、ここに〈自然(フュシス)〉を超えた〈超自然的原理〉に駆動される〈形而上学〉が成立します。
 
ハイデガーによれば〈哲学〉とはこの〈形而上学〉なるギリシア由来の特殊な思考様式に他ならない。この点、プラトンは存在を〈イデア〉として捉え〈本質存在=デアル〉を優位に置きます。これに対してアリストテレスは存在を〈エネルゲイア〉として捉え〈事実存在=ガアル〉を優位に置きます。
 
そしてその後、2500年に渡って、この「プラトン主義」と「アリストテレス主義」というべき二つの対照的な世界観が様々な変奏を繰り返し〈哲学〉の世界を支配し続けることになります。これに対してハイデガーは、問題は〈本質存在=デアル〉と〈事実存在=ガアル〉の優劣ではなく、必要なのは存在をその始原の〈自然(フュシス)〉へ返してやることであると主張するわけです。
 
ところで日本語で〈ある〉とか〈存在〉と言われると我々は基本的に〈本質存在=デアル〉ではなく〈事実存在=ガアル〉に近いものを想起します。もっともそれは〈デアル〉に対置され〈デアル〉を抜き取られた形而上学的〈ガアル〉ではなく、様々な〈デアル〉を豊かに含んだ、まさに「葦牙の萌え騰がるが如く成る」ような〈ガアル〉です。こうしてみると、ハイデガーのいう〈自然(フュシス)〉としての「始原の単純な存在」というのは案外、我々日本人にとって馴染みの深い感覚だと思います。
 
 

*〈反哲学〉による〈哲学〉入門

 
このようなハイデガーによる西洋哲学史の見直しによって明らかにされたのは〈哲学〉というのは別に人類普遍の知とかではなく、特定の文化圏の特定の時代に成立した特殊な思考様式だったという事実です。こうした思想的営みをハイデガー自身は〈存在の回想〉などというよくわからない言い回しで呼んでいましたが、本書はよりダイレクトに〈反哲学〉と言います。
 
すなわち、本書は〈反哲学〉による〈哲学〉入門であるということです。ゆえに本書は西洋哲学史のほぼ全体を概観しつつも同時に〈哲学〉に付き纏う神秘的なヴェールを容赦なく剥ぎ取り、その核心部分を「ぶっちゃけこうだ」と暴露していきます。まさに〈哲学〉と〈反哲学〉の双方を極めた碩学だからこそなせる離れ業です。そしてその軽妙洒脱な語り口は読み物としてもこの上なく面白く、少なくとも〈哲学〉に対する妙な先入観は本書できれいさっぱりなくなるでしょう。そういった意味で、これ以上の〈哲学〉入門はないのかもしれません。