かぐらかのん

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【書評】〈自己愛〉の構造(和田秀樹)

* はじめに

 
「生きづらさ」という言葉がいたる処で聞かれる世の中です。「他人が怖くて仕方がない」「誰も私のことを認めてくれない」「自分の居場所がどこにもない」「弱い人間だと思われたくない」「すぐに感情的になる」等々。「生きづらさ」の種類も程度もさまざまだと思います。
 
では、このような「生きづらさ」とはどこから生じてくるものでしょうか?そういった「生きづらさ」の構造をもし可視化することができれば、苦しみもある程度和らぎ、またこの苦境から脱却するための生存戦略も見えてくるのではないでしょうか。
 

* 自己心理学とは何か〜「罪責人間」と「悲劇人間」

 
本書はアメリカの精神科医、ハインツ・コフートの提唱する自己心理学の概説書です。コフートという人は、その前半生においては米国精神分析学会会長などの要職を歴任するも、後半生からは伝統的精神分析に対する疑念から独自の理論を提唱し始めます。そして、最終的には精神分析理論全領域の大改訂を成し遂げて、全く新しい理論体系を打ち立てます。これがコフート自己心理学です。
 
伝統的精神分析自己心理学の間では、その前提とする人間観が根本的に異なっています。伝統的精神分析が「罪責人間」を対象とするものであるのであれば、コフートの掲げる自己心理学は近年増えてきた「悲劇人間」を対象とするものです。
 
「罪責人間」とは自らの中にある快楽衝動に抗えず罪責感に苦しむ人をいいます。伝統的精神分析(自我心理学)は「自我」を強化する事でこのような葛藤を克服する事を目標としていました。
 
これに対して「悲劇人間」とは「自分のことを分かってくれない」「認めてくれない」という周囲の承認や共感の欠如に苦しむ人のことであり「罪責人間」とは悩みの構造が異なっています。
 
コフートはこういった「悲劇人間」の増加という社会状況の変化を念頭に置いて、従来の精神分析理論を現代社会に相応しい形へアップデートを行なっていくわけです。
 
我々の感じる「生きづらさ」とは悲劇人間の病理です。まさに、自己心理学は「生きづらい世の中を生き延びるための心理学」といってよいでしょう。
 

* 自己愛パーソナリティ障害という病理

 
コフート理論はまず自己愛パーソナリティ障害の治療論として世に出て来ます。
 
自己愛パーソナリティ障害という疾患は「誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如」という特徴があります。端的に言えば常に上から目線だったり、キレやすかったりと、いわば病的なまでに自己愛(ナルシシズム)をこじらせた人の事をいいます。
 
ナルシシズムの語源は周知の通り、ギリシア神話ナルキッソスの池に映った自分の姿に恋をした話に由来しています。
 
フロイト以来の伝統的精神分析は、リビドー備給(心的エネルギーの移動)の正常な発達過程として自体愛から自己愛へ、自己愛から対象愛へと進んでいくモデルを想定しています。
 
つまり最初にリビドーは口や肛門、性器など体のどこか一部に備給される(自体愛)。次にリビドーは自我に備給される(自己愛)。最後にリビドーは対象、つまり他者をはじめとする外的世界に備給される(対象愛)。
 
これに対して、コフートの慧眼はそれとは別に自己愛独自の発達があると考えた点です。すなわち「未熟な自己愛」から「成熟した自己愛」への発展・昇華ということです。
 
コフートは最初の著作「自己の分析(1971)」において幼い子どもの自己愛について「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成される構造体(自己愛構造体)を仮定しました。
 
つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全自分本位の物語があるわけです。
 
もちろん世の中そうはなっていないわけで、成長するにつれて子どもは現実を悟っていき、誇大的な自己イメージは現実に適応した形で成熟していく、あるいはそうあるべきであるということになります。
 
いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもなく、社会の歯車に過ぎないというこの無情な現実を受け入れるということに他ならない。
 
ところが、この現実を受け入れることができず、自己愛構造体が子どものまま発達しない場合がある。こうした発達過程の歪みが自己愛パーソナリティ障害という病理の根幹を形成するということです。
 
この点、従来の精神分析理論では自己愛パーソナリティ障害は治療者への転移(対象転移)が起きないため、精神分析は適用できないとされていました。
 
しかし、コフートは対象転移とは別の「自己愛転移」という特異的な転移を利用すれば自己愛性パーソナリテイ障害は治療可能であると主張したわけです。
 

* 「自己」と「自己対象」

 
続いてコフートは「自己の修復(1977)」において、旧来の精神分析用語を一掃し、「自己」と「自己対象」の関係性からなる「自己心理学」へのモデルチェンジを果たします。
 
コフートのいう「自己」とは空間的に凝集し、時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいいます。
 
そして自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っている。これを「双極的自己」と呼びます。
 
「野心の極」は「自己の分析」でいう「誇大自己」に相当し、「理想の極」は「自己の分析」でいう「理想化された親イマーゴ」に相当します。
 
子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。
 
そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。
 
自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。
 
「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。
 
「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。
 
こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。
 

* 鏡映・理想・双子

 
さらに、コフートは遺作となる「自己の治癒(1984)」において鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。
 
双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。
 
ここで前述の双極性自己モデルは修正を加えられることになります。すなわち、コフートの最終的な中核自己モデルは「野心の極」「理想の極」「技倆と才能の中間領域」から構成される「三極性自己」ということになります。
 

* 共感の科学としての自己心理学

 
以上から示されるように、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。
 
逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。
 
つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んでいく過程に他ならない。
 
そして、ここで重要なのが「共感」という営みです。コフートによれば共感には二つのレベルがあると言います。
 
まず一つは、共感とは、患者の立場に身を置いて患者の代わりに内省し患者の内的世界を探索するツールという捉え方です。
 
そしてもう一つは、共感とは、人と人の繋がりという情緒的な絆を感じられることで得られる心理的な栄養補給という捉え方です。
 
さらにコフートはこういった「共感」理解を踏まえ、精神分析における「解釈」という営みは、患者の内的世界の「受容」という消極的な共感からさらに一歩踏み出し、「説明」を与えることで患者の内的世界を再構築していく積極的な共感だと位置付けます。
 
病んだ自己を健全な自己へと変えていくにはこうした「甘え」と「究め」が高度に統合された営みが必要であるという事なのでしょう。
 
このような共感による「適量な欲求不満による変容性内在化」こそが、自己対象との関係性を成熟したものへと変えて行くとコフートは言います。その意味では自己心理学とはまさに「共感の科学」であるといえるでしょう。
 

* 自己心理学化する現代社

 
本書は1999年の刊行ですが、現代は、本書刊行時点以上に自己心理学化した社会と言えるでしょう。
 
例えば SNSなどはまさに自己対象欲求を満たすのに最適化されたツールです。
 
フォロワーさんや「いいね」の数はまさに「鏡映自己対象」であり、有名人という「理想化自己対象」もフォローという関係性でカジュアルにつながることができる。また、目下の悩みをキーワード検索してみれば同じように悩んでいる「双子自己対象」が沢山見つかる。
 
SNSに振り回されるか上手に使えるかはその機能にいかに自覚的であるかにかかっていると言えるのではないでしょうか。
 

* おわりに

 
健全な自己は自己対象との成熟した関係性によって成り立つというコフート理論の根幹には「依存や甘えは決して弱さなどではなく、むしろ生きていく上で不可欠な強さですらある」という考え方があります。
 
「依存」と「自立」はしばし正反対の関係として捉えられます。諸々の「生きづらさ」とは「自立」を過度にモデル化・理想化してしまい、周囲の環境を「自己対象」としてうまく「依存」できない悪循環から生じているのではないでしょうか。
 
けれども実際問題として「自立」と「依存」とは決して二律背反の関係ではなくむしろ相互作用的なものでしょう。すなわち「他者に上手な依存」ができてこそ「しなやかな自立」が生まれるということです。
 
「依存してもいいんだ」「甘えてもいいんだ」「皆そうやって生きているんだ」
 
コフートの示すこういった処方箋は、自分にも他人にも優しくなれる考え方だと思います。さまざまな形で「生きづらさ」を抱えている人にとって自己心理学は何かしらの光明をもたらす福音となるのではないでしょうか。