かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

贖罪と幸福の脱構築--劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] III.spring song

* 脱構築なる正義

 
20世紀を代表する哲学者、ジャック・デリダは1989年、イェシヴァ大学で行われたシンポジウムの基調講演「法の力」において「脱構築とは正義である」という有名なテーゼを打ち出しました。その論理は次のようなものです。
 
⑴法は本質的に脱構築可能である。⑵一方、もしも正義それ自体が法の外に存在するのであれば、それは脱構築不可能である。⑶同様に、もしも脱構築それ自体が存在するとすれば、それは脱構築不可能である。⑷ゆえに脱構築とは正義である。
 
法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで、特定の領域における普遍的な秩序を構築します。けれどもその一方で、法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり産み出した暴力的な「決定」に他ならない。
 
ゆえに法は常にその外部から脱構築可能である。すなわち、デリダのいう脱構築とは、普遍性と特異性、あるいは計算可能性と計算不可能性といった「決定不可能性」を引き受ける「決定」ということです。そうであれば、こうした脱構築による「決定」の中に見出されるものこそがデリダ的意味での「正義の在り処」というべきものなのでしょう。
 
 

* Fate/stay nightの裏街道

 
そしてFate/stay nightとはおそらく、こうした「正義の在り処」を真正面から問うた作品だったんだと思います。2004年に発売された原作ゲームはゼロ年代を代表するPCゲームの一つとして、これまでも様々なメディアミックスが展開され、その度に幅広い支持層を開拓してきました。
 
第1のセイバールート(Fate)は早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化されます。
 
こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)でした。
 
桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道です。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。
 
こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていましたが、ついに満を持して2017年秋より劇場三部作としての公開が開始され、2020年夏に公開された本作はその最終章にあたります。
 
 

*「不人気ヒロイン」から銀幕の大女優へ

 
まず第一章(I.presage flower)の最大の特徴は、世界観設定の説明や序盤の部分をばっさり省略し、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成を採用した点にあるでしょう。
 
おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFate/stay nightの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないはずです。そして、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てが、原作ゲームにおいて長らく「不人気ヒロイン」の不遇を託っていた間桐桜という業の深い少女を文字通りの銀幕の大女優へ押し上げるという、ただその一点に投入される事になります。
 
そういうわけで第一章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないわけですが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの歪みによって生み出されているわけです。
 
 

* 暗転する日常

 
桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他なりません。セイバールートで提示された大文字の正義は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいてまさに脱構築されることになる。こう言ってよければ、セイバールートも凛ルートも、この桜ルートに向けた壮大な助走に過ぎなかったようにさえ思えます。
 
桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまいます。
 
このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。こうして第二章(II.lost butterfly)の終盤において、黒幕である間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。
 
「万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ」と。
 
 

* 正義の味方と正義の在り処

 
正義の味方には倒すべき悪が必要である。誰かを助けるという事は誰かを助けないという事である。こうした「正義の現実」が容赦なく士郎に襲いかかる。こうして士郎には「正義の味方か、桜の味方か」というという究極的な二択が突き付けられることになる。
 
桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、他でもない桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。
 
ここで第一章冒頭に置いた前日譚がじわじわと効いてきます。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「設定」ではなく「体験」として知ってしまっている。
 
果たして士郎は「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答えました。
 
確かにFate/stay nightという物語全体を一つの英雄譚として読むならば、主人公が土壇場で「正義の味方」である事を放棄して1人の少女を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。
 
けれども、その一方で、普遍性と特異性、計算可能性と計算不可能性の究極的両立という、あのデリダの問いに誠実であるのであれば、むしろ我々はここに「正義の味方」という借り物の法を脱構築した、決定不可能性を引き受ける「決定」としての「正義の在り処」を見ることができるのではないでしょうか。
 
 

* 贖罪と幸福の脱構築

 
もっとも、こうした士郎が見出した「正義の在り処」が直ちに桜への免罪符となるわけではない。こうした意味で第三章(III.spring song)では桜の「罪と罰」が問われる事になります。
 
周知の通り、原作ゲームにおける桜ルートにはトゥルーエンドとノーマルエンドいう二つの結末が用意されています。
 
この点、桜の「罪と罰」を問うという事であれば、よくある意見のように、桜が静謐な生を慎ましやかに送りながら年老いていくノーマルエンドこそが真の終幕に相応しく、一応の大円団を迎えるトゥルーエンドは安易な予定調和のようにも思えます。こうした事から、劇場版がどちらの結末に依拠するかが注目されていました。
 
けれども劇場版は原作をただ単純に反復するような事はしなかった。むしろ原作が示した二つの結末--贖罪と幸福--は劇場版において脱構築される事になります。
 
そもそも桜はセイバーや凛と決定的に違う。セイバーはブリテンの騎士王として、凛は名家遠坂の魔術師として、それぞれ自身のアイデンティティを記述してる。たとえ士郎がいようがいまいがこの二人のアイデンティティは揺るがないでしょう。
 
けれども桜には士郎以外には何もない。幼い頃から虐待を受け続けてきた桜にとって世界とは悪意に満ちたものであり、かろうじて手に入れた「衛宮家の日常」というリトルネロさえも、世界はよってたかって彼女から取り上げようとする。これはメンタルを拗らせない方がどうかしている。いわば、桜の「罪」とはこれまでの「罪なき罰」の結果でもあります。
 
それでも罪は罪なのでしょうか?もし仮にそれを「正義」と呼ぶのであれば、もはやそれは週替わりのアンリマユを探し出して来ては安全圏から石を投げつける現代ネット社会の「正義」と何も変わらないでしょう。
 
罪と罰」の十字架を背負った以上、人は幸せになってはいけないのでしょうか?多分、こうしたアポリアに対する見事な回答が今回の劇場版であったように思えます。そして、そこには原作に対する敬意と桜に対する愛情を確かに感じました。こうした意味で本作の結末もまた、決定不可能性を引き受けた決定としてのひとつの「正義の在り処」なんだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「外部」なき世界を生きるということ--スカイ・クロラ(押井守)

 

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

スカイ・クロラ The Sky Crawlers

  • 発売日: 2014/08/13
  • メディア: Prime Video
 

 

*「終わりなき日常」の告発者

 
1970年代末、当時まだ大学生だった新人漫画家、高橋留美子氏が「少年サンデー」で連載を開始した「うる星やつら」は、消費化/情報化社会へ突入した当時の日本社会を象徴する作品の一つといえるでしょう。無限のループを繰り返すかのような世界で際限なきドタバタラブコメディを繰り広げる同作は、モノがあっても退屈な「終わりなき日常」を生きる当時の若年層から絶大な支持を得ることになりました。
 
ところが、こうしたうる星やつら的な「終わりなき日常」という世界観に真っ向から反旗を翻したのが同作TV版と劇場版の監督を務めた押井守氏でした。氏はその出世作となった「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー1984)」において、際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描きだし「終わりなき日常」と言う名の「虚構」が抱え込む欺瞞を告発しました。
 
 

*「虚構」の外部としての「現実」

 
以降、長らくのあいだ押井映画のダイナミズムを駆動させてきたのは「虚構」の外部としての「現実」を示すという否定神学的な倫理です。こうした「虚構と現実」をめぐる問いは「天使のたまご(1985)」「紅い眼鏡(1987)」「ケルベロス・地獄の番犬(1991)」といった前期押井作品においては「少女の夢」からの逃走として遂行されました。
 
これに対して「機動警察パトレイバー the Movie(1989)」における「虚構」の舞台は乱開発を繰り返して肥大化していく巨大都市東京であり、ここで「虚構と現実」の問いは「虚構」の「外部=現実」からの「テロリズム/ハッキング」として遂行されていきます。同作は未だインターネットが一般開放されていなかった当時において、コンピューターウィルスによる大規模テロをシュミレーションするという恐るべき先見性を持った作品です。
 
そしてこうした情報論的アプローチをさらに洗練させたのが「機動警察パトレイバー the Movie 2(1993)」です。同作において「虚構と現実」をめぐる問いは「映像体験と実体験」という媒介を経由して「平和と戦争」という問いに置き換えられ、押井作品がそれまで一貫して問うてきた「外部=現実」という倫理はある種の戦後社会論へと昇華されることになります。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては電脳化/義体化による自我の「虚構」と広大なネッワークの果てにある「外部=現実」が描き出されることになります。そして、そのラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きました。 
 
 

*「外部」なき世界を生きるということ

 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは絶対的な「外部=現実」などではなく、それは畢竟、陳腐なありきたりの日常でしかなかったというある種の諦観が描かれることになります。そして「イノセンス(2004)」で描き出されたのは、もはや「外部=現実」を目指すことなく、ネットワークの守護天使としての素子に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するバトーの姿でした。 
 
世界中がネットワークで接続された情報環境下においては「虚構と現実」は融解し、もはや「外部=現実」は存在しない。あらゆる彼岸が此岸となりあらゆる此岸が彼岸となる。そしてそれは同時に「平和と戦争」の区別の消滅であり、我々の生きるこの「終わりなき日常」とは「終わりなき戦場」の別名に過ぎない事を意味している。こうした認識論的変化は現代社会においてはまさにアクチュアルに進行しつつある事態でもあります。
 
こうして時代においては、もはや「外部=現実」を示すというかつての否定神学的倫理は作動しない。こうして「外部=現実」なきネットワーク社会における新たな倫理とは何か?という問いが立てられる事になります。こうした問いに対するひとつの答えを提示しようと試みたのが、あるいは本作であったように思えます。
 
 

* ショウとしての戦争

 
恒久平和が実現し、すべての戦争がショウとなった近未来。「キルドレ」と呼ばれる少年兵たちは、市民に平和を実感させるための「ショウとしての戦争」を演じ続けていた。人体改造実験により生み出された「キルドレ」は老いる事を知らない永遠の子供たちであり、たとえ戦闘で死亡しても記憶をリセットされた上で新しい身体を与えられ、再び戦場に駆り出されていくのであった。
 
同作の主人公であるキルドレ函南優一は、戦争請負会社ロストック社に所属する戦闘機パイロットである。前線基地ウリスに配属された優一はどういうわけかジンロウという前任者が気になってしまう。
 
一方、ウリスの女性司令官、草薙水素はかつて数々の戦闘を生き延びてきた優秀なエースパイロットであり、彼女は長きにわたり多くの仲間が死んでは生まれ変わり、また再び死んでいく様を何度も目の当たりにしてきた。そんなある日、水素は自社の保養所で優一を誘い男女の関係を持つ。果たして前任者のジンロウは水素の恋人であり、その生まれ変わりである函南に水素は特別な感情を抱いていたのだった。
 
そしてその後「ショウとしての戦争」はさらに激しい展開を要求され、大規模な攻勢作戦が企画される。ロストック社とラウテルン社の両軍が激突した空戦では多数のキルドレが戦死。幾度も無意味に繰り返される無限ループに絶望する水素は優一に自分を殺してくれと懇願する。かつて水素もキルドレの生に絶望したジンロウを彼の求めに応じて殺害していたのであった。
 
けれども優一は水素の求めに応じなかった。そして優一は「君は生きろ。何かを変えられるまで」と水素に言い残し、最強の敵「ティーチャー」へと戦いを挑むのであった。
 
 

* いつも通る道だからって景色は同じじゃない

 
キルドレ達は、まさに「外部=ここではない、どこか」を失った「終わりなき日常(戦場)」を生きる若者たちの比喩といえます。そして、本作のメッセージは終盤に登場する優一の以下の独言に集約されます。
 
「いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけではいけないのか?それだけのことだからいけないのか?」
 
このメッセージが言わんとするところは極めて明快です。「終わりなき日常(戦場)」という「内部=いま、ここ」の中で様々な差異を見出すという事。それこそが現代を生きる我々にとっての実存の在り処、すなわち「生きている手ごたえ」に他ならないということです。
 
「外部=ここではない、どこか」を喪失した現代における超越性とは、ありもしない世界の外部をただ祈る事ではなく、むしろこの世界の「内部=いま、ここ」へ潜っていく事によって獲得できる逆説があるという事です。こうした本作のメッセージはゼロ年代後半以降強調されつつあったいわゆる「日常の価値の再発見」というコンサマトリー的な成熟感とも共鳴するものがあります。
 
 

* エディプスからマゾヒズム

 
もちろんこのメッセージ自体は疑いなく正しい。では、その直後に行われるティーチャーとの対決は何を意味するのでしょうか?「絶対倒せない敵」であるティーチャーは「キルドレ」ではない「大人の男」であることが強調されており、ここには「父殺し」のイメージを容易に重ね合わせることができるでしょう。
 
けれども「父殺し」とはまさしく「ここではない、どこか」へ向かう典型的な否定神学です。そうであれば、この敗北を約束された対決が果たして本作の示すメッセージの具現化として相応しいものかは疑問符がつくわけです。
 
もっとも別の見方をすれば、この「対決」の中にあるのは「父殺し」へ向かうエディプス的欲望というよりも、むしろ敗北を義務付けられながらも自己破壊の饗宴を演じるマゾヒズム的享楽のようにも思えます。そうであれば優一はティーチャーとの対決の中に、確かな「いま、ここ」にある「生きている手ごたえ」を見出していたのかもしれません。
 
 
 
 
 
 

魔法少女たちに花束を--魔法少女まどか☆マギカの10年

* ゼロ年代における想像力の総決算

 
人は生きていく上で「物語」を必要としてます。ここでいう「物語」とは自らの生を世界の中に基礎付けるための内的な幻想のことをいいます。こうした意味での個人の「物語」は、近代以前の社会では社会共通の物語というべき「大きな物語」によって支えられてました。
 
大きな物語」は個人の生に意味と秩序をもたらします。すなわち「大きな物語」とは「高さ(超越性)」にも「広さ(普遍性)」を保証する審級として機能するということです。
 
ところが、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴される1995年以降の日本社会では「戦後」という「大きな物語」が失墜していくポストモダン状況が加速していきました。
 
もはや「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの任意の「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかない。では「大きな物語」による「高さ」と「広さ」なき世界で、人はどこに再び「高さ」と「広さ」を見いだせばいいのでしょうか?それとも、人はもはや「高さ」や「広さ」に囚われる事なく生きていかなければならないのでしょうか?--こうした問題設定がゼロ年代以降におけるサブカルチャーの想像力を常に規定していました。
 
この点、経済成長神話の崩壊に伴う社会的自己実現への信頼低下が前景化したゼロ年代前期においては、他者性なき母性的承認を希求する「セカイ」という名の「小さな物語」へ引きこもる想像力が一世を風靡しました。
 
けれども、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。こうしてゼロ年代中期においては、「小さな物語」同士が決断主義的に正義を奪い合う「バトルロワイヤル」を生き抜く想像力が台頭します。
 
その一方、スマートフォンソーシャルメディアの登場を背景に、ゼロ年代後期においては、決断主義による不毛な簒奪ゲームを乗り越えて、自動接続される世界にむしろ徹底して内在することで「小さな物語」の間に新たな社会的紐帯としての「つながり」を見出していく想像力が前景化しました。
 
そして時に2011年、こうしたゼロ年代における想像力の運動の総決算ともいうべきひとつの作品が世に問われることになりました。
 
 

* 記憶と記録の両方に残る物語

 
魔法少女まどか☆マギカ」。同作は周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、劇団イヌカレー梶浦由記氏といった多彩な才能のコラボレーションによって生み出され、あの東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな社会的反響を呼び起こしました。
 
最終回放映後には特集記事が世に溢れかえり、同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。「まどかの物語」はまさしく記憶と記録の両方に残る物語となりました。
 
同作のあらすじはこうです。物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。
 
その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやか魔法少女巴マミに救われ、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される。
 
マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。
 
刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。
 
 

* 魔法少女観の根本的転倒

 
「まどか」という作品がまず斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあります。当初、作中において魔法少女とはキュゥべえと契約することで「ひとつの願い」を叶える代価として、呪いを生み出す魔女と戦う存在であると説明される。ここで提示されるのはいわゆる「正義の味方」としての魔法少女のイメージです。しかし物語が進むにつれて、次第に「魔法少女の真実」が明らかになっていきます。それは次のようなものです。
 
地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。
 
このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。
 
このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にある。
 
つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせて「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。
 
 

* 魔法少女の抗争にみるポストモダン的構図

 
本作は基本的に異なる思想信条を持つ魔法少女同士が殺し合うバトルロワイヤル状況が展開されます。興味深いことに、その展開はまさしく「大きな物語」に規定された近代が失墜し「小さな物語」が乱立するポストモダンが加速していく構図そのものでもあります。
 
マミは「正義の味方」という魔法少女の「大きな物語」を決して疑わなかった。もっとも、その信念は結局のところ、家族の中で自分1人だけ生き残ってしまった罪責感とずっと1人で魔女と戦ってきた孤独感の補償作用に他ならない。しかし彼女はその事実を自覚する前に早々に物語から退場させられる事になる。
 
そしてマミの志を継承したさやかも「奇跡も魔法もある」という「大きな物語」を当初はイノセントに信じていた。けれども「魔法少女の真実」が徐々に明らかになっていく中で、やがて自らの信じる理想が単なる無根拠な幻想に過ぎない事に気づいてしまう。そして愛の対象を喪失し、この世界に守るべき価値を見出せなくなったさやかは希望と絶望の相転移を起こし魔女化する。
 
これに対して自身の願いで家族を破滅させた杏子は魔法少女の「大きな物語」などもはや信じておらず、この終わりなき日常を欲望の赴くままに生きていく。けれども「魔法少女の真実」に直面した杏子は、かつて自身が情景した「愛と勇気が勝つ」という「大きな物語」を(それがもはや無根拠である事を承知しつつも)仮構するしかなかった。そして一度は見限ったはずの神に縋り、最後は魔女化したさやかと差し違えることになります。
 
 

* 哀れな決断主義者としてのほむら

 
そしてほむらに至っては最初から魔法少女の「大きな物語」自体にそもそも初めから興味がない。呪われた運命からまどかを救い出すこと。この「小さな物語」こそが彼女にとっての唯一絶対の正義であり、その道を阻むものは誰であろうとすべからく悪ということになります。
 
そういった意味でほむらはまさにゼロ年代的主体を体現するセカイ系から出発した決断主義者です。けれどもやがて彼女が時間遡行を繰り返して世界をやり直せばやり直すほどに、様々な平行世界の因果が束ねられ、まどかはますます「最高の魔法少女=最悪の魔女」へ進化していく事が明らかになる。
 
まさに退くも地獄で進むも地獄のアポリアです。こうして今やほむらは「まどかを救う」というたったひとつの「最後に残った道標」に縋りつく哀れな決断主義者と成り果てて、この際限なき徒労を繰り返すしかなかった。
 
 

* 希望と正義の物語

 
こうして本作が描き出したのは魔法少女同士の終わりなきバトルロワイヤルがもたらす救いなき帰結です。そしてこの閉塞的状況に終止符を打ったのが「まどかの願い」でした。
 
「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。」
 
「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。」
 
「これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!」
 
(本作最終話より)

 

 
「まどかの願い」は魔法少女が希望と絶望の相転移により魔女となる魔法少女システムのルールそのものの改変です。まどかによる改変後の世界では、魔法少女は魔女化することなく最期はソウルジェムとともに消滅し、その魂は「円環の理」と呼ばれる「概念となったまどか」により別の次元へ導かれることになります。
 
まどかが行ったのは、言うなれば「魔法少女」というシステムのルールによるシステムそれ自体の書き換えです。これをゼロ年代における想像力の文脈から言えば、まどかは魔法少女たちの「バトルロワイヤル」を乗り越える「円環の理」という「つながり」を導入したということになるでしょう。
 
ここで示されるのは、世界に徹底して内在する事で「大きな物語」とは別の理路により再び「高さ」と「広さ」を取り戻すゼロ年代における想像力の到達点です。そしてもしこの「高さ」を「希望」と呼び、その「広さ」を「正義」と呼ぶのであれば、本作における「まどかの物語」とは、まさしく現代における「希望と正義の物語」と言えるでしょう。
 
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」
 
(本作最終話より)

 

 
 

* 賛否両論となった結末--叛逆の物語

 
こうして「まどかの物語」は一見、これ以上ないハッピーエンドを迎えたように思えました。ところがこの結末に納得しない人間が一人だけいた。それは他でもない、呪われた運命からまどかを救い出すため、これまで幾多の時間のループを再現なく繰り返してきた暁美ほむらその人です。
 
ほむらはかつて交わしたまどかとの約束を果たすべく、まどかが魔法少女と関わることなく人として幸せな生を送る世界を求めて、これまで何度も世界をやり直してきた。ほむらにとっては「円環の理」などまどかの自己犠牲によって生じた悲劇の産物以外の何者でもない。ほむらの中でのまどかは全く救われてないことになります。こうしてTV版の続編となる完全新作「劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」では「円環の理」に叛逆してまどか奪還を企てる「ほむらの物語」が描き出されました。
 
公開前から大きな注目を集めていた本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破しました。映画という意味では本作は紛れもない圧倒的傑作と言うべきでしょう。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。
 
ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になります。本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られます。
 
 

* 理不尽な現実をサヴァイブしていく想像力

 
果たして、ほむらは「円環の理」から人としてのまどかを奪還し、自らはまどかへの「愛」の名の下に「円環の理」から外れた存在である「悪魔」となる。こうしたほむらの「叛逆」は他ならぬ「まどかの願い」を踏みにじる所業のようにも思えます。けれどもその一方で、ほむらの改変した新たな世界では、まどかはもちろん、さやか達も再び幸福な日常を取り戻し、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使されます。
 
これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずです。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずです。
 
しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらは、まどかと世界を狂わせた責任を引き受けて、まどかと袂を分ち、ひとり「魔なる者」として孤独に生きていきます。こうした「ほむらの物語」の中には、もはや「高さ」にも「広さ」にも頼ることなく、この理不尽な現実をサヴァイブしていく2010年代的な想像力を見ることができるのではないでしょうか。
 
 

* 希望と絶望のマネジメント--マギアレコード

 
こうして、まどか達の物語は一旦は幕を下ろしました。その後、続編の構想が幾度なく再浮上する過程で、外伝として企画されたのがスマートフォン向けRPGゲーム「マギアレコード・魔法少女まどか☆マギカ外伝」です。
 
同作は2020年に第一部「幸福の魔女編」の中盤までがアニメ化されました。同作シナリオには本家まどかのシナリオを担当した虚淵玄氏は参加していないものの「魔法少女の真実」を真正面から問い直すそのシナリオの完成度は思いの外に高く、同作は名実共に「まどか」の名を冠するに相応しい物語と言えます。
 
同作のあらすじはこうです。主人公、環いろはは消えた妹ういを探すため新興都市神浜市を訪れる。そして彼女は未知の災厄「ウワサ」との邂逅や、魔法少女結社「マギウス」との抗争を通じて「魔法少女の真実」を知ることになる。
 
この点、同作の舞台は「円環の理」が干渉できない世界です。ゆえにこの世界における魔法少女ソウルジェムを濁らせてしまうと原則として魔女化することになります。ところが、同作ではこうした魔法少女の運命に終止符を打つかの如き革命的発明が登場します。これが「マギウス」の開発した「ドッペル」です。
 
「ドッペル」とは、端的に言えば「魔女化の代替行為」です。ソウルジェムに溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく、むしろ魔女の力を自ら行使できます。
 
こうした点で同作は「叛逆」における想像力を引き継いでいます。ほむらが「愛」という名の妄執によって成し遂げた奇跡ともいえる「悪魔化」を、ドッペルは部分的ながらもシステムとして実装することに成功しました。これはいわば希望と絶望のマネジメントといえます。ドッペルはまさしく全ての魔法少女にとっての福音のようにも思えます。
 
けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮、目的に至るための手段でしかない。その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にする。こうして、いろは達はマギウスと敵対せざるを得ないわけです。
 
 

* 「動員と分断」の中で手を取り合える想像力

 
同作では魔法少女グループ同士の熾烈な抗争劇が展開されます。ここには極めて2010年代的な社会の構図が反映されています。
 
先述したように、ゼロ年代における想像力の到達点には「つながり」という想像力がありました。わたしのあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。異なる「セカイ」の交歓から芽生える可能性としての「つながり」。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えます。
 
けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びまたセカイが回帰してくるという事です。
 
こうした「つながりのセカイ化」はとりわけ東日本大震災以降、年々加速傾向にあり、そういった意味で2010年代とは様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断」の時代でもありました。要するこの10年は「つながり」の希望が次第に失望に変わっていった10年でした。
 
こうした意味において、マギウスの首領である天才魔法少女、里見灯花がアニメ最終話で行った渾身の大演説はまさしく「動員と分断」を扇動するプロパガンダのようです。けれどもそれは同時に、その言葉はグローバル化とネットワーク化が極まった世界において、人間があたかもモルモットのように飼い慣らされていく現代社会の構造に対する告発状ともいえるでしょう。
 
これに対して、いろはは異なる思想信条を持つ魔法少女同士でも「手を取り合える」ための可能性をなんとか探ろうとします。手を取り合えるということ。それは他者とのつながりを「つながり=セカイ」の物語の内に閉じることなく、つながりをつながりのままで常に外に開き続ける社会的紐帯のあり方なのでしょう。こうした「いろはの物語」の中には、やはり「高さ」にも「広さ」にも頼ることなく他者へコミットメントしていく2010年代的な想像力が宿っているように思えます。
 
 

* 再び動き始めた物語

 
大きな物語」なき世界における希望と正義の記述法を示したのがゼロ年代的想像力の到達点としての「まどかの物語」なのであれば、もはや希望にも正義に囚われる事なく、目前のさしあたりの現実をサヴァイブ/マネジメントして、他者へコミットメントする主体の在り方を示したのが2010年代的想像力としての「ほむらの物語」と「いろはの物語」だったといえます。
 
そしていま、全世界中にコロナ禍という「魔女の結界」が出現し、我々はまさしく、社会的コンセンサス(希望と正義)を見いだせないままに、日々の生活のあり方(サヴァイブ/マネジメント)や、他者との関係性(コミットメント)を際限なく試行錯誤していくための想像力を必要としています。こうしてみると、まどか達は時代が求める想像力を見事に具現化した物語をいつも紡ぎ続けてきたといえるでしょう。
 
本年4月、ついに「叛逆の物語」の正統な続編である「劇場版魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉」の公開が発表されました。ここにきて物語は再び動き始めました。新たなるまどか達の物語が、2020年代における想像力のフロンティアを切り開いてくれることを切に祈念しています。
 
 
 
 

ていねいに日常を生きるということ--カードキャプターさくらクリアカード編・1〜10(CLAMP)

 * 思春期における少女の物語

 
人は自らの生を世界の中に基礎付けるため、その人なりの内的幻想である「物語」を必要とします。「物語」は人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解するための媒介となります。
 
確かに「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与えます。けれども人はあらゆる出来事を「科学的説明」だけで割り切れるとは限りません。とりわけ不可解な出来事や理不尽な出来事に遭遇した場合は「科学的説明」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという「物語」が必要となります。
 
そして「少女漫画」というメディアは従来から思春期における少女の心身変化を基礎付ける「物語」としての役割を担ってきました。こうした意味での伝統的な「少女漫画」へと回帰すると同時に、まったく想定外だった「大きなお友達」を熱狂させ「魔法少女」という現代視覚文化を語る上で不可欠なカテゴリーを確立した記念碑的作品が創作集団CLAMPの不世出の名作「カードキャプターさくら」です。
 
同作は1996年から少女雑誌「なかよし」で連載が開始され、2000年に一旦連載が終了するも、2016年より再び「なかよし」でまさかの連載再開となり、その人気は全く衰える事がないどころか年を追うごとに着実に支持層を拡大させて現在に至っています。
 
 

* かつてのさくらの物語(1996年〜2000年)

 
伝説の魔術師クロウ・リードの作り出したクロウカード。その「封印」が解かれる時、この世に「災い」がもたらされる。友枝小学校の4年生、木之本桜はふとしたきっかけから、クロウカードの守護者である選定者ケロベロスによって、散逸したカードを再び「封印」するカードキャプター(捕獲者)に選ばれてしまう。
 
こうしてさくらはクロウカードの「災い」なるものからご町内を守るため、ケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともにクロウカードの封印に奮闘する。そして全てのクロウカードを集めたさくらはクロウカードのもう一人の守護者である審判者月(ユエ)の「最後の審判」を見事クリアしてクロウカードの正式な主となる。ここまでがいわゆる「クロウカード編」です。
 
それからしばらく経ったある日、さくらの前に謎めいた転校生、柊沢エリオルが現れる。そして、その直後より奇妙の事象が続けて発生。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」に変えて行くことで事件を解決していく。これがいわゆる「さくらカード編」です。
 
 

*「好き」という感情 

 
そして物語もいよいよ佳境に入る中、さくらはずっと慕っていた月城雪兎へその想いを告げます。けれども雪兎は自分に向けられた「好き」がさくらの父に対する「好き」の反復であることを見抜いており、さくらの言う「好き」とはまた違う「好き」がこの世界にはあることを気付かせようとします。
 
果たしてその後、さくらは小狼から告白され、それ以降自分の中で新たに生じたよくわからない感情に困惑しますが、小狼が香港に帰ることを知った時、その感情こそが家族愛的な「好き」とは違う、異性に対する恋愛感情としての「好き」であることに気づきます。
 
こうして、さくらは帰国直前の小狼に自作のテディベアを渡し「一番好きな人」であることを伝えたところで物語はその幕を閉じます。このように、さくら旧編は「好き」という感情を言葉へと紡いでいく物語であり、また同時に家族愛や異性愛に留まらない様々なかたちの「好き」という感情を肯定していく物語でした。
 
 

* 新たなさくらの物語(2016年〜現在)

 
友枝中学校に進学したさくら。長らく離れ離れになっていた小狼とも再会して、これからの中学校生活に期待を膨らませる矢先、さくらはフードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中にあった。そして「さくらカード」は透明なカードに変化して、その効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
 
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。さくらと秋穂はお互い惹かれあうように交友を深めていく。その一方で、小狼は秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡の正体に疑念を抱く。
 
 

* 煌びやかな日常描写と深まっていく世界観

 
本作の特徴は前作以上に、さくらの学校や家庭での日常が極めて煌びやかな筆致で描写されていく点にあります。こうしたことから本作は4巻くらいまでは比較的ゆっくりとした展開が続き、5巻以降でようやく物語の見晴らしが開けて来ます。
 
果たしてクリアカードを生み出していたのはさくらの魔力暴走であった。この事を見越していた小狼はさくらの魔力暴走を抑制するため、さくらカードをあらかじめ隔離していたのであった。そして海渡の正体は門外不出の「魔法具」を持ち去った事でイギリス魔法協会を破門されていた魔術師であった。
 
海渡の目的は秋穂が「時計の国のアリス」と呼ぶ「時の本」を動かして「禁忌の魔法」を発動させるためです。その「禁忌の魔法」は海渡が持ち出した「魔法具」と何らかの関係があるようです。
 
この「魔法具」の正体こそが秋穂です。秋穂は欧州最古の魔術師達と呼ばれる一族に生まれるも、全く魔術を使うことができず周囲を失望させる。両親はすでに亡く、秋穂は一族の中で孤立していた。
 
だが海渡が幼い秋穂を「真っ白な本」と何気に評したことがきっかけで、秋穂はその身に様々な魔術を記録させることができる魔法具に改造されてしまう。そして海渡は秋穂の監視兼護衛として秋穂を外の世界に連れ出し、そのまま協会から離反していたという事です。
 
海渡が「禁忌の魔法」に拘る理由は依然としてはっきりしていません。ただこれまでの描写からするにおそらく海渡はその身を犠牲にしても、秋穂を魔法具としての救いなき人生から救い出そうとしているように思えます。それはかつて自らの何気ない言葉で秋穂の人生を狂わせた海渡の贖罪なのでしょうか?
 
 

* ていねいに日常を生きるということ

 
いま思えば本作が中盤序盤のうちはあまり物語を動かさず、さくらと秋穂の同性愛的な交歓を極めて繊細に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラクターへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったのかもしれません。
 
そして、さくらの魔力暴走はおそらく思春期における少女の心身変化のメタファーなのでしょう。そうであれば、本作の随所に登場するていねいな日常描写はひとつの「物語」として読めるでしょう。
 
ていねいに日常を生きるということ。前作が様々な「好き」を限りなく肯定する物語だとすれば、今作はこの何気ない「日常」をこの上なく祝福する物語のようにも思えます。
 
連載再開当初はここまで重厚長大な物語になるとは思っていませんでした。最新10巻まで読んで、また再び1巻から読み直すと、これまた色々と発見があります。物語もいよいよ佳境に入ったように思えます。本作がどのような大円団を迎えるのか、本当に楽しみです。
 
 
 
 
 
 
 

終わりあるエヴァと終わりなきエヴァ--シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

* 時に、西暦1995年

 
戦後50年目にあたる1995年という年は戦後日本社会が曲がり角を迎えた年でした。阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は、平成不況の長期化により戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下による若年層の実存的不安が前景化した年でもありました。
 
この1995年以降、日本社会ではいわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況が急速に進行することになります。もはや社会共通の価値観である「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかないということです。そして、こうした時代の転換点に見事なまでのシンクロを果たした作品が「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
 
 

*「おめでとう」と「キモチワルイ」

 
周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作(旧劇場版)が公開されました。この二つのエヴァの物語で提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」でした。
 
エヴァTV版最終話における「おめでとう」という「承認」は「大きな物語」なきところで生じる実存的不安に対してひとまずの処方箋として機能しました。エヴァになんて乗らなくてもいい。僕はここにいてもいい--社会的自己実現なんてどうでもいい。引きこもって何もしなくても、いつかきっと奇跡が起きて天使が舞い降りるから--当時、あのラストにこうした祝福を見出した人も少なくなかったはずです。
 
もちろん、そんなものは所詮まやかしでしかなく、結局のところ何はともあれ、人はこの正解のない現実を試行錯誤しながら生きていくしかない。こうしてエヴァ旧劇場版は「おめでとう」の祝福に縋る「エヴァの子供たち」を突き放すかのごとく「キモチワルイ」という「拒絶」によって終劇する。
 
「おめでとう」と「キモチワルイ」。ここで提示された両極端な「他者」の中に「物語の中で他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」を見出すことができます。そして、この「エヴァの命題」こそがある意味で現代サブカルチャーの想像力を今日に至るまで規定してきたとも言えます。
 
 

* ポスト・エヴァの想像力

 
この点、ゼロ年代における想像力は、エヴァTV版が描き出したような「他者性なき理想郷としての世界=セカイ」を無条件に擁護する想像力から出発しました。その後、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に、セカイとセカイがお互いの正義を賭けて衝突する「バトルロワイヤル」を生き抜くための想像力が台頭しました。そんな中で、スマートフォンソーシャルメディアの登場を背景に、セカイとセカイのあいだに新たな社会的紐帯としての「つながり」を見出していく想像力が生まれました。 
 
わたしのあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性としてのつながり。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えます。
 
けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるという事です。
 
こうした「つながりのセカイ化」はとりわけ東日本大震災以降、年々加速傾向にあり、そういった意味で2010年代とは様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断」の時代でもありました。要するこの10年は「つながり」の希望が次第に失望に変わっていった10年でした。
 
 

* 再起動するエヴァ

 
セカイからバトルロワイヤルへ。つながりから動員と分断へ。こうしてみると、ゼロ年代以降の想像力は「おめでとう」と「キモチワルイ」の両極を振り子のように揺れ動いてきたともいえます。そして、こうした振り子運動の中にエヴァ新劇場版の展開も位置付けることができるでしょう。
 
2007年、エヴァは全4部作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として再起動しました。その第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、シンジやミサトの台詞の言い回しなど、その随所に僅かながらも旧作からの変化の兆しが見て取れます。
 
続く第2部「破(2009)」では、新たなキャラクター、マリが登場。ここから新劇場版はTV版と異なる展開へと突入します。何よりも本作で驚かされるのがシンジ、アスカ、レイの変化です。かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていました。しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。まさしく、ゼロ年代後半における「つながり」の希望と同調し「おめでとう」へ向かったのが「破」の物語でした。
 
そして第3部「Q(2012)」では、ニアサードインパクトによって破滅した14年後の世界が描かれます。14年ぶりに目覚めたシンジはアスカやミサトから敵視され、この世界のレイはかつて救ったはずのレイとは別人であり、唯一の理解者であったカヲルは最後に惨殺されてしまう。ここでシンジは様々な「つながり」から疎外される事になります。すなわち、2010年代における「動員と分断」における絶望を体現し「キモチワルイ」へ振り切れたのが「Q」の物語でした。
 
こうして「Q」から8年余りの歳月が過ぎた2021年3月、今年ついにエヴァの物語は完結を迎えることになりました。
 
 

* この「答え」をどう受け止めるか

 
総上映時間2時間35分。詰め込めるものは詰め込めるだけ詰め込もうとする制作サイドの強い意思を感じました。わたしは公開されてすぐに某シネコンで本作を鑑賞したんですけど、まずシアター内の空気感からしてもう、いつもと全然違うわけです。
 
あの異様な空気感を言葉にするのはなかなか難しいですが、話題の映画だから早速観に来ましたとか、そういうお気軽な感じとは明らかに異なった、なんというか全人格を賭けてこの作品と「対決」しようする並々ならぬパッションが至る所からひしひしと伝わって来ました。本当にもう、創る方も尋常じゃなければ観る方も尋常じゃない。やはり25年という歳月は重いと言わざるをえません。
 
わたし自身はお世辞にもコアなエヴァオタとは言えませんが、それでも自分自身のこれまでの生を「エヴァンゲリオン」という固有名詞を抜きにして語ることなど到底不可能だと思います。この生の然るべき多感な時期にエヴァという作品に出逢ったということ。そして冒頭から長々と書き連ねたようにエヴァの置き残した「問い」にずっと囚われ、導かれ、魅了されてきたということ。そうした諸々の事実は少なくともわたしの生においては数少ない確かな真実なんだと思います。
 
そして今回、かつてエヴァの置き残した「問い」に対する一つの「答え」が今ついに、他ならぬエヴァ自身から提出されるというのであれば、これはやはり感無量というべきでしょう。そしてこの事実こそがまさに重要であり、正直なところ「答え」の中身はわりとどうでもよかった。だからあの2時間35分を観終わった後の偽らざる感想は肯定でも否定でもなく、ただただ感謝しかなかった。おめでとう、そして、いままでありがとう、この瞬間に立ち会えてうれしかった--本当にそれしかなかったと思います。
 
 

*「現実」とは何か

 
果たして本作はこれ以上なく爽やかな「おめでとう」という「終劇」を描き出しました。けれども、それはあくまで庵野さんにとっての「おめでとう」であり、万人にとっての「おめでとう」ではない。むしろメタレベルでは旧劇以上にわかりやすくスマートに「キモチワルイ」を突きつけられたと感じる人も少なからずいたはずです。
 
本作はこれ以上ないくらいに「現実」を肯定します。これはある意味で例の「現実に帰れ」という旧劇におけるメッセージの反復でもあります。けれども旧劇が虚構批判を反転させた形での現実回帰だったのに対して、本作は屈託のない手放しの現実賛歌という点で決定的な差異があります。
 
現実に帰れ、そしてこの現実をまっとうに生きろ--こうした本作のメッセージに対して、それは時代錯誤の理想論だとか、あるいは自己愛的な懐古趣味だとか色々と批判したくなる気持ちもそれはそれでわからなくもない。けれども散々言われているように、本作は基本的に庵野さんの私小説として理解すべきでしょう。そうであれば本作で描かれる「現実」とはあくまでも庵野さんにとっての「現実」に他なりません。
 
そもそも我々が「現実」と思っているものは、所詮は我々自身が現象と言語で構成した人それぞれの特異的な「現実」に過ぎません。庵野さんの肯定する「現実」が必ずしも我々の肯定すべき「現実」とは限らない。
 
それぞれの「現実」をまっとうに生きていくということ。それはもちろん様々な「キモチワルイ」に直面する「現実」を耐え忍ぶ事でも諦める事ではなく、むしろ我々一人ひとりが自分なりに「おめでとう」といえる「現実」を「発明」するということではないでしょうか。
 
 

* 終わりあるエヴァと終わりなきエヴァ

 
本作はいわば「すべてのエヴァを終わらせるエヴァ」です。思えばこれまで「エヴァ」という固有名詞をめぐり無数の考察や創作や妄想が産出されてきました。そしてこの構造はまさしく、ひとつの欠如が際限なき欲望を駆動させるある種の否定神学といえます。
 
そうであれば本作は「エヴァ」という固有名詞を身も蓋もない私小説へと畳み込む事で、この終わりなき否定神学を終わりある物語へ有限化しようとした試みともいえます。
 
もちろん、この私小説という解釈自体も所詮は「エヴァ」という固有名詞をめぐるひとつの意味に過ぎません。そういった意味で、やはり我々はこれからも「エヴァ」という固有名詞をめぐる終わりなき否定神学に囚われ、導かれ、魅了されていくのでしょう。けれどもその一方で、本作が比喩でもなんでもない文字通りの「すべてのエヴァを終わらせるエヴァ」という明確な意志によって貫かれている事も紛れもない事実でしょう。
 
そうであれば本作は、これまでの人生のそれなりの割合を「エヴァ」という固有名詞に費やしてきた「エヴァの子供たち」へ向けた、庵野さんなりの最後の餞としての「サービス」だったんだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ラブライブ!の臨界点--ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

* 輝きは一つではない

 
2010年代のサブカルチャーを象徴する作品の一つとなったラブライブ!シリーズは、その副題に「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズを掲げています。この言葉はユーザー参加型企画としてのラブライブ!の性格を言い表すものでもあると同時に、ゼロ年代的想像力における問いに対する2010年代からの回答としても読めるでしょう。 
 
人は誰もが「物語」によってその生を基礎付けます。社会共通の「大きな物語」が失効したポストモダン状況である現代においては、それぞれが任意の「小さな物語」を選んで生きるしかない。そしてこの世界は物語によって全く異なる主観的認識としての「セカイ」として現れる以上、時として物語同士が衝突する。いわゆるゼロ年代的想像力とは、こうした物語同士の関係性を問うものでした。そしてその到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。 
 
あなたと私のセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。それは一見して理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが、この世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。
 
もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるという事です。
 
そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に失望へと変わっていった10年でした。ゆえに2010代中盤以降のサブカルチャーにはつながりをセカイに閉じる事なく、つながりがつながりのままで開き続ける想像力が要請されてきました。
 
こうした中、社会現象にまでなった初代の「ラブライブ!」はゼロ年代的「つながり」の想像力から出発しつつも、いち早くその限界性を描き出し「つながり=セカイ」を解体するオルタナティブとしての想像力として「みんなで叶える物語」を掲げました。
 
そして続く「ラブライブ!サンシャイン!!」においては「つながり=セカイ」に回収されない差異が「輝き」という言葉で名指され美しい深化を遂げました。そして同作劇場版において「輝き」は「虹」というモチーフとして現れました。「輝き」は一つではないということ。ここで示された「虹=輝きの複数化」というテーマを全面的に展開したのが本作です。
 
 

*「あなた」の分身としての高咲侑

 
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というのは元々は「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS」いうスマホゲーム用の企画として出発したグループでしたが、動画やWebラジオなどでの地道な活動が予想外の人気を呼び、当初予定になかったアニメ化が決定したという経緯があるようです。こうした経緯から「スクスタ」におけるプレイヤーである「あなた」がアニメの世界に召喚されることになります。これが本作の実質的な主人公と言える高咲侑です。
 
平凡な日常に飽き飽きしていた侑は、ある日、スクールアイドル、優木せつ菜のステージを見たことがきっかけとなり、スクールアイドルに夢中になる。ところがニジガクのスクールアイドル同好会はどういうわけか廃部になっていた。残念がる侑に対し、幼馴染の上原歩夢は、自分がスクールアイドルになるから応援してほしいと依頼する。こうして侑と歩夢は、スクールアイドルを辞めようとしていたせつ菜を始め、かつての同好会メンバーや新規メンバーを巻き込んで、スクールアイドル同好会の再始動にこぎつけた。
 
 

* ラブライブ!なんて出なくていい

 
ニジガクの物語はこんな風に始まるわけですが、ニジガクがμ'sやAqoursと決定的に異なっているのは「廃校」という外的な障害がないという点です。そのため「廃校を阻止するためにラブライブ!で優勝する」という例のモチベーションが本作では生じない。各人のモチベーションは各人ばらばらで色とりどりです。
 
ラブライブ!を目指すには、こうしたばらばらな色を一つの色へまとめ上げなければならない。ここにニジガクの同好会が一度廃部となった原因があるわけです。ばらばらな色を一つの色へまとめ上げるということ。それは結局、せつ菜が言うところの自分の「だいすき」で他人の「だいすき」を否定する「わがまま」であり、そして同時にこの10年の間で我々が繰り返してきた「つながり=セカイ(だいすき)」による「動員と分断(わがまま)」の病理そのものでもあります。
 
けれども侑はこのアポリアをたった一言で解決してしまう。これがあの「ラブライブ!なんて出なくていい」という、ある意味でシンプルだけれども、ある意味ではアクロバティックな解決です。
 
こうした解決を可能としたのが侑の「観客」としての視線です。侑自身はスクールアイドルではなく、他のスクールアイドルを応援するという「観客」の立ち位置にいる。「観客」としての侑にとって重要なのはラブライブ!などではなく、あくまで目の前にいるスクールアイドルを応援することです。ゆえに侑はラブライブをめぐるコミュニケーションの誤配をそのままニジガクの持つ特異的な価値として肯定するわけです。
 
 

* ばらばらでいい

 
こうしたことから、ニジガクメンバーはそれぞれがソロアイドルとして活動することになります。本作ではたびたび「ばらばら」という言葉が肯定的に使用されます。
 
ばらばらでいい。もちろんそれは互いが無関心でいると言う事ではなく、むしろ「仲間だけどライバル、ライバルだけど仲間」である。それぞれがばらばらな色とりどりの輝きを追求する事よって、そこに新しい共鳴が生まれてくる。つながりの物語の外で手を取り合うという事。ばらばらな色とりどりの輝きがアドホックにコラージュしていくという事。本作が肯定するこうした価値は、まさに「動員と分断」の病理を乗り越える可能性の在り処を示しているようにも思えます。
 
 

* ラブライブ!の臨界点

 
本作は言うなれば「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」ということになります。しかしそうであるが故に本作は紛れもないラブライブ!であるとも言えます。
 
そもそもラブライブ!が称揚する「みんなで叶える物語」とは「つながり=セカイ」を解体する想像力でした。そして、この想像力を徹底して推し進めたとすれば、その先には必然的に「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語も生じてくるはずです。
 
実際にμ'sもAqoursも一度はラブライブ!を目指さないという方向に振れてはいるわけです。けれども両者ともなんだかんだ言いながらも最終的には皆でラブライブ!を目指すという「つながり=セカイ」の予定調和から決定的に逃れる事はできなかった。
 
これに対してニジガクはついにラブライブ!それ自体を放棄してしまう。これをアニメでやったのはすごい事だと思います。ラブライブ!の中に可能性としては常に伏在していた「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語をとうとう実現してしまった。
 
そういった意味で本作はラブライブ!それ自体を放棄することで、逆説的にラブライブ!の臨界点を極めた恐るべき作品と言えるでしょう。そしてこれは同時に2010年代における想像力の到達点とも言えます。2020年代ラブライブ!がどのような風景を見せてくれるか、今から楽しみです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【書評】時間と自己(木村敏)

 

時間と自己 (中公新書)

時間と自己 (中公新書)

 

 

 

*「〈もの〉としての時間」と「〈こと〉としての時間」

 
我々の生きるこの世界は〈もの〉と〈こと〉という二つの位相から成り立っています。例えば「樹から落下する林檎」という〈もの〉を前にして、我々の中には「林檎が樹から落ちる」という〈こと〉が生じています。要するに、我々は様々な〈もの〉に囲まれて、様々な〈こと〉を生きているということです。
 
いわば〈もの〉とは客観の側に位置する対象であり、これに対して〈こと〉は主観の側、あるいは主観と客観の〈あいだ〉に位置する体験です。
 
〈こと〉が〈もの〉として対象化されることなく、ただ純粋に〈こと〉として現れる時、それはまさしく、私の〈いま〉を構成しているといえます。けれども、こうした〈こと〉の現れはまさに掴みどころのない体験です。ゆえに我々は、こうした〈こと〉の体験をすぐさまに、イメージとか言葉といった〈もの〉へと対象化して自らの中に位置付けようとする。
 
そして時間もまた〈もの〉の位相と〈こと〉の位相を持っています。時計が示している「いま何時何分」という時間は「〈もの〉としての時間」です。これに対して我々が「まだ何時何分」とか「もう何時何分」というように体験する時間は「〈こと〉としての時間」です。
 
すなわち「〈こと〉としての時間」は「〈もの〉としての時間」のように、我々の内部や外部の一定の空間を占めないけれど、紛れもなく我々の「〈いま〉という時間」を構成しているわけです。では、こうした「〈もの〉としての時間」ではない「〈こと〉としての時間」とは何を意味するのでしょうか?これが本書を貫く基本的な問いとなります。
 
 

*「純粋持続」とは何か

 
この点「〈こと〉としての時間」を「真の時間」として位置付けるのが、アンリ・ベルクソンの「純粋持続」という概念です。ベルクソンは、通常の時間観念は空間的に表象された時間観念に過ぎず、その手前にある一切の空間性を免れた数量化不可能な直接的な意識状態こそが「真の時間」であると言います。こうした状態が「純粋持続」です。
 
〈もの〉が空間性を司り〈こと〉が時間性を司るという単純な二分法に依拠するのであれば、ベルクソンの時間論は疑いもなく正しいでしょう。けれども本書がいうように「〈もの〉としての時間」が成立する以前には、そもそも「時間」という概念自体が存在していないわけです。つまり「時間」の概念が成立することで初めて「純粋持続」という仮設的概念を想定することが可能となるということです。
 
〈もの〉と〈こと〉は共生関係にあります。純粋な〈もの〉がないように、純粋な〈こと〉もない。我々は〈もの〉を通じてしか〈こと〉に触れることができない。〈もの〉が〈こと〉を表現しなかったら〈こと〉はあるとさえ言えないでしょう。
 
 

*〈あいだ〉としての時間

 
これに対して、アリストテレスの時間論の読解を通じて独自の時間論を展開したのがマルティン・ハイデガーです。この点、アリストテレスによれば「時間とは、より先および、より後という観点から見られた運動の数である」とされます。つまりここで時間は「運動の数」として捉えられます。これは時間を徹底的に〈もの〉として捉える立場です。
 
こうしたアリストテレスの時間論を、ハイデガーは「時間とは、とりもなおさず、以前と以後の地平において出会ってくる運動について数えられるものである」と読み替えます。ところがこのように読み替えた場合「以前と以後」とは、すでにもはや時間規定であるかのように見えて来るわけです。そうなると、アリストテレスの時間論は「時間とは時間の地平で出会ってくるもの」というトートロジーになるのではないかという疑念が浮かぶわけです。
 
しかし、むしろここにこそハイデガーの議論の核心があります。確かに通俗的時間の根底にはアリストテレスが言うような「運動の数」があるわけですが、そのさらなる根底には根源的時間としての「以前と以後」があるということです。
 
我々は時計の針という〈もの〉の運動から「いまはまだ」「いまはもう」という〈こと〉を読み取っています。そして、この〈いま〉という拡がりが〈いままで〉と〈いまから〉を生み出す源泉となります。そうであれば、こうした意味での〈いま〉が、まさしく根源的意味での時間そのものであるということです。
 
このようにハイデガーは「時間」をいわば〈あいだ〉として把握します。ベルクソンの「純粋持続」がそれだけでまだ「時間」とは言えないのは、そこにはこうした意味での〈あいだ〉が無いからである、ともいえるでしょう。
 
すなわち「時間」とは、一切の空間性を免れた「純粋」に止まることなく、空間性のうちに投影されて「不純」になった時、その〈もの〉と〈こと〉の〈あいだ〉から生まれてくる〈いま〉という〈あいだ〉であるということです。
 
このように〈いま〉を根源的な時間そのものであるとすれば、もはや時間とは絶えず〈いま〉を読み取っている我々自身、すなわち我々の「自己」ということになります。そして同じことが〈いま〉の別様のあり方としての〈かつては〉とか〈こんどは〉などについても言えるでしょう。すなわちこれらは全てが、我々が「自己」として、自分自身の時間性を言い表すさまざまな言い回しに他ならないということです。
 
 

* 離人症における時間

 
そして、こうしたハイデガーの時間論を裏側から説明するのが、精神医学における「デペルソナリザシオン」と呼ばれる症状です。いわゆる「離人症」「人格喪失体験」などという名で呼ばれるこの症状では、外界の事物や自分自身の身体についての実在感、現実感、充実感、重量感、自己所属感などといった感覚が失われた体験や、何より自分自身の自己がなくなってしまった、あるいは以前とすっかり違ってしまった感情や性格が失われたという体験が訴えられることが知られています。
 
こうした離人症において特徴的なのが通常の時間感覚の喪失です。離人症患者の知能や知覚には何一つ障害は見いだせません。もちろん過去・現在・未来といった時間観念も保たれていて、時間が過去から未来の方へ流れていくことも知的には十分理解している。
 
にもかかわらず、離人症患者はある瞬間と次の瞬間を時間で結びつけることができず、無数の瞬間としての「いま・いま・いま」が次々に断続的に襲いかかってくるわけです。これは離人症においては〈いま〉が機能していないことを示していると同時に、離人症患者は〈こと〉を喪失した〈もの〉だけの世界を生きてることを示しているということです。
 
 

* 掴みどころのないものを掴む

 
以上の議論をやや安易を承知で定式化するのであれば、時間の本質とは〈もの=運動の数〉と〈こと=純粋持続〉の〈あいだ=差異〉に生じる〈いま=自己〉ということになります。
 
こうした見方からすれば、例えば楽しい時間が光の速さで進み、つまらない時間が鈍重に進んでいくあの現象は、我々が「〈もの〉としての時間」をどれだけ忘却して「〈こと〉としての時間」の方へとどれだけ没入しているかにかかってくるということになるのでしょう。
 
本書で展開されるのは時間という掴みどころのないものをなんとか掴むための思考です。ここで示される様々な知見は日々の何気ない時間を少しでも輝かせるためのアイデアを生み出す上で、ある種の基礎理論ともなり得るではないでしょうか。