かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ラブライブ!の臨界点--ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

* 輝きは一つではない

 
2010年代のサブカルチャーを象徴する作品の一つとなったラブライブ!シリーズは、その副題に「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズを掲げています。この言葉はユーザー参加型企画としてのラブライブ!の性格を言い表すものでもあると同時に、ゼロ年代的想像力における問いに対する2010年代からの回答としても読めるでしょう。 
 
人は誰もが「物語」によってその生を基礎付けます。社会共通の「大きな物語」が失効したポストモダン状況である現代においては、それぞれが任意の「小さな物語」を選んで生きるしかない。そしてこの世界は物語によって全く異なる主観的認識としての「セカイ」として現れる以上、時として物語同士が衝突する。いわゆるゼロ年代的想像力とは、こうした物語同士の関係性を問うものでした。そしてその到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯でした。 
 
あなたと私のセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。それは一見して理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが、この世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。
 
もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるという事です。
 
そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に失望へと変わっていった10年でした。ゆえに2010代中盤以降のサブカルチャーにはつながりをセカイに閉じる事なく、つながりがつながりのままで開き続ける想像力が要請されてきました。
 
こうした中、社会現象にまでなった初代の「ラブライブ!」はゼロ年代的「つながり」の想像力から出発しつつも、いち早くその限界性を描き出し「つながり=セカイ」を解体するオルタナティブとしての想像力として「みんなで叶える物語」を掲げました。
 
そして続く「ラブライブ!サンシャイン!!」においては「つながり=セカイ」に回収されない差異が「輝き」という言葉で名指され美しい深化を遂げました。そして同作劇場版において「輝き」は「虹」というモチーフとして現れました。「輝き」は一つではないということ。ここで示された「虹=輝きの複数化」というテーマを全面的に展開したのが本作です。
 
 

*「あなた」の分身としての高咲侑

 
虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というのは元々は「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS」いうスマホゲーム用の企画として出発したグループでしたが、動画やWebラジオなどでの地道な活動が予想外の人気を呼び、当初予定になかったアニメ化が決定したという経緯があるようです。こうした経緯から「スクスタ」におけるプレイヤーである「あなた」がアニメの世界に召喚されることになります。これが本作の実質的な主人公と言える高咲侑です。
 
平凡な日常に飽き飽きしていた侑は、ある日、スクールアイドル、優木せつ菜のステージを見たことがきっかけとなり、スクールアイドルに夢中になる。ところがニジガクのスクールアイドル同好会はどういうわけか廃部になっていた。残念がる侑に対し、幼馴染の上原歩夢は、自分がスクールアイドルになるから応援してほしいと依頼する。こうして侑と歩夢は、スクールアイドルを辞めようとしていたせつ菜を始め、かつての同好会メンバーや新規メンバーを巻き込んで、スクールアイドル同好会の再始動にこぎつけた。
 
 

* ラブライブ!なんて出なくていい

 
ニジガクの物語はこんな風に始まるわけですが、ニジガクがμ'sやAqoursと決定的に異なっているのは「廃校」という外的な障害がないという点です。そのため「廃校を阻止するためにラブライブ!で優勝する」という例のモチベーションが本作では生じない。各人のモチベーションは各人ばらばらで色とりどりです。
 
ラブライブ!を目指すには、こうしたばらばらな色を一つの色へまとめ上げなければならない。ここにニジガクの同好会が一度廃部となった原因があるわけです。ばらばらな色を一つの色へまとめ上げるということ。それは結局、せつ菜が言うところの自分の「だいすき」で他人の「だいすき」を否定する「わがまま」であり、そして同時にこの10年の間で我々が繰り返してきた「つながり=セカイ(だいすき)」による「動員と分断(わがまま)」の病理そのものでもあります。
 
けれども侑はこのアポリアをたった一言で解決してしまう。これがあの「ラブライブ!なんて出なくていい」という、ある意味でシンプルだけれども、ある意味ではアクロバティックな解決です。
 
こうした解決を可能としたのが侑の「観客」としての視線です。侑自身はスクールアイドルではなく、他のスクールアイドルを応援するという「観客」の立ち位置にいる。「観客」としての侑にとって重要なのはラブライブ!などではなく、あくまで目の前にいるスクールアイドルを応援することです。ゆえに侑はラブライブをめぐるコミュニケーションの誤配をそのままニジガクの持つ特異的な価値として肯定するわけです。
 
 

* ばらばらでいい

 
こうしたことから、ニジガクメンバーはそれぞれがソロアイドルとして活動することになります。本作ではたびたび「ばらばら」という言葉が肯定的に使用されます。
 
ばらばらでいい。もちろんそれは互いが無関心でいると言う事ではなく、むしろ「仲間だけどライバル、ライバルだけど仲間」である。それぞれがばらばらな色とりどりの輝きを追求する事よって、そこに新しい共鳴が生まれてくる。つながりの物語の外で手を取り合うという事。ばらばらな色とりどりの輝きがアドホックにコラージュしていくという事。本作が肯定するこうした価値は、まさに「動員と分断」の病理を乗り越える可能性の在り処を示しているようにも思えます。
 
 

* ラブライブ!の臨界点

 
本作は言うなれば「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」ということになります。しかしそうであるが故に本作は紛れもないラブライブ!であるとも言えます。
 
そもそもラブライブ!が称揚する「みんなで叶える物語」とは「つながり=セカイ」を解体する想像力でした。そして、この想像力を徹底して推し進めたとすれば、その先には必然的に「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語も生じてくるはずです。
 
実際にμ'sもAqoursも一度はラブライブ!を目指さないという方向に振れてはいるわけです。けれども両者ともなんだかんだ言いながらも最終的には皆でラブライブ!を目指すという「つながり=セカイ」の予定調和から決定的に逃れる事はできなかった。
 
これに対してニジガクはついにラブライブ!それ自体を放棄してしまう。これをアニメでやったのはすごい事だと思います。ラブライブ!の中に可能性としては常に伏在していた「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語をとうとう実現してしまった。
 
そういった意味で本作はラブライブ!それ自体を放棄することで、逆説的にラブライブ!の臨界点を極めた恐るべき作品と言えるでしょう。そしてこれは同時に2010年代における想像力の到達点とも言えます。2020年代ラブライブ!がどのような風景を見せてくれるか、今から楽しみです。