かぐらかのん

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【書評】時間と自己(木村敏)

 

時間と自己 (中公新書)

時間と自己 (中公新書)

 

 

 

*「〈もの〉としての時間」と「〈こと〉としての時間」

 
我々の生きるこの世界は〈もの〉と〈こと〉という二つの位相から成り立っています。例えば「樹から落下する林檎」という〈もの〉を前にして、我々の中には「林檎が樹から落ちる」という〈こと〉が生じています。要するに、我々は様々な〈もの〉に囲まれて、様々な〈こと〉を生きているということです。
 
いわば〈もの〉とは客観の側に位置する対象であり、これに対して〈こと〉は主観の側、あるいは主観と客観の〈あいだ〉に位置する体験です。
 
〈こと〉が〈もの〉として対象化されることなく、ただ純粋に〈こと〉として現れる時、それはまさしく、私の〈いま〉を構成しているといえます。けれども、こうした〈こと〉の現れはまさに掴みどころのない体験です。ゆえに我々は、こうした〈こと〉の体験をすぐさまに、イメージとか言葉といった〈もの〉へと対象化して自らの中に位置付けようとする。
 
そして時間もまた〈もの〉の位相と〈こと〉の位相を持っています。時計が示している「いま何時何分」という時間は「〈もの〉としての時間」です。これに対して我々が「まだ何時何分」とか「もう何時何分」というように体験する時間は「〈こと〉としての時間」です。
 
すなわち「〈こと〉としての時間」は「〈もの〉としての時間」のように、我々の内部や外部の一定の空間を占めないけれど、紛れもなく我々の「〈いま〉という時間」を構成しているわけです。では、こうした「〈もの〉としての時間」ではない「〈こと〉としての時間」とは何を意味するのでしょうか?これが本書を貫く基本的な問いとなります。
 
 

*「純粋持続」とは何か

 
この点「〈こと〉としての時間」を「真の時間」として位置付けるのが、アンリ・ベルクソンの「純粋持続」という概念です。ベルクソンは、通常の時間観念は空間的に表象された時間観念に過ぎず、その手前にある一切の空間性を免れた数量化不可能な直接的な意識状態こそが「真の時間」であると言います。こうした状態が「純粋持続」です。
 
〈もの〉が空間性を司り〈こと〉が時間性を司るという単純な二分法に依拠するのであれば、ベルクソンの時間論は疑いもなく正しいでしょう。けれども本書がいうように「〈もの〉としての時間」が成立する以前には、そもそも「時間」という概念自体が存在していないわけです。つまり「時間」の概念が成立することで初めて「純粋持続」という仮設的概念を想定することが可能となるということです。
 
〈もの〉と〈こと〉は共生関係にあります。純粋な〈もの〉がないように、純粋な〈こと〉もない。我々は〈もの〉を通じてしか〈こと〉に触れることができない。〈もの〉が〈こと〉を表現しなかったら〈こと〉はあるとさえ言えないでしょう。
 
 

*〈あいだ〉としての時間

 
これに対して、アリストテレスの時間論の読解を通じて独自の時間論を展開したのがマルティン・ハイデガーです。この点、アリストテレスによれば「時間とは、より先および、より後という観点から見られた運動の数である」とされます。つまりここで時間は「運動の数」として捉えられます。これは時間を徹底的に〈もの〉として捉える立場です。
 
こうしたアリストテレスの時間論を、ハイデガーは「時間とは、とりもなおさず、以前と以後の地平において出会ってくる運動について数えられるものである」と読み替えます。ところがこのように読み替えた場合「以前と以後」とは、すでにもはや時間規定であるかのように見えて来るわけです。そうなると、アリストテレスの時間論は「時間とは時間の地平で出会ってくるもの」というトートロジーになるのではないかという疑念が浮かぶわけです。
 
しかし、むしろここにこそハイデガーの議論の核心があります。確かに通俗的時間の根底にはアリストテレスが言うような「運動の数」があるわけですが、そのさらなる根底には根源的時間としての「以前と以後」があるということです。
 
我々は時計の針という〈もの〉の運動から「いまはまだ」「いまはもう」という〈こと〉を読み取っています。そして、この〈いま〉という拡がりが〈いままで〉と〈いまから〉を生み出す源泉となります。そうであれば、こうした意味での〈いま〉が、まさしく根源的意味での時間そのものであるということです。
 
このようにハイデガーは「時間」をいわば〈あいだ〉として把握します。ベルクソンの「純粋持続」がそれだけでまだ「時間」とは言えないのは、そこにはこうした意味での〈あいだ〉が無いからである、ともいえるでしょう。
 
すなわち「時間」とは、一切の空間性を免れた「純粋」に止まることなく、空間性のうちに投影されて「不純」になった時、その〈もの〉と〈こと〉の〈あいだ〉から生まれてくる〈いま〉という〈あいだ〉であるということです。
 
このように〈いま〉を根源的な時間そのものであるとすれば、もはや時間とは絶えず〈いま〉を読み取っている我々自身、すなわち我々の「自己」ということになります。そして同じことが〈いま〉の別様のあり方としての〈かつては〉とか〈こんどは〉などについても言えるでしょう。すなわちこれらは全てが、我々が「自己」として、自分自身の時間性を言い表すさまざまな言い回しに他ならないということです。
 
 

* 離人症における時間

 
そして、こうしたハイデガーの時間論を裏側から説明するのが、精神医学における「デペルソナリザシオン」と呼ばれる症状です。いわゆる「離人症」「人格喪失体験」などという名で呼ばれるこの症状では、外界の事物や自分自身の身体についての実在感、現実感、充実感、重量感、自己所属感などといった感覚が失われた体験や、何より自分自身の自己がなくなってしまった、あるいは以前とすっかり違ってしまった感情や性格が失われたという体験が訴えられることが知られています。
 
こうした離人症において特徴的なのが通常の時間感覚の喪失です。離人症患者の知能や知覚には何一つ障害は見いだせません。もちろん過去・現在・未来といった時間観念も保たれていて、時間が過去から未来の方へ流れていくことも知的には十分理解している。
 
にもかかわらず、離人症患者はある瞬間と次の瞬間を時間で結びつけることができず、無数の瞬間としての「いま・いま・いま」が次々に断続的に襲いかかってくるわけです。これは離人症においては〈いま〉が機能していないことを示していると同時に、離人症患者は〈こと〉を喪失した〈もの〉だけの世界を生きてることを示しているということです。
 
 

* 掴みどころのないものを掴む

 
以上の議論をやや安易を承知で定式化するのであれば、時間の本質とは〈もの=運動の数〉と〈こと=純粋持続〉の〈あいだ=差異〉に生じる〈いま=自己〉ということになります。
 
こうした見方からすれば、例えば楽しい時間が光の速さで進み、つまらない時間が鈍重に進んでいくあの現象は、我々が「〈もの〉としての時間」をどれだけ忘却して「〈こと〉としての時間」の方へとどれだけ没入しているかにかかってくるということになるのでしょう。
 
本書で展開されるのは時間という掴みどころのないものをなんとか掴むための思考です。ここで示される様々な知見は日々の何気ない時間を少しでも輝かせるためのアイデアを生み出す上で、ある種の基礎理論ともなり得るではないでしょうか。