かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

終わりあるエヴァと終わりなきエヴァ--シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

* 時に、西暦1995年

 
戦後50年目にあたる1995年という年は戦後日本社会が曲がり角を迎えた年でした。阪神淡路大震災地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は、平成不況の長期化により戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下による若年層の実存的不安が前景化した年でもありました。
 
この1995年以降、日本社会ではいわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況が急速に進行することになります。もはや社会共通の価値観である「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかないということです。そして、こうした時代の転換点に見事なまでのシンクロを果たした作品が「新世紀エヴァンゲリオン」でした。
 
 

*「おめでとう」と「キモチワルイ」

 
周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作(旧劇場版)が公開されました。この二つのエヴァの物語で提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」でした。
 
エヴァTV版最終話における「おめでとう」という「承認」は「大きな物語」なきところで生じる実存的不安に対してひとまずの処方箋として機能しました。エヴァになんて乗らなくてもいい。僕はここにいてもいい--社会的自己実現なんてどうでもいい。引きこもって何もしなくても、いつかきっと奇跡が起きて天使が舞い降りるから--当時、あのラストにこうした祝福を見出した人も少なくなかったはずです。
 
もちろん、そんなものは所詮まやかしでしかなく、結局のところ何はともあれ、人はこの正解のない現実を試行錯誤しながら生きていくしかない。こうしてエヴァ旧劇場版は「おめでとう」の祝福に縋る「エヴァの子供たち」を突き放すかのごとく「キモチワルイ」という「拒絶」によって終劇する。
 
「おめでとう」と「キモチワルイ」。ここで提示された両極端な「他者」の中に「物語の中で他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」を見出すことができます。そして、この「エヴァの命題」こそがある意味で現代サブカルチャーの想像力を今日に至るまで規定してきたとも言えます。
 
 

* ポスト・エヴァの想像力

 
この点、ゼロ年代における想像力は、エヴァTV版が描き出したような「他者性なき理想郷としての世界=セカイ」を無条件に擁護する想像力から出発しました。その後、米同時多発テロ新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に、セカイとセカイがお互いの正義を賭けて衝突する「バトルロワイヤル」を生き抜くための想像力が台頭しました。そんな中で、スマートフォンソーシャルメディアの登場を背景に、セカイとセカイのあいだに新たな社会的紐帯としての「つながり」を見出していく想像力が生まれました。 
 
わたしのあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性としてのつながり。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えます。
 
けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」です。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるという事です。
 
こうした「つながりのセカイ化」はとりわけ東日本大震災以降、年々加速傾向にあり、そういった意味で2010年代とは様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断」の時代でもありました。要するこの10年は「つながり」の希望が次第に失望に変わっていった10年でした。
 
 

* 再起動するエヴァ

 
セカイからバトルロワイヤルへ。つながりから動員と分断へ。こうしてみると、ゼロ年代以降の想像力は「おめでとう」と「キモチワルイ」の両極を振り子のように揺れ動いてきたともいえます。そして、こうした振り子運動の中にエヴァ新劇場版の展開も位置付けることができるでしょう。
 
2007年、エヴァは全4部作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として再起動しました。その第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、シンジやミサトの台詞の言い回しなど、その随所に僅かながらも旧作からの変化の兆しが見て取れます。
 
続く第2部「破(2009)」では、新たなキャラクター、マリが登場。ここから新劇場版はTV版と異なる展開へと突入します。何よりも本作で驚かされるのがシンジ、アスカ、レイの変化です。かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていました。しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。まさしく、ゼロ年代後半における「つながり」の希望と同調し「おめでとう」へ向かったのが「破」の物語でした。
 
そして第3部「Q(2012)」では、ニアサードインパクトによって破滅した14年後の世界が描かれます。14年ぶりに目覚めたシンジはアスカやミサトから敵視され、この世界のレイはかつて救ったはずのレイとは別人であり、唯一の理解者であったカヲルは最後に惨殺されてしまう。ここでシンジは様々な「つながり」から疎外される事になります。すなわち、2010年代における「動員と分断」における絶望を体現し「キモチワルイ」へ振り切れたのが「Q」の物語でした。
 
こうして「Q」から8年余りの歳月が過ぎた2021年3月、今年ついにエヴァの物語は完結を迎えることになりました。
 
 

* この「答え」をどう受け止めるか

 
総上映時間2時間35分。詰め込めるものは詰め込めるだけ詰め込もうとする制作サイドの強い意思を感じました。わたしは公開されてすぐに某シネコンで本作を鑑賞したんですけど、まずシアター内の空気感からしてもう、いつもと全然違うわけです。
 
あの異様な空気感を言葉にするのはなかなか難しいですが、話題の映画だから早速観に来ましたとか、そういうお気軽な感じとは明らかに異なった、なんというか全人格を賭けてこの作品と「対決」しようする並々ならぬパッションが至る所からひしひしと伝わって来ました。本当にもう、創る方も尋常じゃなければ観る方も尋常じゃない。やはり25年という歳月は重いと言わざるをえません。
 
わたし自身はお世辞にもコアなエヴァオタとは言えませんが、それでも自分自身のこれまでの生を「エヴァンゲリオン」という固有名詞を抜きにして語ることなど到底不可能だと思います。この生の然るべき多感な時期にエヴァという作品に出逢ったということ。そして冒頭から長々と書き連ねたようにエヴァの置き残した「問い」にずっと囚われ、導かれ、魅了されてきたということ。そうした諸々の事実は少なくともわたしの生においては数少ない確かな真実なんだと思います。
 
そして今回、かつてエヴァの置き残した「問い」に対する一つの「答え」が今ついに、他ならぬエヴァ自身から提出されるというのであれば、これはやはり感無量というべきでしょう。そしてこの事実こそがまさに重要であり、正直なところ「答え」の中身はわりとどうでもよかった。だからあの2時間35分を観終わった後の偽らざる感想は肯定でも否定でもなく、ただただ感謝しかなかった。おめでとう、そして、いままでありがとう、この瞬間に立ち会えてうれしかった--本当にそれしかなかったと思います。
 
 

*「現実」とは何か

 
果たして本作はこれ以上なく爽やかな「おめでとう」という「終劇」を描き出しました。けれども、それはあくまで庵野さんにとっての「おめでとう」であり、万人にとっての「おめでとう」ではない。むしろメタレベルでは旧劇以上にわかりやすくスマートに「キモチワルイ」を突きつけられたと感じる人も少なからずいたはずです。
 
本作はこれ以上ないくらいに「現実」を肯定します。これはある意味で例の「現実に帰れ」という旧劇におけるメッセージの反復でもあります。けれども旧劇が虚構批判を反転させた形での現実回帰だったのに対して、本作は屈託のない手放しの現実賛歌という点で決定的な差異があります。
 
現実に帰れ、そしてこの現実をまっとうに生きろ--こうした本作のメッセージに対して、それは時代錯誤の理想論だとか、あるいは自己愛的な懐古趣味だとか色々と批判したくなる気持ちもそれはそれでわからなくもない。けれども散々言われているように、本作は基本的に庵野さんの私小説として理解すべきでしょう。そうであれば本作で描かれる「現実」とはあくまでも庵野さんにとっての「現実」に他なりません。
 
そもそも我々が「現実」と思っているものは、所詮は我々自身が現象と言語で構成した人それぞれの特異的な「現実」に過ぎません。庵野さんの肯定する「現実」が必ずしも我々の肯定すべき「現実」とは限らない。
 
それぞれの「現実」をまっとうに生きていくということ。それはもちろん様々な「キモチワルイ」に直面する「現実」を耐え忍ぶ事でも諦める事ではなく、むしろ我々一人ひとりが自分なりに「おめでとう」といえる「現実」を「発明」するということではないでしょうか。
 
 

* 終わりあるエヴァと終わりなきエヴァ

 
本作はいわば「すべてのエヴァを終わらせるエヴァ」です。思えばこれまで「エヴァ」という固有名詞をめぐり無数の考察や創作や妄想が産出されてきました。そしてこの構造はまさしく、ひとつの欠如が際限なき欲望を駆動させるある種の否定神学といえます。
 
そうであれば本作は「エヴァ」という固有名詞を身も蓋もない私小説へと畳み込む事で、この終わりなき否定神学を終わりある物語へ有限化しようとした試みともいえます。
 
もちろん、この私小説という解釈自体も所詮は「エヴァ」という固有名詞をめぐるひとつの意味に過ぎません。そういった意味で、やはり我々はこれからも「エヴァ」という固有名詞をめぐる終わりなき否定神学に囚われ、導かれ、魅了されていくのでしょう。けれどもその一方で、本作が比喩でもなんでもない文字通りの「すべてのエヴァを終わらせるエヴァ」という明確な意志によって貫かれている事も紛れもない事実でしょう。
 
そうであれば本作は、これまでの人生のそれなりの割合を「エヴァ」という固有名詞に費やしてきた「エヴァの子供たち」へ向けた、庵野さんなりの最後の餞としての「サービス」だったんだと思います。