かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

贖罪と幸福の脱構築--劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel] III.spring song

* 脱構築なる正義

 
20世紀を代表する哲学者、ジャック・デリダは1989年、イェシヴァ大学で行われたシンポジウムの基調講演「法の力」において「脱構築とは正義である」という有名なテーゼを打ち出しました。その論理は次のようなものです。
 
⑴法は本質的に脱構築可能である。⑵一方、もしも正義それ自体が法の外に存在するのであれば、それは脱構築不可能である。⑶同様に、もしも脱構築それ自体が存在するとすれば、それは脱構築不可能である。⑷ゆえに脱構築とは正義である。
 
法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで、特定の領域における普遍的な秩序を構築します。けれどもその一方で、法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり産み出した暴力的な「決定」に他ならない。
 
ゆえに法は常にその外部から脱構築可能である。すなわち、デリダのいう脱構築とは、普遍性と特異性、あるいは計算可能性と計算不可能性といった「決定不可能性」を引き受ける「決定」ということです。そうであれば、こうした脱構築による「決定」の中に見出されるものこそがデリダ的意味での「正義の在り処」というべきものなのでしょう。
 
 

* Fate/stay nightの裏街道

 
そしてFate/stay nightとはおそらく、こうした「正義の在り処」を真正面から問うた作品だったんだと思います。2004年に発売された原作ゲームはゼロ年代を代表するPCゲームの一つとして、これまでも様々なメディアミックスが展開され、その度に幅広い支持層を開拓してきました。
 
第1のセイバールート(Fate)は早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化されます。
 
こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)でした。
 
桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道です。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。
 
こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていましたが、ついに満を持して2017年秋より劇場三部作としての公開が開始され、2020年夏に公開された本作はその最終章にあたります。
 
 

*「不人気ヒロイン」から銀幕の大女優へ

 
まず第一章(I.presage flower)の最大の特徴は、世界観設定の説明や序盤の部分をばっさり省略し、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成を採用した点にあるでしょう。
 
おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFate/stay nightの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないはずです。そして、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てが、原作ゲームにおいて長らく「不人気ヒロイン」の不遇を託っていた間桐桜という業の深い少女を文字通りの銀幕の大女優へ押し上げるという、ただその一点に投入される事になります。
 
そういうわけで第一章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないわけですが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの歪みによって生み出されているわけです。
 
 

* 暗転する日常

 
桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他なりません。セイバールートで提示された大文字の正義は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいてまさに脱構築されることになる。こう言ってよければ、セイバールートも凛ルートも、この桜ルートに向けた壮大な助走に過ぎなかったようにさえ思えます。
 
桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまいます。
 
このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。こうして第二章(II.lost butterfly)の終盤において、黒幕である間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。
 
「万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ」と。
 
 

* 正義の味方と正義の在り処

 
正義の味方には倒すべき悪が必要である。誰かを助けるという事は誰かを助けないという事である。こうした「正義の現実」が容赦なく士郎に襲いかかる。こうして士郎には「正義の味方か、桜の味方か」というという究極的な二択が突き付けられることになる。
 
桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、他でもない桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。
 
ここで第一章冒頭に置いた前日譚がじわじわと効いてきます。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「設定」ではなく「体験」として知ってしまっている。
 
果たして士郎は「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答えました。
 
確かにFate/stay nightという物語全体を一つの英雄譚として読むならば、主人公が土壇場で「正義の味方」である事を放棄して1人の少女を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。
 
けれども、その一方で、普遍性と特異性、計算可能性と計算不可能性の究極的両立という、あのデリダの問いに誠実であるのであれば、むしろ我々はここに「正義の味方」という借り物の法を脱構築した、決定不可能性を引き受ける「決定」としての「正義の在り処」を見ることができるのではないでしょうか。
 
 

* 贖罪と幸福の脱構築

 
もっとも、こうした士郎が見出した「正義の在り処」が直ちに桜への免罪符となるわけではない。こうした意味で第三章(III.spring song)では桜の「罪と罰」が問われる事になります。
 
周知の通り、原作ゲームにおける桜ルートにはトゥルーエンドとノーマルエンドいう二つの結末が用意されています。
 
この点、桜の「罪と罰」を問うという事であれば、よくある意見のように、桜が静謐な生を慎ましやかに送りながら年老いていくノーマルエンドこそが真の終幕に相応しく、一応の大円団を迎えるトゥルーエンドは安易な予定調和のようにも思えます。こうした事から、劇場版がどちらの結末に依拠するかが注目されていました。
 
けれども劇場版は原作をただ単純に反復するような事はしなかった。むしろ原作が示した二つの結末--贖罪と幸福--は劇場版において脱構築される事になります。
 
そもそも桜はセイバーや凛と決定的に違う。セイバーはブリテンの騎士王として、凛は名家遠坂の魔術師として、それぞれ自身のアイデンティティを記述してる。たとえ士郎がいようがいまいがこの二人のアイデンティティは揺るがないでしょう。
 
けれども桜には士郎以外には何もない。幼い頃から虐待を受け続けてきた桜にとって世界とは悪意に満ちたものであり、かろうじて手に入れた「衛宮家の日常」というリトルネロさえも、世界はよってたかって彼女から取り上げようとする。これはメンタルを拗らせない方がどうかしている。いわば、桜の「罪」とはこれまでの「罪なき罰」の結果でもあります。
 
それでも罪は罪なのでしょうか?もし仮にそれを「正義」と呼ぶのであれば、もはやそれは週替わりのアンリマユを探し出して来ては安全圏から石を投げつける現代ネット社会の「正義」と何も変わらないでしょう。
 
罪と罰」の十字架を背負った以上、人は幸せになってはいけないのでしょうか?多分、こうしたアポリアに対する見事な回答が今回の劇場版であったように思えます。そして、そこには原作に対する敬意と桜に対する愛情を確かに感じました。こうした意味で本作の結末もまた、決定不可能性を引き受けた決定としてのひとつの「正義の在り処」なんだと思います。