かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

ループの先にある日常--リトルバスターズ!

 
 

*「他者性なき世界」と美少女ゲーム

 
美少女ゲーム」とはある意味で時代の徒花のようなジャンルです。1995年以降の日本社会は「戦後」という「大きな物語」を失った本格的なポストモダン状況へと突入したと言われています。この点、批評家の東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」へという消費行動様式の変容の中に、ポストモダンにおける一般的傾向を見出して、1995年以降を「動物の時代」として規定しました。そして、社会学者の大澤真幸氏は東氏の議論を受け、ポストモダンの本質を「第三者の審級」の撤退による「他者性なき世界=不可能性」の希求へ求め、1995年以降を「不可能性の時代」として規定しました。
 
こうした時代状況を体現する文化として、美少女ゲームというジャンルは産声を上げたのでした。そのひとつの完成形がゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」であり、美少女ゲームにおける「萌え」と「泣き」の文法を確立させた同作はいわゆる「泣きゲー」の先駆けであるとともに「セカイ系」の萌芽ともなった作品でもあります。
 
 

* マルチエンドシステムとループ構造

 
通常、美少女ゲームにおいては、プレイヤーは主人公に同一化し、ある特定のヒロインと繊細なまでの「純愛」を添い遂げる。けれでもその一方で、プレイヤーは複数のシナリオを俯瞰して複数のヒロインを「攻略」することを目指すわけです。
 
つまりプレイヤーの中では、キャラクターレベルでの「 小さな恋の物語における純粋性(=反家父長的感覚)」と、プレイヤーレベルでの「物語を産出するシステム全体を支配するかの如き全能性(=超家父長的感覚)」という矛盾した感覚が解離的な形で共存しているということです。まさに「他者性なき世界」という不可能性を可能にしているかの如きです。
 
このように美少女ゲームにおいては通常、選択肢次第で異なったヒロインの物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されています。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。
 
そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。こうしたゲームシステムを逆手に取り、美少女ゲームにおいては物語/世界観のレベルでループ構造を導入する作品も少なくない。その代表作として「AIR(2000)」「CLANNAD(2004)」「ひぐらしのなく頃に(2002〜2006)」「STEINS;GATE(2009)」などが知られています。
 
 

* 野球チームを作る・・・チーム名は、リトルバスターズだ!

 
そして2007年に発売されたKey4作目に当たる本作もまた、こうしたループ構造の系譜に属しています。そのあらすじはこうです。
 
「強敵が現れたんだ、君の力が必要なんだ」
 
主人公、直枝理樹は幼少時、棗恭介、棗鈴、井ノ原真人、宮沢謙吾と共に、悪を成敗する正義の味方、ひと呼んで「リトルバスターズ」を結成した。皆とのお祭り騒ぎの日々。ただただ楽しくて、いつまでもこんな時間が続けばいい--当時、両親を亡くし塞ぎこんでいた理樹にとって恭介たちが差し伸べた手はまさしく救いの手でもあった。
 
時は流れて、皆は高校生になった。そんなある日、3年生である恭介が就職活動から帰って来た。やがて来る別離の時。理樹はかつての面々に「昔みたいにみんなで何かしない?」と問いかける。それを聞いた恭介は「今しか出来ない事をしよう」と答え、たまたま近くに置いてあったボールを拾い上げてこう宣言する。
 
「野球チームを作る・・・チーム名は、リトルバスターズだ!」
 
こうして理樹たちは練習と新メンバー集めに明け暮れて、様々な困難を乗り越えて、ついに練習試合にこぎつける。今がずっと続けばいいのに、いつまでも--いつまでも、このままで。「最高の仲間たち」に囲まれた理樹は改めて、心からそう願ったのであった。
 
 

* Refrain--惨劇を乗り越えていくということ

 
こんな風にまあ、アニメ第1期はものすごくピースフルな感じで終わるんですが、続く第2期(〜Refrain〜)では一転、びっくりするくらいに重苦しい展開の連続となります。そして土壇場でこの世界がループしている事が判明するんですね。
 
もっとも、ここがまさしく本作の真骨頂です。この点、先にあげた「AIR」「CLANNAD」「ひぐらしのなく頃に」「STEINS;GATE」といったループ系作品がまさにそうであるように、美少女ゲームにおけるループというのは基本的にその先にある何らかの「惨劇(大抵はメインヒロインの死)」を回避するための手段として用いられるんですね。
 
ところが、本作のループはむしろその「惨劇」を乗り越えて、さらにその先を生き抜くための手法--Refrain--として用いられます。ここには、美少女ゲームというジャンルに対する本作の批評性を見る事ができるでしょう。もっといえば、ここから「ループするセカイ(=美少女ゲーム)ではなく、一回限りのこの日常を生きろ」という美少女ゲームユーザーに対する叱咤の--あるいは期待の--声すら聞こえてくるようにも思えます。
 
もちろん、それは美少女ゲームというジャンルを全否定しない限りでの、いわゆる「安全に痛いパフォーマンス」の枠組みの中でなされる事ではありますが、少なくともその後景にある「他者性なき世界」という欲望に対する自己反省を迫ったことは確かでしょう。そういった意味で本作は「セカイから日常へ」というゼロ年代後半におけるトレンドの変遷に対する美少女ゲームというジャンルからの優れた回答であったように思えます。