かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

コミットメント過剰の時代における倫理としてのデタッチメント--世界のおわりとハードボイルド・ワンダーランド(村上春樹)

 
 

* ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル

 
戦後社会学を牽引した社会学者、見田宗介氏は「現実」という言葉の三つの反対語である「理想」「夢」「虚構」を「反現実」と呼びました。こうした「反現実」という観点から見田氏は、戦後日本社会を三つの時代に区切りました。
 
すなわち、プレ高度経済成長期(1945年から1960年頃)が「理想の時代」であり、高度経済成長期(1960年頃から1970年前半)が「夢の時代」であり、ポスト高度経済成長期(1970年後半以降)が「虚構の時代」という事です。
 
そして、見田社会学を継承した大澤真幸氏は見田氏の三区分を1970年を境に「理想の時代」と「虚構の時代」の二区分へ整理し直した上で、1995年以降の時代を「不可能性の時代」として規定します。そして、こうした時代区分を大澤氏は「第三者の審級の撤退(と裏口からの回帰)」というメカニズムから説明します。
 
これに対して、宇野常寛氏は大澤氏のいう「第三者の審級の撤退(と裏口からの回帰)」という二面性をより明確に際立たせた「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という対概念を提出します。ここで宇野氏のいう「ビッグ・ブラザー」とは「国民国家」のメタファーであり、かたや「リトル・ピープル」とは「グローバル資本主義」のメタファーです。
 
この対概念を用いて、宇野氏は「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」という時代区分を「ビッグ・ブラザーの時代/ビッグ・ブラザーの解体期/リトル・ピープルの時代」として捉え直します。極めてざっくり言えば、要するに戦後日本社会の変遷とは国家というイデオロギーが市場というシステムの中に呑み込まれていく過程であったということです。そして、こうした時代区分における「ビッグ・ブラザーの解体期」を象徴する作家が村上春樹氏です。
 
 

* デタッチメントという倫理--政治と文学の切断

 
1970年代末、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」においては「鼠」と「僕」という二人の対照的な青年が登場します。この点「鼠」は「ビッグ・ブラザーの時代」の終焉に戸惑いを隠せません。これに対して、村上氏の分身としての「僕」は「ビッグブラザーの解体期」を自覚的に受け入れていこうとします。
 
ここで鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」と後に呼ばれる倫理でした。すなわち、これは「政治と文学」における「政治」から「文学」を一旦切断して「ビッグ・ブラザーの時代」から距離を置く態度です。
 
こうした「デタッチメント」という美学がいよいよ完成を見ることになったのが「鼠三部作」に続く長編第4作目となる本作です。
 
 

* 二つの物語

 
全40章からなる本作は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」というそれぞれ世界を異にする二つの物語が交互に進行し、やがて両者の関係性が徐々に明らかになるという構造となっています。
 
この点「ハードボイルド・ワンダーランド」は、現実世界を生きる「私」の物語です。「計算士」という暗号処理の仕事を生業として、やはり「やれやれ」が口癖である「私」は、ある日、謎の老博士から秘密の研究所に呼び出され「シャフリング(自らの深層心理をブラックボックスにした情報の暗号化)」を用いた仕事の依頼を受けたのがきっかけで計算士と記号士の抗争に巻き込まれていく。そして「私」は老博士の孫娘から「世界の終り」を告げられる。
 
そして「世界の終り」は、周囲を壁に囲まれ、一角獣が生息する謎の街で生きる「僕」の物語です。この街の人々は「心」を亡くし安らかな日々を送っている。一方「影」を引き剥がされ、記憶のほとんどを失っている「僕」は図書館で「夢読み」として働く一方で「影」の依頼により「街の地図」を作る作業を続け、少しずつ街の謎に迫っていく。
 
 

* 世界の終わりで責任を取るということ

 
果たして「世界の終り」の正体とは「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」が意識の消滅によって閉じ込められた無意識世界でした。そして本作の結末で「僕」は「世界の終り」からの脱出の機会(=意識の復活)を得ながらも、自らが産み出した「世界の終わり」の中に留まる道を選択する。
 
それも街の人々のように「心」を亡くして永遠の時間を生きるのではなく「心」を持ったまま永遠の時間に耐えるという恐るべき過酷な道です。けれども「僕」はそれが「責任」をとることなのだといいます。
 
世界の終りで責任を取るということ。すなわち「ハードボイルド・ワンダーランド(政治)」から「世界の終り(文学)」を切断するデタッチメントです。ここで本作が示しているのはビッグ・ブラザーとは無関係にリトル・ピープルとして生きていく道です。そういった意味で、この時点における村上氏は来るべき「リトル・ピープルの時代」をいち早く捉えていたと言えるでしょう。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ--政治と文学の再接続

 
そしてその後、いよいよ本格的に「リトル・ピープルの時代」を迎えた1995年前後の時期、周知の通り村上氏はあの「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる転回を果たすことになります。
 
ここではリトル・ピープルが産み出す新たな「悪」のイメージをいかに記述するのかという、かつて一旦切断した「政治」と「文学」の再接続が真正面から問われることになります。
 
こうした氏の問題意識は当時執筆された大作「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」において明確に打ち出されています。もっとも、この時点ではまだリトル・ピープルの産み出す新しい「悪」の形は朧げにしか捉えられていなかった。
 
けれど同作の刊行中、あの地下鉄サリン事件が発生し、新しい「悪」の形は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現する。その後、氏は事件関係者への綿密な取材を経て、改めてリトル・ピープルの産み出す「悪」に対峙したのが超大作「1Q84(2009〜2010)」です。
 
 

* コミットメント過剰の時代における倫理としてのデタッチメント

 
では、本作はもう既に乗り越えられた過去の遺物なのかというと、もちろんそうではありません。
 
グローバル化/ネットワーク化の極まった現代において、我々はわざわざリトル・ピープルへとコミットメントするまでもなく、もはや既に我々自身がリトル・ピープルとしてコミットメントさせられています。
 
今や我々はリトル・ピープル同士のコミットメント過剰により世界を友敵に切り分ける動員と分断の時代を生きています。こうしたコミットメント過剰な中で真に倫理的なコミットメントがあるとすれば、その鍵はむしろデタッチメントに求められるのではないでしょうか。
 
言うなれば、我々はそれぞれの「世界の終わり(文学)」を抱えつつ「ハードボイルド・ワンダーランド(政治)」の現実を生きています。我々の日常にもしばし「ハードボイルド・ワンダーランド」のような理不尽な存在や出来事が遠慮なく襲来してきます。こうした現実と対峙する上で為すべきなのは自らの「世界の終わり」と向き合い、その「街の地図」を丁寧に書き上げていく事ではないでしょうか。
 
デタッチメントからのコミットメント。切断からの再接続。こうした視点から本書を読み返してみた時、そこにはまた新たな発見があるように思えます。