かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

幻想を横断していくということ--空電の姫君(冬目景)

 
 

* 否定神学--冬目景作品の通奏低音

 
冬目景作品の魅力は、その退嬰的な心理描写と瑞々しい日常描写が織りなす独特な世界観にありますが、その作品世界の多くはある種の否定神学的な幻想によって規定されています。そしてこうした想像力の源泉はおそらく氏のデビューした90年代前半という時代性に由来すると思われます。
 
バブル経済と冷戦構造の崩壊によって幕を開けた1990年代はそれまでの日本社会を規定していた「戦後」という名の「大きな物語」の失墜が明らかになり始めた時代となりました。こうした時代の変化を批評家の東浩紀氏はラカン精神分析のタームに依拠して「象徴界の機能不全」と表現しました。「大きな物語」を失った社会においては、各個人を接続する象徴的秩序が上位審級としてもはや機能していないということです。
 
その結果、いわゆる「政治と文学」の断絶と呼ばれる問題が生じます。かつて文学(実存)を語ることは、これすなわち政治(社会)を語ることでした。ところが象徴界が機能不全に陥ると、政治(社会)の問題は家族や恋人や友人といった身近な小世界へ矮小化される一方で、文学(実存)の問題は象徴界の外部という接近不可能な領域へと旋回することになります。
 
こうしたことから90年代においては「性愛」「死」「心的外傷」「近親相姦」「世界のおわり」といった文学的記号を導入する事で象徴界の外部としての「不可能性」を描き出す否定神学的な想像力が台頭しました。こうした想像力は後に「セカイ系」という言葉によりひとつのジャンルとして名指される事になります。
 
 

* ZERO・羊のうたイエスタデイをうたって

 
冬目さんの初の連載作品「ZERO(1995)」もまた、こうした否定神学的な想像力に強く規定された作品となりました。同作では退学処分になった少女が学校に立て篭もり生徒を惨殺し、最後は学校もろとも自爆して死ぬという悲劇的な結末を迎えます。
 
以来、冬目作品においては否定神学的な幻想に取り憑かれたヒロインがしばし登場します。例えば初期の代表作である「羊のうた(1996〜2002)」における高城千砂は発作的に他人の血が欲しくなる奇病を抱えていましたし、また長期連載となった代表作「イエスタデイをうたって(1998〜2015)」における森ノ目榀子も夭折した幼馴染の思い出を引き摺っていました。
 
そして両作において彼女たちは主人公をめぐり、もう一人のヒロインと三角関係のドラマを展開します。そしていずれも終始優勢なのは前者ですが、最後に主人公と結ばれるのはいずれも後者であるという点でも両作は共通しています。すなわち、ここには否定神学的な幻想へ抗う構図を見ることができるでしょう。
 
 

* 性愛的なものから友愛的なものへ

 
そして本作もまたこうした構図を引き継いでいます。もっとも、それは従来のような異性間における性愛的略奪からなる三角関係として描かれるのではなく、むしろ同性間における友愛的交歓と「居場所」をめぐるヘゲモニーの二重構造として描き出されることになります。
 
本作のあらすじはこうです。主人公、保坂磨音はミュージシャンの父親からロックを聴かされて育ち、長じた今や高校生離れしたギターテクを持つ一方で、ネガティヴ思考で内向的な性格からまったく友達ができず、灰色の高校生活を送っていた。そんな磨音の前に天性の歌声を持つミステリアスな転校生、支倉夜祈子が現れる。
 
一見、地味でオタクな磨音と派手でリア充な夜祈子という完全に対照的な容姿と性格を持った両者ですが、古いロックが好きという共通項から二人は親友と呼べる関係になります。
 
その一方で磨音はある日、ロックバンドとしてプロデビューを目指す大学生、高瀬と日野に出会う。彼らのバンド「アルタゴ」はかつてプロデビュー直前まで漕ぎ着けながら、中心メンバーである高瀬の弟、チアキが事故死して以来、活動が停滞していた。
 
磨音のギターに魅了された高瀬は死んだ弟の残した曲を完成させたいと磨音を説得する。アルタゴは磨音の父がかつて所属したバンドと同じ境遇にあった。磨音の父親、保坂拓海はかつて一部でカリスマ的人気を誇ったTHE AMBER JACKのギタリストであったが、7年前にリーダーである南島の事故死をきっかけにバンドは解散していた。
 
アルタゴに父のバンドを重ね合わせた磨音は同情心からとりあえず音源作りのサポートとして参加。最終的には高瀬達に泣き落とされる形で正式メンバーとしてバンドに加入することになる。
 
もともと本作は「空電ノイズの姫君」というタイトルで幻冬社月刊バーズで連載されていたんですが、同誌が休刊となったため講談社のイブニングに移籍して連載を再開したという経緯があります。よって本作の単行本は「空電ノイズの姫君(3巻)」と「空電の姫君(3巻)」の計6巻で、冬目作品では「イエスタデイをうたって(全11巻)」「黒鉄(全10巻)」「羊のうた(全7巻)」に次ぐ長編となります。 
 
 

* 磨音と夜祈子の幻想

 
先述の通り「羊」や「イエスタデイ」では幻想に取り憑かれたヒロインともうひとりのヒロインの間で主人公をめぐる三角関係が展開されます。これに対して、本作では磨音も夜祈子も共に幻想に取り憑かれています。
 
磨音の中では父のバンドの思い出が今でも幻想として生きていた。亡きリーダー・南島の「大きくなったらウチのバンドに誘うかな」という言葉を磨音はいまだに忘れられず、その幻想はアルタゴへ投影され、今やアルタゴは磨音にとって何者にも代え難い「居場所」になっていた。
 
一方の夜祈子もまた母親という幻想に呪縛されていた。幼い頃、実母が自殺未遂に居合わせた夜祈子は、その後、施設、祖母の家、叔母の家と居所を転々として、今でも血塗れの母親が倒れている光景のフラッシュバックに悩まされていた。
 
天性の歌声を持つ夜祈子に高瀬はチアキの遺稿であるラブソングのゲストボーカルを依頼する。そんな大事な曲は歌えないと固辞する夜祈子であったが、夜祈子の過去を知った磨音は夜祈子に歌うように背中を押す。
 
果たして夜祈子のステージはSNSで話題となり、夜祈子はなし崩し的にアルタゴのメインボーカルとなる。以降、CDデビュー、ワンマンライブ、10万人フェス参加とアルタゴの快進撃は止まらない。けれどもフェスを前にして磨音との想いのすれ違いがきっかけで夜祈子は姿を消す。
 
 

* 幻想を横断していくということ

 
唐突な夜祈子の失踪に「最悪だ」と憤慨する磨音。けれどもフェスのステージが終わった後、その真意に気づきます。
 
磨音にとって夜祈子は掛け替えのない親友である一方、夜祈子のアルタゴ加入については一貫して消極的で、夜祈子が加入した後も常に複雑な思いを抱えていた。
 
おそらくそれは夜祈子の加入によりバンドの色が塗り変わり、アルタゴが自分の「居場所」ではなくなってしまうことへの無意識的不安の現れのように思えます。夜祈子が自分が悪者になるのを承知で身を引いたのは、こうした磨音の不安に気づいたからでしょう。
 
もっとも最後には磨音は自らの幻想への執着に気づき、夜祈子もまた自らの幻想と向き合うための旅へ出る。そして、それぞれがいつかの再開を願いつつ物語は幕を閉じる。幻想を横断していくということ。それはまさしく夜祈子の言う「転がる石のように」前に進んでいく営みなのかもしれません。ここには「羊」や「イエスタデイ」とは別の形で幻想を乗り越えていく構図を見ることができるでしょう。
 
 

* セカイとつながりの間で

 
いわゆる「セカイ系」から出発したゼロ年代サブカルチャーにおける想像力の運動は、複数の「セカイ」の衝突をいかに止揚させるかという問いに規定されていました。そのひとつの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯を描く想像力でした。
 
冬目景作品には珍しい女子高校生同士の交歓を描きだす本作もまた、一面ではこうしたゼロ年代的「つながり」の系譜を引き継いでいるといえます。
 
けれども、そこから更に本作は「否定神学的な幻想(=セカイ)」を再導入することで「つながり過剰」がもたらすホーリズムに抗うという想像力へと跳躍しています。そういった意味で本作はこれまでの冬目作品が深化させてきたテーマの2010年代における見事な変奏曲といえるでしょう。