かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「母なるもの」からの解放と祝福--空の青さを知る人よ

* 母なるものへの囚われ

 
ユング派分析家としても知られる臨床心理学者、河合隼雄氏は不登校児における「グレートマザー」の元型作用を指摘していましたが、岡田麿里さんの自伝「学校に行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで(2017)」はまさにこうしたユング的な臨床例として読めてしまいます。
 
同書で岡田氏がユーモアを交えながらかなり赤裸々に綴る不登校時代の屈折したエピソードの中には、後に岡田麿里脚本をしばし彩る「母なるものへの囚われ」とでもいうべきモチーフの原風景を見出す事ができます。
 
ここでいう「母なるもの」とは実際の母親に限らず、いわば河合先生が言う「グレートマザー」を体現する存在をいいます。自伝から拝察するに岡田さんの場合は周囲を山に囲まれた盆地である秩父という土地自体がグレートマザーとして立ち現れていたようにも思えます。
 
そして、グレートマザーは「育て慈しむ」という明の部分のみならず「呑み込む」という暗の部分を持ち合わせています。こうしたグレートマザーの暗の部分が「母なるものへの囚われ」として、しばし岡田脚本を規定しているように思えるわけです。
 
 

* 母と子の物語たち

 
例えば「true tears(2008)」のヒロイン石動乃絵は祖母の死別をきっかけに泣けなくなってしまい、もう1人のヒロイン湯浅比呂美は主人公の母親である仲上しをりと折り合いが悪かった。また「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(2011)」の主人公宿海仁太は幼馴染の本間芽衣子の死がトラウマになっていた。あるいは「心が叫びたがっているんだ。(2015)」のヒロイン成瀬順は両親の離婚がきっかけに喋れなくなり、以来実母との折り合いが悪い。これらの作品は「母なるものへの囚われ」を「子」の視点から描き出していると言えます。
 
そして「さよならの朝に約束の花をかざろう(2018)」においては、不老長寿の種族、イオルフの少女マキアは人間の孤児エリアルを拾い育てるが、エリアルは長じるにつれて歳を取らず実母でもないマキアとの関係に葛藤を抱えることになる。同作は「母なるものへの囚われ」を「母」の視点から描き出していると言えます。
 
 

*「母なるもの」からの解放としての「失恋」

 
そして本作でも「母なるものへの囚われ」というモチーフはしっかり生きています。主人公、相生あおいは高校を卒業したら地元秩父を出て東京でバイトしながらバンドで天下を取ると決めている。あおいは山に囲まれた地元秩父を(まるでかつての岡田さんのように)「巨大な牢獄」だと呼ぶ。そしてあおいは両親が他界して以来親代わりになってくれた姉あかねに対して感謝と反発が入り混じるアンビバレントな感情を懐いていた。
 
あおいは乃絵や順と同様、思い込みで世界を色々と勝手に決めつける実に岡田麿里的少女です。そしてやはり乃絵や順がそうであったように、あおいもまた「失恋」によって「母なるもの」から解放されるという、これまた岡田麿里的失恋譚の美しい反復があります。
 
 

*「母なるもの」を祝福する「失恋」

 
もっとも、あおいの「失恋」には乃絵や順のそれとは決定的に異なる点があります。ここでトリックスターとしての役割を果たすのが、かつて姉の恋人であった金室慎之介の「生き霊」として現れる「しんの」です。
 
超平和バスターズ三部作の特徴のひとつに、主人公あるいはヒロインの心的世界における幻想が現実世界に実体化して登場する点にあります。「あの花」では不登校になった仁太の前に芽衣子が「幽霊」として帰ってくる。また「ここさけ」で順は「玉子の妖精」の呪いにより声が出せなくなる。そして本作であおいの前に「しんの」は13年前の高校生の姿で「生き霊」として登場します。
 
あおいにとってしんのは「生き霊」ですが、しんのからすれば13年後へのタイムスリップです。状況を理解したしんのはあかねと現在の慎之介が寄りを戻せば自分は慎之介と融合できると推測するが、その一方であおいはかつてと変わらず自分を可愛がってくれるしんのに想いを寄せていく。
 
けれども、あおいは自分を育てる為にあかねが日々綴っていた養育ノートを発見し、自分はしんのと同じくらいにあかねのことが大好きなんだと自覚する。こうしてあおいの奮闘によりしんのはあかねと再開し、果たして慎之介とあかねは結ばれる。そして物語は「ああ空--くっそ青い」というあおいのモノローグによって静かに幕を下ろす。
 
ここには「true tears」「ここさけ」を乗り越えた瑞やかな結末があります。乃絵や順の「失恋」は相手から「選ばれなかった」結果としての、いわば受動的な失恋です。これに対して、あおいの「失恋」は姉の幸せを願い、自らが「選び取った」結果としての、いわば能動的な失恋です。こうした意味で本作は「母なるもの」からの解放と同時に「母なるもの」を祝福する「失恋」の物語であったように思えます。
 
 

* 井戸の底から見上げた空の青さ

 
またその一方で、本作は「しんの」から13年後の、31歳の「大人」になった慎之介が再びかつての理想を取り戻す物語でもあります。
 
本作のタイトルの由来は作中にも出てくる諺「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」にあります。この諺の由来は中国の「荘子-秋水篇」の一節「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」にありますが、日本に伝わった後「されど空の青さを知る」という一節が付け加えられました。
 
本作の舞台となる秩父市は周囲を山に囲まれた盆地であり、まさしくかつての慎之介は良くも悪くも「井の中の蛙」であったわけです。その後、故郷という「井戸」から外に出た慎之介は世間という「大海」を知り、よくあるくだらない大人になっていく。けれども慎之介は「井の中の蛙」であったかつての自分とめぐりあう事で、再び「井戸」の底へ降り、かつて憧憬した「空の青さ」へ再び出会うことができた。
 
あおいの物語と慎之介の物語。2つの物語が交差し共鳴するところに、子供から大人になり、そして大人から子供になり直すという生成変化のアレンジメントが描き出されていく。本作は社会で疲弊した大人へ手向けられた瑞々しい青春映画であったと思います。