かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)

* メッセージを探す営みとしての小説

 
村上春樹氏にとって「小説を書く」というのは一つの自己治療の営みであったといいます。氏にとって何かメッセージがあるから小説を書くのではなく、自分の中にどのようなメッセージがあるかを探し出すために小説を書くそうです。
 
時は1970年代後半、20代も終わりに差し掛かった村上氏は、自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説という形にしてみたいという思いに駆られます。こうして生み出された村上氏のデビュー作「風の歌を聴け」は、従来の文学とは一線を画した全く新しい文学を提示します。
 
アフォリズムに満ちたスタイリッシュな文体により鮮明に打ち出されたのが、あの「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理です。「デタッチメント」とは「かかわりの無さ」ということです。では氏は何かからデタッチメントしようとしたのか。
 
 

* ビッグ・ブラザーからのデタッチメント

 
村上氏が早稲田大学に入学したのは1968年ですが、この時期の日本は学生運動の最盛期でした。日本中の多くの若者が「革命」を夢見て政治へのコミットメントを志していた。
 
村上氏はおそらく当時の学生運動のあり方についていけない部分があったのではないでしょうか。氏は当時を振り返り、必ずしもはっきりしない政治的意思をどうコミットするかという方法論としての選択肢がものすごく少なかった事が悲劇だった気がするという趣旨を述べています。
 
そして、周知のように学生運動は1972年の連合赤軍事件を境に下火になり、時代の気分は瞬く間にコミットメントからデタッチメントへと切り替わった。そして次第に消費社会の爛熟により、革命の欲望は消費の欲望によって代替されていきます。
 
これは現代思想の文脈では「大きな物語の失墜」と呼ばれます。「大きな物語」とは個人の生を規定する社会的イデオロギーのことです。そしてこの「大きな物語」の想定的な語り手を、評論家の宇野常寛氏はジョージ・オールウェルの小説「1984」に準え「ビッグ・ブラザー」と呼びます。
 
いわば当時は「ビッグ・ブラザーの解体期」にあった。そして、村上氏はこうした時代の変遷をいち早くとらえ、勝手に解体していく「ビッグ・ブラザー」からの「デタッチメント」を志向した。つまり「デタッチメント」とは「政治と文学の切断」です。そして、ここには「既にもうそうなっているのだから仕方がない」という諦観の境地もあります。
 
 

*「影」を切り離すということ

 
風の歌を聴け」では1970年の夏の出来事が8年後の視点から語られます。同作では「僕」と「鼠」という二人の対照的な青年が登場します。この点、村上氏の分身としての「僕」は「ビッグ・ブラザー」からのデタッチメントを志向する一方、「鼠」は時代の変化に戸惑い、何かにコミットメントしようと足掻いている。
 
「鼠」という存在は「僕」の影のような存在です。いわば「僕」の「生きられなかった半面」が影として「鼠」に投影されている。そして続く「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と作を重ねるごとに「鼠」の存在感は次第に薄れていく。
 
そして「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では「鼠」のイメージを引き継ぐ「影」が登場する。「影」は主人公である「僕」の文字通りの「影」です。物語冒頭で「僕」の意識内世界である「世界の終わり」において「僕」と「影」は切り離され、同作ラストで「僕」はついに「世界の終わり」から「影」を放逐してしまう。こうして「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」は完全に切断され、村上文学におけるデタッチメントの美学は完成したかのように見えました。
 
 

* リトル・ピープルへのコミットメント

 
ところが「鼠=影」の亡霊は生きていた。村上氏はコミットメントから逃れることができなかった。結局「デタッチメント」というのはそれ自体既にコミットメントの一種です。ビッグ・ブラザーの解体期であった1980年代だからこそ、終わりゆくものを葬送する「デタッチメント(という名のコミットメント)」は有効に機能したといえます。
 
けれども1990年代に入り「大きな物語の失墜」は決定的となり「ビッグ・ブラザー」は完全に解体されてしまう。そして「ビッグ・ブラザー」亡き後の新たな秩序を宇野氏は村上氏の後年の小説「1Q84」に準え「リトル・ピープル」と呼びます。ここから「リトル・ピープル」が産み出す「悪」へいかにコミットメントするかという問題が生じます。
 
ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ。時代のさらなる変化は村上氏に(一旦切り離したはずの)「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」の再統合を要請しました。かくして1995年前後に氏は「デタッチメントからコミットメントへ」というあの有名な転回を果たします。
 
 

*「悪」と対峙するということ

 
本作「ねじまき鳥クロニクル」はこうした問題意識のもとで執筆されました。同作のあらすじはこうです。主人公、岡田亨はある日突然失踪した妻クミコの消息を辿る過程で、次々に奇妙な人物たちと邂逅し、やがて岡田はクミコ失踪の裏には彼女の兄である綿谷昇の暗躍があることを突き止める。
 
新進気鋭の政治家として今や時代の寵児である綿谷には人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っていた。果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていた。クミコの声にならない声を聴き取った岡田は、綿谷を斃しクミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべく、リトル・ピープルが産み出す「悪」と対峙する。そしてそれは具体的には「壁抜け」として遂行されます。
 
 

* 二つの世界のコンステレーション

 
本作終盤の展開はこうです。岡田は近所の曰く付きの空き家の枯れた井戸の底から「壁抜け」により精神世界へと入り込む。そこで岡田は(精神世界の)綿谷が何者かにバットで殴打され意識不明の重体となっており、犯人は岡田とよく似た特徴を持っている事を知る。
 
そしてホテルの一室で岡田は(精神世界の)クミコと邂逅する。クミコの傍らにはなぜか綿谷を殴打したと思われるバットがあった。
 
そこにナイフを持った謎の男が現れる。バットを手にした岡田は男の執拗な攻撃を潜り抜け、ついに岡田は男を「完璧なスイング」で捉え撲殺する。その後、現実世界に帰還した岡田は、現実世界でも綿谷が突然、脳溢血を起こし再起不能になっている事を知る。
 
多分この男こそがリトル・ピープルの産み出す「悪」そのものでしょう。そしてこの精神世界での「悪」の撲殺と現実世界での綿谷の再起不能は、ユング心理学でいうところのコンステレーション共時的布置)を描き出しているように思えます。
 
 

* 暴力とつながりの物語

 
このように本作が極めてアクロバティックな想像力で描き出すのはコミットメントにおける二つの位相です。
 
第一に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「暴力」によってコミットメントします。もちろんそれは暴力の単純な肯定ではない。というよりも人間とはそもそもが暴力的な存在です。本作ではノモンハンでの皮剥ぎだとか新京での脱走兵虐殺などといった「歴史的な暴力」が執拗に描き出されます。人の歴史とは本質的には暴力の歴史です。問題なのはその暴力性に無自覚な事でしょう。そして、こうした逃れられない「暴力」を引き受ける倫理的な態度こそがリトル・ピープルが産み出す「悪」から一線を画する正義となります。その意味で本作は「暴力」の物語です。
 
第二に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「つながり」によってコミットメントします。一旦は断絶したクミコとの「つながり」は、加納マルタとクレタの姉妹、笠原メイ、間宮中尉、そして赤坂ナツメグとシナモンの母子といった、様々な人との奇妙な「つながり」の連鎖によって再び回復します。そして、こうした予期せぬ「つながり」から生じる誤配は「井戸」や「バット」といった形となり、リトル・ピープルが産み出す「悪」を迎え撃つ武器となります。その意味で本作は「つながり」の物語です。
 
暴力とつながりの物語。こうしたコミットメントにおける二つの位相はリトル・ピープルがもたらすコミットメントのあり方を真正面から問うたゼロ年代的想像力を先取りしたものと言えます。
 
本作は村上氏がコミットメントのあり方を模索し始めた時期の作品であり、様々な実験が入り乱れ、その全体像の統一的な理解が困難な作品であることも確かでしょう。けれども洗練されていないが故の力強い輝きをこの作品が持っていることも、また確かなことだと思います。