かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「あたりまえ」を解体する実践知--「フランス現代思想史(岡本裕一朗)」

* ソーカル事件

 
ソーカル事件」というものをご存知でしょうか?1995年、ニューヨーク大学の物理学教授、アラン・ソーカルは、いわゆる「フランス現代思想」の文体を真似たパロディ論文を作成し、これをポストモダン系の学術誌「ソーシャル・テクスト」に投稿。同論文に散りばめられた数式や科学用語がインチキであることは数学や物理専攻の学部生レベルであれば自明のものでしたが、あろうことか「ソーシャル・テクスト」はそのインチキを見抜けず、同論文はそのまま掲載されてしまう。その後、ソーカルは予定通り論文作成の経緯を暴露。果たして「ソーシャル・テクスト」は世の笑いものとなり、同誌編集長は96年のイグノーベル賞を受賞してしまいます。
 
さらにソーカルは1997年にジャン・ブリクモンとの共著「〈知〉の欺瞞(英題:ファショナブルナンセンス)」を出版。様々なフランス現代思想系の思想家たちの文章を広範に取り上げ、それらの言説がいかに意味不明であるかを完膚なきまでに暴き出しました。
 
フランス現代思想といえば多彩な数学や物理学の概念を駆使した難解な論理と衒学的な文体で知られ、多くの人はそこに何か深遠な真理があると信じて、テクストを読み解けないのは自分の頭が悪いせいだと思い込んでいました。けれどもソーカルに言わせれば「テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだ」ということになります。
 
 

* フランス現代思想の「精神」

 
当時、フランス現代思想の愛好者にとってソーカルの告発がいかに衝撃的だったのかは容易に想像できるでしょう。実際おびただしい批判や非難がソーカルに対して浴びせられました。
 
けれどもソーカルが揶揄したのは哲学や人文科学の言説それ自体ではなく、あくまで数学や物理学の概念を濫用した怪しげなロジックです。では、こうした怪しげなロジックをひとまず脇に置いて、フランス現代思想を純然たる人文知としてみる時、そこにはいかなる哲学的ないし思想的意義はないのでしょうか?
 
この点、本書はフランス現代思想の「精神」は「西洋近代批判としての知」にあるといいます。そしてこの「西洋近代批判としての知」は具体的にどう展開されていったのかを本書は代表的思想家の軌跡に即しながら、極めて明快な文体で俯瞰的に見ていきます。
 
1980年代、浅田彰氏の「構造と力」によって牽引された「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる思想的流行以来、我が国の思想や批評に大きな影響を及ぼしてきたフランス現代思想はある意味で、現代社会を理解する上での「隠れた一般教養科目」とも言えます。その固有名詞になんとなく興味はあるけれど、よくわからない敷居の高さを感じている方にとって本書は良き入門書となるでしょう。
 
 

*「構造」の発見

 
一般的にフランスの戦後思想史といえば、ジャン=ポール・サルトルの「実存主義」から始まりますが、フランス現代思想の「精神」を「西洋近代批判の知」と捉える本書からすると、その起点は、クロード・レヴィ=ストロースによって確立された「構造主義」に求められる事になります(言い換えると、実存主義とは「西洋近代そのもの」を体現する思想という事になります)。
 
レヴィ=ストロースの主要な業績の一つに世界各地の部族社会における親族関係の分析があります。彼は学位論文「親族の基本構造(1949)」において従来の人類学において難問とされていた2つの謎を解明しました。
 
その一つは「インセスト・タブー」と呼ばれる、なぜ近親間で婚姻が禁止されるのかという謎です。そしてもう一つはなぜ多くの部族で「平行イトコ婚(母の姉妹の子ども、父の兄弟の子ども)」が禁止され「交叉イトコ婚(母の兄弟の子ども、父の姉妹の子ども)」が奨励されるのかという謎です。
 
ここでレヴィ=ストロースは、構造言語学者ロマーン・ヤコブソンの音韻論を手掛かりに理論を構成し、これをブルバキ派の現代数学によって論証したことで、世界中の様々な親族関係を規定する一連の規則的な変換パターン、すなわち「構造」の存在を明らかにしました。
 
「構造」の発見は、それまで素朴に信じられてきた「進んだ西洋社会」と「遅れた周辺社会」という西洋中心主義的世界観を転倒させることになりました。周辺社会の人々が現代数学でようやく解明できた「構造」に基づく高度な思考によって親族関係を作り上げていた事が明らかになり、もはや知的レベルの優劣で西洋社会と周辺社会を区別する事は適切ではなくなったということです。
 
そこでレヴィ=ストロースは二つの社会を知的レベルの優劣とは関係ない「熱い社会」と「冷たい社会」と呼びます。そして「冷たい社会(周辺社会)」の「野生の思考」を「熱い社会(西洋社会)」の「栽培種化されたり家畜化された思考」よりも高く評価しました。
 
 

* 構造主義の栄華と動揺

 
こうしたレヴィ=ストロースの成功が導火線となり、1960年代に入ると「構造主義」は一躍、時代のモードとなりました。同時代の「構造主義」を代表する思想家としてジャック・ラカンロラン・バルトミシェル・フーコールイ・アルチュセールなどの名が挙げられます。
 
もっとも、レヴィ=ストロースの親族関係論がブルバキ派によって厳密に論証された「ガチの構造主義」だったのに対して、その他の構造主義者はいわば比喩的に数学を用いていた「ゆるい構造主義」だったと言えなくもないでしょう(その点はソーカルも充分承知だったようで彼はレヴィ=ストロースを批判していません)。
 
ともあれ1960年代中盤、構造主義の栄華は頂点に達しました。この時期に公刊されたラカンの「エクリ」とフーコーの「言葉と物」はいずれもベストセラー的売上げを記録。多くの知識人、文化人が構造主義者であることを自任し、中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言い出すサッカーの監督もいたそうです。
 
けれども1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りを見せ始めます。こうした流れを決定的なものにした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。
 
 

* ポスト・構造主義の登場

 
「68年5月」において学生たちが異議を申し立てたのは「Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシャリティ!)」というスローガンが端的に示すように、大学や社会が押し付ける旧態依然とした父権主義的な「構造」に対してでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。
 
そしてこの「68年5月」において人々が求めていた「何か」を理論的に昇華して構造主義に代わる新たな思想として提示したのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(1972)」です。同書は発売されるや否や若年層を中心に熱狂的に歓迎されました。こうして「ポスト・構造主義」の時代が幕を開けることになります。
 
 

* 欲望する諸機械

 
同書において究明されたテーマは「欲望」です。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望する諸機械」という奇妙な概念を提示します。つまり「欲望」とは自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「諸機械」に宿る非主体的、非人称的な力の作用のことを言います。
 
これら「欲望する諸機械」は、それぞれ相互に連結して作動する一方、同時にその連結に必然性はなくたちまち断絶し、別のものへと向かい新たな連結を作りだします。こうした矛盾した二面性からなる連続的プロセスをドゥルーズ=ガタリは「結びつきの不在によって結びつく」「現に区別されているかぎりで一緒に作動する」といった表現で定式化します(哲学的にいえば、ここでは原子論的発想も有機体論的発想も、いずれも退けられているということになります)。
 
すなわち、ドゥルーズ=ガタリから言わせれば「欲望」とは本来的に「こうあるべき」という「コード(規則)」に囚われない多様多彩な「脱コード的」な性格を持っているということです。ここからドゥルーズ=ガタリは「欲望は本質的に革命的である」という基本的テーゼを打ち出します。
 
 

* 精神分析と分裂分析

 
こうした本来的に脱コード的ないし革命的な欲望に対して、これを規制して秩序化する社会様式をドゥルーズ=ガタリは「原始共同体」「専制君主国家」「近代資本主義」という三段階に区分します。そして、これらの社会様式を欲望の側から見た場合、それぞれの特質は「コード化」「超コード化」「脱コード化」にあるといいます。
 
すなわち、近代資本主義というシステムは外部の多様多彩な脱コード的な欲望によって駆動しつつも、これらの欲望を「代理-表象」として整流して内部に還流させることでシステムを安定させようとする「公理系(パラノイア)」として作動していることになります。
 
こうした意味において、幼児の多用多彩な欲望を「父ー母ー子」のオイエディプス三角形へと整流する精神分析とは、システムの安全装置以外の何物でもなく、同書の立場からはラディカルに批判されることになります。
 
そして同書はシステムを内破するモデルを「分裂症(スキゾフレニア)」に求めます。資本主義システムが排除する分裂症はまさにシステムの外部に在る。すなわち、この世界を分裂症の側からみるということは欲望における本来的な外部性を奪還するということに他ならない。こうしてドゥルーズ=ガタリ精神分析に対して独自の「分裂分析」を提唱することになります。
 
「アンチ・オイエディプス」という本はニーチェの「力」やスピノザの「情動」といった原理を、マルクスがいう「生産」やフロイトがいう「無意識」の次元において「欲望」として考察した試みとも言えます。分裂分析が目指したのはいわば千の欲望の表出であり、これはやがて同書の続編として公刊された「千のプラトー(1980)」において「リゾーム」という概念へ昇華されます。
 
 

* 脱構築不可能な正義

 
そして、ドゥルーズ=ガタリと並ぶポスト・構造主義の代表格と見做されるのが「脱構築」で知られるジャック・デリダです(もっとも本人は後年、ポスト・構造主義というレッテルを拒否しています)。
 
ここでいう「脱構築(デコンストリュクシオン)」とは、20世紀を代表する哲学者、マルティン・ハイデガーの「解体(デストルクチオーン)」に由来する概念で、既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。
 
こうした「脱構築」を武器にデリダは今日の社会を支配している様々な二項対立の転倒を試みました。60年代には「パロール/エクリチュール」が「原-エクリチュール」によって脱構築され、70年代には「直接コミュニケーション/遠隔コミュニケーション」が「郵便モデル」によって脱構築される事になります。
 
そして1990年代に入るとデリダは政治的な著作を次々に出版し「法」と「正義」の問題に積極的にコミットしていきます。この点、デリダは「法」は脱構築可能であるけれど「正義」は脱構築不可能であると言います。
 
すなわち「法」は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで特定の秩序を構築します。けれども法とは畢竟、いわば「決定不可能なもの」を暴力的に決定した「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」に他ならない。ゆえに法は脱構築可能といえます。
 
その一方「正義」とは「まったき他者」への応答であり、普遍性と特異性の究極的な両立の地平にある。従って正義は脱構築不可能なアポリアにあります。けれどこの「アポリアとしての正義」に狂う事こそがむしろ正義の条件になると、デリダは言います。
 
こうしたデリダの「法」と「正義」の問題への積極的なコミットの背景には社会主義の崩壊後、急速に拡大しつつあったグローバル資本主義に対する危機意識がありました。そして「脱構築不可能な正義」が問い直すのは、エヴィデンス至上主義的「正しさ」の中で思考停止してしまいがちな現代を生きる我々の態度そのものではないでしょうか。
 
 

*「あたりまえ」を解体する実践知

 
我々は普段、様々な「あたりまえ」に囚われて生きてます。あたりまえの生活、あたりまえの家族、あたりまえの人生。こうした「あたりまえ」は時としてコンプレックスや生きづらさの原因となります。「西洋近代批判」の知としてのフランス現代思想はこうした様々な「当たり前」を解体していく実践的な知であると言えます。
 
この点、先に触れたドゥルーズ=ガタリは哲学の仕事とは「概念の創造」であると定義します。ここでいう「概念」とはすなわち「コンセプト」であり、本書はこれを「思想のメガネ」と呼びます。思想家達はそれぞれ異なるメガネを作り出し「これをかけてごらん、きっと世界は違って見えるから」と我々に提案しているという事です。
 
こうした意味で本書は「様々なメガネのカタログ」とも言えるでしょう。人によって合うメガネもあれば、合わないメガネもあるでしょう。けれど少なくとも、メガネを変えれば世界も変わる。いわば世界とはメガネの数だけ存在しているという事です。
 
 
 
 
 

「セカイ」と「つながり」の間で--青くて痛くて脆い(住野よる)

青くて痛くて脆い (角川文庫)

青くて痛くて脆い (角川文庫)

 

* あの時、僕らは小さなセカイをつくった

 
ゼロ年代初頭「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡しました。「セカイ系」の定義については様々な議論がありますが、有り体に言えばその本質は「アスカに振られないエヴァ」です。
 
周知の通り「新世紀エヴァンゲリオン劇場版・Air/まごころを、君に(1997)」はそのラストで、主人公、碇シンジがヒロイン、アスカから「気持ち悪い」と拒絶され、多くの観客に衝撃を与えました。そして、こうした結末に耐えられなかった「エヴァの子供達」の受け皿となり「君と僕の優しいセカイ」を描き出したのがセカイ系です。
 
もちろんジャンルとしてのセカイ系はとっくの昔に乗り越えられています。けれども、こうした作品達を受容した「セカイ系的自意識」がいきなり消えて無くなるわけでもなく、それはむしろ「安全に痛いパフォーマンス」をより洗練させた形でゼロ年代以降のサブカルチャー史を隠然として規定することになります。
 
その一つの特異点が「涼宮ハルヒの憂鬱(2003)」であり、ここで確立された新たなセカイ系の文法はその後に「残念系」というべきジャンルを形成することになります。
 
そして本作の著者、住野よる氏のデビュー作「君の膵臓をたべたい(2015)」はこうしたゼロ年代以降のサブカルチャー史の流れを受け継ぎながら、そこに「難病少女」というセカイ系の古典的モチーフを再導入した作品であったと言えます。
 
これに対して本作は「キミスイ」に共感した読者への挑戦状のように思えます。端的に言えばそれは、キミスイが洗練された筆致で描き出した「セカイ系的自意識」の徹底的な破壊であるということです(以下、多少ネタバレあり)。
 
 

* 彼女はもう、このセカイにはいないけど

 
本作も序盤はいかにもキミスイ的世界観の反復で始まるわけですが、中盤でこの構図は見事に転倒させられます。「キミと僕の優しいセカイ」を奪われた主人公は哀れな決断主義者と成り果てて、正義という名の快楽に酔いしれる。そして終盤、主人公を待っていたのはまさかの「エヴァのトラウマ」の反復でした。
 
ここで本作が告発しようとしているのはまさしくセカイ系的自意識の根底にあるもの、すなわち主人公がコミットメントのコストをヒロインに転嫁する構造そのもののように思えるわけです。
 
 

* 安全圏で笑っている奴らなんかゴミです

 
少し内容に踏み込みますが、要するに本作の主人公、楓はヒロイン(?)秋好と二人だけの秘密結社「モアイ」を結成するものの、彼は自身に課した「不用意に人に近づきすぎないこと」「人の意見を否定しないこと」というテーマに忠実なのか、傍観者の位置から一歩も動かず、基本的には自分からは何もしようとしない。
 
そのくせ秋好には純度の高い「理想」を押し付け、その「理想」が「堕落」したとき、彼は安全圏から石を投げつけ始めます。そして全てが何もかも手遅れになった後、ようやく楓は自分を突き動かしていたのが理想でも正義でもなんでもない--キミと僕の優しいセカイを--イノセントな母性的承認を求める幼児的欲望に過ぎなかったことに気付かされます。
 
 

* 理想を騙ってお前はみんなを騙してきたんだよ

 
いわば楓はあたかも「良い母親」と「悪い母親」を区別する前エディプス期の幼児の如く「良い秋好」を「悪い秋好」から取り戻そうとしていたわけです。そして彼にまるで見えていなかったのは、そのどちらも秋好であるという当たり前の現実でした。
 
けれども楓の振る舞いを無様で滑稽だと嘲笑うの早計です。何故なら我々もまた肥大化した情報環境のなかで世界を「良いセカイ」と「悪いセカイ」に切り分けたがる欲望に取り憑かれていると言えるからです。すなわち、本作の問いは「セカイ系」なるサブカルチャー批判を超えて、現代における人の欲望それ自体へ差し向けられたものだと言えるでしょう。
 
 

* 何がみんなのためだよ全部自分のためだろ

 
もっとも、一方の秋好もまた「世界を今より良くしたい」「なりたい自分になる」などという一見、純粋そうな理想の裏にはある種の承認欲求があった事は否定できません(この辺りの彼女はかつての涼宮ハルヒを想起させます)。だからこそモアイが肥大化するにつれて当初の「理想」は簡単に「意識高い系」へと変容し、結局その行き着く先は官庁や企業とのコネクション作りを目的とした世俗的な就活系サークルでした。
 
この点、映画では不登校の少女との交流というオリジナルエピソードを挿入することによって、かつてのモアイと現在のモアイの差異を明確に際立たせています。
 
要するに、かつての秋好が夢想した理想は、他者との「つながり」を求める自身の欲望を正当化するための言い訳として機能していたということです。彼女がモアイを解散したのは、こうした理想の裏にある欲望が計らずも他者を傷つけていた事に気づいたからこその精一杯の誠意だったのでしょう。
 
 

* それでも、セカイは変えられる

 
こうしてみると楓は「セカイ」という形で、秋好は「つながり」という形で、他者をそれぞれ欲望していたわけです。そして両者は最後に共に自分は「空っぽ」だという欲望の本質に気づく事になります。
 
人は自分の中の「空っぽ」を埋める為に「間に合わせ」の対象を常に求めてしまう生き物です。それは時に家族や恋人だったり、もしくは仕事や趣味だったり、あるいは夢や理想だったりする。「間に合わせ」を必要とすること、それ自体は人としてごく自然な事なんだと思います。
 
けれど、こうした「間に合わせ」を絶対的なセカイやつながりへと祭りあげてしまうと、その先にあるのは本書が示すような--まさに、青くて痛くて脆い--悲惨な末路です。そうであれば我々は--ある「間に合わせ」から別の「間に合わせ」へと--非意味的な跳躍を繰り返していく、ある種の自己破壊運動を反復していくしかない。そして本書もまた、キミスイ的世界観の自己破壊運動だったのかもしれません。
 
 
 
 
 
 

悦びと生成変化のあいだ--「ドゥルーズ 流動の哲学(宇野邦一)」

* バランスの良いドゥルーズ哲学入門書

 
1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。レヴィ=ストロースを始めとする構造主義者が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターンの反復的作動に過ぎないという事でした。
 
ところが1968年に起こったいわゆる「フランス5月革命」はまさにその「構造」への叛逆と言えるものでした。Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシャリティ!)、構造は街頭に繰り出さない、構造に回収されない過剰性こそが構造を変革し破壊する。こうした「ポスト・構造主義」とも呼ばれる新しい時代の思潮を担う論客として華々しく世に登場したのがフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズです。
 
現在においてもドゥルーズという固有名詞は哲学、文学、芸術、政治、精神医学といった様々な領域の至る所に出没し、魔術師さながらにエキセントリックな概念と論理を繰り出しては多くの人を魅了します。
 
本書はドゥルーズ哲学の見取り図を時系列でコンパクトにまとめた一冊です。著者である宇野邦一氏は生前のドゥルーズから直接指導を受け「アンチ・オイエディプス」や「千のプラトー」の訳者としても知られています。いわゆる「ドゥルーズ=ガタリ」と「単独のドゥルーズ」の双方をバランス良く見渡す本書は、ドゥルーズ哲学の最適な入門書と言えるでしょう。
 
 

* 世界は無限の差異に満ちている

 
ドゥルーズは1925年1月18日、パリ17区に生まれました。1944年にソルボンヌ大学に入学し哲学を専攻。1948年、教授資格試験に合格。1957年、ソルボンヌ大学助手に就任。
 
事実上のデビュー作は「経験論と主体性(1953)」。その後、約10年の沈黙を経て「ニーチェと哲学(1962)」「カントと批判哲学(1963)」「ニーチェ(1965)」「ベルクソニズム(1966)」と立て続けに著作を発表します。
 
こうした様々な哲学者達のモノグラフィーを通じてドゥルーズ哲学の堅固な土台が形成されていきます。そしてその思索の成果は博士論文「差異と反復(1968)」と、その分身とも言える「意味の論理学(1969)」へと結実します。
 
ドゥルーズ哲学の世界観は「同一性」の批判と「差異」の肯定によって特徴付けられます。通常、我々はある事物Aは次の瞬間もやはりAであるという「同一性」を前提に世界を理解します。Aにどのような変化が起きようが、AはAであることは変わりない。「Aの変化=差異」は「AはA=同一性」に従属している。これが常識的思考です。
 
ところがドゥルーズはこうした常識的思考を「代理-表象」と呼んで批判します。要するにドゥルーズに言わせれば、「AはA=同一性」というのは所詮フィクションに過ぎず、Aの変化したものはもはや別なA’に他ならないという事です。
 
こうしてドゥルーズは同一性で区切られた世界の彼岸に、様々な差異が互いに接続する世界を真に実在的なものとして想定する。前者を「現働性」といい後者を「潜在性」といいます。これがドゥルーズにおける「差異の哲学」です。
 
世界は無限の差異に満ちている。すべての多様性が祝福されるひとつの世界。みんなちがってみんないい。こうしてドゥルーズの「差異の哲学」は世界中で熱狂的に歓迎されました。1970年に「差異と反復」と「意味の論理学」の書評を書いたミシェル・フーコーは「いつの日か世紀はドゥルーズ的なものとなるだろう」という法外な賛辞を贈ることになります。
 
 

* 欲望する機械

 
1969年、ドゥルーズはパリ第8大学哲学科の教授に就任。そして同時期、たまたま知り合ったラカン精神分析家にして左翼活動家であるフェリックス・ガタリと意気投合。ここで企てられた共著があの「アンチ・オイエディプス(1972)」です。
 
同書において究明されたテーマは「欲望」です。「代理-表象」を排して「差異」そのものを捉えるドゥルーズ的思考からすれば「欲望」もまた「代理-表象」ではなく「差異」の運動として捉えられます。
 
ここでガタリに由来する「機械」という概念が導入されます。同書における「機械」とは自然や生命や身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な対象に宿る非主体的、非人称的な力の作用のことを言います。ある「機械」は絶えず他の様々な「機械」へと接続され、切断されていく。
 
「欲望」とはこうした機械の連続的プロセスに他ならない。そして、その極点において成立するのが資本主義というシステムです。ところがこの資本主義というシステムは外部の多様多彩な欲望によって駆動しつつも、これらの欲望を「代理-表象」として整流して内部に還流させることでシステムを安定させようとする「公理系(パラノイア)」として作動します。
 
この点において、幼児の多形的欲望を「父ー母ー子」のオイエディプス三角形へと整流する精神分析はシステムの安全装置以外の何物でもなく、同書の立場からはラディカルに批判されることになります。
 
そして同書は資本主義システムを内破するモデルを「分裂症(スキゾフレニア)」に求めます。資本主義システムが排除する分裂症はまさにシステムの外部に在る。すなわち、この世界を分裂症の側からみるということは欲望の外部性を奪還するということに他ならない。こうしてドゥルーズ=ガタリ精神分析に対して独自の「分裂分析」を提唱するわけです。
 
 

* ツリーからリゾーム

 
「アンチ・オイエディプス」という本はニーチェの「力」やスピノザの「情動」といった原理を、マルクスがいう「生産」やフロイトがいう「無意識」の次元において「欲望」として考察した試みとも言えます。
 
そして分裂分析が目指したのはいわば千の欲望の表出であり、これはやがて同書の続編として公刊された「千のプラトー(1980)」において「リゾーム」という概念へ昇華されます。
 
リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。この点「ツリー(樹木)」は1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して、リゾームには全体を統合する中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。
 
こうしたリゾームという言葉によって、ドゥルーズ=ガタリは従来のツリー的秩序から外れたものに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくわけです。
 
 

* 時代の寵児としての「スキゾ・キッズ」

 
オイエディプスの首を切り飛ばし、すべてをリゾーム的に思考せよ。ドゥルーズ=ガタリの激烈なメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対するある種の解毒剤となりました。
 
そして日本でも「80年代ニュー・アカデミズム」という思想的流行の中でドゥルーズ=ガタリは多大なインパクトをもたらしました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。
 
浅田氏は「健康化された分裂症」としての「スキゾ・キッズ」への生成変化を現代的な生き方として称揚します。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。
 
氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調して「スキゾ/パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞。以降、日本の現代思想と批評がドゥルーズ=ガタリの決定的な影響下にある事は周知の通りです。
 
 

* 悦びと生成変化のあいだ

 
こうした一世を風靡したガタリとの共同作業がひと段落した後、ドゥルーズは再び単独での仕事に戻ります。「感覚の論理学(1981)」で絵画を論じ「シネマ(1983・1985)」において映画を論じ、晩年には再びガタリとの共著となった「哲学とは何か(1991)」において哲学そのものを論じます。
 
ドゥルーズの哲学はしばしば「悦びの哲学」とも言われます。もちろんこれは単純な楽天主義、ポジティブ思想とは一線を画するものです。むしろ、ここでいう「悦び」とは非主体的、非人称的な機械達によって行われる苛烈な連結運動です。そして、その彼方に突き抜けてしまえばもはや人は「悦びのオーバードーズ」の中で破滅するしかない。
 
一方で、我々が生きる21世紀はある意味で「ドゥルーズの世紀」であるとも言えます。いまやオイエディプス的価値観に規定された「大きな物語」は失墜し、精神分析の代名詞ともいえる神経症は影を潜め、世界はグローバリズムとネットワークという名のリゾームで覆い尽くされているかの如き観を呈しています。
 
けれども、それはかつてドゥルーズ自身が「制御社会」として危惧したような息苦しい世界に他ならない。要するに現代社会とはデータベース化された「悦びのシステム」が人をモルモットか何かのように制御する社会であるという事です。
 
もっとも、ドゥルーズの哲学は「悦びの哲学」であると共に「生成変化の哲学」でもあります。この点、晩年のドゥルーズは「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を残しています。
 
無限からの有限。切断からの再接続。リゾームを内破する特異的な悦びのコラージュとしての器官なき身体
 
こうしたドゥルーズ哲学に内在する「生成変化」の原理は「悦びのオーバードーズ」に至る事なく「悦びのシステム」からも逃れていく起点でもあります。すなわち「ドゥルーズの世紀」に対しては、まさにドゥルーズ自身によって抗っていくことも可能であるということです。
 
 
 
 

「憐れみ」によって手を取り合うということ--「テーマパーク化する地球(東浩紀)」

 

テーマパーク化する地球 ゲンロン叢書

テーマパーク化する地球 ゲンロン叢書

 

 

*「観光客の哲学」の舞台裏あるいは実践録

 
1990年代後半以降、日本社会においては「大きな物語」の失墜と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ないわけです。
 
こうしたポストモダン的状況で生じる特有の感覚を東浩紀氏は「郵便的不安」と呼びます。郵便的不安とは「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。
 
このような不安を哲学的経験へと転化できるのか?氏の様々な活動の根底に常にあったのはこうした問題意識があったように思われます。その一つの到達点として2017年に上梓された「観光客の哲学」は位置付けらるのでしょう。ここに至って「誤配」は「観光」という概念によって能動的な形で再定義されることになります。
 
そして本書は「観光客の哲学」の舞台裏あるいは実践録ということになります。本書は2011年以降、東氏が随所で公にした文章を集成した評論集です。収められた文章の数は東氏の年齢(当時)と同じく48。それぞれの文章は異なった文脈において書かれたものですが、その随所に「観光客の哲学」という大河へと流れ込む豊かな水脈を発見することができるでしょう。
 
 

* テーマパークと慰霊

 
第一部の表題である「テーマパーク化する地球」と第二部の表題である「慰霊と記憶」。賑やかしい生と静謐な死といった趣きで、いかにも対照的な両者ですが、東氏はこの二つの主題を表裏の関係として把握します。すなわち「テーマパーク化」が進めば進むほど、その中に回収されない「残余」が生じることになる。その代表例が「慰霊と記憶」ということになります。
 
東氏が以前提唱した「福島第一原発観光地化計画」とはまさにこうした二つの主題が交差するところにありました。けれども氏自身が認めるようにこの計画は見事に失敗したと言わざるを得ない。その原因は氏自ら分析するように「過去という穢れ」を祓い清めて「なかったこと」にする日本的な無意識に由来するのでしょう。そして同時に、この問題は現代における資本主義と民主主義の病理とも重なってくることになります。
 
 

* 「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」

 
資本主義と民主主義。ここで至上の価値とされるのは「いまここ」と「みんな」の利益の最大化です。そこで失敗した過去は「埋没費用」としてきれいさっぱり忘れるのが「合理的な態度」となります。
 
けれども人の公共性の在り処はむしろ「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」にあるのではないかと本書は問う。そして、こうした「いまここ」と「みんな」の論理への抗いとして、本書は石牟礼道子氏の「苦海浄土」を取り上げます。
 
水俣病の存在を世界的に知らしめた同作は、一見、水俣病被害者の聞き語りをもとに構成されたノンフィクションの体裁をとっているものの、実際はかなりの部分が取材時の印象をもとにした著者の「創作」であることが知られています。
 
こうした手法は現代のエビデンス至上主義からは当然批判される事になるでしょう。けれども事実として語られた事だけが全てではない。当事者の「心の中で言っていること」に真摯に耳を傾けて、その無根拠の闇を引き受けて世に問うことこそが、本当の意味での「当事者の声」の代弁となるときもある。
 
こうしてみると「苦海浄土」という作品が告発するのは、水俣病という公害の現実に留まらず「いまここ」「みんな」の中で思考停止する我々の態度そのもののようにも思えてくるわけです。
 
 

*「超越論的なもの」と「超越的なもの」の脱構築

 
そして2015年に氏が創刊した雑誌「ゲンロン」は、まさしくこうした「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」を再検討して再統合する試みであったということになります。
 
この点、氏のルーツである「批評空間」の編集委員であった柄谷行人氏はある時期において「超越論的なもの」と「超越的なもの」を区別する立場をとっていました。要するに「見えないもの」を思考する前者は批評的だから良いけれど「見えないもの」を実体化させる後者はオカルト的だからダメだということです。
 
けれども本書が問い返すように、人は「超越的なもの」を必要とするからこそ「超越論的なもの」が生み出される、とも考えられないでしょうか。
 
こうした「超越的なもの」の代表が「霊」や「魂」ということになります。すなわち「ゲンロン」という雑誌は「超越論的なもの」と「超越的なもの」を脱構築して、こうした「霊」や「魂」について、あえて踏み込んで考えていく試みであるということです。
 
 

* 等価交換の外部を開くということ

 
また、周知の通り、雑誌「ゲンロン」は氏が創業した出版社「ゲンロン」から発行されています。この点、会社としての「ゲンロン」の経営方針については「運営の思想」と「制作の思想」の一致にあると氏は言います。
 
「運営の思想」とはプラットフォームをコンテンツよりも優位に置く立場で「制作の思想」とはコンテンツをプラットフォームより優位に置く立場です。
 
そして現在の市場において、圧倒的に優位なのはいうまでもなく前者でしょう。市場原理主義によって駆動するプラットフォームの下では、コンテンツはまずは市場の統計学的欲望に最適化した商品であることが求められる、結果、市場には画一的なコンテンツが溢れかえり、文化の多様性は死滅していく。
 
これに対してゲンロンの特徴は自ら運営するプラットフォームで自ら制作するコンテンツを販売する点にあります。こうした経営方針を取る事で資本主義における「等価交換の外部」を開く事が可能となる。
 
等価交換の外部。これはすなわち「誤配」の空間ということになります。コンテンツに「誤配」を忍び込ませ、等価交換を意図的に失敗させることで、消費者は自らのうちに新たな欲望を発見する。こうして消費者は「観(光)客」へと生成変化するということです。
 
 

「憐れみ」によって手を取り合うということ

 
東氏がかつて「一般意志2.0」で参照した18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは社会の起源を「憐れみ」に求めました。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ思わず手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったという事です。
 
「憐れみ」によって手を取り合うということ。「観光客の哲学」とは憐れみの哲学でもあります。「観光=誤配」はイデオロギー的連帯や共感的つながりを超えた「憐れみ」を創り出す。そして本書が照らし出すのは、こうした「憐れみ」の様々な形であるとも言えるでしょう。
 
 
 
 
 
 

セカイ系のリアリズム--火垂るの墓

 

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  • 発売日: 2012/07/18
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* もう一つのリアリズム

 
野坂昭如氏の自伝的小説を原作にした映画「火垂るの墓」において監督を務めた高畑勲氏は日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」を確立した第一人者として知られています。
 
緻密な背景描写と細密な生活描写といった空間演出を駆使することでキャラクターに「まさにそこに在る」という確かな存在感、実在性が付与されることになる。こうした氏の「自然主義的リアリズム」は本作でも十分に発揮されていることは疑いないでしょう。
 
その一方、本作では高畑氏の「もう一つのリアリズム」を見ることができます。それは「セカイ系のリアリズム」です。
 
 

* 「火垂るの墓」は「反戦映画」なのか

 
本作のあらすじを確認しておきます。本作は終戦直後、阪急電車の駅構内で主人公の14歳の少年、清太が死ぬところから始まります。魂となった彼は自分自身と4歳の妹、節子の在りし日を回顧する。
 
昭和20年6月、清太達兄妹の住む神戸が空襲を受ける。どうにか火の手を避けた清太達は避難所である学校へ向かうも、そこで清太が見たのは全身火傷を負った母親の凄惨な姿であった。そして間も無く、母親は死んでしまう。
 
母親と家を同時に失った清太達は西ノ宮の親戚宅に身を寄せる事になる。けれども、親戚のおばさんは何かと清太達に辛く当たってくる。ついに耐えかねた清太達は親戚宅を飛び出し、防空壕で兄妹二人だけの暮らしを始めることになる。けれどもやがて生活は行き詰まり、節子は栄養失調で死んでしまう。そして清太も後を追うように節子の下へ旅立っていく。
 
このように本作は一見すると、幼い兄妹の視線から戦争の災禍を描いた「反戦映画」の如き感を呈しています。一方、多くの映画評論によれば本作は「反戦映画」ではないとされています。これはどういうことでしょうか。
 
 

* 本作をめぐる二つの視線

 
この点、本作の特徴として「感想の変化」が挙げられます。多くの人は、最初に観た時はおばさんの鬼のような仕打ちに憤りを覚えていたはずなのに、観返す度になぜかおばさんがどんどんまともな常識人に見えてくるという奇妙な現象に遭遇します。
 
この変化は何を意味するのでしょうか。これは我々観客がこの映画を「どの視線」から眺めているのかという点に関わっています。
 
フランスの精神科医ジャック・ラカンによれば、人の精神構造は「想像的同一化」と「象徴的同一化」という過程を経て発達するとされています。ここでいう「想像的同一化」とは家族や友人といった具体的な他者に同一化する過程をいいます。これに対して「象徴的同一化」とは世間や社会といった抽象的な他者=〈他者〉に同一化する過程をいいます。この点、ラカンは前者のラディカルな例を「鏡像段階」と呼び、後者のそれを「去勢」と呼んでいます。
 
そして我々が映画を観る視線というのはちょうどこの二つの同一化を行ったり来たりするようなものと言えます。すなわち、観客は登場人物の視線へ同一化(想像的同一化)する一方で、その登場人物達をまなざす映画監督の視線、すなわち「〈他者〉のまなざし」にも同一化(象徴的同一化)することにもなるわけです。
 
 

* 自己中心的かつ現実逃避的な清太の姿

 
この点、高畑氏は清太を冷酷なまでに突き放すかのような視線を随所において導入します。そして初めは清太の視線に同一化していた多くの観客も、本作を繰り返し観るうちに、この高畑氏の視線に同一化して清太を見るようになってくるわけです。こうした「〈他者〉のまなざし」から清太を眺める時、そこには極めて自己中心的かつ現実逃避的な清太の姿がはっきりと映し出されることになります。
 
親戚宅での清太は学校にもいかず家事も手伝わず、勤労動員にも隣組の活動にも参加せず、いつもゴロゴロしているか節子と戯れているかのどちらかで、おばさんに対しては常に反抗的な態度を取り続ける。
 
これではあのおばさんでなくとも普通にイライラするでしょう。おばさんの言葉は確かに刺々しいけれど、冷静にその言い分に耳を傾けてみると「働くもの食うべからず」とか「このご時世でゴロゴロしてばかりだと世間体が悪い」などといった割と常識的なことしか言ってません。
 
そして映画後半、いよいよ清太と節子の防空壕生活も行き詰まりを迎える。清太は他所の畑から野菜を盗んだり、空襲のドサクサに紛れた文字通りの「火事場泥棒」に手を染めていく。そしてその傍らで節子の身体はどんどん死に蝕まれていきます。
 
その一方、清太の周囲には手を差し伸べてくれる優しい大人達が少なからずいました。「何かできることあったら言うて頂戴」と言ってくれるお向かいのお姉さん、ワラをくれたり七輪を売ってくれたおじさん、盗みで突き出された清太に同情してくれる駐在さん。けれども、清太はこうした大人達を決して頼ろうとしない。
 
もちろん、清太には清太なりの目論見があったわけです。けれどそれは母親のへそくり貯金で当座をしのぎ、戦地に赴いた父親の帰還を待つという、極めて現実味のないプランでしかなかった。
 
果たして、いつの間にか戦争は終わっており、父親が所属する連合艦隊はとうの昔に壊滅していた。清太がこの無残な現実に直面した時、もはや何もかもが全て手遅れだったわけです。
 
 

* 見たい現実と信じたい物語

 
こうしてみると、清太が妙な意地を張らずに、おばさんに頭を下げたり周りの大人を素直に頼っていれば節子は死なずに済んだのではないかとさえ思えてくるわけです。
 
もちろんそこには自分の父親が海軍将校であるという半端なエリート意識も少なからずあったのかもしれません。けれども彼にとって本質的な行動原理は、見たい現実と信じたい物語の中にいつまでも引きこもっていたいという欲望に規定されていたと言えます。
 
見たい現実と信じたい物語。彼にとってのそれはおそらく「節子と2人だけの優しい世界」だったのではないでしょうか。
 
要するに本作の構図は、世間知らずで半端に自意識の高い少年が、社会に背を向けて、他者性なき少女と2人だけの世界に引きこもるというものです。
 
この構図を我々はどこかで見たことはないでしょうか。そう、これはまさしく「セカイ系」です。
 
 

* 君と僕の優しいセカイ

 
1990年代後半以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ない。
 
この点、最も安易な選択肢が、他者を拒絶し「君と僕の優しいセカイ」という「小さな物語」に引きこもることで幼児的万能感を確保する態度です。こうしてゼロ年代初頭には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
もちろん現在、ジャンルとしてのセカイ系はとっくの昔に乗り越えられています。けれどもその一方、情報テクノロジーの進化とソーシャルメディアの普及により、現実における「セカイ系的な欲望」はますます加速していると言えます。
 
今や、我々はたやすく世界を友敵に切り分けて、見たい現実と信じたい物語の中に引きこもることができる「快適」な環境=セカイを手に入れてしまいました。
 
 

* セカイ系のリアリズム

 
こうしてみると、本作が描く「節子と2人だけの優しいセカイ」に引きこもる清太の姿は「セカイ系的欲望」に取り憑かれた我々の姿でもあります。そして本作はその先にあるボロ雑巾のような末路を「〈他者〉のまなざし」から冷徹に描くわけです。これが「セカイ系のリアリズム」です。
 
そういった意味で、本作はセカイ系が出現するはるか昔に「セカイ系的な欲望」に対して警鐘を鳴らした作品ということになります。
 
本作がいわゆる「反戦映画」ではないと言われる本質的な理由がここにあります。本作が告発するのは特定のイデオロギーを超えたところにある人の欲望--見たい現実と信じたい物語を希求するセカイ系的な欲望--であるということです。
 
我々が本作を観終わった時、他人事と思えない暗澹たる気持ちにさせられるのは、おそらくはこうした根源的問題を、正面切って喉元に突き付けられたことに起因しているのではないでしょうか。
 
 
 

別の〈わたし〉を見つけるために--「一人称単数(村上春樹)」

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

* 倍音を出す技術

 
フランス文学者の内田樹氏は村上春樹氏を「倍音を出す技術を知っている作家」であると評しています。「倍音」とは基本周波数の整数倍の周波数の音のことであり、その効果は聴こえるはずのない音があたかも天上から降り注ぐように聴こえてくる「倍音経験」として現れます。
 
そして氏は音楽に限らず、あらゆる芸術的感動はこの「倍音経験」がもたらすものではないかと言います。例えば、ある文学作品の一見何気ないテクストの中に「誰も読み取れない私だけのために書かれたメッセージ」がある事を確信した時、その読み手はこの上ない法悦に満たされるということです。これはすなわち「倍音経験」がもたらした法悦に他ならないということです。
 
こうした意味での村上作品における「倍音経験」は長編作品以上に、物語的な縛りが緩やかな短編作品でより多く現れるのかもしれません。
 
 

* 村上流私小説

 
6年ぶりに放たれる短編集となる本作は虚実入り混じる「村上流私小説」とでもいうべきでしょうか。
 
かつて一夜を共にした女性が残していった短歌集(石のまくらに)。「中心がいくつもある円」を問う謎の老人(クリーム)。
 
架空のレコード批評に召喚された偉大なるジャズ・プレイヤー(チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ)。ビートルズのLPを抱えて通り過ぎていった少女(ウィズ・ザ・ビートルズ)。
 
実在しない自作詩集を回顧する村上氏(「ヤクルト・スワローズ詩集」)。「醜い」容姿と不思議な魅力を併せ持つ女性(謝肉祭)。愛についての思弁を語る猿(品川猿の告白)。
 
そして、戯画化された村上春樹としての「私」を理不尽に罵倒する女性(一人称単数)。
 
 

*〈謎〉への欲望と享楽

 
8つの短編からなる本作には様々な〈謎〉が登場します。そしてこうした〈謎〉の意味をめぐって無数の解釈が反響することになるでしょう。すなわち、解釈の数だけ「倍音経験」があるわけです。
 
けれどもその一方で、どれだけ〈謎〉を解釈しても、そこには常に〈謎〉の残滓が残り続けることになります。〈謎〉とは〈謎〉だからこそ〈謎〉であるということです。
 
それでも人は〈謎〉について語り続け--おそらくそれが無意味な徒労に終わることを半ば自覚しつつも--そこに何かしらの意味を見出そうとする。こうして我々は〈謎〉に執着する〈わたし〉という別の〈謎〉に気づく。すなわち〈謎〉の意味を欲望する我々とは別の〈謎〉それ自体に享楽する〈わたし〉がいるということです。
 
そこで我々は本書の提示する様々な〈謎〉の中に、いままで気づかなかった別の〈わたし〉を見つけることができるでしょう。
 
 

*「一人称単数」としての〈わたし〉

 
本書の「一人称単数」という表題。それはまさしく、このような複数的な断片のコラージュからなる単数的な個体としての〈わたし〉を示しているのではないかとも思えるわけです。
 
これが私が本書の表題という〈謎〉について考えたことです。もちろんそれは本書を巡る無数の解釈としては極めて平凡なものに過ぎないかもしれません。ただそれとは別に私は今、このような〈謎〉についてなぜ私は考えようとしたのかという〈謎〉について考えているわけです。言い換えれば、これが私の「倍音経験」ということなのでしょう。
 
 
 
 

物語と文体の間--「みみずくは黄昏に飛び立つ(川上未映子・村上春樹)」

 

*「こちら側」と「あちら側」

 
臨床心理学者、河合隼雄氏はこころの病を癒す上で大切な事は「各人の生きている軌跡そのものが物語であり、生きることによって物語を創造している」と述べています(講座心理療法2--「心理療法と物語」)。
 
すなわち、心理療法とはクライエントが治療者との関係性の中で、自らの内側に潜んでいる自己の生を規定する神話--〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていく過程ということになります。
 
〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていく。こうした過程において欠かせないのが「こちら側」と「あちら側」という二つの視点です。
 
「こちら側」とはこの日々の端的な日常のことであり「あちら側」とはその日常の中に唐突に不気味なものとして現れる、いわば「異界」ともいうべき非日常です。我々「こちら側」と「あちら側」の二つの位相が折り重なり合った世界を生きているという事です。
 
多くのこころの不調や逸脱行動は「こちら」への最適化の失敗に起因します。こうした時、問題を「こちら側」だけの視点で考えても解決しないことが多いわけでして、一旦は「こちら側」だけでなく「あちら側」の視点から考えないといけないこともある。
 
けれども、そのまま「あちら側」の非日常に魅入られてしまったりすると、今度は「こちら側」の日常に戻って来れなくなる。
 
そこで必要なのは「あちら側」へ回路を開きつつも、なおかつ「こちら側」に折り返すということです。こうして「あちら側」の非日常と「こちら側」の日常という多層的な現実の中に自分を位置づけていく。この過程こそが自分の〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていくということです。
 
 

*「自己治療的な行為」としての小説 

 
こうした意味での〈物語〉を文学作品へと昇華させて世に問い続け、幅広い支持を獲得してきた作家が村上春樹氏です。
 
氏にとって小説を書くというのは多くの場合が「自己治療的な行為」であるといいます。すなわち、あらかじめ何かのメッセージがあって小説を書くのではなく、自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すため小説を書くということです。
 
では、なぜこうした「自己治療的な行為」が次々と記録的なベストセラーとなり、世界文学とまで呼ばれるのでしょうか?
 
本書は「職業としての小説家(2015)」「騎士団長殺し(2017)」にまつわるインタビューですが、インタビュアーを務める川上未映子氏との対談本という側面もあります。村上氏の創作における思考過程の一端を垣間見る事ができる一冊です。
 
 

*「クヨクヨ室」を素通りして〈物語〉へと向かう

 
村上氏は小説を書く事を一軒の家に例える事があります。1階は皆が集まって共通の言葉で楽しくお喋りする社交的な場所で、2階は個人のプライベートな場所になります。
 
そして、この家には地下1階と地下2階があります。地下1階は自意識的葛藤とか心的外傷経験などが蠢く領域です。いわゆる「純文学」と呼ばれるジャンルが取り扱う「近代的自我」とは、だいたいこの地下1階部分に相当します。川上氏のいう「クヨクヨ室」です。
 
これに対して村上作品はこの「クヨクヨ室」を素通りして真っ直ぐに地下2階へ向かいます。氏が長らく業界で疎まれてきた理由はこの態度にあるのではないか--と氏は自己分析しています。
 
では、地下2階に何があるのかというと、これがまさしく〈物語〉の領域ということになります。
 
 

*「悪」に抗うための〈物語〉

 
〈物語〉とはコンステレーション、すなわち世界の布置を物語るという事です。こうした意味で、社会共通の〈物語〉が失墜した現代社会には様々な〈物語〉が溢れてかえっています。こうしたポストモダン状況において人は目の前の存在論的不安から逃れる為、世界をシンプルに説明してくれる単純明快な〈物語〉に縋りつこうとする。カルト的宗教教義や原理主義テロリズムはこうした需要に支えられているわけです。
 
このような〈物語〉は個人を超えたところで集合的に生成される、いわば時代の集合的無意識といえます。現代ではこの集合的無意識の奪い合い、動員ゲームをやっているわけです。
 
こうした状況において村上氏は常に時代が産み出す「悪」に抗うための〈物語〉を提示しようとしてきました。ここでいう「悪」とは、かつては国家主義的なビッグ・ブラザーとして、いまは市場主義的なリトル・ピープルとして、個人の生を規定してきたシステムのことに他なりません。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
もっとも「悪」の形の時代的変容に伴い村上氏の〈物語〉を支える倫理的作用点も変化します。放って置いても衰退しつつあったビッグ・ブラザーに対しては「やれやれ」と突き放しておけば良かったけれど、これに代わって台頭し始めたリトル・ピープルに対しては何らかの関わり合いを避けては通れない。こうして生じたのが周知の通り「デタッチメントからコミットメントへ」という転換だったわけです。
 
こうした問題意識から執筆された「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」の刊行中、奇しくもリトル・ピープルの生み出す「悪」は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現しました。あのオウム真理教による地下鉄サリン事件です。
 
その後、氏は事件関係者への綿密な取材をまとめた「アンダーグラウンド(1997)」「約束された場所で(1998)」を公刊。そして「1Q84(2009〜2010)」において再びリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙することになります。
 
 

* コミットメントのコストを誰が支払うのか

 
もっとも村上氏が示したコミットメントのモデルについては少からざる批判があります。どういうことでしょうか。
 
例えば「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害する。
 
そして「1Q84」では、主人公の天吾が物語の鍵を握る少女ふかえりと「ヒツヨウなこと」として性行為に及ぶ一方、同夜にもう一人の主人公にしてヒロインの青豆がふかえりの実父であるカルト教団「さきがけ」のリーダー深田保を暗殺する。そしてその後、彼女は教団から追われる中で、天吾の子供を性行為抜きで妊娠することになる。
 
要するに、ここでは男性主人公によるコミットメントの現実的コストが、主人公にとって「他者性なき他者(母的/娘的存在)」である女性ヒロインへと転嫁されるという構図の反復があるわけです。こうした性愛的な回路を用いたコミットメントのモデルに対しては、男性性の自己実現のために女性性が犠牲になっているという批判が生じてくることになります。
 
 

* 導き手としての女性像

 
本書において川上氏はこの点についてずばり斬り込んできます。ここは本書のハイライトです。確かに現実社会では、男性主体の〈物語〉に抑圧されている女性もいれば、男性主体の〈物語〉を生きることのできない弱者男性もいるし、一般的なジェンダー規範から外れたマイノリティに属する人もいるでしょう。
 
こうした属性を持つ層にとって、村上氏の提示する性愛的な回路を用いたコミットメントのモデルを現代における〈物語〉だと、正面切って肯定されるのは--フェミニズムポリティカル・コレクトネスといった文脈においても勿論ですが、端的な「生の現実」としての「苦しみ」や「生きづらさ」という意味でも--かなりしんどい部分があるように思えるんです。
 
この点について、本書での氏は(議論がすれ違っているところもあるものの)比較的、誠実に応答しているように思えます。また「騎士団長殺し」においては、主人公である「私」が免色渉という奇妙な隣人と協力して次々と起きる不思議な出来事に対処していくわけですが、ここでは従来の性愛的なものとは別の回路--同性間が相互補完的にアイデンティティを記述し合うという、いわば友愛的な回路を用いたコミットメントのモデルを見ることもできるでしょう。
 
多くの村上作品において主人公を異化する契機としての女性が描かれるのは、氏の女性性に対する原的なイメージである「どこかへ手を引いて連れて行ってくれる」という心象が深く関わっているのでしょう。
 
「こちら側」から「あちら側」へ誘う導き手としての女性像はユング心理学における「アニマ」を想起します。こうしてみると賛否が生じてくるのは、この女性性のイメージをどの文脈から読み解くかという点に関わっているように思えます。
 
 

*「機能の言葉」としての〈文体〉

 
村上氏にとって小説とは作家と読者との「信用取引」で成立するといいます。そして、その信用維持において氏がもっとも重視するのが〈文体〉です。
 
小説において、もちろん「内容」は大事です。けれど、それ以前にまず「語り口」に魅力がなければ人は誰も耳を傾けてくれないということも事実です。そして氏にとっての「語り口」とは、遥か昔の古代において、集落の洞窟の中で皆に〈物語〉を語り聞かせる「語り部=洞窟スタイル」のイメージだといいます。この「語り口」こそが、小説においては〈文体〉ということになります。
 
「自己治療的な行為」としての〈物語〉は作家のパーソナルな現実の写生であり、それは概して分かりにくいものになりがちです。こうした分かりにくい〈物語〉を多くの人に届けようとすれば、その〈文体〉は洗練されたリーダビリティを持った「機能の言葉」でなければならない。事実「1Q84」や「騎士団長殺し」の圧倒的な読みやすさはライトノベルのそれに匹敵するものがあります。
 
どんな真実でも伝わらなければ意味がない。村上氏は夏目漱石以来、日本の純文学が軽視してきた〈文体〉に最も自覚的な作家と言えます。様々な〈物語〉が動員ゲームを繰り広げる現代において、氏の「自己治療的な行為」としての〈物語〉が世界的に大きな反響を呼び起こすのは畢竟、この「機能の言葉」としての〈文体〉によるところが大きいのでしょう。
 
こうした〈文体〉に注目して、これまでの氏の作品を先入観なく読み返せば、また新たな発見があるかもしれません。