かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

運命と絆の物語--マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝

 

 

* 「まどか」の名を冠するに相応しい物語

 
ゼロ年代アニメーションの総決算的作品として知られる「魔法少女まどか☆マギカ」。2011年、東日本大震災の翌月に放映されたTV版最終話は大きな反響を呼び起こし、最終回放映後は特集記事が世に溢れかえり、名だたる著名人が本作に言及。同年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。そして翌々年に公開された映画「劇場版まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」も絢爛豪華な映像と衝撃的な結末が話題を集め、これまた期待に違わない大ヒットを成し遂げました。
 
こうして、まどか達の物語は一旦は幕を下ろしました。その後、続編の構想が幾度なく再浮上する過程で、外伝として企画されたのが本作の原作となるスマートフォン向けRPGゲームです。
 
正直に言えば、当初このゲームにはあまり期待していませんでした。本家まどかのシナリオを担当した虚淵玄氏が参加していないということもあって、外伝は所詮、外伝だろうと、そう思っていた部分はありました。
 
けれど実際にゲームをやってみると思いの外、そのシナリオの高い完成度に驚かされ、たちまちマギレコの世界に引き込まれました。本作は魔法少女の運命と絆を真正面から問う、名実共に「まどか」の名を冠するに相応しい物語だと今では断言できます。
 
 

* あらすじ

 
「まどか」の世界観設定を引き継ぐ本作は「魔法少女」と「魔女」が存在する世界です。魔法少女の素養を持つ少女は、不思議な白い生き物、キュゥべえと契約を結ぶことで「願い」を一つ叶える代償として、魔法少女として魔女と戦う使命を課される事になる。
 
そして本作の主人公である環いろはは自分が魔法少女になる時の「願い」をなぜか覚えていない。その一方、いろはの日常にはいつもどこかに見知らぬ少女の影がちらついていた。
 
そんなある日、いろはは同じ街の魔法少女である黒江から「神浜に行けば魔法少女は救われる」という噂を聞く。「神浜」とはいろはたちが住む街から少し離れたところにある新興都市、神浜市である。
 
魔法少女になった事を後悔していた黒江はその噂に縋り、今まさにその神浜市へ向かっている最中であった。しかしその時、いろはと黒江の乗る電車の中で魔女の結界が突如展開。いろは達は強制的に神浜市へ転送される。
 
魔女相手に苦戦を強いられるいろはの窮地を救ったのは神浜の魔法少女、七海やちよであった。そして、やちよはいろは達に神浜には近寄るなと冷たく言い放つ。
 
翌日、いろはは夢を通じて、自分には環ういという妹がいた事、自分はういの抱える難病を治すために魔法少女になったことを思い出す。
 
なぜ自分は今まで妹を存在ごと忘却していたのだろうか?いま妹はどこにいるのだろうか?
 
こうして、いろはは消えた妹ういを探すため、再び謎多き神浜へと向かう。そして彼女は未知の災厄「ウワサ」との邂逅、魔法少女結社「マギウス」との抗争を通じて「魔法少女の真実」を知ることになる。
 
 

* システムとしての魔法少女

 
この点「まどか」という作品が斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にあります。そこで描き出されるのは「夢や正義の象徴としての魔法少女」ではなく「システムとしての魔法少女」でした。
 
地球外生命体、インキュベーターは宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆立するエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に搾取する為のシステムが開発された。これが「魔法少女」です。
 
キュゥべえインキュベーターと契約し、一つの願いと引き換えに魔法少女となった少女は、その魂を身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化される。そして極限まで穢れを溜め込んだソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移する。かくて魔法少女は「魔女」となる。そしてインキュベーターはその際に生まれる莫大な感情エネルギーを回収するわけです。
 
かつてまどかが命懸けで改変したのは、魔法少女が魔女化することのない世界でした。けれどもその代わり、ソウルジェムに穢れを溜め込んだ魔法少女は円環の理に導かれ、この世からは消滅してしまう。いずれにせよ魔法少女になった以上、悲劇的な運命から免れることはできないということです。
 
 

* ドッペルという福音

 
ところが、本作ではこうした魔法少女の運命に終止符を打つかの如き革命的発明が登場します。これが「ドッペル」です。
 
「ドッペル」とは、端的に言えば「魔女化の代替行為」です。ソウルジェムに溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく魔女の力を制御できます。
 
これこそが「神浜市に行けば魔法少女は救われる」という言葉の真意です。そしてこのドッペルを生み出したのが里見灯花、柊ねむ、アリナ・グレイからなる魔法少女結社「マギウス」です。
 
 

* マギウスという思想

 
一見、ドッペルは全ての魔法少女をその運命から解放する福音のようです。けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮、目的に至るための手段でしかない。その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にする。こうして、いろは達はマギウスと敵対せざるを得ないわけです。
 
ただそれでも、アニメ最終話を飾る里見灯花の大演説は(釘宮理恵さんの迫真の演技もあって)何故だか心を打つものがあります。ここで彼女は魔法少女達に絶望のシステムへ抗う希望の翼であれと、檄を飛ばします。勿論、これは単なるプロパガンダです。けれども同時に、その言葉はグローバル化とネットワーク化が極まった世界において、環境管理型権力の統制のもとで人間がモルモットのように飼い慣らされていく現代社会の構造に対する告発状のようにも聞こえないでしょうか。
 
 

* 原作をより洗練させたシナリオ

 
アニメ化にあたっては魔女の原案を担当した劇団イヌカレー(泥犬)氏が総監督を務め、シュールレアリスム感溢れる前衛的な映像も本作の大きな魅力となっています。
 
本作の序盤に出てくる黒江さんは原作ゲームにはでないオリジナルキャラクターです。その他にも本作はアニメ化にあたって原作をかなりアレンジしています。
 
アニメにおける「原作改変」はあまり良い方向に行かないのが通例なんですが、マギレコの場合は、むしろ原作の解りづらかったところが上手く整理されており、アレンジとしてはかなり成功した例になるかと思います。
 
そして、原作後半ではマギウスの、灯花達の「本当の願い」が明らかになります。結局のところ、全ては最初のボタンのかけ違いのような出来事から生じていたわけです。この辺りをアニメはどう描きだすか。2期を楽しみに待ちたいと思います。
 
 
 
 

環境の外側に立つということ--人はみな妄想する-ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)

 

人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
 

 

 

* 実存主義から構造主義

 
1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は「実存は本質に先立つ」というキャッチコピーのもと、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。
 
レヴィ=ストロースの緻密な論証に対してサルトルは有効な反論を提出できず、たちまち構造主義は時代のモードへと躍り出ました。このような中、構造主義の立場から独創的な精神分析理論を立ち上げたのがジャック・ラカンです。
 
 

* ラカンとは何者か

 
ジャック=マリー=エミール・ラカン。1901年4月13日にパリにて出生。パリ大学医学部卒業後、サンタンヌ病院のアンリ・クロードやパリ警視庁精神障害者特別医務院医長のガエタン・ドゥ・クレランボーに師事。32年には博士論文「人格との関係からみたパラノイア性精神病」を提出して医学博士号。この論文は「パラノイア」と呼ばれる精神疾患を巡って生じた論争である「パラノイア問題」に一石を投じるものでした。
 
その後、ラカンは教育分析を経て1938年に精神分析家として開業。51年より後に「セミネール」と呼ばれることになる通年講義を開始。63年には独自の臨床実践である「変動時間セッション(短時間セッション)」が問題となり、IPA(国際精神分析協会)から除名処分となるも、翌年には自らの学派であるパリ・フロイト派を設立。同時にセミネールの舞台はサンタンヌ病院からパリ高等師範学校へと移り、精神科医精神分析家以外の幅広い層の受講者を集めることになります。
 
そして1966年、それまでの主要論文を集めた著作「エクリ」を刊行。同書はその極めて難解な内容にも関わらず異例の売り上げを記録。こうしてラカンの名は構造主義の旗手として華々しく世に知れ渡る事になります。
 
 

* 構造と主体の理論

 
ラカンが構築した理論の特徴は、基本的には構造主義の立場に依拠しつつも、その枠組みの中で「構造」と「主体」の統合を試みた点にあります。
 
この点、サルトルのいう主体とは「意識の主体」です。ここでいう「意識の主体」とは、自由意志による投企を通じて、自らを意識的に更新していく存在をいいます。
 
これに対して、ラカンのいう主体とは「無意識の主体」です。ここでいう「無意識の主体」とは、その語りの中における--例えば「言い間違い」などといった--自由意志によらない裂け目を通じて、自らを無意識的に拍動させる存在をいいます。
 
このような観点からラカン精神分析の始祖であるジークムント・フロイトが提唱した「エディプス・コンプレックス」を再解釈して「〈父の名〉」や「対象 a 」といった概念を創り出し「構造」と「主体」を統合的に捉える理論を完成させました。すなわち、ラカンによれば「主体」とは「構造」によって産出される存在であると同時に「構造の外部」を絶えず希求する存在でもあるということです。こうしてラカン構造主義における一つの到達点を示しました。
 
 

* ポスト・構造主義の登場

 
ところが1970年代になると、こうした構造主義およびラカンの理論を乗り越えようとする動きが台頭化します。その急先鋒となったのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らが1972年に発表した共著「アンチ・オイエディプス--資本主義と分裂症」は、1968年5月のフランスで起きたいわゆる「5月革命」と呼ばれる学生運動/労働運動を駆動させた多方向へ炸裂する欲望を究明し、1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。
 
そして同書において精神分析は人の中に蠢く多様多彩な欲望を「エディプス・コンプレックス」なる家父長的規範へと回収する装置としてラディカルに批判されることになります。
 
こうしたドゥルーズたちの立場からすれば、もはやラカンの理論など古色蒼然たる父権主義的言説としか言いようがないわけです。今や目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の変革あるいは破壊でなければならない。こうして70年代におけるフランス現代思想のトレンドは「構造主義」から「ポスト・構造主義」へと遷移しました。
 
 

* ラカンはすでに乗り越えられたのか

 
以上の経緯から今日においてラカンはポスト・構造主義により乗り越えられたものとみなされるのが一般的な理解です。けれども果たして本当にラカンは既に過去の遺物に過ぎないのでしょうか?もちろん本書の答えは否です。
 
なぜなのか?本書によればラカンの理論と実践、およびドゥルーズ&ガタリとの対立において、これまで見逃されていたある「核心点」があるという。そしてその「核心点」の理解無くして、いわゆるフランス現代思想におけるラカンの位置付けを理解することもラカンに向けられた批判を理解することも不可能であるとまで断言します。
 
では、その「核心点」とは何か?本書はこれを「神経症と精神病の鑑別診断」だといいます。
 
 

* 神経症と精神病の鑑別診断

 
神経症」とは生理学的には説明することのできない様々な神経系の疾患を幅広く指します。そして「精神病」とは、幻覚や妄想といった悟性の障害や、精神機能の衰退を含む重篤精神障害をいいます。
 
この点、ラカン派における神経症の下位分類はヒステリー、強迫神経症、恐怖症から構成され、精神病の下位分類はパラノイア、スキゾフレニー、メランコリー、躁病から構成されます。
 
精神分析の臨床においては、ある分析主体の心的構造が神経症構造なのか精神病構造なのかは極めて重要な問題です。両者においては分析の導入から介入の仕方まで全てのやり方が異なってくるからです。
 
通常、分析家は分析主体の自由連想を解釈して転移を引き起こすことで症状に介入します。ところが精神病構造を持つ主体の場合、この転移が発生しない上に、最悪の場合は状態がさらに悪化して本格的な精神病を発病させてしまう危険があります。
 
そのため自由連想開始以前の予備面接段階において当該分析主体が神経症か精神病かのどちらの構造を持つかを鑑別する必要があるということです。
 
本書によれば、ラカンの提唱した様々な概念は、突き詰めればこのような「神経症と精神病の鑑別診断」という臨床的な要請によるものであるといいます。そしてドゥルーズ&ガタリが標的としたのもまさにこの「神経症と精神病の鑑別診断」に他ならないということです。
 
 

* エディプスからサントームへ

 
このように本書は「神経症と精神病の鑑別診断」という独自の視点からラカンの理論的変遷を読み直す試みです。
 
この点、1950年代から1960年代のラカン理論においては神経症と精神病は対立的に把握されていました。ここではエディプス・コンプレックスという構造が両者を切り分ける指標として機能していました。
 
これに対して1970年代のラカン理論においては神経症と精神病は統一的に把握されることになります。これに伴いエディプス・コンプレックスはサントームという概念によって相対化されてしまいます。
 
サントームとは、その人だけが持つ「特異性としての症状」のことです。こうして精神分析は人それぞれが持つ「特異性としての症状」と「同一化する/上手くやる」ための実践として再発明される事になります。
 
 

* 環境の外側に立つということ

 
エディプスからサントームへ。構造から症状へ。規範性から特異性へ。本書の読解が示すのは従来の「いわゆるラカン」--古色蒼然たる構造主義ラカンとは全く異なる新しいラカンです。こうして本書はフランス現代思想の最先端に再びラカンを呼び戻したわけです。
 
ところでフランス現代思想というと何かと無駄に衒学的なイメージがありますが、その核心には我々は〈他者〉といかに関係していくかという極めて実践的な知があります。
 
ここでいう〈他者〉とは家庭や社会、あるいは世界といった「環境」の事です。そして、ラカンを読む事で確実に練成されるのはこうした「〈他者〉=環境」の外側に立つ思考です。
 
我々は知らず知らずのうちに「〈他者〉=環境」によって自ら行動を規定されています。この環境に同調するにせよ反抗するにせよ、我々が環境の内側にいる限りは、そこにある種の不協和が生じる事は避けられない。これがいわゆる「生きづらさ」です。
 
けれども一旦、環境の外側に立つことで、同調でも反抗でもない「環境を書き換える」という別の仕方での環境へのコミットメントが可能となります。ラカンをはじめとしたフランス現代思想の知はこうした日常実践における優れた処方箋にもなるはずです。
 
本書は難解極まりないことで悪名高いラカンの理論を明解な文章で手際よく整理していきます。高度な内容を維持しつつもこれを平易に解説するという点において、本書は数あるラカン入門書の中でも間違いなく最高峰に位置していると思います。
 
 
 
 
 

行動療法の現在--「はじめてまなぶ行動療法(三田村仰)」

 

はじめてまなぶ行動療法

はじめてまなぶ行動療法

 

 

 

* 行動療法と認知行動療法

 
現代心理療法シーンにおける主流を占める行動療法・認知行動療法の歴史は大まかに3つの世代に分けられます。
 
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めます。この時期の行動療法で重視されたのは、パブロフの犬アルバート坊やの実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理です。このレスポンデント条件付けを神経症治療に応用したものが系統的脱感作でして、これは後にはエクスポージャーという技法へと発展していきました。これが第1世代です。
 
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知行動療法」と呼ばれるようになります。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化されました。こうして1970年代に認知行動療法心理療法の代名詞となります。これが第2世代です。
 
 

* 要素的実在主義と文脈主義

 
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりするわけです。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残ります。
 
そんな中、1990年代になると、マインドフルネス認知療法メタ認知療法を始めとする新しいアプローチの心理療法が登場します。これが第3世代です。
 
こうした3世代の変遷を経た現在、行動療法・認知行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきました。
 
先に述べた第1世代と第2世代の行動療法・認知行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属します。これに対して第3世代の多くのアプローチは「文脈主義」という異なった系譜に属しています。これが本書で重点的に取り上げられる「臨床行動分析」です。
 
 

行動分析学とABA

 
臨床行動分析の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にあります。行動分析学では「オペラント条件付け」という原理を重視します。先述したレスポンデント条件付けが条件刺激と条件反応からなる受動的な学習原理であるのに対して、オペラント条件付けは、先行事象、行動、結果事象の三項随伴性からなる能動的な学習原理ということになります。
 
そして、この行動分析学に基づく実践として知られているものに応用行動分析(Applied Behavior Analysis:ABA)があります。ABAは、重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった環境を適切に調整することで、適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及しています。
 
 

* 症状の治癒から人生の質の向上へ

 
そして今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになります。こうして行動分析学は臨床行動分析として心理療法の分野にも進出を果たします。この臨床行動分析の仲間にはアクセプタンス&コミットメント・セラピー、弁証法的行動療法、行動活性化、機能分析心理療法が含まれます。こうした新しい世代の行動療法に共通する特徴は大まかには次の通りです。
 
⑴ 文脈と機能を重視すること。
 
⑵ 症状の治療を超えてクライエントの人として生きる機能を重視すること。
 
⑶ 理論や技法をセラピスト側にも向けること。
 
⑷ これまでの行動療法や認知行動療法の延長に位置付けられること。
 
⑸ 人間の抱える大きなテーマも積極的に扱うということ。
 
すなわち、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」でしたが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるという事です。
 
 

* 環境を変えることで行動を変える

 
本書は行動療法の基礎から最先端の動向までを平易に概説する入門書です。もっとも本書が目指すのは行動療法における技法全般の表面的理解ではなく、むしろその根底を支える基本原理の本質的理解です。
 
例えば、我々は日々の気分の落ち込みを改善しようとして認知行動療法のコラム法に取り組んだり、日々の仕事の生産性を上げようとしてマインドフルネスの瞑想を実践したりするわけです。けれどもコラム法にせよ瞑想にせよその他のいずれの技法にせよ、その基本原理の本質的理解なくしては、具体的な状況に即して自在に運用することは難しいでしょう。本書が光を当てるのはまさにこの部分になります。
 
わりと誤解されがちですが、行動療法はある人の「行動」それ自体ではなく、その行動を取り巻く「環境」にアプローチします。人の行動は主体的な思考や選択よってなされていると見せかけて、実はかなりの部分を周囲の環境に規定されています。すなわち、自分を変えたいと思うのであれば、まずは自分を取り巻く環境を変えるべきであるということです。
 
ではその環境をどのように変えれば良いのでしょうか?もとよりその処方は、人それぞれにしてその時々で異なります。けれど、ともかくも自分なりに何らかの処方を見つけ出していく上で、きっと本書は良き道標となると思います。
 
 
 
 
 
 

宮廷愛から誤配へ--「イエスタデイをうたって afterword」

 

* まさかのアニメ化

 
独特の画風と世界観でカルト的な人気を誇る冬目景先生の代表作「イエスタデイをうたって」が連載完結から5年を経てまさかのアニメ化となりました。アニメで果たしてあの原作の雰囲気を再現できるのか少し心配でしたが、出来上がったアニメは想像以上のクオリティの高さでイエスタデイの物語を極彩色に描き出してくれました。
 
アニメでは一層際立つリクオのヘタレっぷり、圧倒的キープ力を誇る魔性の女と化した榀子先生、そしてひたすらマジ天使なハルちゃん。11巻の原作を1クールへと実に上手にまとめています。これもまた、ひとつのイエスタデイ。動画工房さんの仕事ぶりにはただただ脱帽するばかりです。
 
 

* 自己変革と愛の讃歌

 
原作のあらすじはこうです。大学卒業後、コンビニでフリーター生活を続けている魚住陸生(リクオ)は大学時代の同級生である森ノ目榀子に密かな恋心を抱いていたが、一方で榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみつき、そこから前に進めないでいた。
 
一方、偶然の出会いからリクオを慕う野中晴(ハル)は、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である早川浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てずにいた。
 
こうしたなかなかもどかしい人間模様を軸として物語は進み戻りつつ、ゆっくりと進んでいく。本作のテーマは原作1巻のサブタイトルに大体集約されています。すなわち「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」「愛とはなんぞや?」です。
 
 

* ロストジェネレーション世代への応援歌として

 
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化による就職氷河期の真っただ中で、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代でした。
 
いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中、新たな社会的自己実現オルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもありました。
 
そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌ともいえます。そして連載開始から17年の歳月を経て2015年に原作が完結。さらにそこから5年を経て今回のアニメ化に至ったわけです。それだけ本作には時代を超越した幅広い共感を呼び起こす魅力があるということなのでしょう。
 
 

* 冬目景ワールドへの導入本

 
本書「イエスタデイをうたってafterword」はアニメ放映にあわせて公刊されたファンブック的な書籍です。冒頭の「イエスタデイをうたって特別編-11・S14」は原作11巻最終話の後日談です。実にリクオとハルらしい、ぐだぐだしながらもちょっとずつ前に進んでいく日常が描かれています。
 
あとはアニメ化にあたっての冬目景先生インタビューと対談、作品紹介、イエスタデイ番外編と短編集。内容の半分くらいは10年くらい前に出版された「イエスタデイをうたってEX」の再掲となっています。
 
短編のうちの1本で、今回新規収録された「夏の姉」は隠れた良作。ジェンダートラブルという現代的な論点を扱っていて新境地を開いた感があります。アニメから入った方は是非、本書をとっかかりにして、退廃的かつ瑞やかな冬目景ワールドにぜひ触れていただきたいところです。
 
 

* 「羊のうた」から考える

 
この点、冬目景作品でまずお勧めなのが、イエスタデイと並ぶ冬目氏のもう一つの代表作である「羊のうた」です。イエスタデイの世界観、恋愛観を理解する上で同作は極めて重要な補助線となります。
 
同作のあらすじはこうです。本作の主人公、高城一砂は幼い頃に母親を亡くして以来、父親の友人である江田夫妻の元で育てられ、現在ではごく普通の高校生活を送っていたがある日、一砂は同級生の八重樫葉の左手の赤い絵の具を見て奇妙な感覚に襲われる。
 
そして久しぶりに訪れた高城の家で、一砂は1歳違いの姉、高城千砂と再会。そこで一砂は吸血鬼のように発作的に他人の血が欲しくなるという「高城の病」を知る。
 
千砂は幼少期から「高城の病」に犯されており、加えて生来病弱で余命幾ばくもない。そして一砂もまた「高城の病」の発病を感じていた。千砂は自らの手首を傷つけ一砂に血を与え、やがて2人はお互い寄り添うように暮らし始める。そして一砂に仄かな想いを抱く八重樫はただ状況を傍観するしかなかった。
 
このように「羊のうた」という作品においては、ひたすら破滅へと向かうかの如き重苦しい物語が展開されます。そしてその根幹にあるのは「死」という絶対的な「外部」が作品世界の全てを駆動させている否定神学構造です。
 
こうした否定神学構造はイエスタデイでもより洗練された形で反復されます。榀子は死んだ湧を、リクオはかつての榀子を、それぞれ至高の何かへと昇華してしまい、そこからなかなか動けない。このようにある他者を絶対的な「外部」と同一視してしまう否定神学的な恋愛観を「宮廷愛」と言います。
 
本作を読んでいて感じるもどかしさの源泉はここにあります。もっとも連載開始当時の90年代後半において、こうした恋愛観は「純愛」とか「セカイ系」などという形で、ポストモダン大きな物語の失墜に対する時代の処方箋、虚構の時代の名残雪として機能していた部分はあるにはありました。
 
 

* 宮廷愛から誤配へ

 
けれどもイエスタデイはこうした羊のうた的なもの、否定神学的な宮廷愛を乗り越える物語であったと言えるでしょう。
 
ハルは「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」と言います。恋は錯覚、単なる誤配。おそらくこれが身も蓋もない現実なのかもしれません。けれど人は面倒な生き物でして、こうした偶然的な現実の中にも何がしかの必然的な真実を見出したがったりするわけです。
 
こうした意味で、宮廷愛とはある意味で現実の隠蔽装置に他ならない。真実とは所詮、虚構にすぎない。恋は錯覚、単なる誤配。リクオも榀子も散々周り道をした挙句、土壇場でようやくこうした身も蓋もない現実を、2人は受け入れていくのでした。
 
誤配を誤配として素直に肯定する事は案外と難しいことです。翻って考えるに我々の人生も誤配の連続ではないでしょうか。けれども誤配を愛でるところから始まる関係性だってあるでしょう。イエスタデイの物語はそんな誤配だらけのぐだぐだな周り道を穏やかに肯定しているようにも思えたりもするわけです。
 
 
 
 
 

二層構造の時代における新たな公共性--「哲学の誤配(東浩紀)」

 

 

* 二層構造の時代における哲学

 
1994年、かつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏と柄谷行人氏が編集委員を務める「批評空間」第Ⅱ期第3号に「幽霊に憑かれる哲学--デリダ試論」と題された論文が掲載されました。著者の名は東浩紀。当時まだ東大教養学部の大学院生でした。
 
東氏はその後も「批評空間」に一連のデリダ論を発表。これらの論考は大幅な加筆修正を経て98年に「存在論的、郵便的--ジャック・デリダについて」として上梓されます。近代を規定した「否定神学システム」の外部を問う同書は浅田氏による激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の俊英として脚光を浴びることになります。
 
ところがその後、東氏は浅田氏や柄谷氏と対立を深め距離を置くようになり、2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となります。
 
東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の乖離というポストモダンにおける二層構造モデルでした。こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」です。
 
そして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトします。このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へ昇華したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになります。
 
 

* 誤配とは自由である

 
本書は「一般意志2.0」と「観光客の哲学」の韓国語版刊行の際に行われたインタビューと、中国における講演の草稿を加えた構成になっています。
 
韓国での氏はもっぱら「動物化するポストモダン」のイメージが強く、いまだ「サブカルチャー批評」の書き手として受容されているそうです。本書のインタビューはそうした「誤解」を解く目的もあるにはあるけれども、氏自身としてはそうした誤解が「正される」ことをそれほど望んではいないと言います。
 
そうした「誤解」により日本では届かなくなってしまった人に氏の文章が「誤配」されるのであれば、それはそれで素晴らしいと氏は言います。「誤配」とはすなわち「自由」であり、政治や公共的な感覚もまた本来はそのような「誤配=自由」の上でしか育たないということです。
 
ポストモダンにおいてはもはや「大きな物語」は機能しておらず、人は「大きな非物語(データベース)」から産出される無数の「小さな物語(シュミラークル)」の中で自足するしかない。東氏は「存在論的、郵便的」以降、一貫してこうした無数の「小さな物語」同士の横断的コミュニケーションの中で生じる郵便的超越性--すなわち「誤配」について原理的な考察を行ってきた人でした。乱立する「小さな物語」同士の中で「誤配」をいかにして産み出していくか。本書のタイトルである「哲学の誤配」とはまさにそういうことなのでしょう。
 
 

* 熟議とデータベースのあいだ

 
「一般意志2.0」においてはデータベースと熟議が交差する新たな民主主義の形が構想されました。ここで同書は社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念に参照点を求めます。
 
ルソーによれば人民相互が社会契約を締結した結果「人民の特殊意志の総和=全体意志」から「相殺しあうもの」を除した上で残る「数学的差異の総和=一般意志」が成立するとされます。
 
そして統治システムとはこうした「一般意志」を忠実に執行する機関に過ぎず、人民は統治システムが「一般意志」を忠実に執行していないと判断すればいつでも統治システムを改変できる「革命権」を持っている事になります。
 
しかし18世紀当時は「一般意志」などどう考えても具現化不可能な仮設的概念に過ぎず、ルソーの主張は荒唐無稽な空想の域を出ませんでした。けれども現代における情報テクノロジーの進展は「一般意志」をある種のデータベースとして具現化させる事が可能だと同書は言います。これが「一般意志2.0」です。
 
もっとも、よくある誤解のように本書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではありません。むしろ従来型の議会制民主主義における「熟議」の再興を図るものです。
 
従来、政治においては「熟議(理性的討論)」によるコミュニケーションこそが私的利害の集積を公共善へと変化させると信じられてきました。けれども、ポストモダン状況が加速して公共性の多様化、複雑化が進む現代社会においては「大文字の公共」というべき熟議の前提条件が喪失し、今や民主主義における熟議は機能不全に陥っています。
 
そこで同書は社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース(一般意志2.0)」を構築することで、「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共性の創出を提案しているわけです。
 
 

* 強いつながりと弱いつながり

 
熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していました。
 
そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていきました。今やSNSは人間関係を友敵に切り分け、見たいもの信じたいものだけに囲まれて、ただだた際限なく自己幻想を肥大化させていくだけのツールになってしまいました。要するにこの10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実でした。
 
この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていました。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになったわけです。
 
こうした状況を前提として、2010年代の東氏は情報空間と現実空間を組み合わせることで「誤配」を考えるようになります。ここでキーワードとなるのが「弱いつながり(2014)」において提示される「観光」という概念です。
 
結局のところSNSがもたらしたのはその内側には同調圧力が発生し、その外側には排除の論理が作動するという「強いつながり」でした。こうした「強いつながり」から自由となり、ネットの海により深く潜る為に必要なのは、むしろネットの外の現実にある「弱いつながり」ということになります。そして「観光」とはこうした「弱いつながり」の中で「誤配」の確率を能動的に高めていく営みに他ならないということです。
 
 

* 郵便的マルチチュードとしての観光客

 
こうして浮上した「能動的誤配」としての「観光」というキーワードを哲学的概念にまで錬成したのが「観光客の哲学」です。同書はナショナリズムグローバリズムコミュニタリアニズムリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付けます。
 
マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念です。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけです。
 
そこで同書は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示することになります。
 
 

* 「憐れみ」によって手を取り合うということ

 
出会うはずのない人に出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考える。一見、無意味な回り道こそが思いがけない豊かな可能性を開いていく。こうした「観光客」のあり方は「一般意志2.0」の根底にある人間観とも繋がります。「一般意志2.0」で参照されたルソーは人間嫌いの思想家でした。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。
 
ルソーが示した答えは「憐れみ」でした。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということです。そういった意味で「観光客」のもたらす「誤配」とは、本来的に分かり合えない人と人が--イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない--「憐れみ」から手を取り合う事で新たな公共性を創出する起点となるということでしょうか。
 
「観光」という言葉はとても良い響きを持っていると思います。まさしくそれは否定神学システムの外部に光を観るということです。誤配のない世界において人は自分が想定した以上の出来事に出会うことはなく、そこに本当の意味での思考も創造性も生まれないでしょう。「正解」を求める人生から「誤配」を愛でる人生へ。東氏の批評活動はフランス現代思想に始まり情報社会論、サブカルチャー論、公共哲学、人生哲学とこれまで多岐に渡っていますが、一見バラバラに見えるこれらの領域は、その深層では驚くほど相互にリンクしあっています。本書はこうした東哲学の核心点と時代毎の処方の変遷の関係を現時点から振り返る事ができる良き(再)入門書として読めるのではないかと思います。
 
 
 
 

対話による「新しい現実」の創出--「オープンダイアローグがひらく精神医療(斎藤環)」

 

オープンダイアローグがひらく精神医療

オープンダイアローグがひらく精神医療

 

 

 

* オープンダイアローグとは何か

 
フィンランドの西ラップランド地方トルニオ市にあるケロプダス病院のスタッフを中心に開発された「オープンダイアローグ(OD)」は、従来、薬物や入院が必須と考えられていた急性期の統合失調症を「対話」の力で寛解に導くことで精神医療に大きなインパクトをもたらしました。
 
現在、ODはシステム/実践/世界観の三つの領域において体系化され、今や精神医療の領域のみならず、福祉、教育、司法、ビジネスといった様々な領域で注目を集め始めています。
 
ODが日本で広く知られるきっかけとなったのは2013年7月に上映されたダニエル・マックラー監督の映画「オープンダイアローグ」です。本書の著書である斎藤環氏もこの映画をきっかけにODの存在を知ったそうです。
 
斎藤氏といえばラカン精神分析を始めとする力動的精神医学を基盤とした臨床家、批評家としてよく知られています。ところがODの存在を知って以降、斉藤氏は自身のアイデンティティとも言える力動的精神医学の立場をかなぐり捨ててまでODの実践・普及に取り組み始めます。本書は斎藤氏が様々な媒体で発表したODに関する論考をまとめたものであり記述に重複などが多いですが、氏のODに賭ける並ならぬ情熱がよく伝わってくる一冊です。
 
 

* チームによる対話の促進

 
ODの実践は一見、極めてシンプルです。クライアントやその家族から電話などで支援要請を受けたら24時間以内に治療チームが結成され、クライアントの自宅を訪問。治療チームと本人、家族、友人知人らの関係者が車座になって対話が行われます。
 
この対話においてはすべての参加者に平等に発言の機会が与えられます。ミーティングは1回につき1時間から1時間半程度。ミーティングの最後にファシリテーターが結論をまとめます。本人抜きではいかなる決定もされないことも重要な原則です。何も決まらなければ「何も決まらなかったこと」が確認されることになります。このミーティングはクライアントの状態が改善するまで、ほぼ毎日のように続けられる場合もあります。
 
このようにODの特色は治療者側が「チーム」で介入する点にあります。チームは精神科医、看護師、臨床心理士などで構成されますが、チーム内での序列はありません。皆が自律したセラピストとして対等の立場で対話に加わります。
 
そして、今後の治療方針を決める治療者同士の話し合いも患者側の前で行われます。これは「リフレクティング」と呼ばれる家族療法家のトム・アンデルセンによって開発された技法です。
 
診断、見通し、治療方針に関する議論を全て患者の前で開示することで、さらなる対話が促進され患者の意思決定も容易になるということです。むしろ患者の目の前で話し合えないような情報にはろくなものがないとさえ斎藤氏は言います。
 
 

* 「モノローグ」から「ダイアローグ」へ

 
こうしてODでは対話の場に参加者の言葉が投入されることで、自律性的に作動する対話システム(対話クラウド)が形成されます。対話システムが作動する目的はその作動それ自体がであり、こうした作動の結果として、患者の中で「新しい現実」が創出され、その副産物、ないし廃棄物として症状の改善や治癒が降ってくるというイメージです。
 
ODにおいてありがちな誤解に「つながりによって主体を溶解させる手法」というものがありますが、斎藤氏はそうではないといいます。ケロプダス病院のセラピスト、ミア・クルッティ氏の言葉を借りるのであれば、ODは「あなたが主体的に振る舞える場所」を見出すという帰結をもたらします。
 
斎藤氏が考えるODのイメージは「モノローグ(独り言)」の病理性を「ダイアローグ(対話)」へと開いていくというものです。多くの異質の声がひしめく「ポリフォニー」の空間の中で、お互いの視点や価値観の「違い」を分かち合っていくことで、関係性のネットワークが修復・再生され、患者の主体性が回復するということです。
 
 

* 新たな「言葉」を生み出す営み

 
ODには複数の理論的背景があります。思想的には社会構成主義ポストモダン思想、治療理論としてはシステム論的家族療法やナラティブ・セラピー、リフレクティング・プロセスといった複数の技法との関連が深いと言われます。
 
とりわけ重要とされる二つの理論的支柱がG・ベイトソンの「ダブルバインド理論」とM・バフチンの「詩学」です。前者はODのシステム論的なバックボーンをなしており、後者は対話そのものの治療的意義を基礎づけています。
 
この点、バフチンによれば、あらゆる発話は応答を求めており「言語にとって応答の欠如ほど恐ろしいものはない」とされる。これは人間がモノローグを脱してダイアローグを必然的に志向する存在と見なされるためだということです。
 
バフチンはその多声性概念において「意味」というものは語り手と聴き手のやりとりの中でしか生じないことと言います。そうした事から、ODでは有意義な対話を生成するため、治療チームは患者や他の参加者のメンバーの語りをていねいに傾聴し、その全てに応答していきます。そしてその応答は、相手の発言内容に即しながらも、さらなる別の問いかけの形を取ることになります。
 
すなわち、対話の行間に滲み出る患者の苦しみとか悲しみなどといった感情を参加者間で共有し、患者の苦悩を言い表す新たな言葉を生み出して行く営みこそが、ODにおける重要な治療資源となるということです。このように「モノローグ」を受容しつつも新たに問い直すということが「ダイアローグ」だとすれば、ODの本質はカウンセリングというより哲学的対話に近いのかもしれません。
 
長らく薬物療法中心の「内科モデル」を志向してきた精神医学は、近年、徐々のその限界性が自覚されつつあります。そして、いま再認識されつつあるのは「つまるところ人間は人間によってしか癒されない」という単純な事実であると本書は言います。こうした潮流の中でODが普及することで、我々が精神医療に抱くイメージは随分と違うものになるかもしれません。
 
 
 

スパイスカレーを知る上での新基準--「私でもスパイスカレー作れました!(印度カリー子・こいしゆうか)」

 

 

 

* スパイスカレーの教科書

 
「何十種ものスパイス調合」「工程が複雑」「料理上級者向け」「普通はお店で食べるもの」等々。何かと敷居の高さを感じてしまう「スパイスカレー」が圧倒的に身近になる一冊。本書は単なるレシピ集ではなく、スパイスカレーの「構造そのもの」を明らかにします。まさに「スパイスカレーの教科書」といえます。
 
 

* スパイスの調合は重要ではない

 
本書によれば、スパイスカレーは「具材(食材や調味料)」と「ベース(水やヨーグルトなど)」そして「スパイス」によって構成されています。このような階層構造の中で「変えない部分」と「変えていい部分」をラディカルに把握する事により無限の応用が可能となるわけです。
 
そして、本書で使う基本スパイスはわずか3種類。「クミン」「ターメリック」「コリアンダー」です。
 
「クミン」は別名ウマゼリと呼ばれる植物の種の部分。消化促進作用があると言われます。カレーのメインの香りを担います。
 
ターメリック」は別名ウコンと呼ばれる植物の根の部分。抗酸化作用・肝機能促進作用があると言われます。カレーの色付けを担います。また、土のような香りは縁の下の力持ち的存在感を持っています。
 
コリアンダー」は別名パクチーと呼ばれる種の部分。抗菌作用があると言われます。カレーのとろみを担います。また、爽やかな香りはスパイス達のまとめ役となります。
 
この3つのスパイスは基本的に辛くありません。辛みをつけるにはチリペッパー(唐辛子)やブラックペッパー(黒胡椒)を加えることになります。
 
本書ではクミンをボーカル、ターメリックをベース、コリアンダーをギターに例えていますが、この比喩からすればチリペッパーやブラックペッパーはドラムというところでしょうか。ともかく基本はこの3種類(+1)であり、その他は「あればなお良い」という事です。すなわちスパイスカレーにおいてスパイスの調合で悩むのは全く本質的ではないということです。
 
 

* 30分位で理想的なスパイスカレーが出来てしまった

 
そもそも我々がイメージする「いわゆるカレー」はイギリス由来の煮込み料理です。これに対して本書のいう「スパイスカレー」はインド由来の炒め料理であり、両者は全く似て非なるものになります。
 
ところが我々は「いわゆるカレー」のイメージに引きずられ「スパイスカレー」に対しても「飴色玉ねぎを作らなくてはいけない」とか「隠し味の妙が味の決め手になる」などといったある種の強迫観念を抱いてしまいがちです。本書はこうしたありがちな強迫観念も見事に解体します。
 
個人的には「味付けは塩」というのは本当にコペルニクス的驚愕でした。さらには「食材を切る」という、料理が苦手な人にとっては極めて高いハードルも全て省略可能とする時短テクニックを本書は惜しげもなく披露します。こうして本書はスパイスカレーの纏う神秘的なヴェールをざくざくと剥がして、その本質を際立たせていきます。
 
いや、本当に恐るべき本です。実際、本書に書いてある通りにやったら、これまでの試行錯誤は一体何だったのだろうかというくらい理想的なスパイスカレーが30分位で、ごく普通に出来てしまいました。
 
 
 
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* 「技法」としてのスパイスカレー

 
本書の原案を担当する印度カリー子さんは19歳の時にスパイスに出会って以来、これまでに500種類ものカレーを作り、現在はスパイスショップの運営を手掛ける一方、東大の大学院で食品科学の観点から香辛料の研究にも取り組んでいるそうです。本書の実践と理論のバランスの良さはカリー子さんのこうした経歴にもよるものなのでしょう。
 
そんなカリー子さんの夢はスパイスカレーが家庭料理として普及し、そこからさらに素晴らしい食文化が生まれてくる事だと、本書のあとがきで述べられています。そうした夢へ至る一里塚に本書はあるのでしょう。実際に本書通りにスパイスカレーを作ってみることで我々の中にある「カレーとはこういうもんだ、スパイスとはこういうもんだ」という固定観念は確実に変わるはずです。
 
固定観念の脱コード化は人の思考を自由にします。こうして「スパイスカレー」を固有名詞の「料理」としてではなく、普段使っている味噌や醤油などと同様に、素材の味を引き出すための「技法」として捉える事ができた時、そこから様々な豊かな発想が生まれてくるのではないでしょうか。本書はスパイスカレーを知る上での新基準と言える本だと思います。