かぐらかのん

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「セカイ」と「つながり」の間で--青くて痛くて脆い(住野よる)

青くて痛くて脆い (角川文庫)

青くて痛くて脆い (角川文庫)

 

* あの時、僕らは小さなセカイをつくった

 
ゼロ年代初頭「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡しました。「セカイ系」の定義については様々な議論がありますが、有り体に言えばその本質は「アスカに振られないエヴァ」です。
 
周知の通り「新世紀エヴァンゲリオン劇場版・Air/まごころを、君に(1997)」はそのラストで、主人公、碇シンジがヒロイン、アスカから「気持ち悪い」と拒絶され、多くの観客に衝撃を与えました。そして、こうした結末に耐えられなかった「エヴァの子供達」の受け皿となり「君と僕の優しいセカイ」を描き出したのがセカイ系です。
 
もちろんジャンルとしてのセカイ系はとっくの昔に乗り越えられています。けれども、こうした作品達を受容した「セカイ系的自意識」がいきなり消えて無くなるわけでもなく、それはむしろ「安全に痛いパフォーマンス」をより洗練させた形でゼロ年代以降のサブカルチャー史を隠然として規定することになります。
 
その一つの特異点が「涼宮ハルヒの憂鬱(2003)」であり、ここで確立された新たなセカイ系の文法はその後に「残念系」というべきジャンルを形成することになります。
 
そして本作の著者、住野よる氏のデビュー作「君の膵臓をたべたい(2015)」はこうしたゼロ年代以降のサブカルチャー史の流れを受け継ぎながら、そこに「難病少女」というセカイ系の古典的モチーフを再導入した作品であったと言えます。
 
これに対して本作は「キミスイ」に共感した読者への挑戦状のように思えます。端的に言えばそれは、キミスイが洗練された筆致で描き出した「セカイ系的自意識」の徹底的な破壊であるということです(以下、多少ネタバレあり)。
 
 

* 彼女はもう、このセカイにはいないけど

 
本作も序盤はいかにもキミスイ的世界観の反復で始まるわけですが、中盤でこの構図は見事に転倒させられます。「キミと僕の優しいセカイ」を奪われた主人公は哀れな決断主義者と成り果てて、正義という名の快楽に酔いしれる。そして終盤、主人公を待っていたのはまさかの「エヴァのトラウマ」の反復でした。
 
ここで本作が告発しようとしているのはまさしくセカイ系的自意識の根底にあるもの、すなわち主人公がコミットメントのコストをヒロインに転嫁する構造そのもののように思えるわけです。
 
 

* 安全圏で笑っている奴らなんかゴミです

 
少し内容に踏み込みますが、要するに本作の主人公、楓はヒロイン(?)秋好と二人だけの秘密結社「モアイ」を結成するものの、彼は自身に課した「不用意に人に近づきすぎないこと」「人の意見を否定しないこと」というテーマに忠実なのか、傍観者の位置から一歩も動かず、基本的には自分からは何もしようとしない。
 
そのくせ秋好には純度の高い「理想」を押し付け、その「理想」が「堕落」したとき、彼は安全圏から石を投げつけ始めます。そして全てが何もかも手遅れになった後、ようやく楓は自分を突き動かしていたのが理想でも正義でもなんでもない--キミと僕の優しいセカイを--イノセントな母性的承認を求める幼児的欲望に過ぎなかったことに気付かされます。
 
 

* 理想を騙ってお前はみんなを騙してきたんだよ

 
いわば楓はあたかも「良い母親」と「悪い母親」を区別する前エディプス期の幼児の如く「良い秋好」を「悪い秋好」から取り戻そうとしていたわけです。そして彼にまるで見えていなかったのは、そのどちらも秋好であるという当たり前の現実でした。
 
けれども楓の振る舞いを無様で滑稽だと嘲笑うの早計です。何故なら我々もまた肥大化した情報環境のなかで世界を「良いセカイ」と「悪いセカイ」に切り分けたがる欲望に取り憑かれていると言えるからです。すなわち、本作の問いは「セカイ系」なるサブカルチャー批判を超えて、現代における人の欲望それ自体へ差し向けられたものだと言えるでしょう。
 
 

* 何がみんなのためだよ全部自分のためだろ

 
もっとも、一方の秋好もまた「世界を今より良くしたい」「なりたい自分になる」などという一見、純粋そうな理想の裏にはある種の承認欲求があった事は否定できません(この辺りの彼女はかつての涼宮ハルヒを想起させます)。だからこそモアイが肥大化するにつれて当初の「理想」は簡単に「意識高い系」へと変容し、結局その行き着く先は官庁や企業とのコネクション作りを目的とした世俗的な就活系サークルでした。
 
この点、映画では不登校の少女との交流というオリジナルエピソードを挿入することによって、かつてのモアイと現在のモアイの差異を明確に際立たせています。
 
要するに、かつての秋好が夢想した理想は、他者との「つながり」を求める自身の欲望を正当化するための言い訳として機能していたということです。彼女がモアイを解散したのは、こうした理想の裏にある欲望が計らずも他者を傷つけていた事に気づいたからこその精一杯の誠意だったのでしょう。
 
 

* それでも、セカイは変えられる

 
こうしてみると楓は「セカイ」という形で、秋好は「つながり」という形で、他者をそれぞれ欲望していたわけです。そして両者は最後に共に自分は「空っぽ」だという欲望の本質に気づく事になります。
 
人は自分の中の「空っぽ」を埋める為に「間に合わせ」の対象を常に求めてしまう生き物です。それは時に家族や恋人だったり、もしくは仕事や趣味だったり、あるいは夢や理想だったりする。「間に合わせ」を必要とすること、それ自体は人としてごく自然な事なんだと思います。
 
けれど、こうした「間に合わせ」を絶対的なセカイやつながりへと祭りあげてしまうと、その先にあるのは本書が示すような--まさに、青くて痛くて脆い--悲惨な末路です。そうであれば我々は--ある「間に合わせ」から別の「間に合わせ」へと--非意味的な跳躍を繰り返していく、ある種の自己破壊運動を反復していくしかない。そして本書もまた、キミスイ的世界観の自己破壊運動だったのかもしれません。