かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

物語と文体の間--「みみずくは黄昏に飛び立つ(川上未映子・村上春樹)」

 

*「こちら側」と「あちら側」

 
臨床心理学者、河合隼雄氏はこころの病を癒す上で大切な事は「各人の生きている軌跡そのものが物語であり、生きることによって物語を創造している」と述べています(講座心理療法2--「心理療法と物語」)。
 
すなわち、心理療法とはクライエントが治療者との関係性の中で、自らの内側に潜んでいる自己の生を規定する神話--〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていく過程ということになります。
 
〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていく。こうした過程において欠かせないのが「こちら側」と「あちら側」という二つの視点です。
 
「こちら側」とはこの日々の端的な日常のことであり「あちら側」とはその日常の中に唐突に不気味なものとして現れる、いわば「異界」ともいうべき非日常です。我々「こちら側」と「あちら側」の二つの位相が折り重なり合った世界を生きているという事です。
 
多くのこころの不調や逸脱行動は「こちら」への最適化の失敗に起因します。こうした時、問題を「こちら側」だけの視点で考えても解決しないことが多いわけでして、一旦は「こちら側」だけでなく「あちら側」の視点から考えないといけないこともある。
 
けれども、そのまま「あちら側」の非日常に魅入られてしまったりすると、今度は「こちら側」の日常に戻って来れなくなる。
 
そこで必要なのは「あちら側」へ回路を開きつつも、なおかつ「こちら側」に折り返すということです。こうして「あちら側」の非日常と「こちら側」の日常という多層的な現実の中に自分を位置づけていく。この過程こそが自分の〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていくということです。
 
 

*「自己治療的な行為」としての小説 

 
こうした意味での〈物語〉を文学作品へと昇華させて世に問い続け、幅広い支持を獲得してきた作家が村上春樹氏です。
 
氏にとって小説を書くというのは多くの場合が「自己治療的な行為」であるといいます。すなわち、あらかじめ何かのメッセージがあって小説を書くのではなく、自分の中にどのようなメッセージがあるのかを探し出すため小説を書くということです。
 
では、なぜこうした「自己治療的な行為」が次々と記録的なベストセラーとなり、世界文学とまで呼ばれるのでしょうか?
 
本書は「職業としての小説家(2015)」「騎士団長殺し(2017)」にまつわるインタビューですが、インタビュアーを務める川上未映子氏との対談本という側面もあります。村上氏の創作における思考過程の一端を垣間見る事ができる一冊です。
 
 

*「クヨクヨ室」を素通りして〈物語〉へと向かう

 
村上氏は小説を書く事を一軒の家に例える事があります。1階は皆が集まって共通の言葉で楽しくお喋りする社交的な場所で、2階は個人のプライベートな場所になります。
 
そして、この家には地下1階と地下2階があります。地下1階は自意識的葛藤とか心的外傷経験などが蠢く領域です。いわゆる「純文学」と呼ばれるジャンルが取り扱う「近代的自我」とは、だいたいこの地下1階部分に相当します。川上氏のいう「クヨクヨ室」です。
 
これに対して村上作品はこの「クヨクヨ室」を素通りして真っ直ぐに地下2階へ向かいます。氏が長らく業界で疎まれてきた理由はこの態度にあるのではないか--と氏は自己分析しています。
 
では、地下2階に何があるのかというと、これがまさしく〈物語〉の領域ということになります。
 
 

*「悪」に抗うための〈物語〉

 
〈物語〉とはコンステレーション、すなわち世界の布置を物語るという事です。こうした意味で、社会共通の〈物語〉が失墜した現代社会には様々な〈物語〉が溢れてかえっています。こうしたポストモダン状況において人は目の前の存在論的不安から逃れる為、世界をシンプルに説明してくれる単純明快な〈物語〉に縋りつこうとする。カルト的宗教教義や原理主義テロリズムはこうした需要に支えられているわけです。
 
このような〈物語〉は個人を超えたところで集合的に生成される、いわば時代の集合的無意識といえます。現代ではこの集合的無意識の奪い合い、動員ゲームをやっているわけです。
 
こうした状況において村上氏は常に時代が産み出す「悪」に抗うための〈物語〉を提示しようとしてきました。ここでいう「悪」とは、かつては国家主義的なビッグ・ブラザーとして、いまは市場主義的なリトル・ピープルとして、個人の生を規定してきたシステムのことに他なりません。
 
 

* デタッチメントからコミットメントへ

 
もっとも「悪」の形の時代的変容に伴い村上氏の〈物語〉を支える倫理的作用点も変化します。放って置いても衰退しつつあったビッグ・ブラザーに対しては「やれやれ」と突き放しておけば良かったけれど、これに代わって台頭し始めたリトル・ピープルに対しては何らかの関わり合いを避けては通れない。こうして生じたのが周知の通り「デタッチメントからコミットメントへ」という転換だったわけです。
 
こうした問題意識から執筆された「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」の刊行中、奇しくもリトル・ピープルの生み出す「悪」は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現しました。あのオウム真理教による地下鉄サリン事件です。
 
その後、氏は事件関係者への綿密な取材をまとめた「アンダーグラウンド(1997)」「約束された場所で(1998)」を公刊。そして「1Q84(2009〜2010)」において再びリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙することになります。
 
 

* コミットメントのコストを誰が支払うのか

 
もっとも村上氏が示したコミットメントのモデルについては少からざる批判があります。どういうことでしょうか。
 
例えば「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害する。
 
そして「1Q84」では、主人公の天吾が物語の鍵を握る少女ふかえりと「ヒツヨウなこと」として性行為に及ぶ一方、同夜にもう一人の主人公にしてヒロインの青豆がふかえりの実父であるカルト教団「さきがけ」のリーダー深田保を暗殺する。そしてその後、彼女は教団から追われる中で、天吾の子供を性行為抜きで妊娠することになる。
 
要するに、ここでは男性主人公によるコミットメントの現実的コストが、主人公にとって「他者性なき他者(母的/娘的存在)」である女性ヒロインへと転嫁されるという構図の反復があるわけです。こうした性愛的な回路を用いたコミットメントのモデルに対しては、男性性の自己実現のために女性性が犠牲になっているという批判が生じてくることになります。
 
 

* 導き手としての女性像

 
本書において川上氏はこの点についてずばり斬り込んできます。ここは本書のハイライトです。確かに現実社会では、男性主体の〈物語〉に抑圧されている女性もいれば、男性主体の〈物語〉を生きることのできない弱者男性もいるし、一般的なジェンダー規範から外れたマイノリティに属する人もいるでしょう。
 
こうした属性を持つ層にとって、村上氏の提示する性愛的な回路を用いたコミットメントのモデルを現代における〈物語〉だと、正面切って肯定されるのは--フェミニズムポリティカル・コレクトネスといった文脈においても勿論ですが、端的な「生の現実」としての「苦しみ」や「生きづらさ」という意味でも--かなりしんどい部分があるように思えるんです。
 
この点について、本書での氏は(議論がすれ違っているところもあるものの)比較的、誠実に応答しているように思えます。また「騎士団長殺し」においては、主人公である「私」が免色渉という奇妙な隣人と協力して次々と起きる不思議な出来事に対処していくわけですが、ここでは従来の性愛的なものとは別の回路--同性間が相互補完的にアイデンティティを記述し合うという、いわば友愛的な回路を用いたコミットメントのモデルを見ることもできるでしょう。
 
多くの村上作品において主人公を異化する契機としての女性が描かれるのは、氏の女性性に対する原的なイメージである「どこかへ手を引いて連れて行ってくれる」という心象が深く関わっているのでしょう。
 
「こちら側」から「あちら側」へ誘う導き手としての女性像はユング心理学における「アニマ」を想起します。こうしてみると賛否が生じてくるのは、この女性性のイメージをどの文脈から読み解くかという点に関わっているように思えます。
 
 

*「機能の言葉」としての〈文体〉

 
村上氏にとって小説とは作家と読者との「信用取引」で成立するといいます。そして、その信用維持において氏がもっとも重視するのが〈文体〉です。
 
小説において、もちろん「内容」は大事です。けれど、それ以前にまず「語り口」に魅力がなければ人は誰も耳を傾けてくれないということも事実です。そして氏にとっての「語り口」とは、遥か昔の古代において、集落の洞窟の中で皆に〈物語〉を語り聞かせる「語り部=洞窟スタイル」のイメージだといいます。この「語り口」こそが、小説においては〈文体〉ということになります。
 
「自己治療的な行為」としての〈物語〉は作家のパーソナルな現実の写生であり、それは概して分かりにくいものになりがちです。こうした分かりにくい〈物語〉を多くの人に届けようとすれば、その〈文体〉は洗練されたリーダビリティを持った「機能の言葉」でなければならない。事実「1Q84」や「騎士団長殺し」の圧倒的な読みやすさはライトノベルのそれに匹敵するものがあります。
 
どんな真実でも伝わらなければ意味がない。村上氏は夏目漱石以来、日本の純文学が軽視してきた〈文体〉に最も自覚的な作家と言えます。様々な〈物語〉が動員ゲームを繰り広げる現代において、氏の「自己治療的な行為」としての〈物語〉が世界的に大きな反響を呼び起こすのは畢竟、この「機能の言葉」としての〈文体〉によるところが大きいのでしょう。
 
こうした〈文体〉に注目して、これまでの氏の作品を先入観なく読み返せば、また新たな発見があるかもしれません。