かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

別の〈わたし〉を見つけるために--「一人称単数(村上春樹)」

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

 

* 倍音を出す技術

 
フランス文学者の内田樹氏は村上春樹氏を「倍音を出す技術を知っている作家」であると評しています。「倍音」とは基本周波数の整数倍の周波数の音のことであり、その効果は聴こえるはずのない音があたかも天上から降り注ぐように聴こえてくる「倍音経験」として現れます。
 
そして氏は音楽に限らず、あらゆる芸術的感動はこの「倍音経験」がもたらすものではないかと言います。例えば、ある文学作品の一見何気ないテクストの中に「誰も読み取れない私だけのために書かれたメッセージ」がある事を確信した時、その読み手はこの上ない法悦に満たされるということです。これはすなわち「倍音経験」がもたらした法悦に他ならないということです。
 
こうした意味での村上作品における「倍音経験」は長編作品以上に、物語的な縛りが緩やかな短編作品でより多く現れるのかもしれません。
 
 

* 村上流私小説

 
6年ぶりに放たれる短編集となる本作は虚実入り混じる「村上流私小説」とでもいうべきでしょうか。
 
かつて一夜を共にした女性が残していった短歌集(石のまくらに)。「中心がいくつもある円」を問う謎の老人(クリーム)。
 
架空のレコード批評に召喚された偉大なるジャズ・プレイヤー(チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ)。ビートルズのLPを抱えて通り過ぎていった少女(ウィズ・ザ・ビートルズ)。
 
実在しない自作詩集を回顧する村上氏(「ヤクルト・スワローズ詩集」)。「醜い」容姿と不思議な魅力を併せ持つ女性(謝肉祭)。愛についての思弁を語る猿(品川猿の告白)。
 
そして、戯画化された村上春樹としての「私」を理不尽に罵倒する女性(一人称単数)。
 
 

*〈謎〉への欲望と享楽

 
8つの短編からなる本作には様々な〈謎〉が登場します。そしてこうした〈謎〉の意味をめぐって無数の解釈が反響することになるでしょう。すなわち、解釈の数だけ「倍音経験」があるわけです。
 
けれどもその一方で、どれだけ〈謎〉を解釈しても、そこには常に〈謎〉の残滓が残り続けることになります。〈謎〉とは〈謎〉だからこそ〈謎〉であるということです。
 
それでも人は〈謎〉について語り続け--おそらくそれが無意味な徒労に終わることを半ば自覚しつつも--そこに何かしらの意味を見出そうとする。こうして我々は〈謎〉に執着する〈わたし〉という別の〈謎〉に気づく。すなわち〈謎〉の意味を欲望する我々とは別の〈謎〉それ自体に享楽する〈わたし〉がいるということです。
 
そこで我々は本書の提示する様々な〈謎〉の中に、いままで気づかなかった別の〈わたし〉を見つけることができるでしょう。
 
 

*「一人称単数」としての〈わたし〉

 
本書の「一人称単数」という表題。それはまさしく、このような複数的な断片のコラージュからなる単数的な個体としての〈わたし〉を示しているのではないかとも思えるわけです。
 
これが私が本書の表題という〈謎〉について考えたことです。もちろんそれは本書を巡る無数の解釈としては極めて平凡なものに過ぎないかもしれません。ただそれとは別に私は今、このような〈謎〉についてなぜ私は考えようとしたのかという〈謎〉について考えているわけです。言い換えれば、これが私の「倍音経験」ということなのでしょう。