かぐらかのん

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セカイ系のリアリズム--火垂るの墓

 

火垂るの墓 [Blu-ray]

火垂るの墓 [Blu-ray]

  • 発売日: 2012/07/18
  • メディア: Blu-ray
 

 

* もう一つのリアリズム

 
野坂昭如氏の自伝的小説を原作にした映画「火垂るの墓」において監督を務めた高畑勲氏は日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」を確立した第一人者として知られています。
 
緻密な背景描写と細密な生活描写といった空間演出を駆使することでキャラクターに「まさにそこに在る」という確かな存在感、実在性が付与されることになる。こうした氏の「自然主義的リアリズム」は本作でも十分に発揮されていることは疑いないでしょう。
 
その一方、本作では高畑氏の「もう一つのリアリズム」を見ることができます。それは「セカイ系のリアリズム」です。
 
 

* 「火垂るの墓」は「反戦映画」なのか

 
本作のあらすじを確認しておきます。本作は終戦直後、阪急電車の駅構内で主人公の14歳の少年、清太が死ぬところから始まります。魂となった彼は自分自身と4歳の妹、節子の在りし日を回顧する。
 
昭和20年6月、清太達兄妹の住む神戸が空襲を受ける。どうにか火の手を避けた清太達は避難所である学校へ向かうも、そこで清太が見たのは全身火傷を負った母親の凄惨な姿であった。そして間も無く、母親は死んでしまう。
 
母親と家を同時に失った清太達は西ノ宮の親戚宅に身を寄せる事になる。けれども、親戚のおばさんは何かと清太達に辛く当たってくる。ついに耐えかねた清太達は親戚宅を飛び出し、防空壕で兄妹二人だけの暮らしを始めることになる。けれどもやがて生活は行き詰まり、節子は栄養失調で死んでしまう。そして清太も後を追うように節子の下へ旅立っていく。
 
このように本作は一見すると、幼い兄妹の視線から戦争の災禍を描いた「反戦映画」の如き感を呈しています。一方、多くの映画評論によれば本作は「反戦映画」ではないとされています。これはどういうことでしょうか。
 
 

* 本作をめぐる二つの視線

 
この点、本作の特徴として「感想の変化」が挙げられます。多くの人は、最初に観た時はおばさんの鬼のような仕打ちに憤りを覚えていたはずなのに、観返す度になぜかおばさんがどんどんまともな常識人に見えてくるという奇妙な現象に遭遇します。
 
この変化は何を意味するのでしょうか。これは我々観客がこの映画を「どの視線」から眺めているのかという点に関わっています。
 
フランスの精神科医ジャック・ラカンによれば、人の精神構造は「想像的同一化」と「象徴的同一化」という過程を経て発達するとされています。ここでいう「想像的同一化」とは家族や友人といった具体的な他者に同一化する過程をいいます。これに対して「象徴的同一化」とは世間や社会といった抽象的な他者=〈他者〉に同一化する過程をいいます。この点、ラカンは前者のラディカルな例を「鏡像段階」と呼び、後者のそれを「去勢」と呼んでいます。
 
そして我々が映画を観る視線というのはちょうどこの二つの同一化を行ったり来たりするようなものと言えます。すなわち、観客は登場人物の視線へ同一化(想像的同一化)する一方で、その登場人物達をまなざす映画監督の視線、すなわち「〈他者〉のまなざし」にも同一化(象徴的同一化)することにもなるわけです。
 
 

* 自己中心的かつ現実逃避的な清太の姿

 
この点、高畑氏は清太を冷酷なまでに突き放すかのような視線を随所において導入します。そして初めは清太の視線に同一化していた多くの観客も、本作を繰り返し観るうちに、この高畑氏の視線に同一化して清太を見るようになってくるわけです。こうした「〈他者〉のまなざし」から清太を眺める時、そこには極めて自己中心的かつ現実逃避的な清太の姿がはっきりと映し出されることになります。
 
親戚宅での清太は学校にもいかず家事も手伝わず、勤労動員にも隣組の活動にも参加せず、いつもゴロゴロしているか節子と戯れているかのどちらかで、おばさんに対しては常に反抗的な態度を取り続ける。
 
これではあのおばさんでなくとも普通にイライラするでしょう。おばさんの言葉は確かに刺々しいけれど、冷静にその言い分に耳を傾けてみると「働くもの食うべからず」とか「このご時世でゴロゴロしてばかりだと世間体が悪い」などといった割と常識的なことしか言ってません。
 
そして映画後半、いよいよ清太と節子の防空壕生活も行き詰まりを迎える。清太は他所の畑から野菜を盗んだり、空襲のドサクサに紛れた文字通りの「火事場泥棒」に手を染めていく。そしてその傍らで節子の身体はどんどん死に蝕まれていきます。
 
その一方、清太の周囲には手を差し伸べてくれる優しい大人達が少なからずいました。「何かできることあったら言うて頂戴」と言ってくれるお向かいのお姉さん、ワラをくれたり七輪を売ってくれたおじさん、盗みで突き出された清太に同情してくれる駐在さん。けれども、清太はこうした大人達を決して頼ろうとしない。
 
もちろん、清太には清太なりの目論見があったわけです。けれどそれは母親のへそくり貯金で当座をしのぎ、戦地に赴いた父親の帰還を待つという、極めて現実味のないプランでしかなかった。
 
果たして、いつの間にか戦争は終わっており、父親が所属する連合艦隊はとうの昔に壊滅していた。清太がこの無残な現実に直面した時、もはや何もかもが全て手遅れだったわけです。
 
 

* 見たい現実と信じたい物語

 
こうしてみると、清太が妙な意地を張らずに、おばさんに頭を下げたり周りの大人を素直に頼っていれば節子は死なずに済んだのではないかとさえ思えてくるわけです。
 
もちろんそこには自分の父親が海軍将校であるという半端なエリート意識も少なからずあったのかもしれません。けれども彼にとって本質的な行動原理は、見たい現実と信じたい物語の中にいつまでも引きこもっていたいという欲望に規定されていたと言えます。
 
見たい現実と信じたい物語。彼にとってのそれはおそらく「節子と2人だけの優しい世界」だったのではないでしょうか。
 
要するに本作の構図は、世間知らずで半端に自意識の高い少年が、社会に背を向けて、他者性なき少女と2人だけの世界に引きこもるというものです。
 
この構図を我々はどこかで見たことはないでしょうか。そう、これはまさしく「セカイ系」です。
 
 

* 君と僕の優しいセカイ

 
1990年代後半以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ない。
 
この点、最も安易な選択肢が、他者を拒絶し「君と僕の優しいセカイ」という「小さな物語」に引きこもることで幼児的万能感を確保する態度です。こうしてゼロ年代初頭には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。
 
もちろん現在、ジャンルとしてのセカイ系はとっくの昔に乗り越えられています。けれどもその一方、情報テクノロジーの進化とソーシャルメディアの普及により、現実における「セカイ系的な欲望」はますます加速していると言えます。
 
今や、我々はたやすく世界を友敵に切り分けて、見たい現実と信じたい物語の中に引きこもることができる「快適」な環境=セカイを手に入れてしまいました。
 
 

* セカイ系のリアリズム

 
こうしてみると、本作が描く「節子と2人だけの優しいセカイ」に引きこもる清太の姿は「セカイ系的欲望」に取り憑かれた我々の姿でもあります。そして本作はその先にあるボロ雑巾のような末路を「〈他者〉のまなざし」から冷徹に描くわけです。これが「セカイ系のリアリズム」です。
 
そういった意味で、本作はセカイ系が出現するはるか昔に「セカイ系的な欲望」に対して警鐘を鳴らした作品ということになります。
 
本作がいわゆる「反戦映画」ではないと言われる本質的な理由がここにあります。本作が告発するのは特定のイデオロギーを超えたところにある人の欲望--見たい現実と信じたい物語を希求するセカイ系的な欲望--であるということです。
 
我々が本作を観終わった時、他人事と思えない暗澹たる気持ちにさせられるのは、おそらくはこうした根源的問題を、正面切って喉元に突き付けられたことに起因しているのではないでしょうか。