*「観光客の哲学」の舞台裏あるいは実践録
1990年代後半以降、日本社会においては「大きな物語」の失墜と呼ばれるポストモダン状況がより加速したと言われています。「大きな物語」という共通の価値観が失われた社会においては人々は何かしらの「小さな物語」に回帰せざる得ないわけです。
こうしたポストモダン的状況で生じる特有の感覚を東浩紀氏は「郵便的不安」と呼びます。郵便的不安とは「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。
このような不安を哲学的経験へと転化できるのか?氏の様々な活動の根底に常にあったのはこうした問題意識があったように思われます。その一つの到達点として2017年に上梓された「観光客の哲学」は位置付けらるのでしょう。ここに至って「誤配」は「観光」という概念によって能動的な形で再定義されることになります。
そして本書は「観光客の哲学」の舞台裏あるいは実践録ということになります。本書は2011年以降、東氏が随所で公にした文章を集成した評論集です。収められた文章の数は東氏の年齢(当時)と同じく48。それぞれの文章は異なった文脈において書かれたものですが、その随所に「観光客の哲学」という大河へと流れ込む豊かな水脈を発見することができるでしょう。
* テーマパークと慰霊
第一部の表題である「テーマパーク化する地球」と第二部の表題である「慰霊と記憶」。賑やかしい生と静謐な死といった趣きで、いかにも対照的な両者ですが、東氏はこの二つの主題を表裏の関係として把握します。すなわち「テーマパーク化」が進めば進むほど、その中に回収されない「残余」が生じることになる。その代表例が「慰霊と記憶」ということになります。
東氏が以前提唱した「福島第一原発観光地化計画」とはまさにこうした二つの主題が交差するところにありました。けれども氏自身が認めるようにこの計画は見事に失敗したと言わざるを得ない。その原因は氏自ら分析するように「過去という穢れ」を祓い清めて「なかったこと」にする日本的な無意識に由来するのでしょう。そして同時に、この問題は現代における資本主義と民主主義の病理とも重なってくることになります。
* 「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」
資本主義と民主主義。ここで至上の価値とされるのは「いまここ」と「みんな」の利益の最大化です。そこで失敗した過去は「埋没費用」としてきれいさっぱり忘れるのが「合理的な態度」となります。
けれども人の公共性の在り処はむしろ「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」にあるのではないかと本書は問う。そして、こうした「いまここ」と「みんな」の論理への抗いとして、本書は石牟礼道子氏の「苦海浄土」を取り上げます。
水俣病の存在を世界的に知らしめた同作は、一見、水俣病被害者の聞き語りをもとに構成されたノンフィクションの体裁をとっているものの、実際はかなりの部分が取材時の印象をもとにした著者の「創作」であることが知られています。
こうした手法は現代のエビデンス至上主義からは当然批判される事になるでしょう。けれども事実として語られた事だけが全てではない。当事者の「心の中で言っていること」に真摯に耳を傾けて、その無根拠の闇を引き受けて世に問うことこそが、本当の意味での「当事者の声」の代弁となるときもある。
*「超越論的なもの」と「超越的なもの」の脱構築
そして2015年に氏が創刊した雑誌「ゲンロン」は、まさしくこうした「いまここ」と「みんな」に回収されない「過剰な何か」を再検討して再統合する試みであったということになります。
この点、氏のルーツである「批評空間」の編集委員であった柄谷行人氏はある時期において「超越論的なもの」と「超越的なもの」を区別する立場をとっていました。要するに「見えないもの」を思考する前者は批評的だから良いけれど「見えないもの」を実体化させる後者はオカルト的だからダメだということです。
けれども本書が問い返すように、人は「超越的なもの」を必要とするからこそ「超越論的なもの」が生み出される、とも考えられないでしょうか。
こうした「超越的なもの」の代表が「霊」や「魂」ということになります。すなわち「ゲンロン」という雑誌は「超越論的なもの」と「超越的なもの」を脱構築して、こうした「霊」や「魂」について、あえて踏み込んで考えていく試みであるということです。
* 等価交換の外部を開くということ
また、周知の通り、雑誌「ゲンロン」は氏が創業した出版社「ゲンロン」から発行されています。この点、会社としての「ゲンロン」の経営方針については「運営の思想」と「制作の思想」の一致にあると氏は言います。
「運営の思想」とはプラットフォームをコンテンツよりも優位に置く立場で「制作の思想」とはコンテンツをプラットフォームより優位に置く立場です。
そして現在の市場において、圧倒的に優位なのはいうまでもなく前者でしょう。市場原理主義によって駆動するプラットフォームの下では、コンテンツはまずは市場の統計学的欲望に最適化した商品であることが求められる、結果、市場には画一的なコンテンツが溢れかえり、文化の多様性は死滅していく。
これに対してゲンロンの特徴は自ら運営するプラットフォームで自ら制作するコンテンツを販売する点にあります。こうした経営方針を取る事で資本主義における「等価交換の外部」を開く事が可能となる。
等価交換の外部。これはすなわち「誤配」の空間ということになります。コンテンツに「誤配」を忍び込ませ、等価交換を意図的に失敗させることで、消費者は自らのうちに新たな欲望を発見する。こうして消費者は「観(光)客」へと生成変化するということです。
*「憐れみ」によって手を取り合うということ
東氏がかつて「一般意志2.0」で参照した18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーは社会の起源を「憐れみ」に求めました。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ思わず手を差し伸べる感情のことを言います。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったという事です。
「憐れみ」によって手を取り合うということ。「観光客の哲学」とは憐れみの哲学でもあります。「観光=誤配」はイデオロギー的連帯や共感的つながりを超えた「憐れみ」を創り出す。そして本書が照らし出すのは、こうした「憐れみ」の様々な形であるとも言えるでしょう。