かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

鏡像段階と対幻想、あるいは内閉期における少女の物語--カードキャプターさくら・クリアカード編1〜6(CLAMP)

 

 

 
CLAMPさんの不朽の名作「カードキャプターさくら」がまさかの連載再開からもうすぐ3年です。昨年のアニメ化を経て単行本は現在6巻まで刊行中。4巻くらいまでは謎がどんどん積み重なっていくばかりでしたが、5巻、6巻で色々と急展開を迎え、物語もいよいよ佳境に入った感があります。
 
 

* あらすじ

 
友枝中学校に進学した木之本さくら。長らく離れ離れになっていた李小狼とも再会し、これからの中学校生活に期待を膨らませるその矢先、フードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中に。そして「さくらカード」は透明なカードに変化し効果を失っていた。
 
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
 
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。二人はお互い何かを感じるところがあったのか次第に交友を深めていく。一方、秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡にはある目的があった。
 
 

* 異性間の恋愛から同性間の友愛へ

 
物語の核心に入るのはまだこれからなので現時点でこのクリアカード編という作品を正確に評価するのは難しいですが、ここまで読んできて思うのは、物語展開のフォーマットは前作を踏襲しつつ、前作と比べてキャラクター相互の関係性描写の重心が変化しているという印象です。
 
それは端的に言えば「異性間の恋愛から同性間の友愛へ」ということです。
 
前作では、さくらが小狼や雪兎、あるいはエリオル、藤隆との関係性をひとつひとつ言語化していく作業を通じて、異性間の恋愛という新しい感情を発見していく過程に描写の重きがおかれていました。
 
一方、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が相互に同性間の友愛を交歓していく過程に描写の重きが置かれてるように思えます。
 
この点、お互いの名前が〈木之本桜/詩之本秋穂〉という鏡像関係となっているのは注目すべき点でしょう。フランスの精神科医ジャック・ラカンが提唱した鏡像段階論がいうように、我々は他者を「鏡」として「〈私〉とは何か」という自己理解を深めていくわけです。
 
 

* 二つの対幻想

 
こうしたさくらにおける関係性描写の変化は、吉本隆明氏のいう共同幻想論的文脈で言えば夫婦的対幻想から兄弟姉妹的対幻想への変化を想起させるものがあります。
 
共同幻想論によれば、国家は一つの幻想として捉えられます。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(夫婦的・兄弟姉妹的関係性)、共同幻想(国家的共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになります。
 
吉本氏本人は国家的な共同幻想の呪縛を脱する拠点としての対幻想のうち、夫婦的対幻想を重視する一方、兄弟姉妹的対幻想は容易に共同幻想と接続するものとして警戒していました(例えば「同期の桜」という言葉の意味を考えてみれば良いでしょう)。
 
しかし、現代におけるグローバル化、情報化の進展は、国家的な共同幻想の存在感を零落させ、代わりに「市場」という非幻想を前景化させます。
 
この時、夫婦的対幻想は容易に共同幻想に転化し、自己幻想の幼児的万能感を肥大化させる危険を孕むことになります。
 
一方で、もうひとつの対幻想である兄弟姉妹的対幻想は、国家的な共同幻想ではなく市場という非幻想へ接続されることで、国家的な共同幻想へ転換することなく対幻想のまま展開することになります。
 
ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが相補的な片割れとしてアイデンティティゲームによって繋がりをもっていくことになる。
 
批評家の宇野常寛氏が「母性のディストピア」で指摘しているように、こうした兄弟姉妹的対幻想の拡大現象は漫画やアニメなどのサブカルチャーの想像力の中にもジャンル横断的に確実に立ち現われています。
 
例えば、近年のロボットアニメにおける美少年同士のボーイズラブや、日常系アニメの微百合展開などは、歪な形ではありますが、確かにこうした文脈の中で了解可能と言えます。
 
 

* 内閉期における物語としてのさくら

 
CLAMPさんはこうした時代の想像力の変化を的確に捉えていたのでしょう。だからあえて、前作と同様「なかよし」での連載再開だったのではないのでしょうか?連載再開に至る経緯についての詳しい事情はよくわかりませんが、なんだかそういう風にも思えてしまうんですね。
 
これだけ成功したコンテンツですから、青年誌とかでさくらをノスタルジー的に消費してくれる客層相手に連載したほうがどう考えても楽だし確実なビジネスです。一方「なかよし」の読者の多くはさくらのさの字も知らないでしょう。
 
けれども、個人のアイデンティティのあり方においては、どういった想像力を参照するかという問題が深く関わってきます。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏が指摘するように、特に10代前半という時期は人格形成にとって重要な「内閉の時期」と言われています。この時期、子どもはあたかも「さなぎ」のような「こころの殻」を形成し、その内側で子どもから大人へとその精神を変容させていくわけです。
 
そうであればこそ、そうした繊細な時期を迎える子どもたちにこそ、本作品を何のバイアスもなしに純粋に一つの物語として読んでもらいたい。
 
もしかしてそんな想いがどこか、CLAMPさんの中にあったのかもしれませんね。
 
6巻ラストでは物語の核心ともいえる秋穂ちゃんの正体がついに詳らかにされました。月並みな感想で恐縮ですが、今後の物語の展開を楽しみにしたいと思います。
 
 

物語を紡ぎ出す力--私が語り伝えたかったこと(河合隼雄)

 

 

 
 

* はじめに

 
我が国の臨床心理学の礎を築いた知の巨人、河合隼雄氏の思索の軌跡をまとめた一冊です。
 
本書は氏の逝去後に、生前の講演やインタビューなどをご子息である河合俊雄氏が編纂したものであり、テーマは心理療法の他、教育、宗教、芸術、養生術など多岐に渡っています。
 
これらは一見バラバラのことを述べているようにも思われますが、深いところではきちんとリンクしています。
 
河合先生は何を語り伝えたかったのでしょうか?本書の表題に対する解は読み手に委ねられています。
 
むしろ我々読み手が自分なりに氏の残したメッセージを読み解き自分のものにしていく過程こそが、この不透明な時代を生き抜くための「知の資産」になるんだと思います。
 
そういう意味で本書は河合隼雄氏の我々への「遺言状」とも言えるでしょう。
 
 

* アイデンティティと物語

 
「私は私である」というアイデンティティというのは一見よくわかったようで実はよくわからない概念です。「私は私である」というその確信の源泉は何処にあるのでしょうか?
 
この点、アイデンティティという言葉を普及させた、米国の発達心理学者エリク・H・エリクソンアイデンティティというのはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)であるといいました。
 
エゴ・アイデンティティが確立している人とは「主体的な個人として社会にコミットできる人」のことです。具体的にいえば、真っ当な職業を持って、きちんと家族を養い、そして社会に対する自分の意見、判断力を持ち責任を取れる人を言います。
 
こうしたエリクソン的エゴ・アイデンティティ概念は「父(市民)になる」という近代的成熟観に立脚したもので理念としては正しい核心を持っていると思います。けれど少なくとも今日の日本においてあまりリアリティのあるものとして響かないようにも思われます。
 
これに対して河合氏は、エゴ・アイデンティティ概念の重要性は認めつつも、ファンタジーの重要性を強調しています。ここでいうファンタジーとは人が持つ内的な幻想のことであり、端的にいえばその人が持っている自分なりの「物語」のことです。
 
つまり、人が生きていく上で紡ぎあげていくその人なりの「物語」こそが「私が私である」というアイデンティティの源泉となるということです。こうした河合氏の考え方は現代における多様なライフスタイルを包摂する成熟のあり方といえるでしょう。
 
 

* 日本人の宗教観

 
こうした「物語」を創り出すにあたり、氏は宗教的価値観の重要性を強調します。ここでいう宗教とは何々教とかいう具体的な教団、宗派ではもちろんなく、超越的存在への畏敬という価値観のことを指しています。
 
この点、かつて日本においては、日常生活に根ざした素朴な宗教観が人のアイデンティティを支えていました。例えば「もったいない」という観念や「死んだらご先祖様になる」という信仰です。
 
しかし現代社会においてこうした宗教観は失われつつあります。これは各人が「物語」を創り出す上である種の困難をもたらします。けれども物語なきところでは人は根源的な不安に襲われる。こうして人は自力でなにがしかの物語を作り上げざるを得ず、時にそれはどこか歪なものにもなる。
 
人は物語に救われる事もあれば、物語に殺される事もあります。メンタルヘルスの不調や問題行動を解決する上で重要なのは「原因の解明」などではなく、その人なりの物語の紡ぎ直しを援助していく点にあるということです。
 
 

* 包み込む母性と切り離す父性

 
日本の教育は長きにわたり「民主的な平等主義」を錦の御旗として、子どもに偏差値を「平等に」に適用した結果、子どもを数字や順位のみで序列化していく風潮を生み出しました。つまりここで平等教育と序列教育は表裏の関係に立っているわけです。
 
中央教育審議会委員、文部科学省顧問、文化庁長官といった立場で教育行政にも携わってきた河合氏はこうした序列教育を批判しつつも、かといって「通知表は全員オール3」とか「みんな揃ってゴールイン」などという評価を放棄するような教育からも距離をおきます。
 
氏は、教育における評価は評価として行いつつも、そうした一連の評価とその子の尊厳は全く関係ないものであることを、腹の底まで理解して子どもに接しなければならないと強調します。
 
これは長年にわたり多くの「問題児」にカウンセラーとして関わってきた河合氏の経験と倫理からくる主張なのでしょう。真の意味で平等な教育とは、一人一人の子どもの特異性を大切にする教育であるということです。
 
こうした観点から、現場の先生方には母性原理と父性原理が統合された態度が必要であると述べます。
 
まず教師においては子どもの自主性を尊重し見守っていく母性原理的な優しさが必要となってくる。
 
氏は「思春期さなぎ説」というものを提唱しています。人間も子どもから大人になる前には蛹のように外殻を作って閉じこもる内閉期が必要であり、こうした蛹の時期には「見守る」という姿勢が重要になります。
 
時には外殻を作ることを手助けしたりする必要はあるかもしれないが、間違っても、外殻を剥がし取ろうとするような真似をしてはいけないということです。
 
こうして育ってきた個性が外に出る時、社会の常識とうまく調和せずどこかギクシャクしたものとして出てくることもあるでしょう。時に個性というのは悪の形で出てくるということです。
 
そこで、教師は本当に止めるべきを見極めて、その時はきちんと「それはダメだ」と断固と言える父性原理な強さも持たなければならない。
 
このように教育においては、いわば包み込む母性と切り離す父性という、一見相反する態度を高い次元で統合しながら子どもと関わって行く態度が必要になるということです。
 
 

* 自己実現の過程

 
河合氏の属するユング派を創始したスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングは意識体系の枢要である「自我」に対して、無意識をも含めた心全体の中心部に「自己」という元型を仮定します。
 
「自我とコンプレックス」「男性性と女性性」といった、心の中で様々に相対立する葛藤というのは、ユングによれば、ひとえに「自己」の働きによるものとされます。
 
自己とは、心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となります。こうした過程を個性化の過程、自己実現の過程と呼びます。
 
この点、ユングによれば、ある個人の自我が自らの自己と対決すべき時期が到来した時、内界で起きている心的事象に呼応するような外的事象が起きるといいます。
 
それは例えば、ある種のこころの不調かもしれませんし、人間関係の軋轢かもしれませんし、人生における挫折や喪失かもしれません。
 
けれどいずれにせよ、これらの事象の裏には自我がいよいよ自己との対決を試みている努力の表れがあるということです。
 
そこでユング心理学では、このような内的-外的に生じた事象を自己実現に向けた一つのコンステレーション(布置)として共時的に把握することを重視するわけです。
 
 

* コンステレーションを読み抜く時、物語は紡がれる

 
幸福のロールモデルが崩壊した現代社会において自らの生をコンステレーションする生き方はますます重要性を増しているでしょう。
 
内的-外的に生じた事象をひとつのコンステレーションとして読み抜いた時、そこには「物語」が生じてくる。
 
すなわち、現代における「生きる力」とは他者と関係性の中に「意味のあるめぐりあわせ」を見出し自らの生の物語を自在に紡ぎだし、書き換えていく力であるということです。
 
どのような物語を生きるかによって世界は生きづらさに満ちたものにも、自由と可能性に満ちたものにもなるでしょう。
 
幸せの青い鳥は「ここではない、どこか」はなく、いつも「いま、ここ」にいます。生きていればいろいろと嫌なこと、不安なこと、大変なこともあるでしょう。でも折角の人生です。この時代、この社会に生まれ落ちた「めぐりあわせ」を大事にしながら日々、生きていきたいものです。
 
 
 

発達障害から「普通」を問い直す--私たちは生きづらさを抱えている(姫野桂)

 

 

 

* 発達障害の「現場」を読み解く試み

 
本書は十数名に及ぶ当事者への詳細なインタビュー、対談、座談会、さらには著者である姫野さんご自身が発達障害と診断されるに至った体験談といった多彩な切り口を通じて、巷で流通する表面的な情報からは見えづらい発達障害の「現場」を読み解く試みです。
 
発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいいます。発達障害は大きく以下の3群に分類されます。
 
 
  
1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」と言えば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングにより、もう一つの自閉症であるアスペルガー症候群に光が当てられ、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。
 
こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」においては、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状として「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。
 
「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。
 
「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
こうしたASDの中核症状に関しては長らく有効な治療薬がないとされてきましたが、近年になりオキシトシン経鼻スプレーの有効性に関する報告が提出されています。
 
 
⑵ 注意欠如・多動性障害(ADHD
 
注意欠如・多動性障害(ADHD)は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」の主に2種類に分けられます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。
 
「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの薬としてはストラテラコンサータが有名でしょう。本書のインタビューを読む限りでは、ストラテラは副作用も多く合う合わないの差が激しく、一方、コンサータは概ね評判が良いようですが、薬効が切れた時の反動が大変みたいですね。
 
 
⑶ 限局性学習障害(LD)
 
限局性学習障害(LD)とは、知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。
 
読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。
 
こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 
 

* 発達障害の判定

 
発達障害は大人になってから発覚する例も多く、また、周囲との上手くいかなさからくるストレスでうつ病などの二次障害を併発することもあります。
 
発達障害かどうかを判定するにあたっては、精神科医の診察の他に、臨床心理士の面接やWAIS-Ⅲなどの心理検査が用いられる事があります。WAIS-Ⅲにおいて言語性IQと動作性IQの差(ディスクレパンシー)が15以上あれば発達障害傾向があると言われます。
 
実際のケースでは上記の3群のうちの2つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。姫野さんご自身は心理検査の結果「LD +ADHD傾向+ASD傾向」があると判定されたそうです。
 
もしも本書を読んで自身に思い当たる節があれば、心療内科なりを受診して診断名を付けてもらうというのも一つの方策かもしれません。
 
本書でも何人かの方は「発達障害とわかりほっとした」と述壊しています。診断名が付くことで、これまで感じていた漠然とした「生きづらさ」にある程度、肯定的な折り合いをつけることができる場合もあるのかもしれません。
 
ただ、発達障害の診断については医師によって見解の相違も大きく、受診する医療機関の選択は慎重に行った方が良いでしょう。
 
 

* 発達障害は「個性」なのか?

 
発達障害の特性は時として特定領域に関する驚異的な能力として具現し、あるいは、世間擦れしてない振る舞いが「純粋」「天真爛漫」などというイメージで魅力的に映ったりもします。
 
近年こうした発達障害の「明」の部分のみがクローズアップされ「発達障害は個性」という風潮もなきにしもあらずですが、障害自体はその人の「特異性」であり、それ以上でも以下でもない。
 
その「特異性」が「個性」と呼ばれるには「一般性」の世界で受け入れられる為の本人の努力と周囲の環境のめぐりあわせが必要になってくるわけです。
 
また、姫野さんが別著で述べているように、発達障害傾向があるものの診断名が付かない「発達障害グレーゾーン」の場合、発達障害という診断名がないだけに、ただただ「普通に空気が読めない人」「普通にミスが多い人」として周りから蔑まれ、自身を責め続けてしまう別の「生きづらさ」があるでしょう。
 

 

発達障害グレーゾーン (SPA!BOOKS新書)

発達障害グレーゾーン (SPA!BOOKS新書)

 

 

 

* 「普通」という思い込み

 
こうしてみると「定型発達か発達障害か」という問題設定自体があまり妥当ではないとも思うんです。
 
そもそも「定型発達」というものが本当に存在するのでしょうか?仮に「理想的な定型発達」のモデルがあって、そのモデルに寸分違わずぴったりな人がいたとしても、その人は果たして「生きづらさ」とは無縁の幸福な人生を送れるのでしょうか?
 
もとより発達過程は人それぞれであり、皆それぞれ何がしかの特異性を抱え込んでいるという意味では人は皆、発達障害と言えなくもないわけです。
 
何となく我々は自分は「普通」だと思い込んでいたりするわけですが、それはこれまでたまたま運良く環境とのめぐりあわせが良かっただけかもしれません。
 
もしかして、ほんのちょっとした環境の変化でたちまち「生きづらさ」を感じる境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。
 
そういった意味で本書が詳らかにしているのは「発達障害という他人事」ではなく、むしろ「自身の抱える特異性へどう向き合い、どう他者とつながっていくか?」という生き方一般における問題の所在そのものであるとも思います。色々と教わることの多い読書でした。
 
 
 

「セカイ系」と「奇跡のバーゲンセール」の間にあるもの--Kanon

 

 

 

* 「泣きゲー」の先駆け

 
年頭に久しぶりに「Kanon」を観返しました。折角なので感想を簡単に書いておきたいと思います。
 
本作はゲームブランドKeyの記念すべき処女作で、1999年6月4日に18禁PCゲームソフトとして発売。シナリオに「泣き」「感動」の要素を取り入れた、いわゆる「泣きゲー」と呼ばれるジャンルの先駆けとなった作品と言われています。
 
2006年には京都アニメーションの手によりアニメ化が実現。10年以上前とはとても思えない今観ても非常に美しい映像です。
 
 

* あらすじ

 
本作の主人公、相沢祐一は両親の海外赴任に伴い叔母の水瀬家に居候させてもらうことになり「雪の街」へ7年ぶりに帰ってくる。そこで幼馴染である水瀬名雪に再会するところから物語は始まります。
 
なぜか7年前の記憶を思い出せずにいる祐一は「雪の街」で出会う5人の少女達との交流を通じて、幼い頃の大切な記憶を取り戻していきます。
 
 

* それは確かに透明で優しい物語だった

 
10年以上前でしょうか。初めてKanonを観た時、世の中にはこんなにも透明で優しい物語があったのかなんて、もうそれはすごくベタに感動したんですよね。真琴ちゃんの話なんてもしかしたら本当に泣いたかもしれません。
 
ただいま観るとどうしてもね、どこかメタな視点で見てる自分に気づいてしまうんですよ。ああ、これは泣いていいよっていうメッセージなんだろうな、ここはきっと感動しなきゃいけない場面なんだろうな、っていう風に。
 
けどこれは致し方ないのでしょう。私も普通に年齢を重ねましたし、何より時代が求める感動のポイントはやはりその時々で変わってしまうわけです。
 
 

* 「セカイ系」としてのKanon

 
ところで、本作は「泣きゲー」の先駆けであるとともに「セカイ系」の萌芽ともなった作品でもあります。
 
セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。典型的なセカイ系作品として「最終兵器彼女(2000年)」「イリヤの空、UFOの夏(2001年)」「ほしのこえ(2002年)」などが挙げられます。
 
セカイ系についての有名な定義の一つに「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」というものがあります。
 
ややこしい定義ですが、要するにここで重要なのは主人公が「ヒロイン(想像的関係)」を媒介として「社会(象徴的関係)」からのデタッチメントと「セカイ(現実的関係)」へのコミットメントを同時に実現している点です。
 
この点、Kanonの少女達はどうでしょうか?主人公を全面的に庇護する幼馴染の少女(名雪)、主人公に依存する難病少女(栞・真琴)、主人公の盾となる戦闘美少女(舞)、そして主人公に奇跡をもたらす少女(あゆ)。
 
こうしてみると皆それぞれがセカイ系ヒロインの特性を極めてバランスよく担っていることが分かります。
 
つまり、Kanonという作品は「ヒロインによる母性的承認」によって「セカイからの承認」を仮構しているという点で正しくセカイ系の構造を内在させていると言えるでしょう。
 
 

* 「奇跡のバーゲンセール」という処方箋

 
では、なぜこうまでもKanonは徹底して「母」であろうとしているのでしょうか?これは本作品の時代背景を考える必要があります。
 
Kanonの原作ゲームがリリースされた90年代後半というのは、平成不況の長期化により、昭和的ロールモデルが破綻し、就職や結婚といった社会的自己実現のハードルが急激に上がった時代です。
 
すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代だということです。こうした時代の転換により、アイデンティティ不安に曝されることになった人々はひとまず「母」の承認の下で生き延びようとした。本作の背景にはこうした需要があったわけです。
 
認知行動療法に「シナリオ法」というものがあります。
 
これは認知の歪み(自動思考)を適正化する為の技法の一つで、全てが破滅に向かっていくというシナリオと奇跡が起きて全てが好転するというシナリオを考えます。こうした極端なシナリオの両方を考えてみることで、その中間にある現実的なシナリオが見えてくる。こうして認知の歪みを適正化していくわけです。
 
しばし本作は「奇跡のバーゲンセール」などと揶揄されたりすることもあります。けれど、その裏では、世界はそこまで悪くない、まだきっと人生捨てたものじゃないと、Kanonの紡ぐ奇跡に光明を見出した人も多かったのではないでしょうか。少なくともかつての私はそうでした。
 
そういう意味で本作は時代の急性期を乗り切る処方箋としての機能を果たしたと言えるでしょう。その功績は今後も決して色褪せることはないと思います。人生に行き詰まった時は是非Kanonを観てください。きっと何かが変わると思います。奇跡はあるんだよ、ファイトだよ。
 
 

「欲望の本質」を見極めるという倫理--凡人として生きるということ(押井守)

 

凡人として生きるということ

凡人として生きるということ

 

 

 

 

* はじめに

 
ビューティフル・ドリーマー」「パトレイバー」「攻殻機動隊」「イノセンス」「スカイクロラ」など、アニメーション史上に残る数多くの作品を手掛けた世界的クリエイター押井守監督の劇薬人生論。巷に流布される様々なデマゴギーに惑わされず融通無碍に生きる術を説く一冊。以下、その言説をいくつか紹介します。
 
 

* 「若さ」に価値はない

 
だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家くらいのものだろう。人間を一つの兵器、兵力としてみるなら、なるほど若さには一定の価値があるかもしれない。
 
(本書より〜Kindle No.147)

 

 
本書は「若さには価値がある」というのはデマゴギーであると主張します。では、なぜそういうデマが流布するのでしょうか?それは「若さには価値がある」という考えが一種の強迫観念と化すことで「若さ」をキーワードとした様々な商品やサービスが売れるからです。
 
そして、眩しいばかりの青春を描いた映画やアニメなどはそういうデマゴギーを再強化する役割を果たしており、そういう類の映画やアニメはある種のSFファンタジーとして観るべきだと言います。あれが「普通の青春」だと思ってしまうから、そんな「眩しさ」から程遠いところにいる自分を顧みて苦しむわけです。
 
こう述べる裏にはかつて「終わりなき日常」を描いた「うる星やつら」の演出を通じてそういうデマゴギーに加担してしまった押井監督自身の自責の念があるようです。
 
 

* 「ウソをついてはいけない」というウソ

 
これだけウソがまかり通っているのに、「ウソはいけない」という掛け声だけが叫ばれる。特に子供たちは親から「ウソはいけない」と教え込まれる。だが、当の大人は当然のようにウソをつく。
 
(本書より〜Kindle No.297)

 

 
臨床心理学者・河合隼雄先生の「嘘は常備薬、真実は劇薬」という有名な言葉があるように、世の中には吐いても良い嘘と悪い嘘があります。どういう時にどういう嘘ならついていいのか。その辺りの機微をわかるのが「大人になる」という事です。
 
要するに「ウソをついてはいけない」というのは綺麗な原理原則であって、実際の世の中には数多くの例外があるわけです。重要なのはどこまでが許される例外なのかを見極めることであり、この原則に金科玉条的に縛られるというのは自分も周りも不幸にするだけでしょう。
 
 

* 「美しい友情」という虚構

 
「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間はずれにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
 
(本書Kindle No.1376)

 

 
現代はコミュニケーションが自己目的化している時代であると言われます。LINEのスタンプなんかそうですけど、何かをする為にコミュニーケーションをするのではなく、コミュニケーションをやっていることを確認する為にコミュニケーションをやっているような部分があります。
 
けれどどこまでいっても損得抜きの「美しい友情」というのは幻想でしかない。人間関係というのはやはりどこかで損得勘定に還元されてしまうのは確かです。「無償の愛」という言葉がありますが、その「無償の愛」を与えている人にもやはり「無償の愛を与えている自己イメージ」という「得」があるわけです。
 
裏返して言うと、人間関係を損得で考える自分を責める必要は全然ないということです。逆に、お互いに損得抜きでの関係性を築けているとベタに信じ込んでいるようであればかなり危険です。もしもその人から裏切られた時のダメージは計り知れないものになるでしょう。
 
 

* デマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める

 
本書では随所で「オヤジになれ」と説きます。これはいたずらに馬齢を重ねる事とは勿論違います。オヤジになるということ。それはデマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める事を言います。
 
人が生きる上で欲望は必要不可欠ですが、欲望というのは文化、社会、あるいは世間という〈他者〉が生み出すものであり、人は基本的に皆が欲しがるものを欲しがるようにできています。
 
「〈他者〉の欲望」に振り回されるのは非常に苦しい生き方になります。「男/女は普通こうあるべきだ、こうなるべきだ」という社会のロールモデルが崩壊した現代においては尚更そうでしょう。
 
こうした「〈他者〉の欲望」から真に自由であるためには、デマゴギーデマゴギーであると見破り、その上で「まさにこれだ」と確信していえる自分の中にある「純粋な欲望」は何なのかを見極めることが大事になってくるということです。
 
 

* おわりに〜押井映画における倫理的態度

 
本書で述べられる押井監督の人生観は近年の押井作品で言えば「イノセンス」のバトーの姿と重なるものがあります。
 
かつて押井映画のダイナミズムを支えていたのは「終わりなき日常」という永遠性を内破するという倫理的態度でした。
 
際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描いた「うる星やつら2〜ビューティフル・ドリーマー1984)」然り、首都圏への大規模テロのシュミレーションを情報論的に展開した「機動警察パトレイバー(1989/1993)」然りです。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては、広大なネッワークというフロンティアの果てに、新たなる可能性を見出していく。ラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きます。
 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは畢竟、陳腐な「終わりなき日常」でしかなかったというある種の諦観が描かれています。
 
こうしてその後「イノセンス(2004)」で描き出されたのが、ネットワークの守護天使(素子)に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するサイボーグ(バトー)の姿でした。
 
イノセンス、つまりそれは「純粋な欲望」ということなのでしょう。もはや「終わりなき日常」しかない世界において、押井さんが見出した新たな倫理的態度とはすなわち「欲望の本質を見極めた態度=オヤジになること」だったんだと思います。
 
終身雇用、年功序列といった昭和的ロールモデルが崩壊し、グローバル化、情報社会化が進展する現代において、かつてのような意味での「オヤジ」になれずアイデンティティ不安や生きづらさを抱える人にとって、本書が提示する「新しいオヤジ像」は一つの指針となるのではないでしょうか。
 
 

「リトル・ピープルの時代(宇野常寛)」〜「いま、ここ」に深く潜る想像力。

 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)
 

 

 

* はじめに

 
ゼロ年代の想像力」で一世を風靡した気鋭の批評家、宇野常寛氏が震災直後の2011年7月に世に問うた労作。本書は戦後社会を「ビッグ・ブラザーの時代」と「リトル・ピープルの時代」の二つに切り分け、現代を生きるための「想像力」とは何かを問う一冊です。
 
 

* 「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」

 
「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オールウェルの風刺小説「1984年」に登場する国民統合のシンボルとしての疑似人格体の事です。本書では「国民国家という幻想」の比喩として使用されます。
 
かたや「リトル・ピープル」とは村上春樹の小説「IQ84」に登場する超自然的な力を発揮する一種の幽体のことです。本書では「超国家的な資本と情報のネットワーク」の比喩として使用されます。
 
そして本書は現代社会を規定するのは「国民国家という幻想=ビッグブラザー」ではなく「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」であると述べます。
 
すなわち、近代において長らく世界と個人を規定していた「国民国家という幻想=ビッグブラザー」は政治の季節が極相を迎えた1968年以降、消費経済の成熟と共に徐々に機能不全に陥り、冷戦終結バブル経済崩壊を経た1995年頃には完全にその機能を停止することになる。
 
そしてビッグブラザーの機能停止と入れ替わるように、グローバル資本主義とインターネットなどの情報環境の発展を背景に「超国家的な資本と情報のネットワーク=リトルピープル」が台頭し始める。以上が本書の基本的な時代認識となります。
 
 

* 理想・夢・虚構

 
ではこのビッグブラザーなきリトルピープルの時代において、人はどのようにアイデンティティを確保し世界と関係していくことになるのでしょうか?
 
この点、社会学者の見田宗介氏は「現実」は常に「反現実」によって意味付けられるとして、どのような「反現実」がリアリティを持っていたかで時代の区分を試みています。
 
1950年代までのビッグブラザーがまだ機能していた時代においては「高度経済成長」「アメリカン・デモクラシー」あるいは「ソビエトコミュニズム」といった「イデオロギー」が「反現実」として機能していた。これを見田氏は「理想の時代」と呼びます
 
そして1960年代、政治の季節という「夢の時代」を経た後、1970年代のビッグブラザーの解体期においては、今度はイデオロギーの代わりに「サブカルチャー」が反現実として機能し始める。
 
「理想」を失ったのち、人々は「架空年代記」や「最終戦争」といった「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実」を夢想する事でアイデンティティ不安を埋めあわせようとした。これを見田氏は「虚構の時代」と呼びます。
 
ところが1990年代、ビッグブラザーに成り代わりリトルピープルが台頭し始め、世界中が資本と情報のネットワークで接続されてしまうと「ここではない、どこか」という「虚構=仮想現実の依り代となる「絶対的な外部」というものにリアリティがなくなってしまう。
 
つまり「リトル・ピープルの時代」において、「虚構」は「反現実」として機能しない。この端的な現れが1995年の地下鉄サリン事件という事になります。
 
ではこの「リトル・ピープルの時代」あるいは「ポスト・虚構の時代」における「反現実=想像力」とは何か?
 
これが本書の問題意識であり、こうした観点からメインカルチャーを代表する作家である村上春樹と、仮面ライダーをはじめとした特撮・アニメといったサブカルチャーを比較考察するという非常にユニークな試みを展開しています。
 
 

* 「拡張現実」という想像力

 
本書が「リトル・ピープルの時代」と呼ぶ1995年以降の時代を、批評家の東浩紀氏は「動物の時代」として捉えます。
 
ここでいう「動物」とはロシアの哲学者アレクサンドル・コジューヴに依拠した概念で「人間的欲望」の欠如した「動物的欲求」のみを持つ存在のことです。つまり、東氏によれば、現代社会の人間像とは、個人の生の意味づける「大きな物語」への欲望より、記号的なキャラクターやウェルメイドなドラマへの「欲求」を優先させる「データベース的動物」であるということです
 
そして、社会学者の大澤真幸氏によれば、東氏がいうこの「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。
 
すなわち、大澤氏は現代における「反現実」として⑴例えば自傷行為のように「反現実」の機能を現実そのもので代替する「現実への逃避」、および⑵例えばフィルタリングのように危険性や暴力性を排除し現実を虚構化する「極端な虚構化」を挙げ、この矛盾する二つの傾向はともに「直接には、認識や実践に対して立ち現れることのない何か=不可能なもの」という点で共通しており、ゆえに現代はこの「不可能なもの」が反現実として機能する時代であるというわけです。
 
これらの議論に対して本書は「リトル・ピープルの時代」における「反現実」として「拡張現実」という概念を提唱します。
 
拡張現実。それは「いま、ここ」を多重化し、読み替え、深く潜っていく想像力のことです。
 
例えば、今日の朝ごはん、道端で見かけた花といった日常の生活風景がSNSなどで共感を集めたり、あるいは、なんでもない街角や路地裏が「アニメの聖地」になったり、また、文字通り日々の様々な「いま、ここ」に意識を向けていくマインドフルネス実践が医療やビジネスなど様々な分野で注目を集めたりするのは拡張現実的現象として理解できるかと思います。
 
 

* おわりに

 
人は生の実感を得る上でなにがしかの想像力を必要とします。以前はイデオロギーサブカルチャーがその機能を担っていたわけです。
 
けれども、世界中が資本とネットワークで接続された現代において「いつか革命が起きる」とか「やがて最終戦争が起きる」などとという「ここではない、どこか」はもうベタに信じることはできず、せいぜいメタかネタで演じるしかないわけです。
 
ありもしない「ここではない、どこか」を仮想するのではなく、まさにこの「いま、ここ」を拡張することで幸せの在処を見出していく。現代とはそういう想像力が求められている時代ということなんでしょう。前作を上回る圧倒的な射程範囲と情報量、読ませる文章力、迸るパッション。なかなか刺激的な読書でした。
 
 

「血流がすべて解決する(堀江昭佳)」〜つくり、ふやし、めぐらせる。

 

血流がすべて解決する

血流がすべて解決する

 

 

 

* 心身の不調に関わる「血流」

 
漢方医学と現代医学の統合的観点から、血流を増やす方法を紹介する一冊です。
 
 
心臓を出た血液は1分間で全身をめぐりまた心臓へと帰ってくる、この流れが「血流」です。
 
血液は全身を流れることで、水分を保ち、酸素、栄養、ホルモンを全身の細胞に届け、老廃物や二酸化炭素を回収し、体温や免疫を維持する役割を果たしており、心と体の様々な悩みはこの血流に深く関係していると本書は言います。
 
すなわち、本書によれば血流の問題は、高血圧、心筋梗塞脳梗塞といった血管が詰まる病気はもちろんのこと、生理痛、不妊症、肩こり、ひざ痛、果てはガンや認知症といった病気、さらには、鬱や自律神経失調症などの精神疾患、やる気が出ない、自信がない、イライラするといった心の悩みにまで関わっているということです。
 
  

* 目指すべきは「血流たっぷり」

 
ところで「血流」を改善するということはいわゆる「血液サラサラ」の状態を想像しがちですが、本書はまず目指すべきは「血流たっぷり」であるという。
 
もちろん「血液ドロドロ」がいいわけではないでしょう。糖尿病、心筋梗塞脳梗塞、高コレステロールといった生活習慣病の予防や治療において「血液サラサラ」は重要になります。
 
けど、特にメタボでもない「血」が足りていない人が、いくら血液をサラサラにしても意味がなく、それどころか足りない血流を無理やりサラサラにして全身に巡らせると逆に体調を崩してしまうこともあるそうです。
 
また、漢方でいう「血」とは単に「血液」だけでなく血液中の栄養やホルモンなどをも含む概念である。つまり「血流たっぷり」というのは「血の質」をよくするという意味合いもある。
 
すなわち、血を増やして血流を良くするというのは細胞レベルで体の働きを活性化し重大な病気や不調を防ぐことにつながるわけです。
 
 

* 気虚血虚・瘀血 

 
本書は血流が悪い理由は体質と密接に結びついていると言います。すなわち「血が作れない」のは「気虚体質」に、「血が足りない」のは「血虚体質」に「血が流れない」のは「瘀血(おけつ)体質」と関わっているそうです。
 
気虚体質は、身体面では胃腸関係の不調が目立ちます。また精神面ではやる気が出ないといった特徴があります。
 
血虚体質は、身体面では、老化を促進する傾向があり、女性の場合婦人科系のトラブルが目立ちます。また精神面ではすぐに不安になるという特徴があります。
 
瘀血体質は、身体面では低血圧の人が多く、朝起きれない、体がだるい、肩こり、頭痛、めまい、耳鳴りなどの症状が目立ちます。また精神面では、イライラしやすかったり自分の感情をコントロールできなかったりする傾向が見られます。
 
血流が悪い人はだいたいこのどれかに当てはまり、下手すると3つの全ての体質が当てはまるケースもあるようです。
 
ゆえに血流を良くするにはこの体質を根本的に改善しなければならないということです。
 
 

* つくり、ふやし、めぐらせる

 
本書では、赤血球の生成サイクルである「4ヶ月」を目安に上記の「気虚」「血虚」「瘀血」という体質を順に改善していく方法を紹介しています。
 
この点、重要なのは必ず「気虚」「血虚」「瘀血」の順番に改善して行くことであると言います。血は作れないから足りなくなり、足りないから流れないのであり、血の量が絶対的に足りていない状態で血を流してしまうと逆に不調をきたしてしまうそうです。
 
一番に取り組むべき「気虚」の改善の目安は「朝、きちんとお腹が空いてること」です。これは胃腸が丈夫になったということです。
 
次に「血虚」の改善の目安は夢を見ることが減ったり、朝スッキリ起きられるようになることです。
 
そして血が増え始めてきたところで満を持して「瘀血」の体質改善に取り組むという流れになります。
 
本書では、まず最初の一週間は食事改善(本書第三章)に集中し、次の二週目に睡眠改善(本書第四章)を加え、三週目から生活習慣改善(本書第五章)を取り入れ、順番に「気虚」「血虚」「瘀血」を改善していくプログラムを提案しています。
 
ここでは第三章の「血をしっかり作るための食べ方10の真実」の見出しだけ紹介しておきます。
 
① 満腹より空腹がいい
 
② 「一週間夕食断食」で胃腸がよみがえる
 
④ 夕食断食をすると、内側から若返る
 
⑤ パン食よりごはん食がいい
 
⑥ ほうれん草では鉄分を補えない
 
⑦ 血流不足にマクロビはすすめない
 
⑧ 血を増やしたければ肉食女子になりなさい
 
⑨ 下腹ぽっこりは血流の大敵
 
⑩ 命への感謝が血をつくる
 
 

* おわりに

 
上記の見出しを見て「本当?」って驚かれた方もいるんじゃないでしょうか?
 
スマホで適当に検索した断片的なヘルスケア情報を鵜呑みにして「私は健康に気を使っている」と思い込むのはまずいということですね。なんとなく不調が気になるけど、どこからどう手をつけていいのかわからないという向きには参考になるかもしれません。