かぐらかのん

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「欲望の本質」を見極めるという倫理--凡人として生きるということ(押井守)

 

凡人として生きるということ

凡人として生きるということ

 

 

 

 

* はじめに

 
ビューティフル・ドリーマー」「パトレイバー」「攻殻機動隊」「イノセンス」「スカイクロラ」など、アニメーション史上に残る数多くの作品を手掛けた世界的クリエイター押井守監督の劇薬人生論。巷に流布される様々なデマゴギーに惑わされず融通無碍に生きる術を説く一冊。以下、その言説をいくつか紹介します。
 
 

* 「若さ」に価値はない

 
だが、若さに価値があるなどという言説は、実は巧妙に作られたウソである。もしも本当に若さそのものに価値を見出している者がいるとしたら、それは戦争を遂行中の国家くらいのものだろう。人間を一つの兵器、兵力としてみるなら、なるほど若さには一定の価値があるかもしれない。
 
(本書より〜Kindle No.147)

 

 
本書は「若さには価値がある」というのはデマゴギーであると主張します。では、なぜそういうデマが流布するのでしょうか?それは「若さには価値がある」という考えが一種の強迫観念と化すことで「若さ」をキーワードとした様々な商品やサービスが売れるからです。
 
そして、眩しいばかりの青春を描いた映画やアニメなどはそういうデマゴギーを再強化する役割を果たしており、そういう類の映画やアニメはある種のSFファンタジーとして観るべきだと言います。あれが「普通の青春」だと思ってしまうから、そんな「眩しさ」から程遠いところにいる自分を顧みて苦しむわけです。
 
こう述べる裏にはかつて「終わりなき日常」を描いた「うる星やつら」の演出を通じてそういうデマゴギーに加担してしまった押井監督自身の自責の念があるようです。
 
 

* 「ウソをついてはいけない」というウソ

 
これだけウソがまかり通っているのに、「ウソはいけない」という掛け声だけが叫ばれる。特に子供たちは親から「ウソはいけない」と教え込まれる。だが、当の大人は当然のようにウソをつく。
 
(本書より〜Kindle No.297)

 

 
臨床心理学者・河合隼雄先生の「嘘は常備薬、真実は劇薬」という有名な言葉があるように、世の中には吐いても良い嘘と悪い嘘があります。どういう時にどういう嘘ならついていいのか。その辺りの機微をわかるのが「大人になる」という事です。
 
要するに「ウソをついてはいけない」というのは綺麗な原理原則であって、実際の世の中には数多くの例外があるわけです。重要なのはどこまでが許される例外なのかを見極めることであり、この原則に金科玉条的に縛られるというのは自分も周りも不幸にするだけでしょう。
 
 

* 「美しい友情」という虚構

 
「友人は手段」という言い方は、「友情は美しい」というより、ずっと冷たく聞こえるかもしれない。でも、そう割り切ってしまえば、別に友達がいようがいまいが、そんなことは気にならなくなる。仲間はずれにされようと、同級生から無視されようと、そんなことはどうでもよくなってくるはずなのだ。
 
(本書Kindle No.1376)

 

 
現代はコミュニケーションが自己目的化している時代であると言われます。LINEのスタンプなんかそうですけど、何かをする為にコミュニーケーションをするのではなく、コミュニケーションをやっていることを確認する為にコミュニケーションをやっているような部分があります。
 
けれどどこまでいっても損得抜きの「美しい友情」というのは幻想でしかない。人間関係というのはやはりどこかで損得勘定に還元されてしまうのは確かです。「無償の愛」という言葉がありますが、その「無償の愛」を与えている人にもやはり「無償の愛を与えている自己イメージ」という「得」があるわけです。
 
裏返して言うと、人間関係を損得で考える自分を責める必要は全然ないということです。逆に、お互いに損得抜きでの関係性を築けているとベタに信じ込んでいるようであればかなり危険です。もしもその人から裏切られた時のダメージは計り知れないものになるでしょう。
 
 

* デマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める

 
本書では随所で「オヤジになれ」と説きます。これはいたずらに馬齢を重ねる事とは勿論違います。オヤジになるということ。それはデマゴギーに惑わされず「欲望の本質」を見極める事を言います。
 
人が生きる上で欲望は必要不可欠ですが、欲望というのは文化、社会、あるいは世間という〈他者〉が生み出すものであり、人は基本的に皆が欲しがるものを欲しがるようにできています。
 
「〈他者〉の欲望」に振り回されるのは非常に苦しい生き方になります。「男/女は普通こうあるべきだ、こうなるべきだ」という社会のロールモデルが崩壊した現代においては尚更そうでしょう。
 
こうした「〈他者〉の欲望」から真に自由であるためには、デマゴギーデマゴギーであると見破り、その上で「まさにこれだ」と確信していえる自分の中にある「純粋な欲望」は何なのかを見極めることが大事になってくるということです。
 
 

* おわりに〜押井映画における倫理的態度

 
本書で述べられる押井監督の人生観は近年の押井作品で言えば「イノセンス」のバトーの姿と重なるものがあります。
 
かつて押井映画のダイナミズムを支えていたのは「終わりなき日常」という永遠性を内破するという倫理的態度でした。
 
際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描いた「うる星やつら2〜ビューティフル・ドリーマー1984)」然り、首都圏への大規模テロのシュミレーションを情報論的に展開した「機動警察パトレイバー(1989/1993)」然りです。
 
そして「攻殻機動隊(1995)」においては、広大なネッワークというフロンティアの果てに、新たなる可能性を見出していく。ラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯きます。
 
しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは畢竟、陳腐な「終わりなき日常」でしかなかったというある種の諦観が描かれています。
 
こうしてその後「イノセンス(2004)」で描き出されたのが、ネットワークの守護天使(素子)に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するサイボーグ(バトー)の姿でした。
 
イノセンス、つまりそれは「純粋な欲望」ということなのでしょう。もはや「終わりなき日常」しかない世界において、押井さんが見出した新たな倫理的態度とはすなわち「欲望の本質を見極めた態度=オヤジになること」だったんだと思います。
 
終身雇用、年功序列といった昭和的ロールモデルが崩壊し、グローバル化、情報社会化が進展する現代において、かつてのような意味での「オヤジ」になれずアイデンティティ不安や生きづらさを抱える人にとって、本書が提示する「新しいオヤジ像」は一つの指針となるのではないでしょうか。