かぐらかのん

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「私たちは生きづらさを抱えている(姫野桂)」〜発達障害から「普通」を問い直す

 

 

 

* 発達障害の「現場」を読み解く試み

 
本書は十数名に及ぶ当事者への詳細なインタビュー、対談、座談会、さらには著者である姫野さんご自身が発達障害と診断されるに至った体験談といった多彩な切り口を通じて、巷で流通する表面的な情報からは見えづらい発達障害の「現場」を読み解く試みです。
 
発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいいます。発達障害は大きく以下の3群に分類されます。
 
 
  
1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表して以来、長らく「いわゆる自閉症」と言えば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を伴うカナー症候群が連想されてきました。
 
ところが1980年代、イギリスの精神科医ローナ・ウィングにより、もう一つの自閉症であるアスペルガー症候群に光が当てられ、自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となります。
 
こうした流れを受け、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-V)」においては、カナー症候群とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害ASD)」として統合されることになります。
 
ASDの主な症状として「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられます。
 
「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れます。
 
「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れます。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もあります。
 
こうしたASDの中核症状に関しては長らく有効な治療薬がないとされてきましたが、近年になりオキシトシン経鼻スプレーの有効性に関する報告が提出されています。
 
 
⑵ 注意欠如・多動性障害(ADHD
 
注意欠如・多動性障害(ADHD)は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」の主に2種類に分けられます。比喩的に前者は「のび太型」、後者は「ジャイアン型」と言われたりもします。
 
「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがあります。
 
「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともあります。
 
ADHDの薬としてはストラテラコンサータが有名でしょう。本書のインタビューを読む限りでは、ストラテラは副作用も多く合う合わないの差が激しく、一方、コンサータは概ね評判が良いようですが、薬効が切れた時の反動が大変みたいですね。
 
 
⑶ 限局性学習障害(LD)
 
限局性学習障害(LD)とは、知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害です。
 
読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがあります。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。
 
こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もあります。
 
 

* 発達障害の判定

 
発達障害は大人になってから発覚する例も多く、また、周囲との上手くいかなさからくるストレスでうつ病などの二次障害を併発することもあります。
 
発達障害かどうかを判定するにあたっては、精神科医の診察の他に、臨床心理士の面接やWAIS-Ⅲなどの心理検査が用いられる事があります。WAIS-Ⅲにおいて言語性IQと動作性IQの差(ディスクレパンシー)が15以上あれば発達障害傾向があると言われます。
 
実際のケースでは上記の3群のうちの2つまたは全てがクロスオーバーしている場合も珍しくありません。姫野さんご自身は心理検査の結果「LD +ADHD傾向+ASD傾向」があると判定されたそうです。
 
もしも本書を読んで自身に思い当たる節があれば、心療内科なりを受診して診断名を付けてもらうというのも一つの方策かもしれません。
 
本書でも何人かの方は「発達障害とわかりほっとした」と述壊しています。診断名が付くことで、これまで感じていた漠然とした「生きづらさ」にある程度、肯定的な折り合いをつけることができる場合もあるのかもしれません。
 
ただ、発達障害の診断については医師によって見解の相違も大きく、受診する医療機関の選択は慎重に行った方が良いでしょう。
 
 

* 発達障害は「個性」なのか?

 
発達障害の特性は時として特定領域に関する驚異的な能力として具現し、あるいは、世間擦れしてない振る舞いが「純粋」「天真爛漫」などというイメージで魅力的に映ったりもします。
 
近年こうした発達障害の「明」の部分のみがクローズアップされ「発達障害は個性」という風潮もなきにしもあらずですが、障害自体はその人の「特異性」であり、それ以上でも以下でもない。
 
その「特異性」が「個性」と呼ばれるには「一般性」の世界で受け入れられる為の本人の努力と周囲の環境のめぐりあわせが必要になってくるわけです。
 
また、姫野さんが別著で述べているように、発達障害傾向があるものの診断名が付かない「発達障害グレーゾーン」の場合、発達障害という診断名がないだけに、ただただ「普通に空気が読めない人」「普通にミスが多い人」として周りから蔑まれ、自身を責め続けてしまう別の「生きづらさ」があるでしょう。
 

 

発達障害グレーゾーン (SPA!BOOKS新書)

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* 「普通」という思い込み

 
こうしてみると「定型発達か発達障害か」という問題設定自体があまり妥当ではないとも思うんです。
 
そもそも「定型発達」というものが本当に存在するのでしょうか?仮に「理想的な定型発達」のモデルがあって、そのモデルに寸分違わずぴったりな人がいたとしても、その人は果たして「生きづらさ」とは無縁の幸福な人生を送れるのでしょうか?
 
もとより発達過程は人それぞれであり、皆それぞれ何がしかの特異性を抱え込んでいるという意味では人は皆、発達障害と言えなくもないわけです。
 
何となく我々は自分は「普通」だと思い込んでいたりするわけですが、それはこれまでたまたま運良く環境とのめぐりあわせが良かっただけかもしれません。
 
もしかして、ほんのちょっとした環境の変化でたちまち「生きづらさ」を感じる境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。
 
そういった意味で本書が詳らかにしているのは「発達障害という他人事」ではなく、むしろ「自身の抱える特異性へどう向き合い、どう他者とつながっていくか?」という生き方一般における問題の所在そのものであるとも思います。色々と教わることの多い読書でした。