かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

カゴメの「ちいさなももこ」×「トマトの土」でミニトマト栽培

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トマトにはビタミンEの100倍といわれる抗酸化力を持つリコピンが豊富に含まれていて、アンチエイジング的には毎日のようにコンスタントに食べたいものです。なので、今年は自分で育てることにしました。
 
苗を買いに行ったらスーパーでよく見かけるカゴメミニトマト「小さなももこ」の苗が出回っていたので、これまたカゴメの「トマトの土」と一緒に購入。最近のカゴメは「トマト・フーデニング(フード+ガーデニング)」っていって園芸事業にも積極的らしいですね。 
 

 

プロトリーフ KAGOME そのまま育てるかる?いトマトの土 15L

プロトリーフ KAGOME そのまま育てるかる?いトマトの土 15L

 

 

「トマトの土」の色はまさにトマトソースみたいな赤。20L入っているのにすごい軽いんですよ。マクラかっていうくらい軽い。ココヤシの実から作られているらしくて、水捌けすごい良さそうです。
 
トマトは少し乾燥気味の土壌が好きみたいなので、水やりは心なし控え目なのがいいみたいですね(ただし、これは一般的な保水性のある土の話で、「トマトの土」の場合ははすごい水はけが良いので普通に毎日、水をやらないと萎れてしまいます)。
 
トマト栽培特有のキーワードが「第一花房」。ともかく第一花房をきちんと着果させることができるかどうかがその後の収穫量を左右されるそう。
 
あと、トマトは原則1本仕立てなので、わき芽かきは重要。放っておいたら主枝と伸びたわき芽との区別がつかなくなってしまいますから、伸びてきたわき芽は速やかに摘んでしまうのがベター。折角伸びてきたものを摘むのは何となくもったいないですけどね(´・ω・`)
 
せっかく良い苗と土を買ったからには、大量収穫のためにもこまめにお世話していきたいですね。
 
追記:その後のももこ
 

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記念すべき一番花。なかなか可憐です。第一果房の着果は重要なので、一応、枝を揺すって人工授粉。トマトトーンというものもあるらしいです。
 

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そういうわけで、第一果房に無事着果。そろそろ追肥のタイミングですね。
 

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トマト栽培のポイントの一つの脇芽かき。この主枝と側枝の間から出てきているやつが脇芽。
 
基本1本仕立てなので脇芽はすべて除去していきます。
 
ヘタに放置して大きくなると、なんか情が移ってしまいそうなので、ちょこっと出た時点でさっさと除去することにしてます。
 
支柱の高さ(170㎝)を越えたら摘芯します。よくトマトは第四花房か第五花房で摘芯、と言われるのは大玉の場合です。
 
 
 

ピーマンを越冬させてみた!

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一年草と見せかけて本当は多年草なピーマン。最低生存温度の10度を下回らなければ越冬できるそうなので、12〜4月の間は室内に入れて様子を見ていたところ、期待に応えてきっちり冬を越えてくれました!
 
しかも、4月に入ってから新芽がどんどん出てきて、もう何気に花が付いています。
 
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コツも何も、特別なことは何一つしていなくて。10度以上の環境を維持して、普通に水をちゃんと毎日あげて、日中は窓際に出してきちんと日光に当てただけ。
 
ただ、主枝が横にかなり伸びすぎているというのはあったので、こんな感じで切り戻ししておけばよかったかも。
 
 
そういうわけで、園芸初心者にピーマンはオススメです!去年はほぼ完全放任で40個くらい実がなりました。加湿も嫌い乾燥も苦手っていう難しいイメージがあるけど、実際はそこまで神経質にならなくていい気がします。
 
ただ、雨で花が落ちてしまうので、軒下で育てるのは鉄則。あと本当はきちんとマスキングして、1番花の下はきっちり整枝して3本仕立てくらいで育てたほうが栄養が分散しないから、きっといいんでしょうね。いや、でもほんと素晴らしい生命力です♪( ´▽`)
 
 
 

「嫌われる勇気(岸見一郎・古賀史健)」を読む。「課題の分離」から「共同体感覚」へ。

 
 
 
 
フロイトユングと並び称され、欧米で絶大な支持をもつと言われるアドラーの個人心理学をソクラテスメソッドでわかりやすく説くというコンセプトで書かれてベストセラーとなった『嫌われる勇気』。
 
「哲人」が語る「トラウマを否定する」「承認欲求も否定する」「叱ってもいけないが褒めてもいけない」「計画的な人生など不可能」「不幸な人は自分で不幸を選んでいるだけ」などといった「アドラーの教え」に対し「青年」がサディストだの危険思想だの悪魔的教唆だのと、いちいち憤激するという三文芝居がループする展開が普通に読み物として面白い。
 
先の哲人の言葉にあるようにアドラーの主張は一見、常識へのアンチテーゼのようにも見えますが、現在の認知行動療法などアドラー心理学をあたかもマニュアル化したものではないのかと思うほど、心理療法的にはむしろ恐ろしく普遍性に満ちているといえるでしょう。
 
なんでこの本が出るまで日本でアドラーがあまり知られていなかったのか不思議で仕方がないくらいに。フロイトと袂を分かち自由精神分析協会を立ち上げたところから始まった個人心理学ですが、現在の精神分析の主流派がフロイト的欲動論から徐々に離れて、アドラーの主張とどんどん親和性を帯びてきているという潮流もある意味うなずけます。
 
アドラーに言わせれば、「悩み」は過去のトラウマなどといった「原因」から生じるのではなく、人生の本当の課題に直面したくないという「目的」が作り出している「嘘」であり、その典型が「背が低いから運動ができない」とか「顔が悪いから異性にもてない」などといった劣等コンプレックスであるという。
 
このような「だから私は何々ができない」という「言い訳」があれば、ひとまず自分の心を守ることができるからです。このような思考は認知行動療法でいうとところのスキーマあるいは自動思考の歪みに相当するものであり、その矯正のための方法論は現在数多く開発されていますが、これらは本質的にはアドラーのいう「ライフスタイルの転換」の変奏曲であって、要は本質的には同じものを手を替え品を替え「何とか療法」としてパッケージし直して出しているわけです。
 
アドラー自身が提示する処方はまず「課題の分離」であり、これは『嫌われる勇気』という書名にも繋がってきます。そしてその究極的な到達点は「共同体感覚」であるとされます。
 
ここでいう共同体という概念は、学校、職場、地域社会のみならず、国家や人類などを包括した全てであり、時間軸においては過去から未来までも含まれ、さらには動植物や無生物まで含まれるという壮大なものです。これはアドラー心理学の鍵概念であり本書が言うように賛否両論あるなかなか掴み所のない概念ですが、多分、アルティメットまどかちゃんみたいな境地なんだと思うんですよね?共同体感覚って言葉を見た時に、なんかそういうまどかちゃんのイメージが浮かんで。アドラーの説く「幸せの定義」からすれば、イメージとしてはあながち間違ってはいない気がします。

乳酸菌が生きたまま腸に届くという意味

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以前の記事で書いた通り、腸内フローラ(腸内細菌叢)っていうのは腸内における善玉菌、悪玉菌、日和見菌のバランスのことで、理想的なのはだいたい善玉菌2割、悪玉菌1割、日和見菌7割っていう住み分けになります。

 
腸内フローラの改善は単に「お腹の調子を整える」だけにとどまらず、風邪やインフルエンザといった身近なところから、血糖、血圧、がん細胞、さらにはセロトニンメラトニン、女性ホルモンに至る様々なところに関わっていると言われており、腸内フローラを無視したヘルスケアなんてものはあり得ないレベル。
 
そういうわけで、ヨーグルト×グラノーラでなんちゃって腸活を実践中なのですΣ(゚∀゚ノ)ノ
 
一応は乳酸菌と水溶性食物繊維の組み合わせなので、理にはかなっているはず・・・プロバイオティクスとプレバイオティクスを組み合わせるというアレでして、要するに外部乳酸菌を取り入れつつ、常在善玉菌もがっつり育てる目論見?ということです。
 
生きたまま腸に届いた方がいいの?
 
ヨーグルトといえば「乳酸菌を生きたまま腸に届ける」こそが正義であって、空腹時のヨーグルトは、乳酸菌が胃酸で死滅してしまうのでヨーグルトは食後に食べましょうとか、あるいは日にちが経つと乳酸菌が死んじゃうのでヨーグルトは買ったら早めに食べましょうなどとよく言われますが、死んだ菌に意味がないわけではないんですよね。
 
生きた乳酸菌は悪玉菌を駆逐する形で腸内環境を改善するのに対して、死んだ菌は常在善玉菌のエサになる形で腸内環境の改善する。また、腸管免疫の活性化に関しては死んだ菌の方が優れた部分があるようです。
 
こういった観点から最初から殺してある殺菌乳酸菌を含む菌体成分を大量凝縮して腸内に送り込むアプローチをバイオジェニックスと言います。食べるマスクなんかがそうですね。
 
たしかに、もちろん乳酸菌は生きて腸まで届いた方がいい、悪玉菌の抑制の他、便秘の改善、アレルギー、花粉症、アトピー性皮膚炎の緩和など数々のメリットがありますから。
 
けど、本当にピンポイントで何かを改善する目的じゃなかったら、あんまり神経質にならなくてもいいのかなあ、という気はします。
 
食物繊維は不溶性と水溶性の違いに注意
 
あと水溶性食物繊維も常在善玉菌のエサになります。食物繊維は不溶性と水溶性があり、両者の理想的なバランスは2:1。不溶性食物繊維も便の嵩増しや腸内の蠕動運動を促進するので重要なんですが、善玉菌のエサにはなるのはあくまで基本的には水溶性食物繊維です。
 
 
この点グラノーラに含まれている大麦は水溶性食物繊維が豊富なので、ヨーグルトのパートナーとしてはうってつけだと思うんですよね。
 
 
 

我々はいつも理解しようとするから誤解する--精神分析技法の基礎(ブルース・フィンク)

 

 

本書はラカン精神分析の臨床技法を扱ったものです。そういうと、なんかものすごく専門的な狭い領域のように思えますけど、「臨床」っていうのはつまるところ、人と人の関係する場を言うのであって、精神分析やカウンセリングの場にとどまらず、日常的なコミュニケーションはもちろん、映像や文芸などの作品に触れることも広い意味では「臨床」です。
 
要するに誰もが日々是「臨床」であり、そういう意味では本書は極めて実用的なラカン本とも言えるかもしれません。
 
理解しようとするな
分析家は向こう見ずにも理解することとの関わりによって根本的に誤解するのですから。私は学生たちに繰り返し「理解しようとするな!」と言っています(ラカン)(14頁)
 
「無意識は言語のように構造化されている」「欲望は他者の欲望である」「性関係は存在しない」「女性は存在しない」などなど・・・人を煙に巻くような数々の悪名高い迷言で有名なジャック・ラカンですが、最も重要な臨床実践の面においても、あろうことに分析主体(クライエント)の話を「理解しようとするな」などとなかなかの放言ぶりです。
 
けれども、これはむしろ真理の一面を言い得ているというか、カウンセリングの基本原則であるロジャーズ3原則を裏面から照射しているところがあります。
 
ロジャーズ3原則というのはアメリカの心理学者カール・ロジャーズが示したセラピストの基本的態度のことで、大抵どのカウンセリングの入門書にもイロハのイのような位置づけで載っています。
 
1 無条件受容・・・相手の言動、想念、立居振舞など、その全人格を無条件に、ありのままに受け入れるということ。
 
2 共感的理解・・・相手の「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そしてその「as if」という態度をどこまでも失わないということ。
 
3 自己一致・・・驚く時は驚き、喜ぶ時は喜び、悲しむ時は悲しむ、というように、自身の内的感情と外的表現のとの間に不一致がないこと。

 

けど、他人の悩みなんかをずっと聞いていると、どうしてもアドバイスしたくなることもあるでしょう。あるいは、どうしても同意できずにこちらのほうがだんだんイライラしてくることもあるでしょう。
 
「無条件受容」や「共感的理解」の観点からいえば、そういった内心は表に出すべきではないんですが、そうするとこれは「自己一致」に反する気がする・・・そういう疑問も湧いてきたりする。
 
こういうジレンマに陥ってしまうのは、我々が他人の話を、本書でいうところの「想像的次元」あるいは「意味」の水準で聴いているからであって、「象徴的次元」あるいは「シニフィアン」の水準で聴く限りは、無条件受容、共感的理解、自己一致が崩れることは理論上ありえません。
 
「想像的次元」において話し手と聞き手は「食うか食われるか」という愛憎入り混じる「双数関係」に立ちますので、ラカンが「理解しようとするな」と戒めるのはむしろ当然のことです。本当に理解すべきは話し手の「意識」ではなく「無意識」ということなんだと思います。
 
そのイライラは転移では?
 
ルフレッド・アドラーが説くところによれば「人生の悩みというのは畢竟、対人関係の悩みである」そうです。全部が全部そうかといえば異論もあるところですけど、対人関係というのは日々の暮らしの中でかなりのウェイトを占めているのは疑いないものです。
 
なので、アドラーは「劣等コンプレックス」に陥りがちな「縦の関係」という対人認知から脱却し、あらゆる対人認知を「横の関係」で捉える「共同体感覚」へのライフスタイル転換を推奨するわけです。
 
けれども実際問題、日々の対人関係において割と簡単に「縦の関係」に引きずられてしまうことも多いでしょう。誰かから理不尽な怒りを加減も無くぶつけられることもありますし、逆にこちらが誰かに対してどういうわけか無性にイライラしてしてしまうこともありますから。
 
この点、転移という概念はこういう対人関係における感情の揺れを結構キレイに説明できちゃったりするんですよね。
 
過去の何かを思い出させる分析家のある特徴に分析主体が出会ったとき、何が生じるのだろうか。たとえば分析家が眼鏡をかけることがときどきあって、分析家と分析主体がほぼ同年齢で、その眼鏡が分析主体の眼鏡に似ているとしよう。母親への分析主体の感情がいつも陽性であるなら、分析主体は分析家にそうした陽性感情を写して、セッションで分析家と協力して作業する期待できるだろう。逆に、母親への分析主体の感情が常に陰性であるなら、彼は分析家に陰性感情を移してセッションでは分析家に敵対するだろう(169頁)。
 
こういった過去の感情反復というのは分析治療の場に限らず、日常的な対人関係の間にも生じるとされています。こういう風な視点で、理不尽だったり不愉快だったりする出来事も受容的に捉えることができれば、簡単に「縦の関係」に陥らずにすむかもしれませんね。
 
精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際

 

 

「人生がときめく片付けの魔法(近藤麻理恵)」を読む。ミニマリズムならぬコンマリズム。

 
親しみやすい言葉で紡がれる片付けが楽しくなる本。各論的(例えば取扱説明書や給与明細など)にはともかくとして、一般論としては正しい核心を持っている。
 
例えば、モノを一度全部ばーっと出して、「寝た状態」から「起こした状態」にするというのはかなり直感的な説明ですが、心理学的には十分に根拠があることで、このような儀式を経由することでいわゆる「隔離の機制」が作動し、モノを過去のしがらみなどから心理的に切り離すことが可能となります。
 
そして、もっとぶっちゃけていえば、一度床にモノを広げた以上、必ず片さないといけないわけですから、戻すものは少ない方がラクに決まってます。なので自然と選別眼は厳しくなってくるという仕組みです(笑)。つまり、ラクをしたいという人の心理を逆手にとっているわけです。
 
本書で展開されている「片付け理論」を早速少し適用してみたら、本当にかなりのものが捨てることができてびびりました。結果、なんだか部屋の視界が開けたような気分というか、実際ごちゃごちゃとしたものがないと掃除が楽しくなるだろうし、それでますます部屋がキレイになるという好循環が起きると思います。
 
これがミニマリズムならぬコンマリズムということなんでしょうか。たかだか片付けで人生がときめくのかとも思われますが、「行動」を起点として「気分」「認知」さらには「身体」への好循環を生み出すという認知行動療法の発想からすれば、確かにありうる話でしょう。
 
こんまりさんは元巫女さんらしく、九十九神的な発想なのか、捨てるものも含めモノに対する畏敬の念が叙述の随所に感じられます。その片付けの裏テーマはずばり「お部屋を神社のような空間にする」だそうで、要するにあなたはパワースポットに住みたいのか、物置小屋に住みたいのか、ということを本書は問うているわけです。

脳科学時代のアンチテーゼとしての精神分析理論--考える足ー『脳の時代』の精神分析(向井雅明)

 

 

 

メンタルヘルスの諸問題につき、何かにつけ「脳科学的には・・・」といえば、なんとなく納得してしまう昨今の風潮ではあります。
 
本書の言うところの「脳中心主義」とはすべてのこころの問題は脳の構造によって決定されているかの如き説明です。例えば、統合失調症の原因は中脳辺縁系におけるドパーミンの過剰分泌ないしグルタミン酸受容体の異常、うつ病セロトニンノルアドレナリンの不足、強迫神経症も遺伝子の問題である等々・・・けどそれは本当に果たしてそれだけなのでしょうか?これらの本書はこのような「脳中心主義」をラカン精神分析的観点から批判的に切り込んでいきます。
 
ラカン派の基本認識からいえばこの世界は3つの異なる位相が重なり合って構成されています。自然の一部としての現実界。言語によって構成される象徴界。感覚イメージから成る想像界。当然のことながら人のこころもこの世界の一部である以上、それぞれこの3つの位相に属している。フロイト第二局所論「自我・超自我エス」の用語で言えば自我は想像界に、超自我象徴界に、エス現実界に概ね帰属しているといえるでしょう(もちろん完全に対応しているわけではないですが)
 
この点、脳科学というのは神経科学の一分野であり、こころの問題を神経伝達物質の作用という「現実界」から捕捉するアプローチといえます。他方で(ラカン派の)精神分析はいわば「ことば」という「象徴界」の位置から対象 a という概念装置を通じて、「欲動」というやはり「現実界」を刺しとめて操作していくアプローチです。
 
そういう観点からいえば、「脳中心主義」の妥当性は兎も角としても、精神分析脳科学という領域自体は決して二項対立するわけではない。むしろ本書も述べているように両者のより活発なクロスオーバー、クロスリファレンスが期待されるところです。
 
昨今流行りのマインドフルネスが仏教思想をバックボーンに持ちつつも現代社会で急速に受け入れられている一つの理由として、脳科学的な洗練された説明が伴っている点があるように、現代において心理療法は「現実的なもの」を無視することは決してできないことは確かでしょう。
 
本書の著者、向井雅明氏はラカン精神分析の第一人者。同氏の手による「ラカン入門」はラカン理論の変遷を通時的に捉えた優れた教科書です。その文体はラカン派の中では極めてわかりやすく、ラカン派にありがちな独りよがりな「俺のラカン」になってない。むしろ「きちんと理解してもらおう」という著者の誠意すら感じます。これも理論と臨床に通じる著者の深い理解がなせる技なんでしょう。ラカン入門を補完する参考書としても最適な一冊。