かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「つながり」から「輝き」へ--ラブライブ! / ラブライブ!サンシャイン!!

* みんなで叶える物語

 
人は誰もが「物語」によってその生を基礎付けます。社会共通の「大きな物語」が失効し、それぞれが「自分の物語」を選んで生きるしかない現代においては、時として「わたし」と「あなた」の物語は衝突する。いわゆるゼロ年代的想像力とは、こうした「物語」同士の関係性を問うものでした。
 
そして2010年代のサブカルチャーを象徴する作品の一つとなったラブライブ!シリーズは、その副題に「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズを掲げています。この言葉はユーザー参加型企画としてのラブライブの性格を言い表すものでもあると同時に、ゼロ年代的想像力における問いに対する2010年代からの回答としても読めるでしょう。
 
「わたし」と「あなた」は違う物語を生きている。だけども「わたし」と「あなた」の間には「みんな」を見出すことができる。こうした意味での「みんな」がゼロ年代的想像力の到達点としての「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯です。
 
これに対して本作の特徴はこうしたゼロ年代的「つながり」としての「みんな」から出発しつつも、他方で「つながり」としての「みんな」がある種の全体性をもって「わたし」や「あなた」という「個」を抹消するホーリズム的な危険性について相当に自覚的なところにあります。
 
 

*「動員の時代」のアイコンとして

 
2010年代前半という時代はしばし「動員の時代」として名指されます。スマートフォンソーシャルメディアの普及は、人々の消費傾向をモノからコトへと変化させ、そこから新しいビジネスモデルや市民的連帯の形が生み出されました。「ラブライブ!(以下1st)」にはこうした時代の気分が反映されています。
 
迫り来る母校の「廃校」を回避するため高坂穂乃果は「スクールアイドル」となり「μ's」を結成。穂乃果たちは「スクールアイドルの甲子園」と呼ばれる「ラブライブ!」を目指す。古き伝統を持ちながら今や廃校の危機に瀕する音ノ木坂学院が経済的凋落と少子化に喘ぐ現代日本の象徴だとすれば、スクールアイドルの頂点である「A-RISE」を戴き、今や飛ぶ鳥落とす勢いのUTX学院はグローバル資本主義の象徴のようです。このコントラストは、音の木坂側に和菓子屋、神社、弓道といった「日本的なもの」を配置する事でさらに強化されます。
 
こうした構図の中で、動画配信を駆使したアイドル活動で母校の危機に立ち向かうμ'sはさながら「動員の革命」の時代における新しい市民運動のスタイルを体現するマルチチュードの如き存在です。抵抗運動としてのスクールアイドル。このような様々な「つながり」への信頼こそが1st第1期中盤までを駆動させた想像力に他ならないでしょう。
 
 

*「つながり」に回収されない「個」の「まとまり」として

 
ところが1st第1期後半では一転して「つながり」の限界性が描き出されます。ラブライブにさえ出れば奇跡が起きる。「つながり」で世界は変えられる。こうした究極的には無根拠な「つながり」の幻想が機能不全に陥った途端、土壇場でμ'sは瓦解し、ラブライブ出場を断念。穂乃果は自分を見失ってしまう。
 
その後、さまざまな紆余曲折を経て穂乃果はラブライブの手前にあった自らの歓び--歌うことが好き--に立ち返る事で自分を取り戻します。こうしてみると本作は「つながり」の持つエネルギーを体現した作品であるとともに、その限界性までも描き出した作品ともいえます。
 
そして1st第2期では、再びラブライブ出場を目指しつつ、穂乃果たちは生徒会の活動をやり抜いたり、これまで逃げていた自分に向き合ったりといった「個」の物語が掘り下げられます。こうして「みんなで叶える物語」のいう「みんな」には、ゼロ年代的「つながり」の全体性に回収されない、ばらばらな「個」の「まとまり」が含意されることになります。
 
そして同時に、このような視点からすれば、あのμ'sの結末も腑に落ちるわけです。μ'sという固有名はあの9人の「個」の「まとまり」を指すものであり、ひとりたりとも欠けては成立しないものだったという事なのでしょう。
 
 

*「輝き」の自己探究

 
ゼロ年代的「つながり」の全体性に回収されない2010年代的「個」の「まとまり」。こうした1stにおいて胚胎した想像力は、続く次作「ラブライブ!サンシャイン!!(以下2nd)」において「輝き」という概念により名指されます。
 
同作の主人公、高海千歌は今や伝説のスクールアイドルとなったμ'sの「輝き」に漠然と憧れて、普通の日常に埋没する「普通怪獣」としての自身から脱却すべくスクールアイドルを目指し「Aqours」を結成。そして千歌は「廃校」というまさしくμ's的な危機に好機到来とばかりに嬉々として飛び込んでいく。こうして千歌はあたかも哲学者のように「輝き」を自己探究していく。
 
しかし、東京でのスクールアイドルイベントや入学説明会参加希望者数において突きつけられたのは「ゼロ」という数字でした。こうした試練を経て千歌は「輝き」の本質とは「ゼロを1にする」ということに気づきます。そして、音の木坂学院を訪れた千歌はμ'sは後の世代に何も残していかなかった事を知り「輝き」の源泉とはμ'sの見た景色に囚われることのない「自分だけの景色」にあることに気づきます。
 
 

*「差異」の肯定

 
こうした千歌と好対照を成しているのが、Aqoursの中でも一際強烈な言動で異彩を放つ厨二病少女、津島善子です。善子は幼い頃からの劣等コンプレックスを拗らせて自分を「神が嫉妬した特別な存在」と思い込み「堕天使」を名乗るも、周囲と上手くいかず一時は「堕天使」と決別しようとします。
 
けれども千歌たちから「堕天使を好きなら隠さず表現していい」と諭された善子はAqoursに加入。その後、善子は自らのうちにいる「堕天使」を隠すことなく肯定できるようになります。この点、千歌が一般性の側から特異性の側へ向かったのに対して、善子は特異性を手放さないまま一般性と調和しようとする点で二人は対照的な存在と言えるでしょう。
 
「0と1」「一般性と特異性」。その間にあるのは「と」という「差異」です。本作の根底にあるのはこうした「差異」を明確に肯定する思想です。「0と1」の「差異」は「特異性と一般性」の「差異」から生み出される。そしてその「差異」は同時に「みんな」に回収されない「わたし」と「あなた」の間にある「と」という「差異」でもあります。
 
 

* アポステリオリに生じる「輝き」

 
そして2nd2期。前回惜しくも全国に届かず再び迎えたラブライブ。猛特訓の結果、極めて難易度の高い新フォーメーションを会得したAqoursは今度は見事、地区予選を突破する。けれどもノルマであった入学希望者100人には惜しくも届かず、浦の星の廃校が正式に決まる。目標を見失い「ラブライブなんてどうでもいい」と自暴自棄となった千歌だったが、浦の星の生徒たちの「ラブライブで優勝して浦の星の名を残す」という願いを託され、再びラブライブの頂点を目指す。
 
物語は一旦破壊されて、再び紡ぎ直された。果たしてAqoursラブライブで優勝し卒業式/閉校式を迎える。そしてついに千歌は自ら発した「輝き」の問いに対して「自分たちの過ごしたかけがえのない時間こそが輝きである」であるという結論を得ます。ここで「輝き」とは「ここではないどこか」にあるアプリオリイデアではなく「或るいまここ」と「別のいまここ」の間にある「差異=時間」の中にアポステリオリに生じる実存として見出されることになります。
 
 

*「つながり」から「輝き」へ

 
1stは「動員の時代」を体現する「つながり」の想像力から出発しつつ、いち早くその限界性を描き出し「つながり」の全体性に回収されない個の「まとまり」としての「みんなで叶える物語」を提示しました。こうした「つながり」のオルタナティブとしての想像力は、続く2ndにおいて「輝き」という言葉により深化を遂げました。
 
「つながり」から生じる接続過剰の「輝き」による切断と再接続。この到達点は優れて2010年代中盤以降の気分に共鳴しているでしょう。
 
2021年のこの時点から振り返れば、2010年代という10年は「動員の時代」における「つながり」の希望が次第に失望へと変わっていった10年でした。ゆえに2010代中盤以降のサブカルチャーには「つながり」のオルタナティブとしての想像力が求められてきました。本作が従来のアニメファンに止まらない幅広い支持を集めてきた理由は、遷移していく時代の気分を常に鋭くかつ繊細に捉え、優れた物語として提示し続けるその想像力にあるのでしょう。