かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「アドラーをじっくり読む(岸見一郎)」を読む。〜本当の意味でアドラーを理解するために必要なこと。

 

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

アドラーをじっくり読む (中公新書ラクレ)

 

 

* はじめに

 
「嫌われる勇気」の大ヒット以来、一挙に時代の脚光をあびる事になったアドラー心理学
 
トラウマはない。過去(原因)は変えられないが、未来(目的)は変えることができる。勇気さえあればいまの境遇は打開できる。人は変われる。なんでもできる。
 
こういったアドラーのシンプルでパワフルなメッセージは多くの人に勇気と光明をもたらした事は間違いないでしょう。
 
けれども、シンプルであるが故に真の理解は難しく、逆に様々な誤解も生じてくるわけです。
 
1番まずいのがアドラーを中途半端に読み齧って「感激」した人が、うつ病になってしまった部下に「うつ病だから会社に来れないのではなく、会社に来たくないからうつ病になったのだ」とか、協調性に欠ける部下に「お前は共同体感覚が欠如している」などと言い放ったり、口には出さずともそういう上から目線の態度を取ってしまう事でしょう。
 
また、パワフルであるが故に期せず誰かを傷つける可能性を孕んでいるということです。
 
例えば、さまざまな不遇からメンタルヘルスに不調をきたしてしまった人が、アドラーの「人は変われる」というメッセージを言葉通りに受け止めてしまうと、変われない今の自分をますます責めてしまいかねません。
 
こういった弊害を避けてアドラーを正しく理解するためには、一度きちんとアドラー本人の著作を読んでアドラー理論の原典に立ち還る必要があるでしょう。けれども初学者がいきなりその作業をやるのはさすがにハードルの高い話です。
 
この点、本書は岸見先生がこれまで訳されてきたアドラーの各著作の解説文を改訂してまとめたものであり、アドラー理論のエッセンスがコンパクトに凝集された一冊と言えます。アドラー本人の著作へと進む上での良き手引き書となるでしょう。
 
 

* 優越性の追求とライフスタイル

 
精神分析を創始したジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「優越性の追求」だと主張します。
 
「優越性の追求」とは人の持つ「もっと成長して理想的な自分に近づきたい」という動機の事です。ここから今の自分に対する「劣等感」が生じてくる。
 
そこで人はこの「劣等感」を補償しようとして生きていくことになる。このような「劣等感の補償」に駆動された結果、形成されていく傾向あるいは動線というべき個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼ぶ。
 
「ライフスタイル」というのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。
 
こうして、人の行動は自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」に規定されることになる(目的論)。
 
また、人はライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(認知論)。
 
よく言われる「トラウマは存在しない」というキャッチコピーが意味するのは、過去の出来事は現在のライススタイルに適合的な形で認知されるため、結果、同じ事実がある人にとっては「美しい思い出」に、ある人にとっては「忌むべきトラウマ」になるという事です。
 
つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての「個人」の在り方が問われている(全体論)。
 
そして、人は「主体」としてライフスタイルをいつでも選び直すことができる(主体論)。
 
「ライフスタイル」という呼び方自体も、着せ替え可能な「軽さ」を強調するためと言われます。
 
そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。
 
 

* 劣等コンプレックスと共同体感覚

 
この点、対人関係を「縦の関係」として、すなわち他者を「敵」と看做して「支配・評価」という関係で捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。
 
「劣等コンプレックス」は「私は〜だから〜できない」という公式で言い表されます。そしてその裏側には「私は〜さえなければ、なんでもできる」という「優越コンプレックス」が潜んでいます。
 
こうして、人は「人生の課題」を回避したり、他者の注目を集めて虚栄心を満たすという「目的」を達成するため、消極的性格の人は神経症という症状を作り出し、積極的性格の人は問題行動を起こすということです。
 
逆に対人関係を「横の関係」として、すなわち他者を「仲間」と看做して「尊敬・感謝」という関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていきます。
 
すなわち、アドラー心理学の実践とは、ライフスタイルの誤りを洞察し、共同体感覚を涵養にする事に他ならないわけです。
 

* 課題の分離

 
アドラー心理学の実践は、自分と他人の問題領域を切り分ける所から始まります。いわゆる「課題の分離」です。
 
この点、課題の分離には二つの側面があります。
 
まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。「嫌われる勇気」でも強調されている通り「他者があなたをどう評価するか」というのは「他者の課題」に他なりません。
 
そして第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これこそが「勇気付け」の実践です。
 

* 勇気付け

 
「勇気付け」の実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。現状のあるがままを直視し、それでも「わたしには価値がある」と確信を持ってイエスを言うこと。すなわち「自己受容」です。
 
自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。つまり、他者に対して「共感」を寄せ「あなたには価値がある」という「尊敬・感謝の念」を表明する。すなわち「他者信頼」「他者貢献」です。
 
この点「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。
 
「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで「わたしには価値がある」ことを強く実感できるわけです。
 
こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚の領域に遷移していくということができる、ということになります。
 

* 「なんでもない日々」が試練となる

 
共同体感覚を規範的な理想として捉えることには意味がある。その本来的な意味は、人と人とが結びついているということであるが、現実の世界においては競争がはびこり、無辜の人が犯罪者の刃に倒れることがあるというような時代において、アドラーがいうように、他者は敵ではなく、仲間であるとは到底思えないという人はあるだろう。しかし、そのような現実をそのまま肯定することなく、理想が現実から遠く離れていても、あるいは現実とは違うからこそ、なお理想を高く掲げてそれに近づく努力をして行くというのが理想主義である。
 
(本書より・Kindle位置:1149)

 

 
確かに本当の意味での完全な共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」と言えるでしょう。
 
どんなに「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を意識して日々を過ごそうとしても、何か面白くないことが起これば、やっぱり妬みや僻みというネガティブな感情は大なり小なり出てきます。
 
こうして我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という両極の隘路をウロウロするのが実際のところなんでしょう。
 
フランスの諺にあるように、人は変われば変わるほど変わらない。人がほんの少しだけでも変わるというのは大変な営みです。もし誰かを変えたいのであれば、まず自分が変わらなければならない。
 
従って重要なのは、日常の中で少しでも多くの瞬間において、共同体感覚「的」な態度を持とうとする意識付けと努力なのではないでしょうか。「幸せになる勇気」の中で哲人が言っているように、そこには「なんでもない日々」が試練となるわけです。
 

* おわりに

 
禅の言葉に「不立文字教外別伝」というものがあります。本当の教えの極意は文字や言葉にすることができないという事です。
 
同様に、本当の意味でアドラーを理解するためには、「劣等コンプレックス」とか「共同体感覚」などといった知識を得て「アドラーを知る」ことのみならず、日々のいたるところで「アドラーを生きる」ことが必要なんだと思います。
 
自分のあるがままをこれでよいと受け入れる事。他者に共感を持って接し、尊敬と感謝の言葉を伝える事。見返りを求めず小さな善行を積み重ねていく事。
 
このように日々あらゆる場面をていねいに生きていくことこそが本当の意味でアドラーを理解するということなんだと思います。
 
 

少女の内閉期の「おはなし」--かがみの孤城(辻村深月)

 

かがみの孤城

かがみの孤城

 

 

 

* はじめに

 
本年の本屋大賞受賞作「かがみの孤城」は、アニメ的/ゲーム的リアリズムによる世界観を持ちつつも、現代の子供達が抱える様々な「生きづらさ」を瑞々しい文体で紡いでいく物語です。
 
中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。
 
鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。
 
そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。そして、城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。
 
お前たちは今日から三月まで、この城の中で”願いの部屋”に入る鍵探しをしてもらう。見つけたヤツ一人だけが、扉を開けて願いを叶える権利がある。
 

 

 

* ポストモダンにおける文化的想像力の遷移

 
要するに、本作には、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城の中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという世界観設定があるわけです。
 
ここで想起されるのは宇野常寛氏が「ゼロ年代の想像力」で示した「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へ突入するというポストモダン状況下における文化的想像力の遷移です。
 
ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。
 
日本の場合、阪神大震災が起きた1995年前後辺りが、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目であると言われています。
 
一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。
 
こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。
 
すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。
 
この点、宇野常寛氏が「ゼロ想」で示した文化的想像力の変遷モデルは以下のようなものです。
 
⑴ 引きこもり/心理主義
 
まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。
 
つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。
 
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。
 
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。
 
けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。
 
このような想像力が色濃く現れている作品群を「セカイ系」といいます。典型的な「セカイ系」の作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」などが挙げられます。
 
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
 
 
ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。
 
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。
 
つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。
 
現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。
 
このような想像力が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。
 
 

* 「決断主義の克服」としての「助け合える存在」

 
このように、本作の基本設定においては「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へと至る「ゼロ年代の想像力の遷移」の流れが見事にトレースされています。
 
ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。
 
一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもない。9時5時限定で開城し、水もガスも通ってないのになぜか電気だけは通っているこの不思議な城の中で、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が3月まで過ぎていく。
 
こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。
 
すなわち、ここでは「決断主義の克服」というテーマが暗に語られているわけです。
 
 

* 他者に手を差し伸べるということ

 
大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。
 
決断主義」とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立し、「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」の終わり無き動員ゲームが展開される状況をいうわけです。
 
けれども我々が異なる「小さな物語」を生きる「他者」を受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくる。
 
そういった意味において本作が色彩豊かな筆致で紡ぎ出しているのは、「他者」とのつながりの中に代え難い価値を見出していく「ポスト決断主義」としての「次世代の想像力」であると言えるのではないでしょうか。
 
物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。
 
この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。
 

 

最後の展開はまさに「決断主義の克服」という意味では象徴的です。7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われるんですね。
 
そしてその子は今度を皆に手を差し伸べていく側に回って生きていくことになる。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じることになるわけです。
 
 

* 少女の内閉期を描き出した「おはなし」

 
臨床心理学者の河合隼雄氏は思春期の少女の成長において「内閉の時期」の重要性を指摘しています。
 
「内閉の時期」とはいわば、幼虫が蝶になる過程における「さなぎ」の時期です。この時期においては、これまで快活だった子が急に無口になったりする反面、その内面においては凄まじい変化が起きている。
 
このような内的な変化を成し遂げる際には、さなぎの外殻の如き、外に対する固い守りが必要になってくる。
 
この点、本作においては、孤城という「内の世界」の中で、これまで「生きてこなかった半面」との対話を繰り返すことで「外の世界」における他者との間でもまた、新しい社会的紐帯を結び直していく過程が描き出されている。
 
そういった意味において本作はポストモダン文学における想像力の一つの到達点を示していると同時に、思春期の少女の内閉期を描き出したすぐれた「おはなし」としても読めるでしょう。
 
 

* おわりに 

 
このように本作は様々な読み方を可能にする圧倒的な深みをもつ作品です。一方で、当然ながら純粋に物語としても非常に面白いです。
 
本作はかなりの長編ですが、随所にイベントというか、見せ場を仕掛けており読者を飽きさせることはありません。
 
ばら撒かれた伏線を回収していく手際も見事です。オオカミ様の正体がわかった後、最初から読み直すと、彼女の尊大な言動にも味わい深いものを感じます。
 
考えさせられることも多く、かつ楽しい読書でした。これから何度も読み返したい本がまた一つ、増えました。
 
 

小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく--禅、シンプル生活のすすめ(枡野俊明)

 

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

 

 

 

* 環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくために

 
禅の思想を日々の暮らしに生かすための一冊。我々が普段行う何気ない動作に、ほんの少しだけ意識を向けることで忽ちそれらは「禅の修行」になります。
 
ちょっとした「習慣」や「見方」を変えて心を整える禅の実践は現代心理療法の主流である認知行動療法と共通した核心を持っています。実際「第三世代の認知行動療法」として注目を集める「マインドフルネス」は禅の考え方をベースにしたものです。
 
我々は常に健康とかお金とか人間関係とか、そういった周囲の環境から生じるストレスに晒されている。本書にはこのような環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくためのヒントが示されています。平明な文章ですから通勤通学のお供などにも最適でしょう。
 

* 「坐禅」をやってみる

 
お釈迦様の「悟り」の根本は「本来本仏性、天然自性身」という言葉で表されれます。要するに、我々の奥底には「本来の自己」というべき「もうひとりの自分」が宿っており、この「もうひとりの自分」は自由で無限の可能性に満ちている。
 
そのような自由闊達な「悟り」を開くため、臨済禅では「公案」という徹底的な「禅問答」をするわけです。例えば、「狗子仏性、有りや、無しや(犬に仏心はあるのかないのか)」と問われたとします。
 
この時「ある」と答えても「違う」と言われ「ない」と答えても「違う」と言われる。こうした「答えのない問いかけ」を繰り返すことで「気づき」が生まれ「悟り」へと近づいて行く。
 
これに対して曹洞禅の修行は「只管打坐(しかんたざ)」といって「坐禅」を重んじる。余計なことは一切考えず、坐っていることさえ忘れ、心を「無の状態」にしてひたすら坐る。何も求めず、ただ「坐る」というのが曹洞禅の本質です。
 
本書でも、集中力が落ちてきたり、イライラしてきた時は5分程度の坐禅を勧めています。
 
坐禅の基本は「調身、調息、調心」です。これを繰り返す。つまり、姿勢を整えることで、呼吸が整い、呼吸が整うことで、自ずと心が整ってくるということです。
 
まず横から見て背骨がSの字を描き、尾てい骨と頭のてっぺんが一直線になるように正しい姿勢を作ります。姿勢を整えることで、腹式呼吸が可能となり呼吸が整ってくる。そして、両手は膝におく。
 
次に呼吸を整える。息を吸って吐くという呼吸という動作を通常は1分間に7〜8回行なっていると思われるがこれを1分間に3〜4回程度を目指して、ゆっくり呼吸する。
 
「呼吸」という言葉は息を「吸う」よりも息を「吐く」という字が先に来る。つまり息を吸うより吐くという行為が先に来るわけです。
 
丹田に意識を集中させてとにかくゆっくりと長く息を吐く。そうやって息を吐ききれば人間は自然に息を吸おうとする。
 
これを繰り返しているうちに気持ちがどんどん落ち着いて来る。
 
呼吸を整える事は、仏教でいう「貪・瞋・癡」の「三毒」を解毒すると言われます。「貪(とん)」とは貪りの感情。なんでも欲しがり一つを手に入れてもなお、欲望が尽きない心です。「瞋(じん)」とは怒りの感情。ちょっとしたことで怒りを覚え、それを表に出したり、だれかにぶつけたりする心です。「癡(ち)」とは愚かさの感情。良識や道徳を知らない心です。
 
この三毒がちょっと顔を出した時は呼吸を整え、心を落ち着かせてみる。そうすると三毒は頭まで登ってこないと本書は言います。
 

* 「今、ここ」「この瞬間」に集中する

 
人間は「今、ここ」「この瞬間」のみを生きている。人生とは「今、ここ」「この瞬間」の積み重なったものに他ならない。
 
だから、過去にとらわれるのでもなく未来を憂うのでもなく「この瞬間」を生きることのみに心を尽くす。それが禅の考え方です。
 
「喫茶喫飯」という有名な禅語があります。お茶をいただくときはお茶を飲むことのみに集中する。ご飯をいただくときはご飯を食べることのみに集中する。
 
お茶やご飯だけでなく、例えば、仕事で、字を書いているときは字を書くことに集中し、できるだけ読みやすく丁寧な字を書く。
 
「心を整える」というのは我々凡人にとっては雲をつかむような話ではあります。
 
そこで「心を整える」為に、まず「形を整える」ところから入る。これが禅の発想です。
 
こういった所作を整えることも「今、ここ」「この瞬間」を生きるということです。
 

* 「とらわれ」を手離す

 
禅のいう「美しさ」とは虚飾を排し、不要なものを徹底的に削ぎ落とした美しさです。iPhoneの設計思想の背景にスティーブ・ジョブズの禅への傾倒があったことは有名な話です。
 
暮らしもこころもシンプルに磨き上げた簡素な生活こそ美しいということです。「簡素」というのは本当に必要なものを見極めて無駄なものを削ぎ落としていくことである。
 
欲望に振り回されず、何事にも執着せず、一点の曇りもない状態。それが「無」の状態であり「空の思想」という禅では最も重視されるものです。
 
我々は「生の現実」を「イメージ」と「言葉の力」によって、それぞれ「パーソナルな現実」として把握しています。
 
普段我々は様々な欲望や執着などの「とらわれ」の中で生きており、これが「パーソナルな現実」を歪めている。そこでこれらの様々な「とらわれ」を一旦手放すことが重要になる。
 
「生の現実」で起こっていることは変えられないかもしれないけれど、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変えることはできるわけです。
 

* 感謝の心を持つ

 
禅の食事の心得としての「五観の偈」というのがあります。
 
一・・・多くの人を思い感謝していただく。
 
二・・・自分の行いを反省して静かにいただく。
 
三・・・好き嫌いをせず欲張らずに味わっていただく。
 
四・・・健康な体と心を保つための良薬としていただく。
 
五・・・円満な人格形成のため合掌していただく。
 
常にこの五つのことを思い、食事をいただけることに感謝して一口ごとに箸を置く。
 
なぜそんな事をするかと言いますと、ひとくち食べるごとに「感謝の気持ち」を持って味わうためだと本書はいう。食事はただ空腹を満たすだけでない「修行の時間」ということです。
 
合掌をした時の左手は自分自身。そして右手は自分以外の相手。すなわち、仏様であったり神様であったり、あるいは目の前にいる他人であったりします。
 
そして「合掌」とはこの二つを一つにするという意味。つまり他者を敬うという気持ちの表れであるという事です。
 
最近は仏壇のある家も少なくなり、普段あまり合掌する機会もないのかもしれませんがせめて、食事の時くらいは「いただきます」「ごちそうさま」という合掌をしてみたいものです。
 

* 小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく

 
いかがでしょうか?禅の思想に「不立文字、教外別伝」というものがあります。これは真の教えは文字や言葉では表現できないということを意味しています。
 
つまり「禅の極意」があるとすれば、まさしくそれは日々の実践によって、少しずつ掴んで行く類のものであるということです。
 
呼吸を整え、所作を整える。欲望や執着に囚われることなく、感謝と謙虚の心を持つ。こういった小さな何気ない積み重ねこそが周囲の環境とこれからの人生を変えていくと言っても別に大袈裟でも何でもない。要するに世界が灰色のディストピアになるか、彩りと情操に溢れた豊かな日常になるかは、結局のところ本当に、紙一重の差に過ぎないのかもしれないということです。
 
 

コミュニケーションというアンサンブル--誰と一緒でも疲れない「聴き方・話し方」のコツ

* はじめに

 
本書は対人関係療法の第一人者による「まっとうなコミュニケーション」を身につけるためのガイドブックです。
 
コミュニケーションに苦手意識を持っている人ほど「まっとうなコミュニケーション」に対して、えらくハードルの高い幻想を持っていたりするわけです。
 
けれども本書を読めば「まっとうなコミュニケーション」とは決して「場をハデに盛り上げる能力」とか「機敏に空気を読み細やかな気配りができる能力」などという、トリッキーな能力ではないということがわかると思います。
 
大事なのは自分の特性にあったコミュニケーション能力を手にいれるということです。
 
本書を読んで「この程度で良いんだ。これなら出来そうだ」と思えれば、それは自信につながります。
 
そういう意味では本書はコミュニケーション能力の指南書のみならず自己肯定力を涵養する本でもあります。
 

* 領域意識を持つ

 
コミュニケーションを自在に扱う基本として本書は「領域意識を持つ」という事を至る所で強調しています。
 
我々は、もって生まれた気質、育った環境やこれまでの境遇などから形成された性格や価値観、今日の体調や機嫌など、様々な要素を前提として、自分にしかわからない「自分の領域」のイメージを持っています。
 
この「自分の領域」に他人がずかずかと踏み込んで来たと感じられた時、人は頭に来るわけです。
 
また「何も言いたくないけど私の気持ちを解ってほしい」という態度も「自分の領域」に責任を持っていないと言えますし、相手に配慮した言い方と曖昧な言い方とは似て非なるものです。
 
すなわち「領域意識を持つ」と言うのは「相手の領域を侵害しない」ということだけでなく「自分の領域に責任を持つ」ということでもあります。
 
こうして「まっとうなコミュニケーション」とは「領域意識」を念頭におき「伝える内容」は妥協せずに「伝え方」を最大限に工夫するというところから始まるわけです。
 
例えば、友人やパートナーに何らかの不満がある場合、「あなたのそういうところが不満なの」というのは完全に相手の領域を侵害しているわけです。
 
「相手に対する不満」とは、言い換えれば「いま私が困っている」ということを意味します。
 
なので「あなたのそういうところが不満なの」ではなく「私はこういうことで困っているから助けて」というメッセージを送ればいいわけです。最近キャッチコピーのように言われる「ユーメッセージではなく、アイメッセージで」というのもこの領域意識を端的に表したものであると言えます。
 
もちろん「相手の領域」はその人自身にしかわからないものであるため、期せずして他者の領域を侵害してしまう事もあるでしょう。
 
そういう風に自分の言葉で相手を傷つけたと感じた時も「今、あなたを傷つけたかもしれません」という風に「相手の領域」に踏み込むのではなく「今、私は失礼なことを言ったかもしれません」と「自分の領域」に止まってメッセージを発信することが大事になるわけです。
 

* 浮かんだ思考は脇におく

 
「話す力」と同等かそれ以上に「聴く力」はコミュニケーションにとって重要です。けれども、我々は日々「聴きたくない話」に多く直面する。
 
説教、自慢話、愚痴、陰口など、こういった楽しくない話をいかにストレスなくスマートに「聴く」にはどうすればいいでしょうか。
 
この点、本書は「浮かんだ思考は脇におく」聴き方を勧めます。
 
我々は相手の話を自分の思考とともに聞いています。「どうしてそういうこと言うのか」「それは言いがかりだ」といった「ネガティブ思考」で聞いていたり、あるいは「なんとかしてあげなければ」というような「アドバイス思考」で聞いていたりすると、どうしても精神的に疲れてしまう。
 
そこで、こういう次々に浮かび上がる思考はとりあえず傍に置いておく。いま、ここの目の前の相手にマインドフルに集中する。
 
こういう聴き方であれば、精神的に疲れることはなく、更には相手も「あの人は聴き上手だ」と好印象を持ってくれるかもしれません。まさに一石二鳥の態度と言えますね。
 
人は基本的に自分の事を話したい生き物です。なので逆に言えば、聴き上手は好感度を上げる上でブルーオーシャンとも言えるわけです。
 
それに、こういう日常至る処で「聴く訓練」を積み重ねておけば、いざという時、真剣に誰かの話に耳を傾けなければならない時、これまで培ってきた「傾聴力」が必ず役立つはずです。
 

* 役割期待の不一致を解消する 

 
「声が小さくて聞こえない」
 
「どうしても自分の話ばかりしてしまう」
 
「空気をうまく読めずどうリアクションして良いかわからない」
 
「落ち込んでいるあなたを励ましてあげたいけど、どういう言葉をかけて良いかわからない」
 
こういった自分の特性や事情を説明できるのも大切なコミュニケーション力です。
 
コミュニケーションの機能の一つのとして「自分の相手に対する期待を伝える」という点が挙げられます。
 
対人関係においてストレスを感じてしまうのは相手に対する「役割期待の不一致」に起因することが多々あります。
 
そこで前もって自分の相手に対する期待を伝えることでことで「役割期待の不一致」をできるだけ解消しておくということは極めて重要と言えるでしょう。
 

* 沈黙を愛でる余裕を持つ

 
「沈黙を如何に上手く扱うか」というのも重要なコミュニケーションスキルのひとつです。
 
初対面の相手やそこまで親しくない相手だとぎこちなくなってしまう。だから「沈黙」とはむしろ「ごく自然なコミュニケーション」ともいえるでしょう。
 
だから「何か話さなきゃ」と焦る必要は全く無いんです。まず自分が落ち着いて、沈黙をあるがままに味わいながら、時間の使い方を相手に委ねる。これも立派な「非言語的コミュニケーション」です。
 
それに逆説ですが「話さななくても良い」と思うと話せるようになったりするわけです。むしろ、こちらから話しまくってしまうと相手に「話題を考える余裕」と言うのがなくなってしまうというのもあるでしょう。
 

* おわりに

 
本書は事例が豊富で、解説も「例えばこんな風に言ってみてはどうですか」と極めて具体的です。本書をたたき台にして色々と実験してみるといいでしょうね。
 
ある意味、コミュニケーションというのは音楽のアンサンブルのようなものに似ている気がします。
 
煌びやかな主旋律を奏でる役割もあれば、主旋律を彩る対旋律を奏でる役割もあり、楽曲全体の低音部やリズムをしっかり支える役割というのもある。
 
要するに何が言いたいのかというと「場の中心で皆を盛り上げる人」というのはヴァイオリンのように華やかな存在ではありますが、それがコニュニケーションの全てではないということです。
 
話を上手に膨らませたり、あるいは静かにニコニコ聴いていたりと、その人それぞれのコミュニケーションの方法というのがあるわけです。
 
皆が皆、ヴァイオリンを手にめいめい好き勝手なフレーズを弾きまくる音楽というのは囂しいだけで誰も幸せにしないでしょう。だから是非とも自分の特性に相応しい楽器を見つけて自分だけの旋律を奏でるようなりたいものですね。結局のところ「まっとうなコミュニケーション」とはそういうことなんだと思います。
 
 
 

【書評】〈自己愛〉の構造(和田秀樹)

* はじめに

 
「生きづらさ」という言葉がいたる処で聞かれる世の中です。「他人が怖くて仕方がない」「誰も私のことを認めてくれない」「自分の居場所がどこにもない」「弱い人間だと思われたくない」「すぐに感情的になる」等々。「生きづらさ」の種類も程度もさまざまだと思います。
 
では、このような「生きづらさ」とはどこから生じてくるものでしょうか?そういった「生きづらさ」の構造をもし可視化することができれば、苦しみもある程度和らぎ、またこの苦境から脱却するための生存戦略も見えてくるのではないでしょうか。
 

* 自己心理学とは何か〜「罪責人間」と「悲劇人間」

 
本書はアメリカの精神科医、ハインツ・コフートの提唱する自己心理学の概説書です。コフートという人は、その前半生においては米国精神分析学会会長などの要職を歴任するも、後半生からは伝統的精神分析に対する疑念から独自の理論を提唱し始めます。そして、最終的には精神分析理論全領域の大改訂を成し遂げて、全く新しい理論体系を打ち立てます。これがコフート自己心理学です。
 
伝統的精神分析自己心理学の間では、その前提とする人間観が根本的に異なっています。伝統的精神分析が「罪責人間」を対象とするものであるのであれば、コフートの掲げる自己心理学は近年増えてきた「悲劇人間」を対象とするものです。
 
「罪責人間」とは自らの中にある快楽衝動に抗えず罪責感に苦しむ人をいいます。伝統的精神分析(自我心理学)は「自我」を強化する事でこのような葛藤を克服する事を目標としていました。
 
これに対して「悲劇人間」とは「自分のことを分かってくれない」「認めてくれない」という周囲の承認や共感の欠如に苦しむ人のことであり「罪責人間」とは悩みの構造が異なっています。
 
コフートはこういった「悲劇人間」の増加という社会状況の変化を念頭に置いて、従来の精神分析理論を現代社会に相応しい形へアップデートを行なっていくわけです。
 
我々の感じる「生きづらさ」とは悲劇人間の病理です。まさに、自己心理学は「生きづらい世の中を生き延びるための心理学」といってよいでしょう。
 

* 自己愛パーソナリティ障害という病理

 
コフート理論はまず自己愛パーソナリティ障害の治療論として世に出て来ます。
 
自己愛パーソナリティ障害という疾患は「誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如」という特徴があります。端的に言えば常に上から目線だったり、キレやすかったりと、いわば病的なまでに自己愛(ナルシシズム)をこじらせた人の事をいいます。
 
ナルシシズムの語源は周知の通り、ギリシア神話ナルキッソスの池に映った自分の姿に恋をした話に由来しています。
 
フロイト以来の伝統的精神分析は、リビドー備給(心的エネルギーの移動)の正常な発達過程として自体愛から自己愛へ、自己愛から対象愛へと進んでいくモデルを想定しています。
 
つまり最初にリビドーは口や肛門、性器など体のどこか一部に備給される(自体愛)。次にリビドーは自我に備給される(自己愛)。最後にリビドーは対象、つまり他者をはじめとする外的世界に備給される(対象愛)。
 
これに対して、コフートの慧眼はそれとは別に自己愛独自の発達があると考えた点です。すなわち「未熟な自己愛」から「成熟した自己愛」への発展・昇華ということです。
 
コフートは最初の著作「自己の分析(1971)」において幼い子どもの自己愛について「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成される構造体(自己愛構造体)を仮定しました。
 
つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全自分本位の物語があるわけです。
 
もちろん世の中そうはなっていないわけで、成長するにつれて子どもは現実を悟っていき、誇大的な自己イメージは現実に適応した形で成熟していく、あるいはそうあるべきであるということになります。
 
いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもなく、社会の歯車に過ぎないというこの無情な現実を受け入れるということに他ならない。
 
ところが、この現実を受け入れることができず、自己愛構造体が子どものまま発達しない場合がある。こうした発達過程の歪みが自己愛パーソナリティ障害という病理の根幹を形成するということです。
 
この点、従来の精神分析理論では自己愛パーソナリティ障害は治療者への転移(対象転移)が起きないため、精神分析は適用できないとされていました。
 
しかし、コフートは対象転移とは別の「自己愛転移」という特異的な転移を利用すれば自己愛性パーソナリテイ障害は治療可能であると主張したわけです。
 

* 「自己」と「自己対象」

 
続いてコフートは「自己の修復(1977)」において、旧来の精神分析用語を一掃し、「自己」と「自己対象」の関係性からなる「自己心理学」へのモデルチェンジを果たします。
 
コフートのいう「自己」とは空間的に凝集し、時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいいます。
 
そして自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っている。これを「双極的自己」と呼びます。
 
「野心の極」は「自己の分析」でいう「誇大自己」に相当し、「理想の極」は「自己の分析」でいう「理想化された親イマーゴ」に相当します。
 
子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。
 
そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。
 
自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。
 
「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。
 
「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。
 
こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。
 

* 鏡映・理想・双子

 
さらに、コフートは遺作となる「自己の治癒(1984)」において鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。
 
双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。
 
ここで前述の双極性自己モデルは修正を加えられることになります。すなわち、コフートの最終的な中核自己モデルは「野心の極」「理想の極」「技倆と才能の中間領域」から構成される「三極性自己」ということになります。
 

* 共感の科学としての自己心理学

 
以上から示されるように、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。
 
逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。
 
つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んでいく過程に他ならない。
 
そして、ここで重要なのが「共感」という営みです。コフートによれば共感には二つのレベルがあると言います。
 
まず一つは、共感とは、患者の立場に身を置いて患者の代わりに内省し患者の内的世界を探索するツールという捉え方です。
 
そしてもう一つは、共感とは、人と人の繋がりという情緒的な絆を感じられることで得られる心理的な栄養補給という捉え方です。
 
さらにコフートはこういった「共感」理解を踏まえ、精神分析における「解釈」という営みは、患者の内的世界の「受容」という消極的な共感からさらに一歩踏み出し、「説明」を与えることで患者の内的世界を再構築していく積極的な共感だと位置付けます。
 
病んだ自己を健全な自己へと変えていくにはこうした「甘え」と「究め」が高度に統合された営みが必要であるという事なのでしょう。
 
このような共感による「適量な欲求不満による変容性内在化」こそが、自己対象との関係性を成熟したものへと変えて行くとコフートは言います。その意味では自己心理学とはまさに「共感の科学」であるといえるでしょう。
 

* 自己心理学化する現代社

 
本書は1999年の刊行ですが、現代は、本書刊行時点以上に自己心理学化した社会と言えるでしょう。
 
例えば SNSなどはまさに自己対象欲求を満たすのに最適化されたツールです。
 
フォロワーさんや「いいね」の数はまさに「鏡映自己対象」であり、有名人という「理想化自己対象」もフォローという関係性でカジュアルにつながることができる。また、目下の悩みをキーワード検索してみれば同じように悩んでいる「双子自己対象」が沢山見つかる。
 
SNSに振り回されるか上手に使えるかはその機能にいかに自覚的であるかにかかっていると言えるのではないでしょうか。
 

* おわりに

 
健全な自己は自己対象との成熟した関係性によって成り立つというコフート理論の根幹には「依存や甘えは決して弱さなどではなく、むしろ生きていく上で不可欠な強さですらある」という考え方があります。
 
「依存」と「自立」はしばし正反対の関係として捉えられます。諸々の「生きづらさ」とは「自立」を過度にモデル化・理想化してしまい、周囲の環境を「自己対象」としてうまく「依存」できない悪循環から生じているのではないでしょうか。
 
けれども実際問題として「自立」と「依存」とは決して二律背反の関係ではなくむしろ相互作用的なものでしょう。すなわち「他者に上手な依存」ができてこそ「しなやかな自立」が生まれるということです。
 
「依存してもいいんだ」「甘えてもいいんだ」「皆そうやって生きているんだ」
 
コフートの示すこういった処方箋は、自分にも他人にも優しくなれる考え方だと思います。さまざまな形で「生きづらさ」を抱えている人にとって自己心理学は何かしらの光明をもたらす福音となるのではないでしょうか。
 
 

「終わりある日常」を生きるということ--君の膵臓をたべたい(アニメ版)

 

 

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

 

 

 

* 「瑞々しいもの」として回帰する「セカイ系的想像力」

 
住野よるさんという人はもともとライトノベル作家を志望されていたようでして、「君の膵臓をたべたい」という作品も、大手ライトノベルレーベルである電撃小説大賞用の応募原稿だったそうです。
 
結局、分量が規定を超過してしまい電撃小説大賞には投稿できず、その後、紆余曲折を辿り「この作品だけは誰かに読んでもらいたい」という一念から投稿サイト「小説家になろう」に投稿した経緯があるようですね。
 
そういう経緯も関係しているのか、原作はかなりラノベ的な文法で書かれており、その後景には、ゼロ年代初頭のセカイ系的想像力、もっというと、Key作品などの「泣きゲー」の影響がそこはかとなく感じられます。
 
桜良ちゃんの正式な病名は明らかではなく、また、家族とか医療関係者などの描写がほとんど出てきません。
 
「死という現実」と向き合うヒロイン、傍観する主人公、希薄な社会描写。こういった点はまさしく「セカイ系」と呼ばれる作品が持つ特徴と重なります。
 
かつては何かと「オタク的」「引きこもり」などと揶揄されてきた「セカイ系」という想像力をベースに書かれた作品が、いま幅広い層に「瑞々しいもの」として受け入れられる事象はなかなか興味深いものがあります。時代がひとまわり回ったということなのでしょうか。
 
 

* 本作のあらすじ

 
クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。これをきっかけとして二人のーーー親友でも恋人でもないーーー不思議な関係が始まっていく。
 
 

* 「終わりある日常」を生きるということ

 
桜良は自分の中に鳴動し始めた「死」と向き合う最善の選択肢として「終わりある日常」を精一杯生きることで、その「生」を祝葬する生き方を選ぶ。
 
そのために必要なのは彼女の境遇をどこまでも我が事のように悲しんでくれる「親友」ではなかった。むしろ、必要だったのは容赦なく「真実」を突きつけつつも、偽りの無い「日常」を与えてくれる「他者」の存在だったわけです。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は、人の心の内的成熟の過程とは、これまでの人生で「生きられなかった半面」や「切り捨ててきた”たましい”の側面」といった「自己」を取り戻していく「自己実現の過程」であると言います。
 
その意味では、本作は桜良が「終わりある日常」を生きる中で、【僕】という「他者」を鏡として「これまで生きてこなかった半面」「切り捨ててきた”たましい”の側面」を取り戻していく「自己実現の過程」を描いた物語のようにも思えました。
 
桜良はいう。誰にとっても1日の価値は一緒であると。そして人の行動は運命でも偶然でもなく意思による主体的選択であると。
 
こういった言葉達は我々にこの凡庸な日々の瞬間ひとつひとつの中にこそ、何ものにも代え難い特別なきらめきがあることを教えてくれます。
 
この作品がセカイ系的想像力を基盤とするにもかかわらず、幅広い層の共感を呼んだ要因はその辺りにもあるのではないかと思うわけです。
 
 

* 「キミスイ」はぜひ、アニメ→実写映画→原作の順で

 
桜良ちゃんは実写映画版の浜辺さんのイメージが先行していたので、アニメ版の少し大人っぽく儚げなキャラデザとウザカワな性格はややミスマッチな印象は少し感じました。
 
この作品は実写の出来が良いんですよ。ただ、それは別にアニメ版の出来が悪いというわけではなくて、【僕】の表情が少しずつ優しくなっていく変化の過程がはっきり分かるのはアニメというメディアならではだと思いました。あと、原作にはない花火のシーンは良かったです。
 
キミスイ」をまだ見たこと、読んだことない方であれば、まずアニメから入って、次に実写映画でイメージを把握した上で、原作の、特に共病文庫フルバージョンを読むという順番がいいのかもしれませんね。
 
 
 
 

「ゼロ年代の想像力(宇野常寛)」〜「小さな物語」をどう生きるのか

 

 

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 
 

* はじめに

 
現代はポストモダンの時代と言われます。ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。
 
日本の場合、戦後しばらくの間は「戦後民主主義」や「高度経済成長」などといった「大きな物語」が機能していました。
 
大きな物語」が機能する社会においては人々は立場の違いはあれど「きっと明日は今日よりもっと良くなる」という幻想を素直に信じることができた。
 
もっと言えば「終身雇用」「年功序列」を前提とした「良い大学を出て良い会社に入り、結婚して子供を産み、そして老後はささやかながらも悠々自適な暮らしを」などという「昭和的ロールモデル」と呼ぶべき「大きな物語」がかつての日本にはあったわけです。
 
けれどもこうした「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなります。
 
そういう意味で我々が小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといった「物語」に没入し、そこで共感したり、あるいは反発したりという体験は「これが私なんだ」「これで良いんだ」という自らの「小さな物語」の確認に直結する行為であると言えるわけです。
 

* 「古い想像力」と「新しい想像力」

 
では、ポストモダンにおける社会状況の変化は「物語の想像力」に、さらには「個人の生き方」にどのように影響を及ぼしているのでしょうか?
 
この点、本書はまず「古い想像力」と「新しい想像力」を峻別します。
 
「古い想像力」とは、90年代後半の社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力であり、その代表と目されるのは「新世紀エヴァンゲリオン」です。
 
阪神大震災が起きた1995年は、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目となる年であると言われています。
 
一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。
 
もはや「大きな物語」は経済的豊かさも生きる意味も与えてくれないことが明らかになった。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。
 

* 引きこもり/心理主義

 
このような、何が正しいのかわからなくなった時代において、最も安易な選択は「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という態度です。
 
こういった態度を本書は「引きこもり/心理主義」と呼びます。つまり「あえて正しいことがあるとすれば、それは何もしないことである」という否定神学的態度となります。
 
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」においては、全人類がその個体を消滅させ、まるで母親の胎内のような溶液の中に埋没して群体生物として進化するという人類補完計画が描かれる。
 
そして、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し、他のキャラクターとの問答を繰り返し、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎える。
 
この後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならないということです。
 

* 「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」としての「セカイ系

 
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」の結末においては、TV版で描かれたような母親的承認のもとに全能感が確保される内面への引きこもりを捨て去り、互いに傷つけ合うことを受け入れ「他者」と共存して生きて行く態度が選択されている。こうしてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎えるわけです。
 
エヴァ劇場版はエヴァTV版の「引きこもり/心理主義的」傾向への優れた回答だと本書はいう。すなわち、何が正しいのか分からない世の中だからこそ、人は時に傷つけあいつつも〈他者〉とのコミュニケーションを試行錯誤していくしかないという、厳しくも前向きな処方箋がそこにはあるということです。
 
けれども、エヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶されることになる。
 
こうして、エヴァTV版によって示される「引きこもり/心理主義」的な想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡することになる。「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」。これらの作品に代表される「セカイ系」と呼ばれる潮流です。
 
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
 

* 決断主義

 
ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。
 
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、引きこもっていては殺される」という「新しい想像力」が台頭して来ることになる。
 
こうした態度を「決断主義」と呼びます。人はもはや間違っても、他人を傷つけても、何がしかの「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくしかないという現実認識です。
 
このような「新しい想像力」が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。
 
では、決断主義を乗り越える「次世代の想像力」とは一体、何なのでしょうか?これがまさしく本書の設定する問題意識であり、このような視点から、本書では小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといったジャンルを問わず数多くの作品が検証されていくわけです。
 

* データベース消費とコミュニケーション

 
東浩紀氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、人々は「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。
 
つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。
 
こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。
 
では、我々はこのような「小さな物語」をどう生きて行けばいいのでしょうか?この点、本書はキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。
 
すなわち、「小さな物語」の内部で、あるいは異なる「小さな物語」との間で、我々は他者とどのようにコミュニケーションしていくかという問題が「次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。
 

* 終わりに

 
こうした本書が示す想像力のパラダイムの変遷は、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものとも言えるでしょう。
 
例えば、これまで自分の人生を規定していた理想が叶わなかった時、我々は絶望し、程度の差はあれ、まずは「他者」に怯え引きこもり、母親的承認による全能感の確保によって生き延びようとするでしょう(セカイ系)。
 
もっとも、時が経つにつれ、このまま引きこもったままでは「他者」に殺されてしまうことを悟る。その時、我々は否応無く、今度は自らが信じる根拠なき理想を掲げて「他者」との間に「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」のゲームに参加せざるを得なくなる(サヴァイブ系)。
 
けれども我々がいつか「他者」を異なる価値観を持つ同じ存在として受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくるわけです。
 
いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。
 
結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。