かぐらかのん

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小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく--禅、シンプル生活のすすめ(枡野俊明)

 

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

 

 

 

* 環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくために

 
禅の思想を日々の暮らしに生かすための一冊。我々が普段行う何気ない動作に、ほんの少しだけ意識を向けることで忽ちそれらは「禅の修行」になります。
 
ちょっとした「習慣」や「見方」を変えて心を整える禅の実践は現代心理療法の主流である認知行動療法と共通した核心を持っています。実際「第三世代の認知行動療法」として注目を集める「マインドフルネス」は禅の考え方をベースにしたものです。
 
我々は常に健康とかお金とか人間関係とか、そういった周囲の環境から生じるストレスに晒されている。本書にはこのような環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくためのヒントが示されています。平明な文章ですから通勤通学のお供などにも最適でしょう。
 

* 「坐禅」をやってみる

 
お釈迦様の「悟り」の根本は「本来本仏性、天然自性身」という言葉で表されれます。要するに、我々の奥底には「本来の自己」というべき「もうひとりの自分」が宿っており、この「もうひとりの自分」は自由で無限の可能性に満ちている。
 
そのような自由闊達な「悟り」を開くため、臨済禅では「公案」という徹底的な「禅問答」をするわけです。例えば、「狗子仏性、有りや、無しや(犬に仏心はあるのかないのか)」と問われたとします。
 
この時「ある」と答えても「違う」と言われ「ない」と答えても「違う」と言われる。こうした「答えのない問いかけ」を繰り返すことで「気づき」が生まれ「悟り」へと近づいて行く。
 
これに対して曹洞禅の修行は「只管打坐(しかんたざ)」といって「坐禅」を重んじる。余計なことは一切考えず、坐っていることさえ忘れ、心を「無の状態」にしてひたすら坐る。何も求めず、ただ「坐る」というのが曹洞禅の本質です。
 
本書でも、集中力が落ちてきたり、イライラしてきた時は5分程度の坐禅を勧めています。
 
坐禅の基本は「調身、調息、調心」です。これを繰り返す。つまり、姿勢を整えることで、呼吸が整い、呼吸が整うことで、自ずと心が整ってくるということです。
 
まず横から見て背骨がSの字を描き、尾てい骨と頭のてっぺんが一直線になるように正しい姿勢を作ります。姿勢を整えることで、腹式呼吸が可能となり呼吸が整ってくる。そして、両手は膝におく。
 
次に呼吸を整える。息を吸って吐くという呼吸という動作を通常は1分間に7〜8回行なっていると思われるがこれを1分間に3〜4回程度を目指して、ゆっくり呼吸する。
 
「呼吸」という言葉は息を「吸う」よりも息を「吐く」という字が先に来る。つまり息を吸うより吐くという行為が先に来るわけです。
 
丹田に意識を集中させてとにかくゆっくりと長く息を吐く。そうやって息を吐ききれば人間は自然に息を吸おうとする。
 
これを繰り返しているうちに気持ちがどんどん落ち着いて来る。
 
呼吸を整える事は、仏教でいう「貪・瞋・癡」の「三毒」を解毒すると言われます。「貪(とん)」とは貪りの感情。なんでも欲しがり一つを手に入れてもなお、欲望が尽きない心です。「瞋(じん)」とは怒りの感情。ちょっとしたことで怒りを覚え、それを表に出したり、だれかにぶつけたりする心です。「癡(ち)」とは愚かさの感情。良識や道徳を知らない心です。
 
この三毒がちょっと顔を出した時は呼吸を整え、心を落ち着かせてみる。そうすると三毒は頭まで登ってこないと本書は言います。
 

* 「今、ここ」「この瞬間」に集中する

 
人間は「今、ここ」「この瞬間」のみを生きている。人生とは「今、ここ」「この瞬間」の積み重なったものに他ならない。
 
だから、過去にとらわれるのでもなく未来を憂うのでもなく「この瞬間」を生きることのみに心を尽くす。それが禅の考え方です。
 
「喫茶喫飯」という有名な禅語があります。お茶をいただくときはお茶を飲むことのみに集中する。ご飯をいただくときはご飯を食べることのみに集中する。
 
お茶やご飯だけでなく、例えば、仕事で、字を書いているときは字を書くことに集中し、できるだけ読みやすく丁寧な字を書く。
 
「心を整える」というのは我々凡人にとっては雲をつかむような話ではあります。
 
そこで「心を整える」為に、まず「形を整える」ところから入る。これが禅の発想です。
 
こういった所作を整えることも「今、ここ」「この瞬間」を生きるということです。
 

* 「とらわれ」を手離す

 
禅のいう「美しさ」とは虚飾を排し、不要なものを徹底的に削ぎ落とした美しさです。iPhoneの設計思想の背景にスティーブ・ジョブズの禅への傾倒があったことは有名な話です。
 
暮らしもこころもシンプルに磨き上げた簡素な生活こそ美しいということです。「簡素」というのは本当に必要なものを見極めて無駄なものを削ぎ落としていくことである。
 
欲望に振り回されず、何事にも執着せず、一点の曇りもない状態。それが「無」の状態であり「空の思想」という禅では最も重視されるものです。
 
我々は「生の現実」を「イメージ」と「言葉の力」によって、それぞれ「パーソナルな現実」として把握しています。
 
普段我々は様々な欲望や執着などの「とらわれ」の中で生きており、これが「パーソナルな現実」を歪めている。そこでこれらの様々な「とらわれ」を一旦手放すことが重要になる。
 
「生の現実」で起こっていることは変えられないかもしれないけれど、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変えることはできるわけです。
 

* 感謝の心を持つ

 
禅の食事の心得としての「五観の偈」というのがあります。
 
一・・・多くの人を思い感謝していただく。
 
二・・・自分の行いを反省して静かにいただく。
 
三・・・好き嫌いをせず欲張らずに味わっていただく。
 
四・・・健康な体と心を保つための良薬としていただく。
 
五・・・円満な人格形成のため合掌していただく。
 
常にこの五つのことを思い、食事をいただけることに感謝して一口ごとに箸を置く。
 
なぜそんな事をするかと言いますと、ひとくち食べるごとに「感謝の気持ち」を持って味わうためだと本書はいう。食事はただ空腹を満たすだけでない「修行の時間」ということです。
 
合掌をした時の左手は自分自身。そして右手は自分以外の相手。すなわち、仏様であったり神様であったり、あるいは目の前にいる他人であったりします。
 
そして「合掌」とはこの二つを一つにするという意味。つまり他者を敬うという気持ちの表れであるという事です。
 
最近は仏壇のある家も少なくなり、普段あまり合掌する機会もないのかもしれませんがせめて、食事の時くらいは「いただきます」「ごちそうさま」という合掌をしてみたいものです。
 

* 小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく

 
いかがでしょうか?禅の思想に「不立文字、教外別伝」というものがあります。これは真の教えは文字や言葉では表現できないということを意味しています。
 
つまり「禅の極意」があるとすれば、まさしくそれは日々の実践によって、少しずつ掴んで行く類のものであるということです。
 
呼吸を整え、所作を整える。欲望や執着に囚われることなく、感謝と謙虚の心を持つ。こういった小さな何気ない積み重ねこそが周囲の環境とこれからの人生を変えていくと言っても別に大袈裟でも何でもない。要するに世界が灰色のディストピアになるか、彩りと情操に溢れた豊かな日常になるかは、結局のところ本当に、紙一重の差に過ぎないのかもしれないということです。