かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

逆境の時こそ、前向きな言葉を使いましょう。

 
 
最も有名な心理学理論の一つにレオン・フェスティンガーの提唱する認知的不協和理論というものがあります。人はそれまでの認識や信念(認知A)とは矛盾する出来事(認知B)を突きつけられた時、ストレス(不協和)を感じることから、そのどちらか一方の認知を否定することで矛盾を解消しようとします。
 
認知的不協和の典型例として、ダイエットに失敗した人が自らの認知を「ダイエットした方が健康的だ→むしろ好きなものを好きなだけ食べた方がストレスなく幸せな人生を送れるんだ」と変更する「酸っぱい葡萄パターン」が挙げられます。
 
また例えば、あまり親しくない人に、思わずプライベートな深い話をしてしまった時、「私はこんなことを話したんだから、私はこの人を信頼しているんだ」と思い込むというようなパターンも認知的不協和の一例です。
 
裏返せば、ある人にお近づきになるための近道は、その人からプライベートな話を早々に引き出す点にあるとも言えます。ゆえに認知的不協和理論はビジネスや恋愛におけるテクニックとしてよく紹介されるわけです。
 
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ところで、この認知的不協和は他人だけではなく自らに対しても意図的に起こすことができるんですよ。
 
例えば、仕事の締め切りが目前に迫った時、「面白くなってきたな」とか「まだ慌てる時間じゃない」などと言ってみる。あるいは恋人と大ゲンカした時、「もっと仲良くなるチャンスだ」と言ってみる。
 
つまり、マイナスの状況に陥った時、あえてそこでプラスの言葉を言うわけです。マイナスの状況のはずなのに、自分はプラスの言葉を言っている。
 
ここでも認知的不協和が起きるため、人はその矛盾を解消する為、自ずとプラスの言葉に相応しい行動をとるようになるというわけです。
 
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一見、極めてバカバカしい営みにも見えるかもしれません。けれどもこれは「無意識」の働きとして説明できます。我々は自らの存在を何となく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方で、よくわからない不安・恐怖・強迫観念など、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ります。この「何者か」の正体こそが「無意識」という〈他者〉に他なりません。
 
この点、フランスの精神分析医ジャック=ラカンによる有名なテーゼに「無意識とは言語によって構造化されている」というものがあります。 つまり、意識的に発したプラスの言葉は無意識の言語構造の中に組み込まれ、今度は逆に無意識の方からプラスの言葉を意識側に語りかけてくるということです。
 
要するに、どんな言葉を使うかで周りの景色はまるで変わってくるということです。何れにせよ大事なのは習慣化することでしょう。無意識という隣人とは常日頃から良いお付き合いを心掛けていきたいものですね。
 
 
 
 

少ない具材でかんたん水炊き

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水炊きというのは大勢でワイワイ食べるイメージがありますけど、作り置きおかずとしても超優秀。
 
スープの量を調整したり具材を適時組み合わせることで、朝食、おかず、お酒のお供など色々と使いまわせます。
 
そこで少ない具材で手間なく作れる水炊きレシピを考えてみました。
 
とりあえずシンプルに炊いてみて、食べる段になって醤油、にんにく、生姜などで味を調整するのも良いかもですね。
 

用意するもの

 

・水・・・600ml
 
・鶏ガラスープの素・・・大匙1
 
・昆布だしの素・・・小匙1
 
・塩・・・小匙0.5
 
・もも肉・・・2〜300g
 
・しめじ・・・一袋
 
・白菜・・・8分の1切り
 

作り方

 

①鍋に水を張り、白菜以外の材料を全て投入。
 
②沸騰して灰汁が出てきたらすくい取る。
 
③白菜を芯の部分から投入。葉の部分が軽く煮えてきたら出来上がりです\(^o^)/
 

メモ

 

しめじは大まかにバラした方が具材としてまとまりがあって良いと思います。
 
白菜の代わりにキャベツを入れると博多風っぽくなります。
 
余裕があれば手羽先も入れてみましょう。鶏肉は様々な部位を煮込むことで味に複雑な旨味が出ます。特に手羽先はコラーゲンたっぷりのスープに仕上がるのでおすすめです。
 
 
 
 
 
 

集中力と低GI食品

 
 
GI値というのをご存知でしょうか?GI値とは、グリセミック・インデックス(Glycemic Index)の略で、ある食品が体内で糖に変わり血糖値が上昇するスピードをいいます。
 
主にダイエットやグルコーススパイク予防などで注目されるGI値ですが、実は「集中力」とも深い関係があるようです。
 
集中力の源泉である前頭葉ブドウ糖をエネルギー源としており、集中力と血糖値は密接な関係にあります。
 
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体内に摂取された糖質は小腸でブドウ糖に分解され血液中に現れます。そして、血糖値が上昇する時、インスリンの作用によりブドウ糖は臓器のエネルギー源として使われ、その余剰分は脂肪細胞に蓄えられます。
 
人が高い集中力を維持できるのは血糖値が上がっている最中です。血糖値上昇がピークを超えてしまうと集中力も下がってきます。
 
血糖値が下がると、体温調整や呼吸といった生命維持活動ができなくなってしまう為、とりあえず生存に直結しない前頭葉や大脳皮質の活動を低下させてしまうからです。
 
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この点、GI値が低い食品ほど血糖値は緩やかに上がり、緩やかに下がります。なので、別に太ってもないし生活習慣病を気にする年齢でもないという方でも、勉強や仕事のパフォーマンスを上げる意味で低GI食品はおすすめということになります。
 
参考までに白米はのGI値が84に対して五穀米は55、発芽玄米は54です。 いきなり玄米とか無理でも、さしあたり野菜や肉から先に食べてご飯は後回しにする食べ方の習慣づけから始めるののいいかもですね。
 
 
 
 
 

「ていねいに生きること」と「生産性」

 
 
「置かれた場所で咲きなさい」著者である渡辺和子シスターはその著書の中で折に触れて「ていねいに生きること」の大切さを強調されています。
 
「あたりまえのこと」、時には「つまらないこと」を、心をこめて実行することの大切さが、最近、忘れられています。そして、この実行こそが、人を美しくするのです。
 
(渡辺和子「面倒だから、しよう」より/Kndle位置No.197)
「神さまの教えとは何ですか」と問われたとしたら、「当たり前のことを、心をこめて実行すること。与えられる一つひとつのいのちも、ものも両手でいただくこと」と答えることでしょう。
 
(渡辺和子「面倒だから、しよう」より/Kndle位置No.214)

 

これは直接的には環境の奴隷ではなく環境の主人として主体的に生きる「人格」としての人のあり方を説いたものですが、この考え方を「生産性」を高めるという観点から、勉強や仕事の基本動作に「応用」してみるのも良いのかもしれません。
 
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例えば、我々は仕事や勉強の時、ともすれば、猫背になったり、足を組んだりと楽な姿勢になりがちです。 けれども、ここで「正しい姿勢」を意識して、勉強や仕事に「ていねいに」取り組んだとしたらどうなるのでしょうか?
 
人の集中力を生み出す源泉は脳の前頭葉にあると言われます。 前頭葉のエネルギー源となるのはブドウ糖と酸素であり、これはいうまでもなく血液によって運ばれます。
 
健常人の脳にはだいたい常時、全血液の15%が集まっているそうですが、猫背になると胸の当たりが圧迫され、自然と呼吸が浅くなります。 そうなると血液の循環が落ち、新鮮な酸素の供給が滞ってしまい、結果、集中力が低下する。
 
そこで姿勢を正す事で、横隔膜が正常に働き呼吸が深くなり、さらに血液が循環しやすくなって、結果、高い集中力を維持できるということです。
 
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こういう俗物的な思考はあるいは「邪道」なのかもしれません。ですが、どんな素晴らしい啓発書を読んでも、「けど現実的に・・・」などと言い、1ミリも実践しないのでは何も身にはならないわけです。なので、俗物であれ何であれ、とりあえず自分が入りやすい切り口から入ってみるというのもありではないでしょうか。
 
「あなたたちには、脱いだ履物を揃える自由があります」
 
私は、これほど、わかりやすい自由の説明を、それまで聞いたことがありませんでした。
 
(渡辺和子「幸せのありか」より/Kndle位置No.234)

 

そういうわけで、長時間デスクワークなどしていると自然と腰が曲がってきて、つい足を組みたくなってしまう時には「姿勢を正す自由」と唱えて、机に向かい直してみるのもいいでしょう。
 
そうすれば生産性も上がるだけでなく、きっと、その姿は人として凛として、美しく見えると思います。日々の基本動作は面倒だからこそ、ていねいにやっていきたいものです。
 

「お世辞を言う」のではなく「賛嘆する」と考えてはいかがでしょうか?

 
ある心理学の実験によれば「発言のほとんどで、根拠のないお世辞を言いまくった場合」と「発言の一部に、根拠のあるお世辞を盛り込んだ場合」と、「全くお世辞を言わなかった場合」で、最も相手の好感度が高かったのは最初の「発言のほとんどで、根拠のないお世辞を言いまくった場合」だったそうです。
 
なので、ひたすら上司や権威者の「ご機嫌取り」ばかりに血眼を上げる「イエスマン」な人々は、少なくとも心理学上は「正しい態度」を取っているということになります。
 
要するに、努力は必ずしも公正に報われることは無いわけです。本当に残念な事です。ですから「そんな世の中はおかしい!私は他人に媚を売るような真似はしたくありません!」と反発する方の気持ちはとても良くわかるつもりです。
 
それにやっぱり、どうしても真実を詳らかにして相手を正さなければいけないという絶対的な状況というのは必ずあると思います。そんな時に、躊躇なく利害を超えて自らの正義を実行できる人は、とても素晴らしいと思います。
 
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ただ「嘘は常備薬、真実は劇薬」という河合隼雄先生の名言が示すように、日常的などうでもいい些事においてまで、いちいち真実ばかり言っていると、お互いが劇薬の「副作用」に苦しむことになるでしょう。
 
そこでどうでしょうか?「お世辞を言う」のではなく「賛嘆する」と考えてはいかがでしょうか? より心理学的な言葉で言えば「鏡映自己対象」になってあげるということです。
 
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自己愛性パーソナリティ障害の研究で知られるハインツ・コフートは、われわれ個人の内面世界を「自己」と呼び、「自己」の幸福感は「自己」を取り囲む「自己対象」によって支えられるといいます。
 
「自己対象」の例として、自分を受け入れ賞賛してくれる「鏡映自己対象」、理想や憧れを投影できる「理想化自己対象」、自分に近い存在として親しみを感じる「双子自己対象」が挙げられます。
 
つまり、お世辞を言われた人にとって、お世辞を言ってくれる人というのは「鏡映自己対象」として「自己」を支えてくれるとても有難い存在であると言うことです。
 
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誰かの「鏡映自己対象」となってあげること。これを「お世辞」だと思うから抵抗感や罪悪感を感じるわけでして、そうではなく「賛嘆」だと思えば、むしろ積極的に実践したくなりませんか?
 
賛嘆とは手間もお金もかけることなく他者の幸福に貢献できる営みです。自らの正義を躊躇無く実行できる人が素晴らしいように、誰かを躊躇無く賛嘆できる人もまた同じ位、素晴らしいと思います。
 
 

幸せのありかという享楽

 
幸せになりたいと思わない人は多分あんまりいないと思います。けれども、幸せとは何処にあるのでしょうか?
 
たくさんお金があれば幸せなんでしょうか?
 
皆から尊敬される地位や愛される容姿があれば幸せなんでしょうか?
 
あるいは、住む家と美味しいご飯があれば幸せなんでしょうか?
 
もしくは、ひとまずいま健康であれば幸せなんでしょうか?幸せの定義は様々です。
 
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一昨年暮れに帰天された「置かれた場所で咲きなさい」で有名な渡辺和子シスターは「幸せ」について次のように書かれています。
 
「幸せ は、『 良いものに取り囲まれた状態』だと、私は思っています。」
 
「すべてに感謝する心、苦しいこと、不幸としか思え ないものにも、 意味を見出し、次へのステップにつなげてゆく時、“ おかげさまで” と言える自分に変わってゆき、幸せな自分 になってゆきます。」
 
「 幸せは、 探しに行って見つけるものではなく、私の心が決めるもの、 私とともにあるものなのです。」
 
渡辺 和子「幸せのありか (PHP文庫) 」より(Kindle の位置No.10-13)

 

 
これはまさしく「享楽」としての生き方ですね。フランスの精神分析医ジャック=ラカンは「欲望」と「享楽」を区別して、「欲望する生き方」から「享楽する生き方」へ「幻想の横断」を行うことによって、人は〈他者〉とつながりつつ〈他者〉に依存しない自由な生き方を手にする事が出来ると言います。
 
「欲望」とは「幸せになると願う」生き方です。もちろんこれは大事なことですが、しばし、いまの自分自身が世間一般でいう幸福の定義に当てはまらないことを認めざるを得ない苦しさが伴います。まさにラカンが言う「欲望とは〈他者〉の欲望」です。
 
「享楽」とは「幸せでいる事を選ぶ」生き方です。つまり、世間一般でいう幸福の定義とは無関係に、自ら幸福の定義を作り出す主体的選択であり、たとえどんな境遇であろうと、今の自分自身を肯定できる考え方と言えるでしょう。
 
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要するに大事なのは「欲望」と「享楽」を調和させるということです。こう言うと、なんだか少し大袈裟な話に聞こえますけど、多分ちょっとした事の積み重ねだと思うんですよ。
 
例えば、面倒なこと、あまり人のやりたがらないことを進んでするというのもまさにそうですね。渡辺シスターの言葉で言えば「面倒だから、しよう」「ていねいに生きる」ということです。
 
こうして日々至る所に「幸せのありか」という「享楽」を見つけ出していけるよう、1日1日をていねいに生きていくというのも、そう悪くは無いと思います。
 
そういうわけで、謹賀新年です。どうか宜しくお願いします。
 
 
 

【書評】精神分析の四基本概念(ジャック・ラカン)

 
衒学性に満ちた難解奇抜な理論と人を煙に巻くような独特な語り口にもかかわらず、精神分析のみならず現代思想の領域においても未だにカリスマ的人気を誇るジャック・ラカン。そのあまりにも個性的なキャラクターが災いして、国際精神分析協会をクビになったりもしている人ですが、本書はその翌年に行われた記念すべき(?)セミネール(連続講義)を採録したものです。御本人自身、あとがきで「本書は読まれることになるだろう、賭けてもいい」と絶対の自信(?)をもってお勧めする一冊です。
 
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まず、本書の序盤から中盤にかけてはタイトルの通り「無意識」「反復」「転移」「欲動」という四つの基本概念の本質が詳らかにされていきます。これらはなぜ「基本概念」なんでしょうか?
 
「無意識」が精神分析にとって重要な概念であることは何となくわかりますね?我々は自らの存在をなんとなく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状・・・まさしく何者かによって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ります。つまり、この「何者か」の正体が「無意識」という〈他者〉です。
 
では「反復」とは何でしょうか?ラカンは「無意識は言語によって構造化されている」といいます。つまり「こころ」は「ことば」で成り立っているということです。もっとも、世の中には言語化できない「それ」としか言いようがない快楽原則の彼岸があるわけでして、「それ」を無理矢理に言語化しようとした結果、そこに歪みが生じます。これを一般的には「トラウマ」と呼びます。この「トラウマの再生」という「反復」こそが数々の神経症的症状の核をなしているということです。
 
すなわち精神分析とは、「それ」との出会い直しの場とも言えるわけです。セラピストがクライエントの語りを傾聴し「無意識のスクリーン」を演じる時、クライエントの中に「知を想定された主体」というセラピストへの信頼が生まれます。この現象を「転移」といいます。セラピストは転移を利用して解釈を与え、クライエントの「欲望」を弁証法化させていくわけです。
 
セラピストはクライエントの「欲望」を弁証法化させた後、今度は「欲動」を顕在化させていきます。「欲望」と「欲動」は何が違うんでしょうか?ラカンは「欲望は〈他者〉の欲望である」と言います。つまり欲望というのは本質的に両親や世間といった〈他者〉への依存が前提にあるわけです。これに対して「欲動」と〈他者〉に依存しない「無頭の主体」、つまり「自らの自由な満足そのもの」を言います。
 
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さらにセミネールの佳境において、ラカンはこれらの基本概念を二つの演算として再統合します。これを「疎外と分離」と言います。
 
まず「疎外」とは我々が〈他者〉と出会うことでその外部に主体として排出され「欲動満足=享楽」を失い〈他者〉に依存する過程です。
 
そして「分離」とは〈他者〉に「欠如」を見出し、その欠如に我々自身の欠如を重ね合わせ、「欲動の対象=対象 a 」を見出して欲動を構成し、再び「享楽」を取り戻し〈他者〉から自由となる過程です。
 
もっとも人は〈他者〉と関わることなしには生きていけません。そこで、主体は分離を否定するため、対象 a を「欲望の原因」と看做して、自らを「〈他者〉の欲望」に同一化する。こうした主体の「欲望のあり方」を「根源的幻想」といいます。
 
根源的幻想は人が〈他者〉と関わって生きる為には必要なものです。けれども、あまりに「〈他者〉の欲望」に縛られてしまうと今度は神経症的症状を典型とする様々な「生きづらさ」が生じてくるわけです。
 
そこで人は「欲望」と「享楽」を調和させ、〈他者〉とつながりつつも、主体が〈他者〉からの自由を獲得する必要があるわけです。この営みこそがラカン精神分析の目標として宣明する「根源的幻想の横断」と呼ばれるものです。
 
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このようにラカンは「欲望」と「享楽」をどこまでも峻別します。「欲望」と「享楽」。おそらく、その違いは端的に言えば「幸せになる」と「幸せでいる」という違いなのでしょう。
 
「幸せになる」ということは、翻っていまは「幸せではない」ということでしょう。すなわち「欲望」とは、いまの自分の境遇が世間一般でいう幸福の定義に当てはまらない苦しみを伴います。まさに「欲望とは〈他者〉の欲望」です。
 
ところが「幸せでいる」というのは、世間一般でいう幸福の定義とは無関係に、自ら幸福の定義を作り出す主体的選択に他なりません。すなわち「享楽」とは、たとえどんな境遇であろうと、今の自分自身を肯定できる考え方と言えるのではないでしょうか。
 
こうしてみると「疎外と分離」の論理は突き詰めて言えば、我々が生きていく中、至る所で出会う〈他者〉ーーー例えば学校や会社、あるいは恋人などーーーとの関係性を明らかにしたものと言えるでしょう。つまり人生とは幾度とな疎外と分離を繰り返し、その時々の幻想を横断し、欲望と享楽を調和させていく過程とも言えるのかもしれません。
 
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このように精神分析的な営みは臨床や思想の場だけに留まらず、日々の暮らしの中の至る所に見出せるということです。そういう意味で本書の内容は普遍的な価値を持っていると言えるでしょう。
 
しかしそうはいっても、この本はやっぱりラカンだけあって普通に難しいです。エクリに比べて読みやすいなどとは言われますけれども、それは多分に比較対象がおかしいというだけの話です。末尾におすすめの入門書を挙げておきますが、本書を読むに当たっては精神分析ラカン派の理論についてある程度の素養は必要です。
 
けれども、もしあなたが日々の暮らしで「生きづらさ」を感じているのであれば、ラカンを読むことで得られるものはきっと多いでしょう。そこには不条理だけれど気まぐれに優しい、このよくわからない世界で生きていくために必要な摂理がある様な気がすると、そう思います。
 

 

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

 
ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)