かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【書評】精神分析の四基本概念(ジャック・ラカン)

 
衒学性に満ちた難解奇抜な理論と人を煙に巻くような独特な語り口にもかかわらず、精神分析のみならず現代思想の領域においても未だにカリスマ的人気を誇るジャック・ラカン。そのあまりにも個性的なキャラクターが災いして、国際精神分析協会をクビになったりもしている人ですが、本書はその翌年に行われた記念すべき(?)セミネール(連続講義)を採録したものです。御本人自身、あとがきで「本書は読まれることになるだろう、賭けてもいい」と絶対の自信(?)をもってお勧めする一冊です。
 
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まず、本書の序盤から中盤にかけてはタイトルの通り「無意識」「反復」「転移」「欲動」という四つの基本概念の本質が詳らかにされていきます。これらはなぜ「基本概念」なんでしょうか?
 
「無意識」が精神分析にとって重要な概念であることは何となくわかりますね?我々は自らの存在をなんとなく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状・・・まさしく何者かによって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ります。つまり、この「何者か」の正体が「無意識」という〈他者〉です。
 
では「反復」とは何でしょうか?ラカンは「無意識は言語によって構造化されている」といいます。つまり「こころ」は「ことば」で成り立っているということです。もっとも、世の中には言語化できない「それ」としか言いようがない快楽原則の彼岸があるわけでして、「それ」を無理矢理に言語化しようとした結果、そこに歪みが生じます。これを一般的には「トラウマ」と呼びます。この「トラウマの再生」という「反復」こそが数々の神経症的症状の核をなしているということです。
 
すなわち精神分析とは、「それ」との出会い直しの場とも言えるわけです。セラピストがクライエントの語りを傾聴し「無意識のスクリーン」を演じる時、クライエントの中に「知を想定された主体」というセラピストへの信頼が生まれます。この現象を「転移」といいます。セラピストは転移を利用して解釈を与え、クライエントの「欲望」を弁証法化させていくわけです。
 
セラピストはクライエントの「欲望」を弁証法化させた後、今度は「欲動」を顕在化させていきます。「欲望」と「欲動」は何が違うんでしょうか?ラカンは「欲望は〈他者〉の欲望である」と言います。つまり欲望というのは本質的に両親や世間といった〈他者〉への依存が前提にあるわけです。これに対して「欲動」と〈他者〉に依存しない「無頭の主体」、つまり「自らの自由な満足そのもの」を言います。
 
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さらにセミネールの佳境において、ラカンはこれらの基本概念を二つの演算として再統合します。これを「疎外と分離」と言います。
 
まず「疎外」とは我々が〈他者〉と出会うことでその外部に主体として排出され「欲動満足=享楽」を失い〈他者〉に依存する過程です。
 
そして「分離」とは〈他者〉に「欠如」を見出し、その欠如に我々自身の欠如を重ね合わせ、「欲動の対象=対象 a 」を見出して欲動を構成し、再び「享楽」を取り戻し〈他者〉から自由となる過程です。
 
もっとも人は〈他者〉と関わることなしには生きていけません。そこで、主体は分離を否定するため、対象 a を「欲望の原因」と看做して、自らを「〈他者〉の欲望」に同一化する。こうした主体の「欲望のあり方」を「根源的幻想」といいます。
 
根源的幻想は人が〈他者〉と関わって生きる為には必要なものです。けれども、あまりに「〈他者〉の欲望」に縛られてしまうと今度は神経症的症状を典型とする様々な「生きづらさ」が生じてくるわけです。
 
そこで人は「欲望」と「享楽」を調和させ、〈他者〉とつながりつつも、主体が〈他者〉からの自由を獲得する必要があるわけです。この営みこそがラカン精神分析の目標として宣明する「根源的幻想の横断」と呼ばれるものです。
 
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このようにラカンは「欲望」と「享楽」をどこまでも峻別します。「欲望」と「享楽」。おそらく、その違いは端的に言えば「幸せになる」と「幸せでいる」という違いなのでしょう。
 
「幸せになる」ということは、翻っていまは「幸せではない」ということでしょう。すなわち「欲望」とは、いまの自分の境遇が世間一般でいう幸福の定義に当てはまらない苦しみを伴います。まさに「欲望とは〈他者〉の欲望」です。
 
ところが「幸せでいる」というのは、世間一般でいう幸福の定義とは無関係に、自ら幸福の定義を作り出す主体的選択に他なりません。すなわち「享楽」とは、たとえどんな境遇であろうと、今の自分自身を肯定できる考え方と言えるのではないでしょうか。
 
こうしてみると「疎外と分離」の論理は突き詰めて言えば、我々が生きていく中、至る所で出会う〈他者〉ーーー例えば学校や会社、あるいは恋人などーーーとの関係性を明らかにしたものと言えるでしょう。つまり人生とは幾度とな疎外と分離を繰り返し、その時々の幻想を横断し、欲望と享楽を調和させていく過程とも言えるのかもしれません。
 
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このように精神分析的な営みは臨床や思想の場だけに留まらず、日々の暮らしの中の至る所に見出せるということです。そういう意味で本書の内容は普遍的な価値を持っていると言えるでしょう。
 
しかしそうはいっても、この本はやっぱりラカンだけあって普通に難しいです。エクリに比べて読みやすいなどとは言われますけれども、それは多分に比較対象がおかしいというだけの話です。末尾におすすめの入門書を挙げておきますが、本書を読むに当たっては精神分析ラカン派の理論についてある程度の素養は必要です。
 
けれども、もしあなたが日々の暮らしで「生きづらさ」を感じているのであれば、ラカンを読むことで得られるものはきっと多いでしょう。そこには不条理だけれど気まぐれに優しい、このよくわからない世界で生きていくために必要な摂理がある様な気がすると、そう思います。
 

 

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

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ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

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