かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく--禅、シンプル生活のすすめ(枡野俊明)

 

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)

 

 

 

* 環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくために

 
禅の思想を日々の暮らしに生かすための一冊。我々が普段行う何気ない動作に、ほんの少しだけ意識を向けることで忽ちそれらは「禅の修行」になります。
 
ちょっとした「習慣」や「見方」を変えて心を整える禅の実践は現代心理療法の主流である認知行動療法と共通した核心を持っています。実際「第三世代の認知行動療法」として注目を集める「マインドフルネス」は禅の考え方をベースにしたものです。
 
我々は常に健康とかお金とか人間関係とか、そういった周囲の環境から生じるストレスに晒されている。本書にはこのような環境の変化に左右されずに、悠々と生きていくためのヒントが示されています。平明な文章ですから通勤通学のお供などにも最適でしょう。
 

* 「坐禅」をやってみる

 
お釈迦様の「悟り」の根本は「本来本仏性、天然自性身」という言葉で表されれます。要するに、我々の奥底には「本来の自己」というべき「もうひとりの自分」が宿っており、この「もうひとりの自分」は自由で無限の可能性に満ちている。
 
そのような自由闊達な「悟り」を開くため、臨済禅では「公案」という徹底的な「禅問答」をするわけです。例えば、「狗子仏性、有りや、無しや(犬に仏心はあるのかないのか)」と問われたとします。
 
この時「ある」と答えても「違う」と言われ「ない」と答えても「違う」と言われる。こうした「答えのない問いかけ」を繰り返すことで「気づき」が生まれ「悟り」へと近づいて行く。
 
これに対して曹洞禅の修行は「只管打坐(しかんたざ)」といって「坐禅」を重んじる。余計なことは一切考えず、坐っていることさえ忘れ、心を「無の状態」にしてひたすら坐る。何も求めず、ただ「坐る」というのが曹洞禅の本質です。
 
本書でも、集中力が落ちてきたり、イライラしてきた時は5分程度の坐禅を勧めています。
 
坐禅の基本は「調身、調息、調心」です。これを繰り返す。つまり、姿勢を整えることで、呼吸が整い、呼吸が整うことで、自ずと心が整ってくるということです。
 
まず横から見て背骨がSの字を描き、尾てい骨と頭のてっぺんが一直線になるように正しい姿勢を作ります。姿勢を整えることで、腹式呼吸が可能となり呼吸が整ってくる。そして、両手は膝におく。
 
次に呼吸を整える。息を吸って吐くという呼吸という動作を通常は1分間に7〜8回行なっていると思われるがこれを1分間に3〜4回程度を目指して、ゆっくり呼吸する。
 
「呼吸」という言葉は息を「吸う」よりも息を「吐く」という字が先に来る。つまり息を吸うより吐くという行為が先に来るわけです。
 
丹田に意識を集中させてとにかくゆっくりと長く息を吐く。そうやって息を吐ききれば人間は自然に息を吸おうとする。
 
これを繰り返しているうちに気持ちがどんどん落ち着いて来る。
 
呼吸を整える事は、仏教でいう「貪・瞋・癡」の「三毒」を解毒すると言われます。「貪(とん)」とは貪りの感情。なんでも欲しがり一つを手に入れてもなお、欲望が尽きない心です。「瞋(じん)」とは怒りの感情。ちょっとしたことで怒りを覚え、それを表に出したり、だれかにぶつけたりする心です。「癡(ち)」とは愚かさの感情。良識や道徳を知らない心です。
 
この三毒がちょっと顔を出した時は呼吸を整え、心を落ち着かせてみる。そうすると三毒は頭まで登ってこないと本書は言います。
 

* 「今、ここ」「この瞬間」に集中する

 
人間は「今、ここ」「この瞬間」のみを生きている。人生とは「今、ここ」「この瞬間」の積み重なったものに他ならない。
 
だから、過去にとらわれるのでもなく未来を憂うのでもなく「この瞬間」を生きることのみに心を尽くす。それが禅の考え方です。
 
「喫茶喫飯」という有名な禅語があります。お茶をいただくときはお茶を飲むことのみに集中する。ご飯をいただくときはご飯を食べることのみに集中する。
 
お茶やご飯だけでなく、例えば、仕事で、字を書いているときは字を書くことに集中し、できるだけ読みやすく丁寧な字を書く。
 
「心を整える」というのは我々凡人にとっては雲をつかむような話ではあります。
 
そこで「心を整える」為に、まず「形を整える」ところから入る。これが禅の発想です。
 
こういった所作を整えることも「今、ここ」「この瞬間」を生きるということです。
 

* 「とらわれ」を手離す

 
禅のいう「美しさ」とは虚飾を排し、不要なものを徹底的に削ぎ落とした美しさです。iPhoneの設計思想の背景にスティーブ・ジョブズの禅への傾倒があったことは有名な話です。
 
暮らしもこころもシンプルに磨き上げた簡素な生活こそ美しいということです。「簡素」というのは本当に必要なものを見極めて無駄なものを削ぎ落としていくことである。
 
欲望に振り回されず、何事にも執着せず、一点の曇りもない状態。それが「無」の状態であり「空の思想」という禅では最も重視されるものです。
 
我々は「生の現実」を「イメージ」と「言葉の力」によって、それぞれ「パーソナルな現実」として把握しています。
 
普段我々は様々な欲望や執着などの「とらわれ」の中で生きており、これが「パーソナルな現実」を歪めている。そこでこれらの様々な「とらわれ」を一旦手放すことが重要になる。
 
「生の現実」で起こっていることは変えられないかもしれないけれど、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変えることはできるわけです。
 

* 感謝の心を持つ

 
禅の食事の心得としての「五観の偈」というのがあります。
 
一・・・多くの人を思い感謝していただく。
 
二・・・自分の行いを反省して静かにいただく。
 
三・・・好き嫌いをせず欲張らずに味わっていただく。
 
四・・・健康な体と心を保つための良薬としていただく。
 
五・・・円満な人格形成のため合掌していただく。
 
常にこの五つのことを思い、食事をいただけることに感謝して一口ごとに箸を置く。
 
なぜそんな事をするかと言いますと、ひとくち食べるごとに「感謝の気持ち」を持って味わうためだと本書はいう。食事はただ空腹を満たすだけでない「修行の時間」ということです。
 
合掌をした時の左手は自分自身。そして右手は自分以外の相手。すなわち、仏様であったり神様であったり、あるいは目の前にいる他人であったりします。
 
そして「合掌」とはこの二つを一つにするという意味。つまり他者を敬うという気持ちの表れであるという事です。
 
最近は仏壇のある家も少なくなり、普段あまり合掌する機会もないのかもしれませんがせめて、食事の時くらいは「いただきます」「ごちそうさま」という合掌をしてみたいものです。
 

* 小さな積み重ねこそが環境と人生を変えていく

 
いかがでしょうか?禅の思想に「不立文字、教外別伝」というものがあります。これは真の教えは文字や言葉では表現できないということを意味しています。
 
つまり「禅の極意」があるとすれば、まさしくそれは日々の実践によって、少しずつ掴んで行く類のものであるということです。
 
呼吸を整え、所作を整える。欲望や執着に囚われることなく、感謝と謙虚の心を持つ。こういった小さな何気ない積み重ねこそが周囲の環境とこれからの人生を変えていくと言っても別に大袈裟でも何でもない。要するに世界が灰色のディストピアになるか、彩りと情操に溢れた豊かな日常になるかは、結局のところ本当に、紙一重の差に過ぎないのかもしれないということです。
 
 

コミュニケーションというアンサンブル--誰と一緒でも疲れない「聴き方・話し方」のコツ

* はじめに

 
本書は対人関係療法の第一人者による「まっとうなコミュニケーション」を身につけるためのガイドブックです。
 
コミュニケーションに苦手意識を持っている人ほど「まっとうなコミュニケーション」に対して、えらくハードルの高い幻想を持っていたりするわけです。
 
けれども本書を読めば「まっとうなコミュニケーション」とは決して「場をハデに盛り上げる能力」とか「機敏に空気を読み細やかな気配りができる能力」などという、トリッキーな能力ではないということがわかると思います。
 
大事なのは自分の特性にあったコミュニケーション能力を手にいれるということです。
 
本書を読んで「この程度で良いんだ。これなら出来そうだ」と思えれば、それは自信につながります。
 
そういう意味では本書はコミュニケーション能力の指南書のみならず自己肯定力を涵養する本でもあります。
 

* 領域意識を持つ

 
コミュニケーションを自在に扱う基本として本書は「領域意識を持つ」という事を至る所で強調しています。
 
我々は、もって生まれた気質、育った環境やこれまでの境遇などから形成された性格や価値観、今日の体調や機嫌など、様々な要素を前提として、自分にしかわからない「自分の領域」のイメージを持っています。
 
この「自分の領域」に他人がずかずかと踏み込んで来たと感じられた時、人は頭に来るわけです。
 
また「何も言いたくないけど私の気持ちを解ってほしい」という態度も「自分の領域」に責任を持っていないと言えますし、相手に配慮した言い方と曖昧な言い方とは似て非なるものです。
 
すなわち「領域意識を持つ」と言うのは「相手の領域を侵害しない」ということだけでなく「自分の領域に責任を持つ」ということでもあります。
 
こうして「まっとうなコミュニケーション」とは「領域意識」を念頭におき「伝える内容」は妥協せずに「伝え方」を最大限に工夫するというところから始まるわけです。
 
例えば、友人やパートナーに何らかの不満がある場合、「あなたのそういうところが不満なの」というのは完全に相手の領域を侵害しているわけです。
 
「相手に対する不満」とは、言い換えれば「いま私が困っている」ということを意味します。
 
なので「あなたのそういうところが不満なの」ではなく「私はこういうことで困っているから助けて」というメッセージを送ればいいわけです。最近キャッチコピーのように言われる「ユーメッセージではなく、アイメッセージで」というのもこの領域意識を端的に表したものであると言えます。
 
もちろん「相手の領域」はその人自身にしかわからないものであるため、期せずして他者の領域を侵害してしまう事もあるでしょう。
 
そういう風に自分の言葉で相手を傷つけたと感じた時も「今、あなたを傷つけたかもしれません」という風に「相手の領域」に踏み込むのではなく「今、私は失礼なことを言ったかもしれません」と「自分の領域」に止まってメッセージを発信することが大事になるわけです。
 

* 浮かんだ思考は脇におく

 
「話す力」と同等かそれ以上に「聴く力」はコミュニケーションにとって重要です。けれども、我々は日々「聴きたくない話」に多く直面する。
 
説教、自慢話、愚痴、陰口など、こういった楽しくない話をいかにストレスなくスマートに「聴く」にはどうすればいいでしょうか。
 
この点、本書は「浮かんだ思考は脇におく」聴き方を勧めます。
 
我々は相手の話を自分の思考とともに聞いています。「どうしてそういうこと言うのか」「それは言いがかりだ」といった「ネガティブ思考」で聞いていたり、あるいは「なんとかしてあげなければ」というような「アドバイス思考」で聞いていたりすると、どうしても精神的に疲れてしまう。
 
そこで、こういう次々に浮かび上がる思考はとりあえず傍に置いておく。いま、ここの目の前の相手にマインドフルに集中する。
 
こういう聴き方であれば、精神的に疲れることはなく、更には相手も「あの人は聴き上手だ」と好印象を持ってくれるかもしれません。まさに一石二鳥の態度と言えますね。
 
人は基本的に自分の事を話したい生き物です。なので逆に言えば、聴き上手は好感度を上げる上でブルーオーシャンとも言えるわけです。
 
それに、こういう日常至る処で「聴く訓練」を積み重ねておけば、いざという時、真剣に誰かの話に耳を傾けなければならない時、これまで培ってきた「傾聴力」が必ず役立つはずです。
 

* 役割期待の不一致を解消する 

 
「声が小さくて聞こえない」
 
「どうしても自分の話ばかりしてしまう」
 
「空気をうまく読めずどうリアクションして良いかわからない」
 
「落ち込んでいるあなたを励ましてあげたいけど、どういう言葉をかけて良いかわからない」
 
こういった自分の特性や事情を説明できるのも大切なコミュニケーション力です。
 
コミュニケーションの機能の一つのとして「自分の相手に対する期待を伝える」という点が挙げられます。
 
対人関係においてストレスを感じてしまうのは相手に対する「役割期待の不一致」に起因することが多々あります。
 
そこで前もって自分の相手に対する期待を伝えることでことで「役割期待の不一致」をできるだけ解消しておくということは極めて重要と言えるでしょう。
 

* 沈黙を愛でる余裕を持つ

 
「沈黙を如何に上手く扱うか」というのも重要なコミュニケーションスキルのひとつです。
 
初対面の相手やそこまで親しくない相手だとぎこちなくなってしまう。だから「沈黙」とはむしろ「ごく自然なコミュニケーション」ともいえるでしょう。
 
だから「何か話さなきゃ」と焦る必要は全く無いんです。まず自分が落ち着いて、沈黙をあるがままに味わいながら、時間の使い方を相手に委ねる。これも立派な「非言語的コミュニケーション」です。
 
それに逆説ですが「話さななくても良い」と思うと話せるようになったりするわけです。むしろ、こちらから話しまくってしまうと相手に「話題を考える余裕」と言うのがなくなってしまうというのもあるでしょう。
 

* おわりに

 
本書は事例が豊富で、解説も「例えばこんな風に言ってみてはどうですか」と極めて具体的です。本書をたたき台にして色々と実験してみるといいでしょうね。
 
ある意味、コミュニケーションというのは音楽のアンサンブルのようなものに似ている気がします。
 
煌びやかな主旋律を奏でる役割もあれば、主旋律を彩る対旋律を奏でる役割もあり、楽曲全体の低音部やリズムをしっかり支える役割というのもある。
 
要するに何が言いたいのかというと「場の中心で皆を盛り上げる人」というのはヴァイオリンのように華やかな存在ではありますが、それがコニュニケーションの全てではないということです。
 
話を上手に膨らませたり、あるいは静かにニコニコ聴いていたりと、その人それぞれのコミュニケーションの方法というのがあるわけです。
 
皆が皆、ヴァイオリンを手にめいめい好き勝手なフレーズを弾きまくる音楽というのは囂しいだけで誰も幸せにしないでしょう。だから是非とも自分の特性に相応しい楽器を見つけて自分だけの旋律を奏でるようなりたいものですね。結局のところ「まっとうなコミュニケーション」とはそういうことなんだと思います。
 
 
 

【書評】〈自己愛〉の構造(和田秀樹)

* はじめに

 
「生きづらさ」という言葉がいたる処で聞かれる世の中です。「他人が怖くて仕方がない」「誰も私のことを認めてくれない」「自分の居場所がどこにもない」「弱い人間だと思われたくない」「すぐに感情的になる」等々。「生きづらさ」の種類も程度もさまざまだと思います。
 
では、このような「生きづらさ」とはどこから生じてくるものでしょうか?そういった「生きづらさ」の構造をもし可視化することができれば、苦しみもある程度和らぎ、またこの苦境から脱却するための生存戦略も見えてくるのではないでしょうか。
 

* 自己心理学とは何か〜「罪責人間」と「悲劇人間」

 
本書はアメリカの精神科医、ハインツ・コフートの提唱する自己心理学の概説書です。コフートという人は、その前半生においては米国精神分析学会会長などの要職を歴任するも、後半生からは伝統的精神分析に対する疑念から独自の理論を提唱し始めます。そして、最終的には精神分析理論全領域の大改訂を成し遂げて、全く新しい理論体系を打ち立てます。これがコフート自己心理学です。
 
伝統的精神分析自己心理学の間では、その前提とする人間観が根本的に異なっています。伝統的精神分析が「罪責人間」を対象とするものであるのであれば、コフートの掲げる自己心理学は近年増えてきた「悲劇人間」を対象とするものです。
 
「罪責人間」とは自らの中にある快楽衝動に抗えず罪責感に苦しむ人をいいます。伝統的精神分析(自我心理学)は「自我」を強化する事でこのような葛藤を克服する事を目標としていました。
 
これに対して「悲劇人間」とは「自分のことを分かってくれない」「認めてくれない」という周囲の承認や共感の欠如に苦しむ人のことであり「罪責人間」とは悩みの構造が異なっています。
 
コフートはこういった「悲劇人間」の増加という社会状況の変化を念頭に置いて、従来の精神分析理論を現代社会に相応しい形へアップデートを行なっていくわけです。
 
我々の感じる「生きづらさ」とは悲劇人間の病理です。まさに、自己心理学は「生きづらい世の中を生き延びるための心理学」といってよいでしょう。
 

* 自己愛パーソナリティ障害という病理

 
コフート理論はまず自己愛パーソナリティ障害の治療論として世に出て来ます。
 
自己愛パーソナリティ障害という疾患は「誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如」という特徴があります。端的に言えば常に上から目線だったり、キレやすかったりと、いわば病的なまでに自己愛(ナルシシズム)をこじらせた人の事をいいます。
 
ナルシシズムの語源は周知の通り、ギリシア神話ナルキッソスの池に映った自分の姿に恋をした話に由来しています。
 
フロイト以来の伝統的精神分析は、リビドー備給(心的エネルギーの移動)の正常な発達過程として自体愛から自己愛へ、自己愛から対象愛へと進んでいくモデルを想定しています。
 
つまり最初にリビドーは口や肛門、性器など体のどこか一部に備給される(自体愛)。次にリビドーは自我に備給される(自己愛)。最後にリビドーは対象、つまり他者をはじめとする外的世界に備給される(対象愛)。
 
これに対して、コフートの慧眼はそれとは別に自己愛独自の発達があると考えた点です。すなわち「未熟な自己愛」から「成熟した自己愛」への発展・昇華ということです。
 
コフートは最初の著作「自己の分析(1971)」において幼い子どもの自己愛について「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成される構造体(自己愛構造体)を仮定しました。
 
つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全自分本位の物語があるわけです。
 
もちろん世の中そうはなっていないわけで、成長するにつれて子どもは現実を悟っていき、誇大的な自己イメージは現実に適応した形で成熟していく、あるいはそうあるべきであるということになります。
 
いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもなく、社会の歯車に過ぎないというこの無情な現実を受け入れるということに他ならない。
 
ところが、この現実を受け入れることができず、自己愛構造体が子どものまま発達しない場合がある。こうした発達過程の歪みが自己愛パーソナリティ障害という病理の根幹を形成するということです。
 
この点、従来の精神分析理論では自己愛パーソナリティ障害は治療者への転移(対象転移)が起きないため、精神分析は適用できないとされていました。
 
しかし、コフートは対象転移とは別の「自己愛転移」という特異的な転移を利用すれば自己愛性パーソナリテイ障害は治療可能であると主張したわけです。
 

* 「自己」と「自己対象」

 
続いてコフートは「自己の修復(1977)」において、旧来の精神分析用語を一掃し、「自己」と「自己対象」の関係性からなる「自己心理学」へのモデルチェンジを果たします。
 
コフートのいう「自己」とは空間的に凝集し、時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいいます。
 
そして自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っている。これを「双極的自己」と呼びます。
 
「野心の極」は「自己の分析」でいう「誇大自己」に相当し、「理想の極」は「自己の分析」でいう「理想化された親イマーゴ」に相当します。
 
子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。
 
そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。
 
自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。
 
「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。
 
「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。
 
こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。
 

* 鏡映・理想・双子

 
さらに、コフートは遺作となる「自己の治癒(1984)」において鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。
 
双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。
 
ここで前述の双極性自己モデルは修正を加えられることになります。すなわち、コフートの最終的な中核自己モデルは「野心の極」「理想の極」「技倆と才能の中間領域」から構成される「三極性自己」ということになります。
 

* 共感の科学としての自己心理学

 
以上から示されるように、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。
 
逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。
 
つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んでいく過程に他ならない。
 
そして、ここで重要なのが「共感」という営みです。コフートによれば共感には二つのレベルがあると言います。
 
まず一つは、共感とは、患者の立場に身を置いて患者の代わりに内省し患者の内的世界を探索するツールという捉え方です。
 
そしてもう一つは、共感とは、人と人の繋がりという情緒的な絆を感じられることで得られる心理的な栄養補給という捉え方です。
 
さらにコフートはこういった「共感」理解を踏まえ、精神分析における「解釈」という営みは、患者の内的世界の「受容」という消極的な共感からさらに一歩踏み出し、「説明」を与えることで患者の内的世界を再構築していく積極的な共感だと位置付けます。
 
病んだ自己を健全な自己へと変えていくにはこうした「甘え」と「究め」が高度に統合された営みが必要であるという事なのでしょう。
 
このような共感による「適量な欲求不満による変容性内在化」こそが、自己対象との関係性を成熟したものへと変えて行くとコフートは言います。その意味では自己心理学とはまさに「共感の科学」であるといえるでしょう。
 

* 自己心理学化する現代社

 
本書は1999年の刊行ですが、現代は、本書刊行時点以上に自己心理学化した社会と言えるでしょう。
 
例えば SNSなどはまさに自己対象欲求を満たすのに最適化されたツールです。
 
フォロワーさんや「いいね」の数はまさに「鏡映自己対象」であり、有名人という「理想化自己対象」もフォローという関係性でカジュアルにつながることができる。また、目下の悩みをキーワード検索してみれば同じように悩んでいる「双子自己対象」が沢山見つかる。
 
SNSに振り回されるか上手に使えるかはその機能にいかに自覚的であるかにかかっていると言えるのではないでしょうか。
 

* おわりに

 
健全な自己は自己対象との成熟した関係性によって成り立つというコフート理論の根幹には「依存や甘えは決して弱さなどではなく、むしろ生きていく上で不可欠な強さですらある」という考え方があります。
 
「依存」と「自立」はしばし正反対の関係として捉えられます。諸々の「生きづらさ」とは「自立」を過度にモデル化・理想化してしまい、周囲の環境を「自己対象」としてうまく「依存」できない悪循環から生じているのではないでしょうか。
 
けれども実際問題として「自立」と「依存」とは決して二律背反の関係ではなくむしろ相互作用的なものでしょう。すなわち「他者に上手な依存」ができてこそ「しなやかな自立」が生まれるということです。
 
「依存してもいいんだ」「甘えてもいいんだ」「皆そうやって生きているんだ」
 
コフートの示すこういった処方箋は、自分にも他人にも優しくなれる考え方だと思います。さまざまな形で「生きづらさ」を抱えている人にとって自己心理学は何かしらの光明をもたらす福音となるのではないでしょうか。
 
 

「終わりある日常」を生きるということ--君の膵臓をたべたい(アニメ版)

 

 

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

 

 

 

* 「瑞々しいもの」として回帰する「セカイ系的想像力」

 
住野よるさんという人はもともとライトノベル作家を志望されていたようでして、「君の膵臓をたべたい」という作品も、大手ライトノベルレーベルである電撃小説大賞用の応募原稿だったそうです。
 
結局、分量が規定を超過してしまい電撃小説大賞には投稿できず、その後、紆余曲折を辿り「この作品だけは誰かに読んでもらいたい」という一念から投稿サイト「小説家になろう」に投稿した経緯があるようですね。
 
そういう経緯も関係しているのか、原作はかなりラノベ的な文法で書かれており、その後景には、ゼロ年代初頭のセカイ系的想像力、もっというと、Key作品などの「泣きゲー」の影響がそこはかとなく感じられます。
 
桜良ちゃんの正式な病名は明らかではなく、また、家族とか医療関係者などの描写がほとんど出てきません。
 
「死という現実」と向き合うヒロイン、傍観する主人公、希薄な社会描写。こういった点はまさしく「セカイ系」と呼ばれる作品が持つ特徴と重なります。
 
かつては何かと「オタク的」「引きこもり」などと揶揄されてきた「セカイ系」という想像力をベースに書かれた作品が、いま幅広い層に「瑞々しいもの」として受け入れられる事象はなかなか興味深いものがあります。時代がひとまわり回ったということなのでしょうか。
 
 

* 本作のあらすじ

 
クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。これをきっかけとして二人のーーー親友でも恋人でもないーーー不思議な関係が始まっていく。
 
 

* 「終わりある日常」を生きるということ

 
桜良は自分の中に鳴動し始めた「死」と向き合う最善の選択肢として「終わりある日常」を精一杯生きることで、その「生」を祝葬する生き方を選ぶ。
 
そのために必要なのは彼女の境遇をどこまでも我が事のように悲しんでくれる「親友」ではなかった。むしろ、必要だったのは容赦なく「真実」を突きつけつつも、偽りの無い「日常」を与えてくれる「他者」の存在だったわけです。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は、人の心の内的成熟の過程とは、これまでの人生で「生きられなかった半面」や「切り捨ててきた”たましい”の側面」といった「自己」を取り戻していく「自己実現の過程」であると言います。
 
その意味では、本作は桜良が「終わりある日常」を生きる中で、【僕】という「他者」を鏡として「これまで生きてこなかった半面」「切り捨ててきた”たましい”の側面」を取り戻していく「自己実現の過程」を描いた物語のようにも思えました。
 
桜良はいう。誰にとっても1日の価値は一緒であると。そして人の行動は運命でも偶然でもなく意思による主体的選択であると。
 
こういった言葉達は我々にこの凡庸な日々の瞬間ひとつひとつの中にこそ、何ものにも代え難い特別なきらめきがあることを教えてくれます。
 
この作品がセカイ系的想像力を基盤とするにもかかわらず、幅広い層の共感を呼んだ要因はその辺りにもあるのではないかと思うわけです。
 
 

* 「キミスイ」はぜひ、アニメ→実写映画→原作の順で

 
桜良ちゃんは実写映画版の浜辺さんのイメージが先行していたので、アニメ版の少し大人っぽく儚げなキャラデザとウザカワな性格はややミスマッチな印象は少し感じました。
 
この作品は実写の出来が良いんですよ。ただ、それは別にアニメ版の出来が悪いというわけではなくて、【僕】の表情が少しずつ優しくなっていく変化の過程がはっきり分かるのはアニメというメディアならではだと思いました。あと、原作にはない花火のシーンは良かったです。
 
キミスイ」をまだ見たこと、読んだことない方であれば、まずアニメから入って、次に実写映画でイメージを把握した上で、原作の、特に共病文庫フルバージョンを読むという順番がいいのかもしれませんね。
 
 
 
 

「ゼロ年代の想像力(宇野常寛)」〜「小さな物語」をどう生きるのか

 

 

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 

 

 
 

* はじめに

 
現代はポストモダンの時代と言われます。ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。
 
日本の場合、戦後しばらくの間は「戦後民主主義」や「高度経済成長」などといった「大きな物語」が機能していました。
 
大きな物語」が機能する社会においては人々は立場の違いはあれど「きっと明日は今日よりもっと良くなる」という幻想を素直に信じることができた。
 
もっと言えば「終身雇用」「年功序列」を前提とした「良い大学を出て良い会社に入り、結婚して子供を産み、そして老後はささやかながらも悠々自適な暮らしを」などという「昭和的ロールモデル」と呼ぶべき「大きな物語」がかつての日本にはあったわけです。
 
けれどもこうした「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなります。
 
そういう意味で我々が小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといった「物語」に没入し、そこで共感したり、あるいは反発したりという体験は「これが私なんだ」「これで良いんだ」という自らの「小さな物語」の確認に直結する行為であると言えるわけです。
 

* 「古い想像力」と「新しい想像力」

 
では、ポストモダンにおける社会状況の変化は「物語の想像力」に、さらには「個人の生き方」にどのように影響を及ぼしているのでしょうか?
 
この点、本書はまず「古い想像力」と「新しい想像力」を峻別します。
 
「古い想像力」とは、90年代後半の社会的自己実現への信頼低下を背景とする想像力であり、その代表と目されるのは「新世紀エヴァンゲリオン」です。
 
阪神大震災が起きた1995年は、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目となる年であると言われています。
 
一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。
 
もはや「大きな物語」は経済的豊かさも生きる意味も与えてくれないことが明らかになった。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。
 

* 引きこもり/心理主義

 
このような、何が正しいのかわからなくなった時代において、最も安易な選択は「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という態度です。
 
こういった態度を本書は「引きこもり/心理主義」と呼びます。つまり「あえて正しいことがあるとすれば、それは何もしないことである」という否定神学的態度となります。
 
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」においては、全人類がその個体を消滅させ、まるで母親の胎内のような溶液の中に埋没して群体生物として進化するという人類補完計画が描かれる。
 
そして、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し、他のキャラクターとの問答を繰り返し、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎える。
 
この後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならないということです。
 

* 「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」としての「セカイ系

 
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」の結末においては、TV版で描かれたような母親的承認のもとに全能感が確保される内面への引きこもりを捨て去り、互いに傷つけ合うことを受け入れ「他者」と共存して生きて行く態度が選択されている。こうしてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎えるわけです。
 
エヴァ劇場版はエヴァTV版の「引きこもり/心理主義的」傾向への優れた回答だと本書はいう。すなわち、何が正しいのか分からない世の中だからこそ、人は時に傷つけあいつつも〈他者〉とのコミュニケーションを試行錯誤していくしかないという、厳しくも前向きな処方箋がそこにはあるということです。
 
けれども、エヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶されることになる。
 
こうして、エヴァTV版によって示される「引きこもり/心理主義」的な想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡することになる。「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」。これらの作品に代表される「セカイ系」と呼ばれる潮流です。
 
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
 

* 決断主義

 
ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。
 
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、引きこもっていては殺される」という「新しい想像力」が台頭して来ることになる。
 
こうした態度を「決断主義」と呼びます。人はもはや間違っても、他人を傷つけても、何がしかの「小さな物語」を中心的な価値として自己責任で選択していくしかないという現実認識です。
 
このような「新しい想像力」が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。
 
では、決断主義を乗り越える「次世代の想像力」とは一体、何なのでしょうか?これがまさしく本書の設定する問題意識であり、このような視点から、本書では小説・映画・ドラマ・アニメ・ゲームといったジャンルを問わず数多くの作品が検証されていくわけです。
 

* データベース消費とコミュニケーション

 
東浩紀氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、人々は「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。
 
つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。
 
こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。
 
では、我々はこのような「小さな物語」をどう生きて行けばいいのでしょうか?この点、本書はキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。
 
すなわち、「小さな物語」の内部で、あるいは異なる「小さな物語」との間で、我々は他者とどのようにコミュニケーションしていくかという問題が「次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。
 

* 終わりに

 
こうした本書が示す想像力のパラダイムの変遷は、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものとも言えるでしょう。
 
例えば、これまで自分の人生を規定していた理想が叶わなかった時、我々は絶望し、程度の差はあれ、まずは「他者」に怯え引きこもり、母親的承認による全能感の確保によって生き延びようとするでしょう(セカイ系)。
 
もっとも、時が経つにつれ、このまま引きこもったままでは「他者」に殺されてしまうことを悟る。その時、我々は否応無く、今度は自らが信じる根拠なき理想を掲げて「他者」との間に「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」のゲームに参加せざるを得なくなる(サヴァイブ系)。
 
けれども我々がいつか「他者」を異なる価値観を持つ同じ存在として受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくるわけです。
 
いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。
 
結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。
 
 

「セカイ系」というゆりかご

 
 

* はじめに

 
セカイ系」という言葉をご存知でしょうか?「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。次の3つの作品が典型的なセカイ系作品と言われています。
 
 
最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)
 

 

北海道の高校に通うシュウジとちせ。二人はちょっとした偶然から付き合うことになる。ところが突如、札幌が爆撃機の編隊により無差別爆撃され、10万人もの死者、行方不明者が発生する。そして、シュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やして敵と戦うちせを目撃する。ちせの正体は自衛隊によって改造された「最終兵器」だった。

 
 
ほしのこえ

ほしのこえ

 

 

君の名は。」で社会現象を巻き起こした新海誠による短編アニメーション。ミカコとノボルという友達以上、恋人未満といった関係の中学生二人を中心に物語は紡がれる。卒業と同時にミカコはトレーサーという巨大ロボットに乗り、宇宙探査に赴くことになる。二人はケータイのメールを通じて連絡を取り合うが、やがてミカコの乗る船は、地球から数光年と離れていく。
 
 
浅羽直之はイリヤ(伊里野加奈)という謎めいた少女に出会う。物語が進むにつれ、やがてイリヤが軍の秘密兵器のパイロットであり、世界の命運を賭けた戦争に動員されていることが明らかになる。そのためイリヤの身体はどんどん弱っていく。見かねた浅羽は、イリヤを連れて逃走。こうして浅羽は世界とイリヤの二択を迫られる。
 

* 「セカイ系」という不思議な言葉

 
この「セカイ系」というのはなかなか不思議な言葉です。ゼロ年代サブカルチャー文化圏においては「セカイ系」を巡る華々しい論争が繰り広げられてきたわけですが、そこでは例えば、ある作品が「セカイ系」とも「アンチ・セカイ系」とも評されたり、あるいは「セカイ系」であるがために批判され、また逆に評価されたりするという事態が起こっていたわけです。
 
これは「セカイ系」という言葉が持つあいまいさに起因しています。では結局のところ「セカイ系」とは一体なんだったのでしょうか?
 

* 「セカイ系」の起源

 
セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされています。
 
そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとし、これらの作品の特徴として、たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向があるといいます。
 
ここでいう「エヴァ」というのは、言わずもがな、あの「新世紀エヴァンゲリオン」のことを言います。
 

* 「エヴァっぽい」とは何か

 
今さら説明もいらないとは思いますが「新世紀エヴァンゲリオン」とは、セカンドインパクトと呼ばれる大災害から15年後の西暦2015年を舞台に、中学2年生の少年、碇シンジが、長年別居していた父・ゲンドウから突然、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット・エヴァンゲリオンパイロットとして「使徒」と呼ばれる謎の怪物と戦っていくという筋書きのロボットアニメです。
 
原作はガイナックス。総監督は庵野秀明。1995年10月から全26話がテレビ東京系列で放送され、後に完結編となる劇場版が、1997年の春と夏に公開されました。
 
当初のエヴァは「究極のオタクアニメ」としてスタートしました。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞の随所に垣間見える、宗教、神話、映画、SF小説からの膨大な引用。このようなカルト的世界観はいわゆる「オタク」と呼ばれる人々の知的欲求ないし快楽原則を最大限に刺激するものでした。
 
ところが後半、エヴァの物語は破綻をきたして行く。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまでに撒き散らされた「アダム」「リリス」「人類補完計画」といった謎への回答は完全に放棄され、物語の視点は登場人物の内面に移って行く。
 
こうして、TVシリーズ最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し、他のキャラクターとの問答を繰り返し、最終的には「僕はここにいたい」「僕はここにいてもいいんだ」という結論に達し、皆から「おめでとう」と祝福される結末を迎える。
 
さらに、最終2話のリメイクとして描かれた劇場版「Air / まごころを、君に」でも、やはり碇シンジの自意識に焦点が当てられ、ここでもシンジは他者の恐怖を語り続け、結末ではヒロイン・アスカに「キモチワルイ」と拒絶されて物語は終劇に至る。
 
エヴァ終盤で描かれたのは、庵野秀明の自意識の悩みそのものだったと言われています。すなわち、エヴァは終盤及び劇場版で、唐突に「究極のオタクアニメ」から「オタクの文学」に転向した。このような転向は当然オタク層から激しい論難を浴びせられる事になる。けれども皮肉にも、「オタクの文学」としてのエヴァの内省性は一般層への幅広い共感を呼び、エヴァは社会現象となった。
 
要するに「セカイ系」というのはこのエヴァ後半の展開が投げた問いへのアンサーなんですよ。
 
つまり、巨大ロボット、戦闘美少女、ミステリーといったジャンル形式の中で「〈私〉とは何か」「〈世界〉とは何か」という自意識の問題を過剰に語る作品群こそが本来的な「セカイ系」と呼ばれるものになります。ゆえにセカイ系とは別名「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」などと呼ばれてたりもするわけです。
 

* セカイ系定義の構造化

 
このようにセカイ系とはもともとは自意識に焦点を当てた一人語りの激しい作品を指しました。
 
ところが「セカイ系」という言葉が文芸批評の分野に進出するにつれ、セカイ系の定義は「エヴァっぽい」から、物語の構造を重視する次のような定義に変質していきます。
 
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」
 
つまり、ここでは「ヒロインからの承認」が「社会的承認」という「中間項」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているということです。端的にいうと「あなたさえいれば他には何もいらない」ということです。ゆえにセカイ系作品群においては「組織」とか「敵」といった「社会=世界観設定」が積極的に排除されているわけです。
 
このような定義の変容がなぜ起きたのかというと、おそらくは、ぷるにえ氏が「セカイ系」が揶揄を込めて使用していたのに対して、批評の文脈では肯定的な意味を込めてセカイ系を捉えていたが為に、定義を洗練させる必要があったのでしょう。 
 

* 「決断主義」と「空気系」

 
しかしながら、こういったセカイ系の定義が変容を被った結果、セカイ系的と呼ぶべき自意識の内容も自ずから限定されたものになっていく。
 
そして「セカイ系」から外れてしまった自意識には「決断主義」という別のネーミングが与えられることになります。「決断主義」の典型例は〈戯言シリーズ〉などの初期西尾維新作品、「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。また「Fate/stay night」や「とある魔術の禁書目録」などの「現代学園異能」もこの系譜に連なると見るべきでしょう。
 
そしてさらに「決断主義」を克服する処方箋の一つとして「空気系」というものが台頭します。「らき☆すた」「けいおん!」に代表される萌え四コマ原作アニメの氾濫はこういった「空気系」の文脈で理解することができるでしょう。
 
要するに、エヴァがもたらした最大のパラダイムシフトはサブカルチャー文化圏における「自意識」というテーマの獲得であったわけですが、こういったパラダイムシフトが完了したゼロ年代中盤以降では、今度は「自意識」の中身こそが問題となってきたということです。
 

* おわりに

 
臨床心理学者・河合隼雄氏は個人が「私が私であるということ」というアイデンティを形成する上での「物語」の重要性を強調します。
 
90年代後半からゼロ年代初頭という時期は戦後日本を支えていた「戦後民主主義」とか「高度経済成長」といった「大きな物語」の崩壊が決定的になった時代ということになるのでしょう。
 
大きな物語」が崩壊し、何が正しいのかわからなくなった時代、もはや人は自らの手で「小さな物語」を掴み取って行くしかなくなったわけです。
 
この点において、セカイ系というのは「何が正しいのかわからないので、とりあえず引きこもる(けど、ヒロイン=世界からは愛されたい)」という最も分かりやすい「小さな物語」ということになります。
 
けれども決断主義に言わせれば今の時代に必要なのは「何が正しいかわからないが、引きこもっていては殺されるので、自分の力で生き残る」という物語ということになるのでしょう。
 
さらに空気系においては「物語」に縋る事なく、むしろ何でもない「日常」の中にこそ煌めきを見出し、あっけらかんと生きていく「脱・物語化の可能性」が示されているわけです。
 
セカイ系」というのは確かに一面において安易で堕落した引きこもりの想像力なのかもしれません。ただ、上記のような流れを俯瞰すると「セカイ系」とは時代のパラダイムが転換する際に生じた一種の「創造的退行」であり、言い換えれば「決断主義」や「空気系」といった新しい時代の想像力を育んだ揺籠であったとも言えるのではないでしょうか。
 
 

 

セカイ系とは何か (星海社文庫)

セカイ系とは何か (星海社文庫)

 

 

 
 
 
 

「発達障害のピアニストからの手紙(野田あすか)」を読んで。

 

CDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?

CDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?

 

 

 

* はじめに

 
本書は「発達障害のピアニスト」として知られる野田あすかさんのこれまでの生い立ちをご両親の手記とご本人の手紙によって綴っていく一冊です。
 
野田あすかさんのコンサートは一度行ったことがあるんですが、本当に楽しそうにピアノを弾く姿がとても印象的で、正直、音楽それもピアノ1本でここまで心が揺さぶられる体験というのもこれまでそうそうなかったことでした。
 
それで、この人はこれまでどんな人生の歩み手だったんだろうって思いまして。そういった経緯から本書を手に取ってみた次第です。
 
 

* 「広汎性発達障害」とは何か

 
発達障害の研究は第二次世界大戦期まで遡ります。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、その翌年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが「小児期の自閉的精神病質」という論文を発表しました。
 
この二つの論文では、子どもの自閉的行動様式についてのやや異なった考察が行われているわけですが、アスペルガー論文の方はドイツ語圏という理由から長きにわたり黙殺される憂き目にあう。
 
こういった事情で長らく「いわゆる自閉症」と言えば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を持つカナー型自閉症が連想されることになります。
 
ところが80年代になりイギリスの精神科医ローナ・ウィングによりアスペルガー論文が再評価され、「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」からなるいわゆる「ウィングの三つ組」によって自閉症の再定義が試みられる。
 
こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-Ⅴ)」においては、カナー型自閉症アスペルガー自閉症は「自閉症スペクトラム障害」として統合に至るわけです。
 
あすかさんの抱える「広汎性発達障害(PDD)」とはDSM -Ⅳ-TRにおける分類名であり、現行のDSM-Ⅴでいう「自閉症スペクトラム障害ASD)」に相当するものになります。その診断基準は以下の通りです。
 
以下のA、B、C、Dを満たしていること。
 
A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)
 
1 社会的・情緒的な相互関係の障害。
2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。
 
B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)
 
1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。
 
C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。
 
D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。
 

 

発達障害の理解を困難にしている理由の一つはその概念のわかりにくさにあります。そしてその一因として、この障害が辿ってきた上記のような歴史的紆余曲折が挙げられるのではないかということです。
 

* 安心サイクル

 
DSMの診断基準は翻訳の問題もあって回りくどい書き方をしていますが、端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。
 
まず「社会的コミュニケーションの持続的障害」ですが、具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」といった特性をいう。
 
例えば、あすかさんは次のように書いてます。
 
道徳の教科書に、「困っている人がいたら助けましょう」というのがあって、たとえば「泣いている人がいたら『どうしたの?』と声をかけましょう」と書いてありました。そうやって声をかけると『心配してくれてありがとう』とか、声をかけた相手から感謝の気持ちを返してもらえると書いてあったのです。
 
それで、自分は別に声をかけたくなくても、泣いている人がいたので、その通りに声をかけました。
 
「どうしたの?」
 
そうしたら、全く違う答えが返ってきたのです。
 
「どうもしないよ、放っておいてくれ!」
 
そう言われて、本当に困りました。
 
そんな返事は教科書に載っていなかったからです。本の中では、何度読んでも同じ答えが返ってくるのに、実際はそのお返事が返ってこない。どうしてみんな、本の通りに答えを言ってくれないの?
 
(本書46頁)

 

そして「常同的反復的行動・関心」については、あすかさんは「安心サイクル」という独特な表現を使っています。
 
私は変化しないものに、いつも頼っている。いつも学校から帰って、ピアノを弾いて、ごはんを食べて、お風呂に入って、宿題して寝る。それが安心サイクル。
 
いつもと違うと不安サイクル。
 
昔の私にとって変化のないはずのものは家族だった。いつも一緒だったから。でも家族にいろいろなことがあって環境がすごく変わってしまった。
 
(本書104頁)

 

あすかさんの自傷行為が顕在化しだしたのはいつも一緒にいたお兄様が他県の高校へ進学した頃からだそうです。つまりこの時に「安心サイクル」が破綻したわけです。
 

* 二次障害としての解離性障害

 
その後、あすかさんは宮崎大学教育文化学部に進学するも、人間関係のストレスから過呼吸発作を頻発。精神科を受診し「解離性障害」という診断名がつく。その後、入退院を繰り返し、折角入った大学も中退させられる憂き目に遭う。
 
解離性障害とは「自分が自分である」という感覚が失われている状態をいいます。あすかさんが繰り返してきた自傷行為も辛い体験から自分を切り離そうとする解離性障害の症状からくるものです。
 
また、あすかさんは右足が不自由ですが、これも解離発作を起こして家の2階から飛び降りた時の粉砕骨折によるものです。
 
右足が不自由なのはピアニストとしても大きなハンデです。左足しか使えないため、あすかさんは3つあるピアノペダルのうち右のペダルにアシストペダルをつけて左足で踏めるようにして、あとは手の指の力を加減することで音をコントロールしているそうです。
 
実はこの解離性障害発達障害から生じた二次障害の一つだったのですが、この時点で発達障害とはわからなかったわけです。
 
発達障害の存在が世間的にも徐々に認知され、発達障害者支援法が成立したのはあすかさんが発達障害と診断された翌年、2005年になります。
 

* 発達障害とわかってほっとしました

 
22歳の時、あすかさんは短期留学先のウィーンで過呼吸発作を起こし国立病院に搬送され、ここで初めて「広汎性発達障害」と診断される。
 
これは普通に考えれば絶望の追い討ちでしょう。解離性障害神経症的な症状であり、まだ治癒可能性が残されていますが、発達障害となれば、先天的な脳機能障害である為、治癒ということが考えられないからです。
 
ところが、動揺するご両親をよそにあすかさんは「発達障害とわかってほっとしました」と現実を受け入れ、発達障害が持つ「明の部分」に賭けていく決意をする。
 
「こんなに頑張っているのに、どうしてみんなできるのに、私にはできないのだろう」
そう悩んでいたのです。
 
そういうことが多かったから、発達障害だということがわかって、
「あなたの努力がたりないとかじゃなくて、そういう障害が生まれつきあったからですよ」
といわれたとき、
 
「ああ、なるほどね〜。だから、私はみんなと同じようにできなかったんだ」
そう納得して、ほっとしたのです。
 
(略)
 
それに、発達障害の人は、自分に興味のあることは、ふつうの人よりもっと上手にやっていくことができると本に書いてありました。
 
「ああ、だったら私はピアノをやってみよう、自分の大好きなピアノを精一杯頑張ろう」
 
そう思ったのです。
 
(本書150頁)

 

* ありのままの自分でいいと思えるようになりました

 
かつてあすかさんにとってピアノはやらされるもの、教えられた通りに弾かなければならないものだった。しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。
 
あすかさんにピアノの基礎を叩き込んだ高校時代の師匠である片野郁子先生は「この曲はこう弾くべき」という音楽性の的確な再現を重視される方だったそうです。
 
もちろんこういう基礎過程は大事な事なんだと思います。片野先生の後輩である田中先生はおそらくそういった力量を見極めた上で、技術的に上手な演奏をするだけではなく、自分の想いを音楽で表現することの大切さをあすかさんに教えます。
 
田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に開眼する。
 
小さい頃は、コンクールに入賞するために、その曲にあった音色通りに引かなければと、自分をおさえるピアノをやるしかありませんでした。まねごとのピアノはつらかったです。でも、田中先生に教えてもらうようになってからは、良くても悪くても自分の「こころのおと」を出せるようになって、ありのままの自分でいいと思えるようになりました。
 
(本書168頁)

 

ここからあすかさんの人生が少しずつ好転していく。2006年の宮日音楽コンクールグランプリを皮切りに、第8回大阪国際音楽コンクールにてエスポアール賞、第9回ローゼンストック国際ピアノコンクールでは奨励賞を受賞。
 
ついで2009年、国際的なピアノの祭典、第2回国際障害者ピアノフェスティバルにて銀メダルを獲得。併せてオリジナル作品賞、芸術賞も受賞。また、この大会の出場を機として、発達障害であることを隠さず生きていく決断をする。
 
そして2011年、周囲がどう考えても無謀だと反対する中、初のソロリサイタルに挑み、これを見事成功させる。こうしてあすかさんの前にピアニストとしての未来が、自分の「こころのおと」を誰かに聴いてもらうことを喜びとする新たな地平が開けてきたわけです。
 
 

* 「〈他者〉の欲望」への参照点としての「みんながしあわせになるピアノの音」

 
今、学校や職場で障害があることでつらい思いをしている方々に、
「きっとこれから先、いいことが待っている」
そう感じてもらえる演奏をするのが、私の理想です。
 
私は何もできませんが、でもあなたの心に希望は与えられます。言葉ではなくて、音で、みんなに思いを伝えられて、みんながしあわせになるピアノの音を出せる。そんなピアニストになるのが理想です。
 
(本書181頁)

 

フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが提出した有名なテーゼに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあるのですが、ASDの特性はこうした「〈他者〉の欲望」という視点から捉えることができます。
 
ASDの場合「〈他者〉の欲望」は特に「わからなさ」という強い不安として顕在する。そこで、このような不安を囲い込み無効化し〈他者〉とつながるため何らかの参照点が必要になってくる。
 
それは例えば「安心サイクル」であり、時に解離の症状であり、あるいは「発達障害」という診断もそうだったのかもしれない。
 
こうしてみると「みんながしあわせになるピアノの音」というのは何度とない絶望を繰り返した上でようやく辿り着いた幸せな参照点だったのではないでしょうか。
 
 

* おわりに

 
このように本書はASDの詳細な臨床事例であると同時に、我々が日々「生きづらさ」に向き合う為のひとつの処方箋でもあります。
 
発達障害とは決して「どこか誰かの他人事」の話ではなく、我々の日常と地続きの問題でもあると思うんです。 
 
人は程度の差はあれ、誰しもその人だけが持つ「特異性」を抱えながら「〈他者〉の欲望」の世界を生きていかなければならない。まさに「生きづらさ」という問題はここから生じてくるわけです。
 
けれども〈他者〉とつながることで初めて「特異性」という小さな煌きは「個性」と呼ばれる大きな輝きになっていくのではないでしょうか。
 
どのようにして自らの特異性に折り合いを付け、どのようにして〈他者〉とつながっていくか。こうした点においても、本書から教えられる事は本当に多かったです。